64:焔獄という名の現実。
目覚めた瞬間、目前に迫る男を見て、八千は怯えた。
暗く広い部屋。迫るぼろきれの男。足下を嘗める焔。自らの置かれている状況についていけず、けれど彼女はうつむいた顔を上げた。その視線の進路に沿って、地面から焔が立ち上る。
火勢で驚かせて、退かせるつもりだった。あの宿屋で井澄の膝に眠ってから、自分がどうしてここにいるのか――まずは現状を確認せねばと考えていた。
だが火焔にまとわりつかれる直前、有り得ない軌道で男の上体が曲がる。
「えっ、あ」
到底人とは思えない歩法、体術にて男の重心が揺れ動く。予測した位置からずいぶん離れた場へ回避され、切り返す歩幅でさらに距離を詰められる。顔の見えない布の向こうから、男の腕が伸びた。
唸りを上げる掌底が、顔を狙い突きこまれる。とっさに両腕で顔をかばい、よろめいた。
すると男の掌底は八千を突き飛ばすだけに終わった。狙いを外した、いやちがう。
不可思議な事態に困惑していると、銃声が轟く。ちり、と左肩に焼けつく感覚を覚えて、八千は振り向いた。硝煙をあげる銃口が見え、人影があると知った。男は影に迫り、腕を振るう。
「――――、」
声もなく、背後の銃撃者は掌底をかわす。それは藍色の着物に羽織をまとう小柄な男で、団子鼻と細い目が印象的だった。きゅうと弧を描いて笑んだ口元には作為的な感情が添えられており、全体に造り物じみた、人形のような男だった。
人形じみた男はただゆらりと、両手を下ろしたままで左半身に構える。これに応じて、ぼろきれの男も一足一刀の間合いを保つ。目の前で突如対峙した二名をきょろきょろと見ながら、八千は自分の立場を把握しようと努めた。
背後からの男は、おそらく八千を襲おうとしていた。そこを止めてくれたのは、ぼろきれの男だ。となると、こちらは少なくとも敵では無いのか……と思考が至るものの、八千が彼から感じるのは人では無い脅威だ。山での暮らしが長かった八千は、そうした脅威に敏感である。
すなわち、『いまは』己に興味が無いだけの。いつかは襲い来る可能性がある、野生のいきものに似た気配が、感覚に訴えかけていた。
じきに二名がぶつかりあう気勢を感じて、八千はたじろいだ。いますぐここを逃れるべきだと叫ぶ自分がいるものの、辺りを見回してもここがどこなのかさっぱり判然としない。地下ということだけはわかるが、脱出は難しいかもしれない。そのような思いが彼女を引きとめる。
「……さて日輪はうまく起こせたようだが。出てきたのはどこの鼠かな」
ゆらゆらと、構えとも見えない動きに身をゆだねながら、ぼろきれの男は問うた。人形じみた男はこれに答えず、黙って笑んだままでいた。しかし口元がわずかに開き、そこから舌がのぞく。
八千は彼を見て、息をのんだ。彼の舌には、銀色に輝く短剣を模した刺飾金があった。それは井澄が身に着けていたのと同じ、言語魔術師の証左……
「答えないか。答えられないのか。どちらでもいいさ、いずれにせよこの子に手をかける者は私たちの敵だよ。申し訳ないが、相応の対応を受けてもらおう」
ぼろきれの男が一歩を踏み出す。その間に、人形じみた男は再び短銃を構えた。
翻る羽織の隙間に見えたのは、革製のホルスタア。
蓮の根がごとく弾丸を備えた、銃身の短いリヴォルヴァが威圧する。撃鉄を下ろす独特の音が、ちいさく空気を刻んだ。ぼろきれの男は狙いが八千だと察してか進路を変えようとしたが、さすがに人の身外れた動きをする彼でも、わずか間に合わない。
人形じみた男が、大口を開ける。笑みが消え、喉奥から振り絞るように、濁った音が漏れ出ていく。蛙の捕食を見るかのような、それは野性に満ちた表情だった。
短く確かな、掠れ尖った声音が詠唱を告ぐ。
「――〝我が、手と、我が、口、我が、身を、縛る 我が、軛、我が、楔、鎖落ち、開く〟――〝我が手に、無音の、再生を〟……!」
ばきりとなにかを踏み砕くような音がして、同時に引き金が絞られた。向く銃口に、火薬と鉄の匂いを遠く感じ、八千の中で記憶が花開く。
かつての。あのとき、受けた傷を。
記憶の中で開かれて、八千は激痛に頭を締めつけられた。この痛み、熱、覚えがある。たしかそのときも周りを焔にまかれていて、そして――
井澄を、泣かせた。
うめきながら膝を折る。体は崩れてかわせない。そのまま、八千は明滅する視界を制御できず、光がまたたく頭の中の処理に追われ、向けられる銃口が認識から離れた。
