63:深淵という名の崖っぷち。
奈古ステイションで降り立った井澄は、去りゆく馬車の八千草に軽く手をあげてから広小路を進んでいった。今日も今日とて人でごった返す大通りは、朝の静けさにも不穏な空気をもたらし続けている。
和洋の混ざった建築の内、頭でっかちに白亜の円塔を乗せた、美的にも重心としてもあまりに均衡のとれていない家屋に近づく。尖塔の先端は赤い屋根をいただき、横合いからは鋭い煙突が飛び出して煙をあげている。
ドアベルの鳴る引き戸を開けると、カウンタの向こうで新聞に目を通していた店主の男が鷲鼻の上に載せた小さな眼鏡越しに井澄を見た。口ひげが濃く生い茂り、もごもごとなにか囁いた様子だったがほとんど聞き取れない。
「早朝に失礼、主人。すみませんが伝書鳩をお願いします」
「どちら、まで」
ぼそぼそと頼りない声で問う店主は、ひげの生育に力を奪われたかのように薄い頭髪を撫でながら新聞を折り畳んだ。
「五層四区の四つ葉新聞社まで。鳩はありますか?」
「いま、とどいた」
しわくちゃの指で店主が井澄の背後を指し示すと、引き戸を軽く叩いて入ってくる者があった。それは頑健な男で、鳥かごに入った何羽もの鳩を店内に運び入れていた。
この伝書鳩屋は朝方に色々な場所から鳩を集め、必要に応じて文書や荷を結えて飛ばすのだ。帰巣本能に従って空路を飛んでゆくため、地形の性質上狼煙などが使いにくい四つ葉の環境ではもっとも早く、確実な情報伝達手段である。実際には術師の式神を用いる手もあるにはあるが、あまりに遠隔操作だと労力に見合わないのだ。
「では用意をお願いします。文はいまから書きますので」
「わかった」
短く簡潔に喋り、店主は鳩を運んできた男に賃金を支払ってから二階へ鳥かごを押し上げていった。白亜の壁に覆われた二階部分は、広い鳩小屋になっており大切な伝令役が羽を休めている。店主が二階の扉をあけたのだろう、階下にいても群れたはばたきの音が届いた。
井澄はすらすらと羊皮紙に万年筆を滑らせ、五層一区から失踪した小雪路を探してほしい旨を伝える書面を作り上げた。踊場の手に渡れば、頼むまでもなく情報は拡散されるとの確信があった。そうして書面を叩きつけるように手渡し、井澄は料金を支払う。店主は宛先をためつすがめつしたあとで、くいと眼鏡を押し上げると井澄に言った。
「宛先、これで?」
「ええ、お願い致します」
「知り合い?」
「腐れ縁と申しますか。この島に渡る際に頼った人が、彼と共通の知り合いだったようでしてね」
返すと、店主は複雑そうな顔をしてみせた。踊場となにか確執でもあったのだろうか。ブンヤという仕事の性質上、伝書鳩屋とはなにかしら諸問題が起こってもおかしくはなさそうだが。
「……悪いけど、送っても、仕方ないよ」
顔のしわを歪めながら店主は進言する。なぜ、と井澄が問う前に、言葉を継ぐ。
「この通り」
カウンタの下からは何通かのはがきや手紙が取り出され、井澄の前に宛名をさらした。どれも『宛先人不在ニツキ届カズ』と印が捺されている。
一様に宛名は踊場宗嗣と、彼の名が記されていた。わずかに目を見開けば、店主が申し訳なさそうにそれらをしまった。
「ここ数日、奴はいない。新聞社にも、自宅にも」
「どこかへ出払っているというのですか」
「それがどこかは、わからない」
井澄は先日踊場と話した際に、彼が島を出ようと画策していたことを思い出した。まさかこの段ですでに考えを実行に移しているとは考えがたいが、いずれにせよ届かないことだけは確かな事実だ。
「そうですか……では」
しょうがないので、それほど親しくはないが挨拶をかわした程度の付き合いはある、他のブンヤに宛先を変えた。踊場ほど信のおける――ここでいう信とは「どう動くか予測ができる」人間であることを意味し、また四つ葉ではそうあることこそが肝要だ――者はそういないが、ブンヤは皆同じ性質を持っている。広く言いふらしてくれることを願い、井澄は表に出た。
