62:庇護者という名の守護者。
急ぎ硬貨幣の補充を済ませ、鋼糸の手入れを終え。いつも通りに出立の準備をすると、二階から降りていった。階下にいた八千草はパイプから煙をあげていて、井澄の姿を見るとくわえていた吸い口を離し火を消す。アンブレイラを片手に携え、準備は万端の様子だった。
「そろそろ行くかい」
「ええ。私は奈古ステイションから六層、居留地へ向かいます。精錬所からの鉄鋼の荷降ろし場など、異邦人の術師が多いのはあそこですから……中途で小雪路についても捜索します」
「うん。すでに馬車は呼んであるよ、じきに来るだろう。二区までは一緒に乗ってゆこう」
「助かります」
言って、ふと井澄の格好に目を留めた八千草は、パイプ片手に空いたほうの手を伸ばし、井澄のネクタイを正した。
「錬金術師を探すのなら、人脈をあたってゆくのだろう。身だしなみくらいはちゃんとなさい」
「ああ、これは、どうも…………ぃひ」
だめだった。こらえようとしたのだが、口の端が意図せぬ動きをして歪んだ。「ひ」の字ににんまりと笑んでしまった井澄を見て、八千草は己の行いがうかつだったと思ったのか露骨に舌打ちした。
「なにを嬉しそうにしているんだい」
「その、お気づかいいただけたことが嬉しくてですね」
「いやなぜそれだけでそこまで喜ぶのかが理解に苦しむのだよ」
「ちいさな幸運も全力で喜ぶほうが人生楽しいですよ」
「……ぼくが優しくすることは幸運に位置づけられるのだね」
「ええまあ、いえべつに普段が辛辣だとか言うつもりはなくてですね。むしろ対比が気持ち良いと申しますか」
すいとまぶたを下ろし半目になったので、気持ち悪いね、と言外に目で告げているのかと思われた。これ以上はいけないと思い井澄は黙ることにした。
ところが八千草はハテと考え込んだ顔を見せたあと、じっと井澄の顔を見て問うた。
「ぼく、普段辛辣かい……?」
「へ、いえ、あの」
「正直に言ってほしいのだけれど」
ううんとうなった声のあとに言う。井澄はどうしたものかと迷ったが、取り繕う言葉を探そうと姑息な手を弄するより、正直に答えるべき場面だと思われた。ので、柔らかく受け取れるように絹で包んだような言葉を返す。
「……甘くはない、ですね」
「……そう」
「……はい。先ほども起きぬけ、私がいるのを怒っている目つきでしたし……」
「あれは寝顔を見られたくなかっただけであるよ。不躾に寝所に踏み込むほうが悪い」
「申し訳ありません」
結局謝る羽目になっている。だが別に咎めてはいても怒っていないというのがわかり、井澄はわずかばかり安心した。なにに対する安心かはよくわからなかったが。八千草のほうも平時の落ち着いた顔つきに戻っており、なんとも言えない時間は終わっていった。
ががっ、と蹄が石畳を蹴る音が遠くから響き始める。どうやら迎えの馬車はそろそろ到着するようだ。井澄は襟元を整えて、八千草も髪を撫でつけた。出立の時は迫る。
「では山井、留守の間、靖周を任せます」
奥に控える彼女に声をかけると、治療室からのそりと顔を出した。顔にはわずかに疲労が滲んでいたが、業務に向かって瞬時に気持ちが切り替わったかこくりとうなずいて頬の筋を強張らせた。
「アタシは何者であるよりもまず先に、医者であることを選んだ人間よ。任せなさ」「おい、行くのか」
山井の言葉にかぶせ気味に、靖周の弱弱しい声が届いた。慌てた山井が奥に引っ込んだが、どた、ばたっ、とゆっくりじっくり近づく音がして、最後には諦めたように退く山井の足音が聞こえた。
ぬっと顔を出した靖周はまだ歩ける状態でもないようで、壁に手をつきながら扉を開いた。こめかみの傷口は縫い合わせたばかりの生々しい痕をさらし、こびりついた血が薄い髪色にひと差しの彩りを添えていた。まなじりの垂れた目は落ちくぼみ、くまを作って鎮座する。ぼさぼさと肩まで広がった髪の隙間に、首を固定しているのだろう厚く巻かれた包帯があった。
満身創痍である。震える唇が、しゃがれた声が、虚ろな目の訴えを確たる言葉にした。
「……俺も、妹を探しに」
「無茶言わないでください。まともに歩ける状態でさえないのに外になんか出たら、あなた格好の標的ですよ」
「それぁ妹も、同じこったろ」
