65:回想という名の迷走。
八千が目を覚ましたのは、薄く聞こえる話声のためだった。
目を開けると、白い天井が見える。紗幕に囲まれて寝具の上に寝かされており、どうやら話声は幕の向こうから届いているらしい。視線だけをめぐらして、暖かな布団のうちにある己の体が無事だと悟り、安堵のため息をつくとまた目を閉じた。
しかしまぶたの裏を見つめながら考えに浸ると、少しずつ冷水をかけられているように、心が締めつけられる。
あれから、どれほどの時間が経っているのだろう。銃撃されて失った意識があの船の中で戻るまでには、かなりの月日が経っていた。季節もちがっていて、おそらくは一年以上が経過していたのだろう。そして宿屋で眠りにつき、洞窟のような場で目覚め、
人を焼いて、意識を失った。
「……う」
罪に身悶えして、口の中が乾く。瞳が潤んで、どうしようもなかった。
人を焼き殺してしまった。紅蓮の焔にのみこませて、その命を消し去ってしまった。自分の中から、良識というものがごっそり持って行かれるような思いがある。意識して積み重ねたものではないにせよ、自然とそこにあったはずのものが失われる感覚は、堪え難い苦しみとして八千の中に影を落とす。
「……いま、声が……」
と、そこで紗幕の向こうから、耳慣れた声が聞こえた。
亘理井澄の。動揺を滲ませた声が、聞こえた。
「まだ安静にしなきゃ……」「しかし……」わずかに言い争うようなやりとりのあとに、井澄を押しとどめていた声が退いた。次いで、革靴のぶつかる音が床に響いて近づく。歩調は彼の心中を表すかのごとく乱れていて、それだけで八千は胸がいっぱいになった。
紗幕を破らんばかりの勢いで開き、息をはずませた井澄が迫った。先日目にしたときと、なんら変わらない姿である。あれからさほどの時間が経っていなかったことに安心して、八千は頬と眉根を緩めた。その間も眼鏡の向こうに見える彼の瞳は落ち着きなく揺れ動き、薄目を開けた八千を見ると唇をひき締め、喉を鳴らした。
「八千草!」
ただ、呼んだ名はわずか、八千の予想とちがうものだった。その名は、少し、ちがう。かつて彼が気持ちをこめて呼んでくれた名は、それではなかったはずだ――
思いが言葉になり、喉元から飛び出そうとした。しかしそこで井澄はわずかに目を見開き、すっと屈んで八千に顔を近づけると、瞳をのぞきこんだ。行動に迷う八千と彼の間でわずかな躊躇いが感じられて、彼の背後に他の人々が追いすがる直前、二人だけの空間にて彼はささやいた。
「……八千?」
ほんの一言であるが、なににも代えがたい言葉だった。八千はちいさくうなずき、これを受けて彼もゆっくりと、しかし大きくうなずいて、そのままうつむく。肩を震わせながら、布団の端より手を入れ、八千と手を繋いだ。冷え切った掌にも、震えはやまなかった。
「起きてたの、八千草。まだ安静にしてなきゃだめよ」
井澄の背後には、先日の船の一件でも遭遇した女性がいる。片目を刀傷で塞がれた、白衣をまとう人物だ。発言と服装から察するに、やはり彼女は医者であるらしい。
つづけて、頭に包帯を巻いた小柄な人影も現れる。端切れを継いで作ったと思しき羽織を作務衣の上にまとっていて、心配そうな顔で八千をのぞきこんでいる。彼も船の一件で目にした、たしか井澄の現在の同僚だという男だ。
陰鬱さを帯びた顔つきで八千を見ると、ふいと顔を背けて、そのままゆっくりと紗幕の向こうに消えていった。どうやら怪我をしているようなので、彼も入院中なのだろう。
「しかし、本当に。無事で、よかった」
背後の二人には意識のかけらも配らず、井澄はぎゅっと手を握って八千に語りかける。ようやくうん、と返答を成す八千だが、異様な喉の渇きのためかしゃがれた声しか出ず、せきこんで心配をさせてしまう。あの焔獄に自らを置いたのだ、これくらいの後遺症は引きずっていて然るべきなのだろう。
焔獄にて、すべてを焼き尽くした。井澄の登場によって薄れていた罪への自覚が、揺り返されて意識の表層に出てくる。目を閉じた八千に話しかけているのか、女性の言葉が注いだ。
「本当にね。幸運よあんた、第六坑道で爆発と落盤事故に巻き込まれてたんだから」
「爆、発?」
口腔に息を溜めるような発音であれば喉に負荷が無いようなので、ささやき声で八千は問う。どうやら己が異能にて引き起こしたあの火災は、事故として処理されたようだった。目を開けて井澄を見ると、彼は八千の異能による事態だと踏んでいるのか、小声で「ばれないように気をつけて」とだけ口にした。