あとはなんとか求める人物、錬金術師に出逢えることを祈り。ステイションへ続く大階段をのぼりつづけ、耳に響く鋼のレエルの軋む音を追いかけた。
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八千草は口を開けている坑道の前で馬車を降りると、運賃を支払ってアンブレイラの行く先を穴ぐらに定める。先日は湯屋を使うために訪れたここも、朝方の時間帯では人気がなくただ寒々しい。
こつりこつり、足音を立てながら進んでいく。次第に道は上下にわかたれ、上が第五坑道を示す。進路は下の第六坑道への道、だが……いまだ六層での赤痢流行のあおりを引きずるのか、道の先は鎖で閉ざされていた。構うことなく、彼女は留まらない。
「しかし弥生といってもまだ冷えるね」
ひぅるりと抜けてくる冷気に肩をすくめて、赤みがさしているであろう鼻の先をこする。ケイプの合わせをきつく結び直した八千草はいざ鎖をくぐりぬけ、坑道に身を躍らせた。
閉鎖された坑道はそれまでの道のりに比べ天井の高さも道の幅もない。ひたすらに不気味で、おぼろげにしか物の輪郭もとらえられない。身震いして、八千草は据え付けのランタンを手に取ると、燐寸で火を灯した。
途端に光が道の先を刺し貫き、緩やかにくだる道筋を示す。ちゃぷりと波打つ水筒内の油はさほど多くなかったので、戻るぶんのことを考えておおよそ半分と見えた位置に、刀でひっかき傷をつけておいた。
ざり、と地面を踏みしめていく。傾斜のついた往路は、でこぼことうねる掘削の痕跡と相まって、平衡感覚を掻き乱す。あまり長くいたい場ではない。自然、歩調は上がっていった。
しばらくして分かれ道に行きあたり、八千草は山井製の地図に分岐点の図を記した。顔を上げると、看板には『右 第六坑道第八詰所 左 瓦斯溜マリニツキ火気厳禁』とある。迷わず右へ行く。
あるけど歩けど、足音のほかは、時折したたる水の音が反響しているのみ。手元の明かりなくしては常闇に落ちる環境は、否応なく己の内に耳を澄ますことを強制する。鼓動がうるさいような気がした。
「退屈だなぁ……」
口にすると言葉が耳に届き、余計うっ屈とした気分になる。言霊には気をつけるべきだった、と内心舌打ちして、八千草はさらに進む。
ひとまず目指す先は工夫の詰所だ。彼らが仕事をしていない以上、坑道の見取り図は借りるのではなく盗むような形となってしまうが、逼迫した状況ゆえ仕方ないと己に言い聞かせる。第一、工夫の中にも赤火との内通者がいることが推測されるのだ。へたに手を借りようとすれば、背中を刺されるかもわからない。
こんな自己正当化の作業を着々とすませながら行けば、いつしか視界に詰所の小屋が見えてくる。岩肌をくりぬいて、低い天井いっぱいにまで丸太を積んだような見た目をしていた。窓からのぞく内装は狭く、人が五人も寝泊まりや生活ができるかどうか。
「うぅむ」
八千草はひととおり小屋の周囲を見て回り、抜け穴などはなさそうだと知ると溜め息をついて、覚悟を固めた。
そして窓にアンブレイラを突き立てた。薄いギヤマンはぱりんと割れ落ちて、甲高い音は思ったより遠くまで響いた。一寸の間、その場で待ってみたが、迫る気配などはない。やはり坑道は閉鎖中なのだと再確認して、八千草は袖をまくり窓に腕を差し入れた。
「ん、しょ、っと」
かたりと鍵を外し、中に乗り込む。雑然とした小屋の中は、つるはしやスコップ、一輪の荷車などが放置されており、どこになにがあるか判然としない。利用者たちの性格と疲れが垣間見えた。
