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明治蒸気幻想パンク・ノスタルヂア  作者: 留龍隆
五幕 虐殺遊戯
61/97

61:流れ者という名のはぐれ者。

探しもの。

 瀬川への詩神の襲撃、およびその状況からの誤解が生んだ青水からの攻撃をやり過ごして、翌日。


 現在井澄たちが居を構える五区まで帰るには時間も状況も微妙と思われたので、二人は山井の診療所で一夜を明かした。治療室からは夜の間中、小雪路のうめき声が低く小さく響いていた。


 そして朝を迎えた現在。あまり眠れなかった体の重さを抱えつつ、まだ待合室のソファで眠る八千草を横目に見ながら井澄は敷嶋の紙巻煙草に火をつける。ふとそこで燐寸の明かりが弱いように思われて首をかしげた。だがすぐに原因に気づく。


 ここはさすがに五層でも一区というだけはあり、出入り口のほうから久方ぶりの陽光が注いでいたたためだ。やわらかな明かりにさらされながら、井澄は起きぬけの一服を深く肺腑に溜めこむ。


 と、ドアの隙間から乱雑に差し込まれる紙切れに目がいった。近づいてドアをあけ、手に取る。すると隙間から抜けたのか最初からそこにいたのか、大きめの鼠が駆けていった。汚いと思いつつドアを強く締めると紙は新聞、号外であった。


 おそらくは昨日の詩神の襲撃に関してであろうと判じて、薄い紙きれを開く。活版印刷の字面が踊り、煽情主義に彩られた文意が舞う。踊場といい、どうしてこう新聞屋というのは一義的な見方を人にすりこむのが巧いのか、そう考えながら目線が段落を下ると、ある情報に釘付けになった。


「……やはりそうか」


 つぶやきと共に紙を閉じる。かろんと、手首のカフス釦の重さが井澄に向かって自己主張していた。


 待合室まで歩き、八千草の横のソファに腰を下ろす。口にくわえたままにしていた紙巻煙草をつまんで深く紫煙を吐き、井澄は空いた手をあごに添えて考え込んだ。


 新聞の記事は『白昼ノ悪夢!! 虐殺行為ニ及ンダ詩神ノ真意トハ?』となっており、彼が瀬川邸に押し入るために斬殺した連中について詳細な情報が述べられていた。青水に金でも積まれたか、やや瀬川らに同情的な私見の感じられる文意であった。


 しかしそんなことはどうでもいい。井澄が気になったのは一点だ。


「奴の、得物は――」


 青水で斬られた者どもに生き残りはいなかったが、得物をもたず徒手喧嘩すてごろを生業とする者が何名かいたらしい。詩神は剣客としての矜持ゆえか、彼らには目もくれなかったため、無理に突撃をかました者以外は生き残っていた。


 彼らが見た詩神は、その雷名を打ちたてた所以ゆえん足る剣技で次々に敵をほふった。しかし剣を振るう相手は同じ剣客のみで、それ以外の、弓矢や鉄砲などを扱う遠間の者には剣を使おうとしなかったらしい。だというのに、いつの間にかそれら飛び道具使いも斬られていた。井澄が見たのと同じように。


 そして、飛び道具使いたちの傷口は皆例外なく……何で斬ったか不明(、、、、、、、、)だった。

 まるで、異なる刀を幾数振りも持ち歩いていたかのように。


異刀鋸(、、、)


 剣を振るったあとのわずかな隙を狙い放たれた矢を、詩神は後ろを見もせずに防いだ。その際に井澄は見たのだ。彼の袖口から伸び、空中で矢を絡め取った細い糸を。


 まさかと思った。見間違えたのかと。けれどそんなことは有り得ないと己が一番よく知っている。ずっと見てきた得物だ、己と師の間を繋げる、細くしかし力強い糸だ。


 呉郡黒羽。詩神・黒衛と同じ姓を持つ、井澄の師。彼女の素性について、井澄は多くを知らない。「手練の暗殺者アサシネであり、政府筋から依頼を受けて殺しを行っているということの他に自分について必要な情報はない」とだけ語り、実際年齢すら最期まで知らぬまま井澄は彼女と死別することとなった。