聞き分けのないことを言い、すわった目で見る靖周には妙な迫力があったが、けれど威圧というほどのものではない。瀬川や怪神の威嚇をくぐり抜けた井澄には、どうというほどのものではなかった。
「いいですか、こういう諺があります。木乃伊盗りが木乃伊になる。……二次被害など出したくないのですよ。どうかここで大人しくしていてください」
「じゃあお前、もし八千草が怪我したまま消えたら、じっとしてられんのかよ」
なじる語調で、靖周は言った。常の飄々とした趣きは失せて、余裕の無い、追い込まれた男がそこにいた。周りの見えていない、内に閉じこもった人間の臭気が感ぜられる。
井澄は半歩間を詰めて、心根が冷え切った靖周を見下ろした。
「できませんよ、断言できます」
「だったら、」
「でもその時はあなたが私を止めているでしょう。これも断言できます」
きっぱりと突き放せば、靖周は目を見開き、ぎりぎりと歯を軋ませた。身をひるがえして馬車に向かおうと井澄は進む。途端に後ろから腰のあたりに重みを感じて、爪先に重心を移した。しがみつく靖周は生気のない重さを感じさせて、死人につかまれているようでもあり、ぞっとしない。
「頼む、連れてってくれ。これは俺の力不足が招いた事態だ、俺がなんとかしなきゃならねぇ。今度こそ、俺はあいつを守らなきゃならないんだ」
「……言っておきますが、行き先はあなたの忌み嫌ってる居留地ですよ」
払いのけながら言えば、よろめいた靖周は壁に背をあずけて声を張り上げた。
「構いやしねぇ、俺の好き嫌いなんざ! あいつが無事に戻るなら俺は、またあそこの連中の股下だってくぐるさ!!」
「……また?」
呆気にとられた体は、思った言葉をそのまま口に出してしまう。問うべきでない質問だったと気づいたのは言葉に感覚が追いついたときで、しまったとの意識を表情に出したのは、奇しくも靖周も井澄も同時だった。
唾をのんで一拍置いた井澄とちがい、意識を戻した靖周はすぐさま答えの一言を血反吐のように吐いた。
「……昔の話だ。仕立屋に拾われるまでは、この体使って稼いできた。そんだけだ」
表情が綴る悲鳴に頭を殴られて、井澄はどうしてこんな簡単なことに気づかなかったのかと、配慮の無い自分を恥じた。八千草は顔を背け、山井は嘆息して頭を抱えている。
考えてみれば当然の話だ。四つ葉が建立されてからは十二年しか経っていないが、複合階層都市の普請のために政府の手が島に入り始めたのはさらに四年前、十六年前である。その時点で靖周たちの父母は、土地の徴発などに逆らったため特殊労役の名の下に本土へ連行された。
当時八歳の靖周は、生まれたばかりの妹と共にこの島に残されたのだ。欲望渦巻くこの島で。戦う力も財力も持たず、身一つで投げだされた。となれば、資本とできるのは体のみだったことだろう。
なにをしてきたのかは、ある程度想像がつく。その記憶には屈辱と、苦汁が染み込んでいるのだ。
「靖周――」
「俺にとっちゃあいつがすべてなんだよ。どんなに俺が汚れようと傷つこうと構わねぇ」
それでも、小雪路を守ってきたのだ。
言うのは憚られるが、小雪路は見てくれが整っている。体型も、井澄は惹かれないが、一般的には男を魅了するに十二分足り得るものなのだろう。それでも彼女はそういうことを一切知らず、この十六の歳まで純真に育ってきた。
否、育ててきたのだ、ほかでもない靖周が。いつか、彼の家で酒を酌み交わしたときにつぶやいた――いつそういうことを教えるべきかとの言葉は、ふざけているわけでも酔っているせいでもなく、真摯に絞り出した問いだったのだ。
教えれば、露見しかねない。金のために、小雪路を育てるために、己がなにをしてきたか。知られたくないから、教えることもできずここまできたのだ。
いつしかうつむいて、彼の喉を抜ける声だけが、小さく細いにもかかわらず朗々と悲鳴を紡ぐ。
「だってのに、あいつは自ら望んで戦う奴だった。結果血に汚れちまった……そんでもって、傷ついた。俺は、俺はよぉ、兄だろうが。なのに、守れてねぇだろうが! これ以上、あいつを傷つけてたまるか! だから俺は、本当は、あいつと並んで戦いたくもねぇんだよ……!」
「……六区の銭湯でも、同じことを言っていましたね」