それでもさすがに、図面は見やすい位置にあった。壁に紙片が貼り付けられている一点に目を留めて、八千草はランタンを向ける。この先の坑道と、さっきの分岐路から向こうについて、枝葉が広がるような図が記されていた。ランタンの影に揺らめく図面は、どうにも読みづらくてかなわない。
「にの三号、にの三号」
山井の記した地図と見比べ、記号を探す。坑道の番号と思われる『にの三号』の横道に、銀世界とやらへ繋がる通路があるのだ。いろはにほへと……の順にふられた坑道を指差し辿り、八千草は図面と首っ引きで調べを進めていった。
やがて、はの行が終わり隣へ移る。もう間もなくだと思い、胸をなでおろした。ランタンを持つ腕が疲れてきたが、再度高く掲げ直す。空いた手を振り上げ、指先を図面になぞらせる……そのときだった。
背後でものを蹴倒すような音がして、とっさに刀を抜く。驚きにランタンを落としそうになったが、焔を頼りなく揺らめかせるだけに抑えた。
ぶらん、ぶらん、と左手でランタンが揺れ、そのたびに室内の影絵が意志を持ったかの如く踊り狂う。視線を左右に走らせて、八千草はだれかいないかと探った。
「だれか、いるのかい。済まない、急ぎの用事があったものだから、勝手に入らせてもらったのだよ。請求は後ほど緑風アンテイクにしておくれ」
早口で自分に敵対する心持ちがないことを告げて、八千草はすぐ納刀した。ついついクセで抜いてしまったが、こんなところで無用な争いをしている余裕はないのだ。とりあえず剣を握って安心しておきたい弱気な自分を制して、八千草は音高く相手に話しかける。
「ぼくは緑風アンテイクの代理店主、橘八千草。恐れず、対話してもらえると助かる、のだけど…………だれもいないのかい……?」
疑いを安堵の中に徐々に沈め、気を取り直した八千草は物陰の多い部屋をうろついた。窓の外に、ランタンを突き出してから顔を出す。だが上下左右どこにも、人の気配はなかった。
「散らかってるから、ずり落ちただけか」
今度は自分を納得させるため、ひとりごちた。己の言葉は端々まで沁み渡り、八千草の中に快い納得を生んだ。これでいいのだと、室内に視線を戻す。
まだ揺れるランタンが、図面の前になにか影を映した気がしたものの、まばたきのうちにそれは消えた。残像かなにかだと判じて、また目的の坑道を探した。指を離してしまったためにはの行からまたやり直すこととなったが、一度辿った道は覚えていたためすんなりと『にの三号』を見つけることができた。
現在地が『いの一号』坑道であるらしく、にの三号はしばらく先だった。分岐路を七つほど越えて、それ以外でも入り組んだ道を抜けねばならない。八千草は手早く山井製の地図に分岐、曲がる位置などを記して、全体図も頭に叩き込むと図面をはがし盗んで窓を出た。
室外に出ると風が吹きつけ、粉塵を巻きあげる。口元を袖でおさえ、八千草は行く先に目を凝らした。ランタンの照らさぬ場所は、なにが潜むかもわからない。自分のように休掘の隙をついて銀を手にしようなどという輩が他にいないとも限らないのだ。
なるべく早く終わらせることが、己の精神衛生の上でも最優先で求められる事項だと思った。足早に、駆けだす。坑道に響き渡る己の足音に心細さを覚えたが、振り切るように深くへ降りていく。
普段なら頼まずとも井澄が隣で喋ってるだろうにな、とらしくもないことを考えた。だが、らしくないなんて言葉は周りが判断すべき事柄で、自分で言うものではないとも考えた。
「ああもう、やたらいろいろ頭が働く……」
闇の淵というのはそういうものだ。なまじ目が頼れないぶん、事態に備えようと頭が色々に想像を働かせる。