吐き出される銃弾の像は、あの日見た記憶の幻視か、それとも。判別つかぬまま、八千の前に白き光が弾けた。
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坑道を抜けて調査に向かうと身ぶりで示した睦巳と別れ、レインは居留地での下調べを終えて三層に向かう手段を検討しはじめていた。レイモンド――礼衛門は、すでにアンテイクの張り込みに向かっている。
「そろそろ追いつくべき、か」
両腋に提げたホルスタアに納まる短銃の重みを感じつつ、直近のこの島の情勢を知るべく立ち寄っていた新聞社の過去資料室を出た。この島独自の〝四つ葉新聞〟を発行する支社であるそこは、幻の食卓列車のような奇妙な街の噂から島を牛耳る強者の葉閥動向まで、ぴんきりの情報を扱っていた。
大半は聞き流してよい類の、眉つばものの話ばかりだったが。中には日輪こと橘八千草の所属する〝緑風〟の状況など、重要なものもあった。
どうやら緑風アンテイクはつい昨日青水こと瀬川一家の邸内に招かれていたらしい。そして会合中、突如乱入してきた詩神・黒衛の暴れように乗じて邸内から逃亡したとのこと。この不審な動きから緑風が赤火と共謀している可能性が判じられたのか、青水より四天神が怪神・桜桃を差し向けられて同じく四天神が危神・三船小雪路が負傷。兄である殺陣鬼・靖周も重傷。
現在二名は緑風の闇医師こと黒闇天・山井の診療所にて療養中。今後の葉閥間での緊張が案じられる……と記事は締めくくられていた。
橘八千草が緑風アンテイクの代理店主だということは、村上からの事前資料で知っていた。となれば、主力を欠いた彼女らは動きが抑えられる。へたに大きく動こうとすれば、またも周囲に要らぬ詮索をされるからだ。少なくとも他葉閥とやりあえるだけの体勢を回復するまでは、隠れ潜むはず。
なりを、潜める。であるならば、人目につかず暗殺しやすい状況が生まれる。
そうなれば、今度こそ。
考え込みながら、レインは廊下を歩く。インクと紙の匂いを振り切るように、足音を立てぬよう静かに早足を心がけた。
今回は、できることなら三対一で仕掛ける。まだ日輪が完全に復調していないいま現在が好機だ。と言っても同時に襲撃したところで二人まではやられる可能性がある。その二人にレインが入る可能性も、おおいにある。
けれど三人目が奴を死留める可能性は、七割を越えると言っていいだろう。
なにしろ〝朽約束〟と〝文解〟の言語魔術二種会得者が、いる。睦巳はその能力で、かつてレインたちを絶句させたほどの強者なのだ。
まず朽約束。これは言語魔術を構成する、東洋古来からの言霊術式と西洋伝来の悪魔との契約術式のうち、後者に働きかける能力。言語魔術は術者への反動を考慮して意図的に出力を抑制している部分があり、これが名執の〝言壊〟や井澄の〝殺言権〟にみられる『回数制限』である。魔力の充溢などに左右されず安定した威力を求めるべく、彼らは常に使用限度回数という制限を設けられているのだ。
朽約束は名称通りに契約の文言を朽ち砕き、この制限を外してしまう能力である。当然、求められていた安定性は失われるが、むらが出るぶん一度の術の威力が底上げされる。これにより、二つ目の能力である〝文解〟を強力に仕立て上げるのだ。また朽約束は他者にも使用が可能であるため、精霊や神格との契約で術を成す者には天敵たりえる。
最後に、切り札たる〝文解〟であるが――これは数多の修羅場をくぐり抜け、戦果を納めてきたレインと村上をして恐ろしい、と言わしめたほどの能力だ。普通に使用するだけでも個人で一個小隊に比肩するほどであり、これの制限を外して用いるなどすればどうなるか。
そんな睦巳に加えて、暗殺の精鋭として村上の懐刀で在り続けた男・呉郡礼衛門がいる。黒糸矛爪の使い手にして、生まれながらの処刑人だ。これで殺しきれないとすれば、もはや打つ手はないだろう。
「手があるとすれば、中隊以上の規模で地形ごと滅する手法になるが……」
そこまでの人員を動かそうとすれば、必ず周囲に露見する。統合協会も、明治政府も、往涯らに与する者のほうが多いのだ。露見すればただちに動きを停められ、関わった全員が秘密裏に消されることとなるだろう。富国強兵の大義の前に、人命はあまりに軽い。
自分も軽い命を振りかざしてここまで生き延びた身ゆえに、あまり感慨はわかなくなりつつあるけれど。いまはまだ、自分が命を大事にし、相手の命を奪うことを厭うていた頃の気持ちを覚えている。それが、大切だった。