「第六は瓦斯溜まりのある坑道だからね。どっかから漏れだしてたのが、石の落ちる火花で引火したんでしょうよ。まさかランタンとかあんたのパイプで引火してたら、そんな無事でいられるわけないもの。ま、それでも衝撃のせいか丸一日寝込んでたけど」
五体満足、火傷もほとんどなし――と診療簿をめくりながら言って、女性は薄く微笑んだ。
「不運だけど、不運の中じゃツイてるわ」
「ええ、本当に……」
よかった、と漏らして、井澄は一層強く八千の手をにぎりしめた。少し痛いくらいであったが、その痛みも快い。生きているから、こうしてこの身に再び意識があるから、感じられる痛みなのだ。
死すれば、痛みすらない。
「……ぅ、」
うめきをあげ、自分の犯した罪について、八千は耐えきれなくなりそうだった。同時にわずか、恐ろしくなる。
先日の再会の折にはぼかしていたものの、おそらく井澄は――彼の仕事は、死と密接に関わり合いになる類のものなのだろう。そのときは時間が限られているとの予感があったため、敢えて深く尋ねることはしなかったけれど。彼もこのような気持ちを抱えて、業務として罪を重ねているのなら……。
「――やあ」
考えこもうとした矢先に、紗幕の向こうから声がかかる。薄くうごめくものは、先ほどの派手な羽織の男と同じくらいの背丈だが、もっとぼやけた影だ。
尼装束のような。頭巾をかぶせて、貫頭衣を着こんで、全体の輪郭をぼやけさせるような。
「きちんと目覚めてくれたようでよかったね。ここまで運ぶのには難儀したよ」
それでいて、気配は。
到底人の者とは思えず、どこか脅威を匂わせる野性を帯びていて、とげとげしい。
紗幕に、手がかかる。指先まできつく包帯を巻きつけられた、医院というこの場には誰よりも相応しいであろう格好。恐怖から逃れようとする八千の目線は、動かせない。彼の者の姿が現れるまで、ゆっくりとした時間を過ごし――
「復調したらまた働いてもらうよ。橘八千草」
幾重にもぼろきれをまとったその男を、食い入るように見つめることとなった。
あのとき、たしかに焔の奔流にのまれて消えたはずの男。またしても目の前に現れた彼を見て、八千は恐慌状態に陥りかけた。だがひとつうめいたきり、またせきこんだ。井澄がしどろもどろになって、八千の周りをうろついた。
「あまり無理をしないでください、まだ起きたばかりなのですから」
「あ、の、」
男、と続けようとしたが、布の向こうから視線を感じた、気がした。
彼は何者なのだ。なぜ同じ格好で、同じ気配をまとってそこにいる。双子か、それとも変わり身か。あるいは己が焔獄にて彼を焼き滅ぼした記憶自体が、なんらかの幻か夢だったのか。
疑問だけが次々に浮かんでは消え、喘ぐように口が震えた。不安な気持ちのせいか心音がじわじわと大きく聞こえるようになり、井澄の手を強くにぎりかえす。だがぼろきれの男に話しかけられたために、井澄は立ち上がってからめた指を離した。
「さて、沢渡井澄」
「はい」
「大詰めと行くよ」
行かないで、と声を出そうにも枯れた喉は音を紡がない。必死に指に力をこめるが、爪の先は彼の硬い掌を滑りぬけて布団の中に残された。目の前で、いかにも仕事という顔つきになった井澄と顔色もうかがえない男が、向かい合う。
「無理を押して橘八千草は使命を果たした。……銀の鋳塊はここにある」
ごそりと、黒ずんだ拳大の塊を取りだして男が言う。平坦な声音はなにも示さず、ひたすらに薄気味悪い。
「そして沢渡井澄、お前も錬金術師を見つけたと言ったね」
「ええ。居留地にてお待ちいただいております」
「よろしい。我々緑風にも再起の芽はあるようだ。至急この鋳塊を鑑定してもらって、状況をひっくり返すとしよう」
ぼろきれを翻して、男は治療室の出入り口へするすると移動した。
「今日明日が勝負だ。迅速な行動がすべてに活路を開く。しっかりと、動け」
男は言い残して、姿を消した。
今日、明日。なにか切羽詰まっていると考えられる言葉にきょとんとしていると、状況のつかめない八千のもとに戻ってきて、また屈みこんだ井澄は手を取る。
それから、あの船での再会から現在までで一カ月少々が経過しており、いま井澄と〝橘八千草〟の所属している組織が他の組織と危うい対立関係にあること、その組織において先ほどのぼろきれ男こと湊波戸浪が頂点であること、〝橘八千草〟が頂点の代理を務めていたことなどを簡潔に語った。