近付けば開き、背を向ければ閉じる。そんな闇の幕がひたひたと迫るうち、なんだかいやな感じがした。いつかどこかで、こんな感覚を覚えたような……そういう、既知の手触りだった。草の海も一度かきわければ二度目がいくぶん進みやすくなるように、二度目だからこそ走りやすい感覚。
鈍い頭痛が、こめかみのあたりに根を張り始めた。いたっ、とうめいた。
なんだってこんなときに起こるのか。濃い闇の幕に身も心も覆われるような感覚に襲われ気が沈みながら、八千草は少し歩む調子を落とした。ランタンの揺れ幅が小さくなり、足下の薄い影が落ち着きを見せる。
その影の小ささ、薄さが、いま現在の八千草が孤独であることを、しきりに意識させる。それが不快なのだと、落ち着いた歩みの中に八千草は考えた。
だが気づいたところで、いまはそれをどうすることもできない。耐えて歩くしかないのだと、言い聞かせて己の身に鞭打つ。ざわざわと、音では無い音を耳にしながら、ひた歩む以外にすべきことも、できることもなかった。
道を調べ、確かめ。周囲の変化に気づいたらすぐさま地図と照らしあわせ、現状どこにいるかを確認する。地道な繰り返しは、わずかでも頭痛から意識をそらす役に立った。無言であるよう努めて、もくもくと。作業に身をなじませ、順応するよう己に求め続けた。
――角を六つ曲がったところで、八千草はランタンを確認する。そろそろ、油の残量が半分に近づいていた。切らす前には戻らなければならない。
「次は、左」
手探りに岩肌をなぞり、闇を照らしていく。もうあと一息だと鼓舞するように、左、左とつぶやいた。
やがて手がおちくぼんだ空間に入りこみ、曲がり角だと察する。手先を撫でる風が、手招きし誘うように八千草を導く。従うように進んで、ようやっと開けた坑道に出る。
道幅がそれまでより広くなり、八千草が大股に歩いても横断に二十歩は要するだろう空間となる。天井だけは変わらず低いままで、八千草が跳んで刀を向ければ刺さる程度だ。圧迫感は拭いきれず、寒いにもかかわらず流れる汗をそっと袖にすりつける。
にの三号坑道。地図と何度も見比べて、辿り着いた場の光景をあらためる。山井の描いた図は実にわかりにくいものではあったが、地形の特徴だけはきちんと捉えていた。彼女の記憶力に感謝しながら、八千草は壁伝いに見て回る。図の通りならば、東側の壁のどこかに通路があるはずなのだ。
そこでうろうろと、しばらく壁をさすりつづけた。油の残量を思えば、中途でも切り上げねばならない段階だ。しかしここまできたというのにとっかかりもつかめぬままというのでは申し訳ないと、半ば意地になって八千草は探し続けた。
ところがにの三号坑道は、ゆっくりと壁に触れて調べ回っていては日が暮れてしまいそうなほど長かった。しらみつぶしではいけないと判じて、直線の道を五分の一ほど行ったところで八千草は足を止めた。その場で考え始める。いまだやまぬ頭痛の狭間で、推察に浸った。
頻繁というわけではないにせよ、この先の隠し通路を利用するのなら。入りこむ際に周囲の人間に見咎められぬよう、するりと入りこめるようにするはずだ。
「わかる人にはすっと場所がわかるように……」
加えて言えば、まちがえて入る者がなるべく少なくなるように。
閃きを求めながら、八千草は来た道を戻った。そのときかつん、と石の転がる音がして、ランタンを向ける。光るものが二つ、転がるように低く移動していった。
「鼠?」
八千草がいる東側壁の向かいにある、西側壁の前を鼠が駆け抜けた。なにするでもなくその挙動を追っていると、やがて鋭く光が弾き返される。目を覆いながら不審に思って、西側へ近づいた。
壁の一部で、光が返されている。途切れがちなその光線の筋を辿っていくと、岩壁に走る微妙な隙間に辿り着いた。指一本入るか否かという隙間の中には、半寸ほどしかない小さなちいさな鏡のかけらが埋まっていた。