「また、殺す」
あらためて決意することはなくても、殺人への思考は常に意識し続けなければ保てない。
村上や、彼に従っていた三船貞次郎とその妻幸子、そして任務中に落命した呉郡黒羽。以前彼らに殺人の決意について問うたとき、全員からレインと同じ考えが帰ってきたのには驚いた。だがそのことからレインは、やはり殺人はその行動の決意ですら人らしくない行いだから、意識し続けねば思考を保てないのだと結論づけた。
そこで、『結論付けて安心を得ねばならないほどに』、殺人によって己の精神が摩耗していることに気づいた。理論だてて自分を律さねば、殺すことに躊躇はあっても、なんの感慨もわかなくなりつつあったのだ。
いっそ殺しが楽しくて仕方ない人格破綻者であれば、こんな迷いも生まれなかったろうに。あくる日のつぶやきに、村上はまぜ返してきた。『楽しそうでもなく無表情に殺す者のほうが、人間らしくないと思いますよ』。反論はない。破綻していても人格を保持している者と、人格それそのものを放棄して殺人に従事する者と。どちらが人らしいか……
しかしレインはいまだ、そのどちらでもない。楽しさもなく、かといって割り切りもなく、懊悩しながら引き金に指をかける。そうあることにまだ安堵を覚えるだけの、人格のかけらが残っている。
とはいえ滲みだす罪悪感の蓋は、とうに閉めて重石を載せた。たとえ、自分がもっとも大切に思う井澄に恨まれてでも、レインはすべてを遂行する。そもそも、現時点でも恨まれていないわけがないのだ。
あの日橘八千草に銃口を突きつけ、弾丸を放った瞬間を、井澄には見られているのだから。
「ハっ」
自嘲気味な笑みをこぼして口を開いたとき、インクの匂いに混じって煙草の香りをかぎ取った。煙を好かない彼女はすぐ口と鼻を閉ざすが、鼻腔を抜けて感じたものと記憶の破片が合致したとき、淀みのなかった歩調が落ちた。
鋭敏な五感を持つ彼女は、煙の匂いから銘柄を察した。村上が常にまとっていた、敷嶋の紙巻煙草の匂い。ここにも流通しているのか、と思い、匂いの元である、進行方向にあった出入り口にいた人物へ目を向け――
閉ざしたはずの口が、唖然としてひらいた。
「…………レイン?」
そこにいた、目つきの悪さを隠すように眼鏡をかけた青年が、レインのよく知る少年の姿と重なった。
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八千は焔を操ることをしなかった。
ただ白い光の中に、相手の輪郭だけを捉えて。
捉えたものが焼けつく姿を想像した。
なんの前触れもなく火薬がはじけ、炸裂する音がした。光がやむと、破裂音の残響だけがたなびいていた。回復した視界の中、まだ激しくうねり狂う頭痛と戦いながら八千が見やると、人形じみた男が硬直していた。頭痛のために認識が追いつかず、記憶がやや前後不覚に陥る。
彼が短銃を持っていたのがどちらの手だったかも、八千は思い出せない。ただおそらく右手だったのだろうと思う。なぜなら、薄い煙だけをあげて、彼の右腕が黒く炭屑に変じていた。
砕け散った短銃の破片を受けたのだろう。右半身はところどころから血が滲み、頬にも太い血の筋が流れている。己の現状に気がついたか、彼の額に脂汗が滲んだ。だがうずくまることも、悲鳴をあげることもしなかった。
「――〝我が手に、無音の、っがご、は、がはッげほッ」
詠唱は言葉にならない。うめきではなく、ひどく粘っこい咳が発音を止めた。
「……さあ、死ね」
無情に告げたのはぼろきれの男だった。なにかしたようには見えなかったが、なにかが起こっていた。人形じみた男は残る左手で喉をおさえようとしていたが、口からの喀血に滑ったか胸を叩いてしまう。また咳き込んで、上体を屈めた。
次に遅々とした動きで顔をあげたときには、彼の顔に薄黒い、あざのようなものが散見されていた。醜悪な様子に、八千はおののく。
「〝我が、手に」
「失せろ」
四歩で間合いを潰したぼろきれの男が、右の鉤突きで顎を殴り飛ばす。首が反転しそうな勢いでねじれたが、動きに合わせて人形じみた男は自ら横倒しになった。手をついての着地すらせず、左手を袂に引っ込め、突き出す。投じられた短刀を見た瞬間、また八千の視界が白くなる。あらゆる物が輪郭のみで捉えられる。
念じた途端に眼前で爆ぜた焔により、短刀はあらぬ方向へ吹き飛んだ。まただ。焔を操っては、いない。