その中で、井澄は少しだけ躊躇いながら、組織の仕事内容を話した。八千も薄々勘付いていたことではあるが、実感として得るのは厳しいものがあった。となると、前回船のときに八千、いや八千草が仕込みの刀を携えていたのも……思い至って、気持ちが沈んだ。
だが沈んでいてもどうにもならない。表情を悟られないように気をつけながら、八千は状況を呑みこんで把握した。この先を井澄と生き抜くためには、どうすべきか。どう振る舞うべきか。知るために、八千は井澄にさらなる話をせがんだ。
あの宿では、時間が足りず聞けなかった話を。井澄が八千と離れてから過ごした月日を。二人寄りそいながら、空白だった時間を埋めるように話をした。
途中、幾度となく彼は八千の顔色をうかがった。また眠りについたら元の、橘八千草に戻ってしまうのではないかと危惧しているかのように。
だが不思議と、八千自身にはまた消えてしまう予感がなかった。起きた直後こそ自身がまた長い間意識を眠らせていたのではないかと怯えていたが、一日眠るだけでごくふつうの目覚めのごとく起き上がれたことを思うと、再び〝橘八千草〟に意識を明け渡すことはないと思えたのだ。
この意識の常駐の契機には、心当たりがある。
取り戻された力。先月の船の中では使えなかった、視界の中に火を灯す異能。その顕在が、八千の意識を強くこの身に焼きつけていると思われた。
まるでどこか――心と体が一致したように。鞘内で刃の曲がった刀が、しゃんと真っすぐに正されたように、だ。だが急に抜き放たれた焔は危うい赫きを放ち、荒れ狂って周囲を薙いだ。……これほどに制御がきかなかったのは、激情のままに火を放ったあの日、自分を討たんと訪れた彼女に敵意を向けた日以来だ。
そんなことを考えていると、井澄はふとぼんやりした顔で、中空を見つめていた。
「どうしたの?」
「あ、いや……なんだかこうして昔話をしていたら、先ほどのことを思い出しまして。今日はよく昔の記憶を話す日だなぁと」
「さっきも、だれかと話してたの」
「ええ。ちょっと、過去にいろいろありまして、本当は顔を合わせづらい相手でしたが。あらためて向き合ってみたら、話すこともできたんです」
少しだけうれしそうにしている井澄を見て、暗い記憶に思考をうずめていた八千も、わずかに明るくなった。
そうして二人、ほの明るい治療室の中で、様々な記憶を長い間語らい続けた。
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窓辺に腰かけ、磨き上げたリヴォルヴァ二挺を月光にかざす。
装飾も無く無骨な、平和の使者。ウエブリ・リヴォルヴァ。用意した弾丸を並べて、レインはガンベルトにひとつずつ納めていく。さすがに銃自体は腰に提げて持ち歩くわけにもいかないが、弾丸を腰回りに巻く程度ならば見咎められることもない。
居留地でとった宿の一室で作業に明け暮れたレインは、やがて手入れを終えると、やることもなく窓辺で外を眺めた。居留地の中でも小高い丘の上にあるこの宿からは、港までの景色がよく見える。薄明かりを窓の外に投げかけて、陰影を揺らしつつ浮かび上がる家々。彼方には、停泊している巨大な帆船や、赤煉瓦でこしらえた倉庫などが望める。
それはこの島の様子の一端だ。亘理井澄――現在は沢渡井澄と名乗っている彼が、過ごしてきた島の姿なのだ。
村上が突き放し。レインが見送って。日輪の担い手である橘八千草と暮らしたあと、レインによって引き離され。なにも知らず村上の部下である呉郡黒羽に師事し、死別して。流れのままに翻弄され、彼はここへ辿り着いた。
どのような生活を送ってきたか、大まかには村上より入手した報告書によって知っている。だが彼自身の口から聞いた生活のあれこれは、苦しく厳しいものではあるが、どこか生き生きとしていた。その点が、無機質な報告書とはちがった。
「……井澄」
そう呼んでも、彼は怒らなかった。
もちろん最初に新聞社で出くわしたときは、かつて彼の前で村上と共に謀るような真似をした人間を見たのだ、相応の反応として逃げようとした。だがなにか思うところあって引き返してきたときの彼は、自分の知る少年の頃とはちがう〝覚悟〟を持った顔つきをしていた。