言えば、自嘲する笑いが靖周に張り付いた。あまり見ていて気持ちのいいものではない。普段は自分たちをいさめてくれる年長者がこうも自虐的に弱ってしまっている事実は、少なからず井澄にも痛みを与えてきた。
「そうさ。戦い続けりゃ、いつ失うかわからねぇ。もちろん小雪路は強い、んなこたわかってる。それでもこわいんだ、ひとりで取り残される感覚はもう味わいたくねぇ。あいつが戦いを好んでいても、やめてくれってずっと願ってたくらいだよ! 俺は小雪路とちがって、身も、心も、弱い――」
「それを、小雪路にも言ったのかい」
ここまで沈黙を保ってきた八千草が、ふいに横やりを入れてきた。拳を握ってうなだれた靖周は顔を上げることすらなく、いや、と否定の言葉だけをささやいた。アンブレイラをかっ、と鳴らして、八千草は壁から背を離して歩みを進める。寂しげな瞳が、揺れる光を井戸の水底のように乱れ映す。
「なんということだろうね。じゃああいつは、たまたま立ち聞きしたということかな」
「立ち聞き、ですか?」
「お前いま、靖周が小雪路を案じ、共に戦うのを拒む言葉を口にしたのは六区の銭湯でのことだと言ったろう。ぼくが思うに、小雪路の様子がおかしくなったのはちょうどあの銭湯のときからだったのだよ。……もしかするとお前と靖周の間であったその話を、あいつは聞いていたのかもしれない」
「共に戦ってほしくないという本音を、ですか。たしかに、戦いを求めるあいつにとっては、耳に痛い話だったでしょうが」
「ちがうよ」
井澄の推論に八千草は首を振った。
目線をずらして、うなだれた靖周を食い入るように見つめた。
「あいつが怖れていたのは、戦いを求める性質を否定されることなんかじゃない。なによりも嫌だったのは、靖周。お前に頼りにされなくなることだよ」
「……なに」
「そう、言っていた。あの銭湯でね。やっとわかった……あいつが無闇に怪神を倒そうと躍起になっていた理由、いいや危神に戦いを挑んだことさえ、同じ理由が根底にあるのやもしれない」
言葉を切った八千草に視線を合わせ、靖周は崩れ去りそうな膝を押さえていた。耐えようとしているのか、崩れる許しを待っているのか。
井澄には、自分と妹の間にあった微かなほころびを見出される時を、待ちわびているように思えた。
時はほどなくして訪れた。
「きっと小雪路は、戦いを求めていたわけじゃない。ただお前に、認められたかったのだよ。お前の前で力を証明したかった。妹だから、なにより大切なお前の背を見てきたから、守られるだけでなくその背を守りたいと願ったんだ」
八千草の一言一句を聞きとって。ぐらりと、瞳が揺らいでいた。注がれた言葉は、靖周にとって熱すぎたようで。胸を押さえた彼は、いたたまれない顔で、壁についた己の手を見つめていた。掌が拳にかわる。
だからこそ、小雪路は四天神にさえ勝とうとしたのか。
身を削り戦いに時を費やして、血にまみれて。痛みを受け入れることもいとわず。
事実であるならば、靖周にとっては前提から崩れさる。
「でもそんなの、なんで俺に、」
「近すぎて、伝えあうことを忘れていたんじゃないのかい。お前もあいつも、言わずとも伝わると過信していたのだよ。――たったふたりの兄妹だからこそ、互いが互いをわかってるはずと思いこんだ。わかりあうには、伝えなくちゃならないのに」
八千草は井澄を見て、どこかむずがゆいような顔をした。なぜかはわからないが、その表情には面映ゆさが含まれているように思われた。
守ろうとしていた相手が、己を守ろうとしていた。見失いがちな、互いが互いを思う心。靖周はもはや言葉にならないのか、壁においた拳を震わせて肺腑をしぼった息を吐いた。鼻が詰まったような湿っぽい音がして、靖周は床にずり落ちた。
力なく肩を落とした彼に、井澄は声をかけた。
「この近辺の知り合いを動員して、小雪路は探します。あなたは体を休めて……奴が帰ってきたときにかけるべき言葉を考えておいてください」
そのまま出入り口へ向かう。山井はへたりこんだ靖周に肩を貸し、治療室へ引き戻そうとした。八千草は無言で彼らに目を向けてから、朝日の差しこむ扉を押しあけた。井澄はあとに続きながら、陽光の中でまばゆい彼女につぶやいた。
「……八千草があのように熱弁をふるうとは思いませんでした」
「ああ、自分でも驚いているよ」