なんだろうと指先でなぞって、何の気なしに照らした。鏡面が弾いた光は、八千草の横をすり抜けていた。岩壁のわずかな隙間に挟まっているため、一定の高さで一定の角度から光が入らない限りは反射しないらしい。字面通りの暗中模索であったが、ここにきて光明が差した。
八千草は何度か角度を変えて照らしてみて、光が己に差すように調節した。そして背後に目星をつけると、ランタンを揺らしながら走った。光が返された方角の壁を探る。探る高さも低く、あの鏡面が光を返すための高さにおさえた。
ところが、ない。たしかに鏡の示した方角へ向かったのだが、なにかへの道しるべはそこで途絶えていた。手違いでたまたま鏡が埋め込まれただけか? 悩みながら、八千草は元の位置へ戻る。いよいよランタンの油は少なくなってきた。もうこれは一旦戻るしかないか、と諦め心地に心中を満たされ始める。
が、途中で、また気づきを覚える。自分の身に当たる反射した光が、わずかばかり歪んでいた。
ただ光を照り返すのではなく、なにかの形をとろうとしていた。
「……魔鏡か!」
答えに行きついた八千草の声が響いた。
魔鏡。表面に、近づいて凝視してもわからない程度の微細なひずみを与え、一定の焦点距離でのみ反射した光により像を結ぶという代物だ。隠れ切支丹が、信仰対象の像を彫り込んで用いていた例もあるという。
急ぎこの推論を試すべく後退と前進を繰り返し、八千草は自分の身に鏡の反射光を当て、像を結ぶ距離を探り当てた。幾度かの試行の末にようやく光が結ばれると、魔鏡は八千草の腹部に『Ag』というアルフアベトを浮かび上がらせた。
直感的に、アンブレイラを頭上に掲げて突きあげる。岩と岩の隙間が、先端を飲みこんでいった。かちりとなにか押しこむ感触がして、音も無くするりと東側の壁が動く。わずかに奥へ凹む形で開いた隙間に、八千草は身を滑り込ませた。
ほどなく、隙間は岩壁に閉ざされた。ごく短い時間しか開かぬように仕立てられた機巧なのだろう。こうまでして隠すことを求められる場――いよいよだと、八千草は狭い道の先にランタンを向ける。
人が二人すれちがうのがやっとという通路は、鋭く切り返して奥に続いていた。坑道の全体図を、おぼろげながら思い出す。同時に持参した地図を確認して、この通路が坑道と坑道の間に掘られたわずかな空間に存在することを知った。息をのんで、八千草は長靴の行く先を定めた。
道は蛇行し、遥か深くへ続く。第六坑道よりなお、深く。
秘された場が、迫りくる。ベルトに挟んで腰に提げておいたアンブレイラの柄へ手をやり、八千草は慎重に闇に沈んでいく。
と、角を曲がったとき、先にめらめらと陽炎のようにうごめく影を見つけた。とっさにランタンをケイプの中に隠し、八千草は光を断つ。影は動きを停滞させることなく、形を変幻自在にたわませている。
そっと首だけのぞきこみ、なにが広がるのかと確認してみれば――そこには、がらんどうの広い部屋があるだけだった。下ってきたぶんだけ拡張できたのか、天井も四間はあろう。奥行も一町ほどはあり、これまでの岩をくりぬいただけの空間とはちがい『部屋』としての体裁が整えられた感があった。……けれど生活の気配を消し去られたように、物がなにもない。
この奇妙な空白の中で、壁の松明に影を躍らせる者がいた。
「湊波さん」
「……やあ橘八千草。息災だったかな」
薄く広がる頭痛の絶えぬ頭をおさえて、八千草はアンブレイラより手を離した。
感情の起伏が無い平坦な声の主、仕立屋こと湊波は振り向きもしない。相変わらず、手足に包帯を巻きつけ頭から布をかぶった格好のため、人としての様子がなにもつかみとれない男だった。いや、声音と物腰からそう思うだけで、実情は男かすらも定かではない。