 そんな彼女と同じ姓を持つ黒衛。同じ得物を持つ黒衛。


 呉郡とは、何者なのか――


「……おはよぉ」


 ずり落ちた毛布に引っ張られるように目覚めたのか、八千草が寝転んだまま井澄を見ていた。しょぼしょぼとまばたきし、こしこしと目をこする。くわえていた煙草を落としそうになりながら、井澄はかろうじて「お、はようござます」とだいぶつっかえながら頭を下げた。


 じろんといぶかしげな目で井澄の所作を見つめたあと、八千草は無言で己の衣服をあらためた。いくらなんでもその反応はひどくないだろうか。


「……お前、いつからそこにいたんだい」


「いえ、つい先ほど、です。小雪路のうめき声のせいで明け方まで寝つけませんでしたが」


「ふうん……おや、新聞かい」


「先ほど届きました。号外のようです、昨日の青水について」


「ああ……ふむ。貸しておくれ」


 起き上がった八千草は胸を張るように大きくひとつ伸びをして、目尻に涙を浮かべながらパイプをくわえた。井澄から受け取った新聞を膝の上に広げ、目では文を追い両手は煙草葉を詰めている。


 煙が三筋ほどのぼりだしたところで、ようやく頭が働きだしたのか瞳にきらめきが宿った。つくづく喫煙に依存して生きているのだな、と井澄は思い、己の吸殻を灰皿に押し付ける。


「ふむ、ふむ。詩神の暴れようのおかげか、ぼくら緑風についてはさほど書かれていないようであるね」


「幸いに、というよりも幻灯機のことがからむせいで書かせるわけにはいかないのかもしれませんね。目下捜索中ということでしょうか」


「それでこちらから追っ手を外してくれるなら結構なものさ。その間に、ぼくらも成すべきを為そう」


 口の端から煙を漏らしつつ、八千草は強く語尾をしぼった。井澄も気を引き締める必要を感じ、ゆっくりと背筋を正す。


「まず私は、錬金術に詳しい人間を探しますね」


「ぼくは坑道から入って、銀を探す。黄土とのやりとりは、申し訳ないけれど放置だよ」


 昨晩のうちに決め込んだ、本日行うべき事柄を再度確認する。


 八千草が推測した島の秘密。掘り出される銀に対する不信感。これに付随して〝銀世界〟という言葉と幻灯機の存在。すべてが、どこかへ繋がろうとしていた。


「ぼくらは真実を、確かめに向かうとしよう……おっと、おあつらえ向きに詩神が時間を稼いでくれそうであるよ」


 八千草は、ぬるく民衆を煽る快感に浸った文章を指で弾いた。


 そこには『詩神、果タシ状ヲ送リツケテ逃亡セシメル 期日ハ二日後!?』と書いてあった。これで二日後までは、青水も満足に緑風へ対応できないことが予想される。三船兄妹を山井に任せるため実働に回せるのが井澄と八千草のみである以上、わずかでも相手に縛りが大きくなることはありがたかった。


「よくよく見つからずに逃亡してくれることを祈りましょう」


「なぁに、これまでだって見つからずに逃げてきたんだろう。あと二、三日くらいどうとでもなるさ」


「まあそうですね。どこに隠れているやら存じませんが、大した隠密術ですよ」


「いやまったくだ……さて休憩も済んだことだし、腹ごしらえを済ませたら、行動開始といこう。ことは一刻を争うのだよ」


 ごそごそと懐から古ぼけた紙を取り出して、ロウテエブルの上に広げる。そこにはだいぶ線に迷った印象のある、あまりにずさんな地図が記されていた。


 とはいえなにも無いよりは遥かにマシだ。これから八千草が向かうのは第六坑道……いま現在は六層六区での赤痢流行に際して、封鎖されている区画だ。完全な手探りで歩むにはいささか心もとない。


 この山井の手書きの地図でも多少は役に立つだろう。距離感覚などはあてにならないが、少なくとも方角や方向は合っている、はずなのだ。元にした図面は――あの幻灯機の中から映し出されたものなのだから。


 昨晩。八千草の推測、島の銀が錬成された品であるとする説を聞いてすぐ、山井は思い出してくれたのだ。『店番のあまりの暇さに負けてねぇ――』と語る彼女は仕事をする者としてはどうかと思ったが、とにかくもいま重要なのは彼女の人格なかみではなく幻灯機の中身だ。