一時失われた色彩が戻ってくると、細めた眼で井澄は彼女の後姿を見る。馬車を停めていた御者は、なかなか出てこなかった井澄たちに思うところあってか、しきりに首をひねって早く乗るよう催促していた。
「思い当たる節があったから、かな――」
「思い当たる節、ですか」
「うん」
ぎしりと足段場を踏みしめて乗り込み、八千草は「奈古ステイションまで」と行き先を告げて席につく。向かいに井澄が腰かけると、なぜかおもむろに腰を上げて、馬が車を駆るまでに井澄の横に位置を移した。
そっと井澄の腕をとると、手首から掌を這わせて、袖をめくりあげた。唐突な行いに固まっていると、八千草は重そうとさえ思える長いまつげを伏せて、井澄の前腕中ほどにある傷痕を撫でると袖を戻した。緊張の一瞬を抜けると、彼女は言った。
「……お前は距離が近すぎるから、よく邪険に扱ってしまう」
「いや、それは、私が不躾に馴れ馴れしいからだと」
「まあそれはそうだね」
上げて落とされた。
「でもぼくも、近さに甘えて思いを伝えてこなかった気がするのだよ」
「私に、ですか」
こくりとうなずいて、顔をしっかりと突き合わせる。八千草の大きな瞳に、井澄の姿が映り込んでいる。己の淀んだ目が、彼女の中に渦巻いていた。申し訳ない心地がして目を逸らしてしまいそうになるが、彼女の引き結んだ唇が逃げるなとの意志を示して、そのような行いを許してはくれない。
「ぼくはお前が、大事だよ」
静かに一言、染みわたるまで待つようにしてから、八千草は視線を正面に戻した。
井澄は彼女の横顔を見ながら、それは同僚としてなのでしょうと、ちょっと悲しげな笑みと共に言おうとした。口の形ができ、喉の準備が整ったところで、しかし止まる。
なぜ自分は――悲しそうに言おうとした?
いま目の前にいるのは、八千草だ。八千ではない。井澄の愛した彼女では、ないのだ。だというのになぜ……悲しみが生まれたのか。深く考えようとして、怖くなる。踏み込むなと、井澄の中で叫ぶ者がいる。ジャケツ越しに、気を紛らわすかのように胸ポケットの手帖を握りしめた。かろうじて平静を取り戻して、井澄は努めて平坦な語調で言った。
「同僚としてでしょう」
「どうだろう、自分でもよくわからないのだよ」
膝に両手を置いた八千草は、井澄のいる方に後頭部を向けて、窓の景色を見ていた。薄くギヤマンの窓に映る彼女は、迷いを浮かべていた。そしておそらくは考えのまとまらぬまま、彼女は言葉を継いでいた。
「自分の中にときどき、御することのできない気持ちが噴き出すんだ。そこに、お前の姿が浮かぶことが、ある……」
惑乱したように、目線をあちこちに流していた。まるでなにか、募る思いがあるように。まさにどこかで、見たような顔つきで。態度で。言葉だけが〝彼女〟とちがう。
なんだそれは、と井澄は愕然とした。
そんな顔をされては――惑う。〝彼女〟と――八千と同じ顔でそんな表情を見せられては、井澄も迷う。
実のところ、邪険に扱われる軽い関係が、むしろ井澄にとっては心地よかったのだ。自分がふざけておどけて、彼女が湿度の高い目でにらむ。こんな喜劇じみたやりとりが、快かった。
もちろん演技だったわけではない。八千草になにかをしてもらえれば嬉しく思うし、彼女の姿はいつも井澄の心を浮き立たせた。だがそれは……八千草を通して八千の像を見ていたに過ぎない。だから必要以上に近づきすぎず、つかず離れず眺めていられる距離。そこにいられればよかったのだ。
八千が取り戻されるまで、八千を内包する八千草を守り付き添う。ただそれだけのはずだった。
それこそが、亘理井澄が沢渡井澄に課した生きる道だった。
握る手帖が音を立ててひしゃげる。
「……そう、ですか」
動揺に耐えて、井澄は目を背けた。あえてこれ以上聞きだすこともしない。逃げたような気がしたが、ステイションにつくまでの短い時間で下手に進めるわけにもいかない話だと考えたのが一番の要因だった。
「とにかく、ぼくもお前に守られてばかりだけれど。ぼくも、お前を守りたいと思っているのだよ」
それきり物言わず、八千草は馬車に揺られるばかりとなった。
奈古ステイションが近づく。気まずい空気が、逃げ場を求めて車内をさまよう。井澄の心の臓も逃げ場を求めるように拍動を早めていたが、こればかりは車内より出でても逃れようがなかった。