だが彼以外にはありえない独特の気配が、ここにいる彼がだれかの変装などではないことを如実に物語る。
ケイプから出したランタンにて照らすと、ようやく彼はこちらを向いた。ぼろ布は以前見たときよりもますます汚れを増し、裾がほつれもつれていた。
「こんなところで仕事をしていたのですか」
「悪いか?」
「いえ。ただ、赤火との交渉のため出歩いていると聞き及んでおりましたので」
「あれか。あれはそう見せかけていただけだよ」
あっさりと、彼は己の仕事ぶりについて否定した。がくりと肩すかしをくらったように感じて、八千草は問いを続けようとした。
「あの……、」「ところで青水といろいろあったらしいね」
発言をつぶされた上に、現状とても神経質に扱わなくてはならない話題へ踏み込んできたので、さすがに気分を害した。だがそんな彼女の感情の機微など、彼が意にするはずもなく。続けざまに、己の事情にのみ触れた。
「おかげでいい囮になってくれた。私が動きやすくなったよ」
「……おとり?」
「私が販路拡大のため動くと見せかけることで、青水はそちらに気を張る。加えてお前たちが青水に出向くことで双方には気を回せず私への監視に緩みが生まれ、動きやすくなった」
「あの、それはどういう」
「感謝しているよ。おかげさまで、邪魔な者どもを消し去る好機が生まれたのでね。これでもう少し、この島が動かし易くなった」
一方的に自分の意見を伝えるばかりで、やりとりとも呼べない言葉をつぶやき続ける。この島で拾い育ててくれた恩義があるとはいえ、どうもこの会話感覚は慣れない。いっそ「そういう人物なのだ」と山井のように割り切ってしまえれば楽なのだが、記憶を得てから初めて長い時間関わった人物である彼に対しては、八千草も強く割り切ることはできなかった。
親代わりでは、ないにせよ。山井ほど仕事関係と割り切ることはできない。いつでも八千草は、きちんと彼に人として接したかった。
だから努めて普通に、話しかけた。
「まあとにかく、なにかしら動いていたことはわかりました……ところでぼくは、ここに〝銀世界〟というものを求めてきたのですけど」
「そうか。ここがそれだが」
「いや、そんな普通に納得したように言われましても」
「事実を事実以外に語る術など私は持ちあわせていないよ? ここが、銀世界だ」
軽く手を上げて、周囲を指し示す。八千草は視線をつられるように左右に振ったが、先ほど確認したときと同じくなにひとつそれらしきものは落ちていない。不審に思って、八千草は問い返した。
「え……、でも、見たところなにひとつ物がないですけど」
「持ちだされたあと、ということだね。所在をつかまれてなお居座り続けるほど九十九美加登は阿呆ではない」
「所在をつかまれて、とは」
「幻灯機が渡った時点で、予期していたのだろう。いやそれ以前からここを隠すべく、画策を続けていた。緑風に販路拡大の提案をしたのも、銀山などの内部でなく外部へ目を向けさせるための欺きだったのやもしれないね」
屈みこんだ湊波は地面を撫で、ぐずぐずとなにかが染み込んだ様子のある土をいじくった。
「ここが、銀世界。ここが、錬金術により銀を生みだしていた――工場だ」
土を鼻先に近づけてぱらぱらとほぐし、湊波は断言した。八千草は辿り着いた場の真実が己の推測とたがわなかったことに驚き、胸が高鳴るのを感じた。けれどそれは同時に、難題が目の前にぶらさがったことをも意味する。うつむいた八千草は困った状況に焦りを覚えた。
「でも銀の鋳塊、現物がないと、周りを納得させることはできません」
「周り? ああ他の葉閥を牽制することを言っているのか。その必要も、果たしてどこまであるか」