「……戻っ、た……」
ひとりでにつぶやいた口を押さえて。
八千は自分に力が取り戻されたことを知った。先日の井澄との再会の折、どころかつい先ほどまでは、視界の中にある焔を操り増幅させるだけの能力だったのに。かつて山で暮らしていた頃のように、何も無い空間に焔を生みだせるまでに、力が戻っている。
「火と日と干を司る、日輪の力――」
ぼろきれの男が、なにか知るような物言いをした。疑問に思った八千はしかしそちらを向く間もなく、這うように起き上がった男の追撃に遭う。血痰のからむ喉をしぼりあげて、彼は詠唱を継いだ。
「〝我が手に無音の、再生、を〟!」
次の一歩で、人形じみた男は疾風の如き速度を得た。なんらかの術式が起動している。
「〝我が手に無音の再生を〟〝我が手に無音の再生を〟〝我が手に、無音の、再生をッ〟」
口の端から血の泡を噴きながら、彼は無事な左手を掲げた。青白い湯気のような流体をまとい、腕全体が輝きだす。また炭化した右腕の先にどろりとした銀色が滴りはじめ、高速で走る間に円錐状に研ぎ澄まされていく。そしてわずかに蛇行し目測の距離を誤らせながら、両腕を八千に突き出した。
だが八千の視界から色が飛んだとき、
突き出された先端からすべてが焼き尽くされた。
声も無く、男の腕が焦げ落ちる。次に、走るため前に出ていた脚が、膝まで焼かれる。顔が炙られる。首が、肩が、胸が、爆焔に呑みこまれた。
なにひとつ前触れも予備動作もなく、発動媒介すら用いず。急激に発生する焔に巻かれて、男は燃え上がった。八千ははっと目を見開いて、荒れ狂う暴威を止めようと念じる。けれど火勢が弱まると見るやいなや、彼はまだなにかの力宿す左手をこちらに振るおうとするのだった。恐怖した八千は口許を押さえて後ずさり、なおも追われてへたりこんだ。
「……往生際だよ」
つかつかと歩み寄ってきたぼろきれの男が、首筋にかかとを振り下ろす。めぎ、と致命的な音がして、倒れ伏した男は身動きとることをやめた。体の中で一番最後に接地した左手から青白い流体が失せたことで、八千は彼の命が潰えたことを悟った。
あまりにあっけなく。人は死の縁を飛び越えてしまう。
「あ、あ、……」
死が、場に満ちる。
永遠に失われ二度とかえらない者を目にして、八千は取り乱した。それが先ほどまで己を襲おうと、いや殺そうとしていた者だと頭でわかっていても、体は濃厚な死の香りを拒絶し、目の前にある生命の喪失をひたすらに忌避する。
ゆらりと、焔が落ちた。うつむいた八千の視線に沿って、火花が咲いて落ちた。
抑えきれなくなっている。ただでさえ視界のどこをも焦土と変える力が、人の死に直面した動揺から手綱を離れようと暴れ出していた。地面から湧きあがるように、そこかしこで焔が咲く。鳳仙花のごとく、はじけて散らばる。散らばり増える。焼かれた地面が燻ぶり、水気を涸らす。彼女を軸に半円を描いて、土は砂と砕けていった。
熱の波が、鼓動のように一定の律動を刻んで周囲を干上がらせていく。胸の前で両手をぎゅっと握りしめた八千は、手首にかかる緋色の飾りを目にして、なんとか落ち着きを取り戻そうとした。
ところがまたも訪れた頭痛が視界を明滅させ、あたりに爆焔を降らせる。顔を上げると、ぼろきれの男は顔と思しき位置の前で両腕をかざし、振りかざされる焔に耐えていた。轟々と盛る火焔に両腕を覆う包帯は焼け落ち、皮膚は瞬時に黒ずんで地面に落ちていった。何重にも巻かれていたのだろう布も、一枚二枚と火の雨に貫かれていく。
「にげて……」
八千はつぶやいた。
頭痛に耐えながらの声は、焔が揺らす大気の軋みに遮られて届かない。
「おねがい、逃げて」
もう一度、声を振り絞る。だがぼろきれを失いつつある男は動かない。いや動けないのか。両腕はもはや骨をのぞかせ、細く枯れ枝のように掲げられるのみだ。脚もなんとか自重を支えてはいるが、長くもちそうにない。
八千は甲高い悲鳴として、叫びをあげた。
「はやく、逃げて!」
「……すばらしいよ、日輪」
最期に聞いたのはそんな言葉で。
杭をこめかみに打たれたような極大の頭痛で制御下を離れた焔は、瀑布となって降り注いだ。ぼろきれの男はまたたきの間も存在を許されず、人の形をした炭となった。
焔の幕が降りる轟音の中で、八千は自分の泣き声を耳にした。身の内にこだまし骨に響く声がちいさくなるにつれて、彼女の意識は遠のいていった。
だが此度は、だれかと行き違うことは、なかった。