 幻灯機を動かした彼女は、中に入っていたのが図面であると知るとすぐに興味を失った。しかしその図が、六層の坑道に隣接した道を示すものであることは記憶してくれていた。


 また図の端に、〝銀世界〟とかすれた字があったことも。


「坑道に詳しい工夫こうふを雇うことができればよかったのですが、そちらの人脈に強いのは靖周でしたので」


「なに、贅沢は言うまいよ。別段ぼくもひどい方向音痴というわけじゃない、なんとかあの謎の坑道を見つけてくるさ」


 あとは確認に向かう他ない。あのフーという煉丹術師の様子からして、銀の正体をつかむことができれば青水と対等の位置に立てると判じられるのだ。ぐずぐずしていると青水がすべての諸問題を片づけ、黄土と緑風が結託した可能性について考慮の上で襲ってきかねない……。


 井澄は錬金術師を探し、また余裕があるならば八千草を手伝うべく銀の鋳塊を捜索する。二日でこなすには難事であったが、やらねば未来はない。


「急ぎましょう」


 うなずく八千草と見つめ合い、二人の意志が固まった。


「ちょっと、井澄」


 意気込みに水を差すように、待合室の入口に山井が姿を現す。いいところだったろうに、と間の悪さを咎めるような顔をしてみせるが、山井は寝起きだからだけではないだろう、青い顔をしていた。


「……いかがなさったんです」


「井澄、八千草。あんたら小雪路見てない?」


「いや、ぼくはいま起きたところであるからして」


「私はもう少し前ですが、そもそも昨晩は奴のうめき声がうるさくて……」


 ここまで言ってはっとした。井澄が眠りにつくことができたのは、小雪路のうめき声が消えたからだ。てっきり向こうが意識を失ったから声が消えたのだと思っていたが、そうでなかったとしたなら。山井が、吐き捨てるように現状を説明した。


「厠にもいない。治療室にもいない。あのばか――まだ起き上がるので精いっぱいなのに、出て行きやがったのね」


 探し者が二人に増えてしまった。



        #



 明朝、先月以来で四つ葉へ上陸したレインは、雑多な人ごみを掻きわけながら港街を進んだ。ここは常日頃からスリや置き引きが行きかう場であるが、彼らも命は惜しいのか「手を出して問題のない人間とそうでない人間」の区別はついているらしい。レインら三人はほんのわずか周囲に距離を置かれるような形で、間を縫って移動できた。


「これはこれで問題に思われるがな……」


 悪目立ちしては、隠密行動と呼べなくなってしまう。もちろんこの四つ葉にも実力者は多数いることだ、いてもおかしくはない人間と見なされているのだろうが、極力隠した爪を晒すことは避けたかった。


 食堂に辿り着いた三人、うち睦巳だけは周囲の監視のため外を回り、レインと礼衛門だけが中へ入る。香ばしい料理のにおいと表通りの磯の香りが混じって、レインに空腹を覚えさせた。


「さて、睦巳には悪いが、さっさと先に食事をとってしまおう」


「でもここからはわかれて行動するのでございましょう? 向こうも向こうで勝手に食べると思いますが」


「話せないあいつは意志疎通が難しい。あとでわたしが奴と店を探してくるさ」


「これは然り。ではあとは、固まって動いている間に実力が露見しないことを祈りましょう」


 カウンタ席に腰かけた礼衛門は、食事を作る店主をながめながら背後のレインに向けて口を動かさずつぶやいた。目線を後ろへ逸らさないのは、作る食事に毒を混入される可能性を案じてのクセだ。暗殺者として生きているがゆえに、己に迫る危機にも彼は敏感だった。


 ちなみにレインはあまりそういう点は気にしていない。なにしろ河豚の毒ですら数秒で動けるようにできる能力(、、)を持っているのだ、並大抵の毒では彼女にとって足枷にすらならない。


「すべてを闇の内に葬り去ることが叶えば、それが最上なのだがな」


「仕事には気楽に構えましょう。やる前からよしあしを評価しようとしていては、力みが生まれるというものでございますよ。散歩にでかけるような気楽さで、歩くような速さで」


「ああ。そういえばわたしも、村上から昔教わったな。理想的な刃物の扱い方というのは、気楽で構えない状態から生まれるとかなんとか」


「ほう? あの近接格闘の名手が。これはぜひ後学のためにも拝聴しておかねば」


「……あまり役に立つものでもないぞ。奴は一言、〝刺さる〟と述べただけだ」


「刺さる?」


 口を動かさず、腹筋と横隔膜で声を発することで周囲に会話内容を悟られないようにしていた礼衛門が、思わず唇を動かした。横目でそれを見ながら、レインは懐の得物――二挺の短銃と各種錬成した弾丸、鋳塊――の位置を正し、うなずいた。