「そうはおっしゃいますが、現時点で緑風の立場というものはあまり芳しくありません。赤火を糾弾する材料を揃えて、青水や黄土に取り入る策を得なければ、」
「橘八千草」
名を呼ばれて顔を上げると、半歩間を詰めた湊波が顔をのぞきこんでいたのでぎょっとした。いや、顔色がうかがえないためこちらを見ているのかもわからないのだが。
そのまま微動だにせず、彼は言い聞かせるように低く語調を落とした。
「この島で過ごし、お前は〝世界〟についてどのように考える?」
はじき出された唐突な問いはあまりに大きなものへの言及で、率直に言って八千草の手には余るものだった。そも、この局面で急に出す話題でもない。ついていけずに、反駁した。
「急になにを。おっしゃる意味が……、よくわかりません。そもそもぼくは記憶を得て、経験してきた事物が圧倒的に少ないのです。乏しい経験から世界なんて大きなものを語ることは、できません」
「お前にとっての世界がなにかを定義してくれればそれでいい」
問いを具体的なかたちに研ぎ澄まされ、たじろぐままに八千草は返した。
「……周囲の親しい人々と、ぼく自身が生きている場、でしょうか」
「個人的で閉じた世界だね。だが普遍的な、正しいかたちだ。己の知る範囲の外をも包括して世界と呼ぶ偏屈者は、大言壮語の気があるか人外れた化生であるか、人間は誰しも巨大な〝流れ〟の中にいると認識している者のどれかしかいない」
話しかけては、自ら断ち切る。辟易して黙り込んだ八千草を前に、湊波はこつこつと足音立てて離れていった。
しかし、流れ。ここ最近、幾度となく耳にした言葉だ。物事に存在する流れ、人と人との間に存在する得体のしれないもの……そのような解釈を浮かべるうちに、湊波の演説口調が続いた。頭の中に染み透るような語調が、頭痛の根を刺激する。
「流れが押し寄せようとしているよ。もはやこの島で葉閥というものの機能も薄くなる」
「葉閥が……?」
「そうさ。だから葉閥間の牽制など考えなくていいと言っている。――もうこの島は、国は、世界は、佳境に入っているんだよ」
一陣の風が吹き、松明の焔が揺らぐ。荒れる大気の中に翻る布の向こう、湊波の声にわずかに色が宿ったと八千草は感じた。
喜びでもなく悲しみでもなく。ただ達成に近づいた安堵、だろうか。そのような匂いに感じられた。わからない。意図するところが読めない。だというのに、どこかおぞましさを嗅ぎ取って腰がひけた。湊波はこれを鋭く察知したと見えて、こちらが引いたぶんだけ体を近づける。どこからか、腐臭に似たにおいが漂ってきた。風は湊波の方から吹いている。頭痛が、じわじわと触覚の中から浮き彫りになっていく。
彼の姿が、影のように歪む。
「さて、お前の存在もまた、佳境への一因だよ。幾多の戦をくぐり抜け、もう目覚めている頃合いだろう」
「な、なにを」
「ああ、お前じゃない。お前は答えなくともいい。さあ、日輪。起きろ。起きねば……死ぬぞ」
薄く香っていた腐臭が強まるように。一瞬にして濃密な殺意にまとわりつかれて、八千草は応戦の前に怖気づいた。見計らったように風が吹き、松明が消える。闇が増えた空間に怯えてさらに一歩、相手の間合いより退こうとする。だが致命的な間違いだった。
湊波は、人の身として想定されるような間合いを持ちあわせていない。崩れるように倒れ込むように迫る彼の体は、到底人間の体術とは思えず、
「がっ――、は――」
瞬間的に最大の頭痛が、目の奥で火花を散らした。力が抜け、ランタンが落ちる。水筒が割れ、油が散り、火が燃え移って周囲に光を撒いた。その光を飛び越え、闇に彩られる湊波が迫る。
目に映る光を最後に、八千草は、意識をどこかに持っていかれることを感じていた。
そして、引っ込む己の意識と行き違いになるだれかを、身の内に覚えて――。