彼はあの日の村上とのやりとりの真意、そしてここへ来た理由について問い、レインが己にとってどういう立場の人間なのかを推し量ろうとしていた。それは仕事として人と接するための態度であり、彼が島で生き抜くべく様々な考えを己の中に蓄えてきたことを示していた。
しかし前者、後者、どちらの問いにもレインは本当のことなど言えず、ただ出鱈目に嘘を並べ続けた。話す間中、井澄はずっと疑わしげにこちらを見つめていたが、しばらくするとレインの騙りに疑問の矛を突きこむことをやめてくれた。
わかりましたよ。いろいろ、あったのですね。
たった一言、こう述べて、それで手打ちにしてしまった。これには、こちらのほうが迷い戸惑った。なぜ、それ以上追及しないのか。わたしの言葉は井澄にとってはだれの言葉よりも疑わしく、信じることなど出来得るはずがないのに。
彼の目の前で思い人を手にかけた自分を――信じられるはずなどないのに。
……そんな疑問をぶつけるわけにもいかず、レインは井澄の態度に意図不明のおそろしさを感じながら、彼と共に表へ出た。実は彼は現在、仕事上の事情によって錬金術師の手を借りたいと考えていたそうだ。それには外部からの来訪者であり誰かの息のかかっていない人間が適任だったとのことで、時間に空きがあればレインに依頼したいとのことである。
レインも仕事のことを考え、橘八千草へ接近しやすくなると考えて二つ返事で了承した。すると井澄は本当に、邪気なく喜んだ様子で、いやあよかったと言った。
その顔が演技だとは、思えなかった。これでもレインは、策謀廻る統合協会の中枢に食らいつこうという村上についてまわり、色々な人間と接してきた。戦いのみならず、人の間に立ち回り、政治的に動くことがうまい相手とも渡り合ってきた。そんな彼らよりも井澄の演じ方が巧いというわけはあるまい。
読めない彼の思考について思い悩みながら、レインは人波をながめた。と、横合いから紫煙が流れてきて、顔をしかめながら井澄を見る。
あ、煙草、お嫌いでしたか。
懐から出した敷嶋の紙巻煙草をくわえていた井澄は、慌てた様子で靴底に火を消した。共に暮らした数年の間も嫌いだとの主張は続けていたし、村上もレインの前では吸わないようにしていた。だというのにこんなことをするとは嫌がらせか……などと判じながら、レインは鼻を鳴らして顔を背けた。
井澄は近くにあった痰壺に吸殻を投げ入れると、さも申し訳なさそうな顔をしながら手帖をめくりはじめた。どうやらアンテイクの住所を記して、渡してくれるつもりらしい。
ところが手帖はめくってもめくってもびっしりと書き込みに覆われていて、真っ黒だった。白紙の部分が見つからず、弱った様子でさらに頁を繰る。どれほど書きこんでいるのだ、と気になったレインは、足音を消して忍び寄ると彼の手帖をのぞき――絶句した。
三日前の日付が見えたと思いきや、その日の予定がみっちりと、朝から晩まで書き連ねられている。そこに矢印をひいて情報を付け足し、いっそ分刻みに近いほど、細かすぎる些事に至るまでもが網羅されていた。
朝食になにを食べたか。橘八千草に変化はなかったか。ちいさなものでも約束などはしなかったか。周囲の人々との会話はどんなものがあったか。病的なまでにしつこく、事細かに、一日一日が克明に記されていた。手帖に白い部分がなくなるほどひたすらに、彼の日常が塗りこめられていた。
……ああ、よかった白紙がありました。
その後彼は無事白い部分を見つけ、住所を書いて破るとこちらに手渡してきた。レインは彼に気づかれることなく退いていたため、手帖をのぞき見していたことは露見していないが……気味の悪いものを見てしまったという実感は、拭いきれなかった。
その後いくらか旧交を温めるように会話をして。明日か明後日には呼ぶかもしれないとの予告を受けてから、別れて。
レインは宿につき、ずっと考え続けていた。
彼の不審な態度。演技には見えない横顔に秘められた意志。そして、真っ黒に書きこまれた手帖。
仇敵と言ってもよいはずの己に大した反応を示さない彼。
それはまるで――忘れてしまったかのように。
代償として、差し出してしまったかのように。
「……まさか」
睦巳という例を思い出した不安のままに、天井を振り仰ぐ。
レインの前には濃密な闇のみが停滞しており、のぞきこもうにも淡い月の光では、どうにもならなかった。
胸騒ぎのうちに、時は流れる。ひとつ、なにかの決着がつくはずの日時まで、針は刻々と時を切り崩していった。
五幕、終了、