「『切るも突くも裂くも削るも、能動的な意志が現れる動作です』とかいう持論があるそうでな。奴は攻撃的な意識を捨てて、物体の進路にただ刃物と己を置くだけにする。そうすれば自然と相手に刃が〝刺さる〟」


「……人とすら見ていないのですか。物体と言い切るとは」


「技術が極まったからこそ辿り着いた精神の極致を話されても、とわたしは困惑したものさ。結局、奴には一度たりとも模擬格闘戦で勝てなかったな」


「嘘を仰る。いくらなんでも、あなたの能力(、、)で一度も勝てないなど……まさかあなた、だから射撃に得物を移したのですか?」


「いや。これは単純に、必要に駆られてのことだよ。言っただろう、わたしは日輪と一度戦ったことがあると。そのときに遠間からの得物を欲したのだ」


「なるほど」


「状況によって使い分けることを覚えただけ。いまも昔もわたしの本領は、村上仕込みの近接格闘さ」


 レインがつまんだ割りばしの端が、みぢっと音を立ててひしゃげる。指を離すと、紙のように薄くすりつぶされた繊維がぱらぱらと砕けて落ちた。ちょうどそこで料理が運ばれてきたので、礼衛門はげんなりした顔で床に落ちた破片を見つめた。


「いつも思いますが、〝錬金術師アルキエミステ〟よりも合った称号がございますよ」


「たとえば」


「〝大猩猩ゴリラ〟とかいかがです」


「つぶすぞ」


 自分でも言っていて洒落にならないと感じた。ひいご勘弁を、とのたまいながら料理に目を移した礼衛門を尻目に、レインも食事をとる。箸をつまんだとき、ジャケツの袖口から呪文を刻んだ手首(、、、、、、、、)がのぞいたので少し引っ張って隠す。




 味はまあまあ、毒も含まれていなかったので、行動するに支障の出ないぶんだけ食べた。そうして箸を置いて顔を上げたとき、表通りを官憲が通るのが見えた。蜥蜴のような目をした、頬に蚯蚓腫れのごとき傷痕を持つ男だった。


 官憲に露見しないよう、と村上と話したことを思い出す。レインがいま持ち歩いている弾丸の弾頭は、彼女が自ら錬成して作り上げた特殊な一品だ。強力ではあるが使用して現場に残すと、捜査線上には数少ない国内の錬金術師である彼女の名がすぐさまのぼるだろう。その場合村上は立場として庇いきれない。


「……ひとまずここまで、入島に関してまでは足取りもつかまれないのだがな……事件を起こせばおしまいか」


 ふと、入島に関して、という部分から、レインはひとつ納得を覚える。


 今回二度目となる襲撃の対象、橘八千草の足取りが、本土の医院から出たあと途絶えた件についてだ。この島が閉鎖的な体質により、来る者の情報を外部に漏らさない仕組みになっていたのなら、村上があの日輪の者を発見できなかったのもうなずける話だった。


「本土には港付近の情報しか入らない、と」


 つぶやけば礼衛門は葉巻の香りを鼻先にちらつかせながら、レインに視線を合わせる。命じたことはきちりと聞いてくれるようで、火をつける気はないようだった。


「より正確には、港というより異人の動向を追っているのでございましょう。お金になることの他は、本土の連中も興味が無いのです」


「人の移動、それもこのような島を頼らねばならない者に対しては特にそうなのだろうな」


「体のいい檻なのですよここは。それだけに外からは守られているともいえる……獣の押し込められた檻ですがね。そういうわけで本土を捨てねばならぬと、ここへ逃げ込んでいる者は実に多い。俺自身がそうして逃げ込んだ側でしたから、よく存じておりますよ」


「村上も言っていたな。横浜港で消息を絶つ人間は、存外多いと」


 レインが知るだけでも『警官だったが行きすぎた捜査と故意の殺害が多く、辞職に追い込まれた』『双子や三つ子が忌み嫌われる集落に生まれ、行き場を失い悪行を繰り返していた』などの人物が横浜で消えたと知っている。


 なぜならそうした後ろ暗いところがあり、駒にできそうな人間を村上が求めていた時期があったのだ。過程で手中に納めたのが、いまレインの目の前にいる彼……否、彼ら(、、)呉郡一族だった。……いまや一族が、彼しか残っていないというだけである。


 目でものを言ってしまっていたか、礼衛門は含みのある表情で肩をすくめた。


「思えばずいぶん遠くまで来たものです」


「そうだな」


「でもやっていることは常に変わっておりません。人の命やら子宮(、、)やらをぶんどっているだけでございます。俺も一族も難儀というか、因果なものですね」


「だがわたしたちは、助かっているよ」


 お代をおくと、レインと礼衛門は店を出た。外回りをしていた睦巳はつたないながらも、身ぶり手ぶりで「異常も標的も見つからない、食事は中途でとってきた」と示した。半日程度の付き合いだがもう慣れてきたか、礼衛門もレインが説明する前に睦巳の意図するところを察していた。


 となれば、ここからは別行動となる。標的である橘八千草の本拠地・アンテイクは五層三区。そこまで別々に向かい、情報を集めた上で三方向から攻め立てる。アンテイクには手練の者が四人――井澄を含めて五人、在籍している。彼らがなるだけ少ないときに、一撃離脱の手段をとらねばならない。


 下手を打てば、日輪はこの島ごと焼き尽くしかねないのだから。居並ぶ暗殺の者として、三人は新たに気持ちを切り替えることもなく進んでいく。意気込みなど、何年も前から彼らは一度も変えていないのだった。


「では頼むぞ、〝黒糸矛爪ジグソウ〟」


「そちらの名で呼んでくださるのですね」


 いたずらっぽく笑いながら、礼衛門は言った。レインは笑わずに返した。


「情報戦のための蔑称などで同僚を呼ぶほど、冷血なつもりはない」


「ありがたいお言葉で……もう〝異刀鋸いとのこ〟との呼称も、慣れましたがね」


 そう、情報戦。


 村上が地位を上り詰めるために用意した策のひとつだ。統合協会上層部で権勢握る者どもを牽制し脅かすために、彼は流言飛語デマゴギーを用いて呉郡たちの名を上げた。


 自嘲気味な礼衛門の言葉にさえ、彼らが知らしめてきた異刀鋸のデマへの呆れと、ほんのわずかな誇りがうかがえるほどに。その名を打ちたて轟かせた。


 ――異刀鋸。凶器の判別をつかせぬよう、切り口を自在に変化させる刃。これを振るって、呉郡一族は暗躍してきた。正面切っての殺しをせぬ卑怯者を自任し、異刀鋸の蔑称をわざと流布させ。『下手人が何者かは不明であるが、権力握る者が狙われている』という情報を走らせる、上層部の人間の動向に縛りを与える布石として。


 事実、彼らの存在は上層部の中に不穏な空気を運んだ。列席会議で隣に座る者が、己を蹴落とすために異刀鋸を操っているのではないか……そんな猜疑心が、上層部連中へ動きの硬さを招いた。下手は打てぬと業務のキレが悪くなり、保身のために力を割きすぎて組織を動かす方向への尽力を怠らせた。


 この隙を突いて、足取り重くなった人間たちのあいだをすり抜け、軽快な動きのもとに諸々の仕事をこなし、実績上げることで列席会議にのぼりつめた男がいる。


 なにを隠そう、村上英治である。


 異刀鋸とはそのために作り上げられた、一種の虚像だったのだ。もちろん、実際的に暗殺の業務を行うことで村上の邪魔となりうる者を消していたのも事実だが……。


「頼りにしているぞ、礼衛門」


『――最後くらいは本名で呼んでいただけると、嬉しいのでございますが』


『……べつにこれで最後でもないだろう』


 急に英吉利語クイインズで話しかけられ、レインは少し戸惑いながら返した。振り返ると、礼衛門はその日本人離れした顔へ、にこやかに笑みを浮かべながら彼女の横を過ぎぬけた。なんとなく、仕事に身を入れたいのだろうとレインは思った。


 だれしも、己をしかとだれかに認められたいものだ。そうあるためにまず大事なのは、きちりと己を、名を把握されることなのだろう。


 ひと息すいこみ、彼の名を呼ぶ。


『わかった。頼んだぞ――レイモンド・グレゴリー』


「委細承知」



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