58:休戦中という名の下拵え。
縁側に坐した瀬川は、羊皮紙一枚を手にじっと身をかたくしていた。と、そこへ大きな音が響き、どうやら門から桜桃が帰ってきたようだと悟る。
案の定、玉砂利を踏みしめながら彼女はやってきた。肩をいからせ、いかにもイラついた様子を周囲に振りまき、青水の人間すら近づかせない。軋む表情とぎらつく瞳は先ほどまでの戦いの熱を帯びいまにも燃え上がりそうで、一歩一歩の重みは天地を揺らさんばかりだ。
瀬川はそこに、片手を上げて話しかけた。
「よぅ、桜桃」
「ああ、クソっ! 逃がした、逃げた、逃げちまいやがったよ、クソったれがァァッ!! 待ってやがれ次こそだ、次こそ八つ裂きにっ、」
「――いや、それはもういい。周囲にだれもおらんぞ、桜桃」
「あ。そう?」
瀬川が言うと、けろりと桜桃は表情を落ち着かせた。
あまりの変貌ぶりはむしろ欠落と呼ぶが相応しく、薄気味悪ささえ感じさせる。達磨落としで一段をすっこ抜くように、怒りの感情が抜けてしまったかのように思われた。
だが瀬川は意にすることなく、急に穏やかになった彼女に応じる。ゆっくりと煙管に刻み煙草を詰めながら、塀に空いた大穴を見やってぼやいた。
「なんにせよ手前、此度も派手にやってくれたものだな」
「ソレが仕事なんだから仕方ネェよ。なんだ、じゃあいちいちチマチマやりゃいいのか?」
「それでは困るに決まってるだろう、阿呆。だがさっき門扉も蹴りつけよったな? あれは必要ないことだったろう、たまには手で押して開けることを覚えろや」
「そいつぁ無理ってもんだゼ、なにしろ腕がこんなになってんだ」
手をポケットに納めたまま歩いてきた桜桃は、皮肉ったような笑みで言うと両手を抜いた。袖をまくると、彼女の前腕は赤く色づき、ところによっては青く内出血を起こしていた。ちろりと真っ赤な舌を出して怪我を舐め、桜桃は顔つきを鋭くした。
「流石に四天神名乗るだけのコトはあるな。化勁で逃がしたつもりだったケドよ、こんだけ効かせちまってくれやがった。こいつぁあたしも次はマジでやらネェと死ぬかも」
「次、とな。まさかとは思うが生かして逃がしたのか、桜桃」
途端にわずかに怒気を滲ませて、ちりりと爆ぜる気迫が桜桃の肌を刺す。ところが彼女は涼しい顔でこれを受け、少し愉悦さえうかがわせる口元で、返してきた。
「わざと逃がしたわけじゃネェよ、あたしはきちんと半殺しにするつもりだった」
完全に殺すことはしない。
相手が死んで黙してしまうよりも、ひどい傷を負って、周囲に晒して、『青水はこんなに恐ろしい』と喧伝してくれるほうが、ヤクザのシノギに際して効果が期待できる。きちりとこうした点を鑑みた上で、彼女は動く。
そう、すべては――利益を生み出すように、恐怖を演出するためだ。
「ま、そんでも深めに手傷は与えられたと思うゼ。とくに二代目危神のあの子と、その兄貴はしばらく戦場に出てこれネェよ。そのザマ見りゃ、しばらく緑風とその周辺はビビって逃げ惑っちまうだろうサ」
「ふん。巧くやれたなら、それでいい」
「ああ。あたしの仕事は、結果、じゃネェ。過程をいかに見せつけるか、だろ?」
「わかっていればそれでいい」
怪神・桜桃。巷では周囲に無差別な攻撃性を表す危険人物、虫の居所が悪いだけで何十人と虐殺する化け物、などと揶揄されているが。
その実、彼女の兇暴性はすべて演技である。瀬川以外のだれも知らない、彼女の怜悧な一面がそこにあった。
瀬川が彼女を、己が領地たる青水の四天神に迎えた理由はここにある。
戦闘能力だけで言うのなら、危神や詩神のほうが桜桃より秀でる部分が多かっただろう。だが単なる暴力だけでは物事が回らないということを、瀬川はよく知っていた。事実、力だけでのさばろうとした危神は面倒事ばかり起こし、周囲にうとまれ、二代目に跡を譲ることとなった。
脅し、危険を匂わせることでこそ金を稼ぐ青水は、なによりまず舐められてはならない。そうあるためには余計な面倒事を引き起こし権威を失墜させかねない短気、無駄な攻撃性を持った人間には用が無い。理性的に合理的に物事を為すことができ、かつ周囲にそれを悟らせないような賢い人材が必要だった。
暴力だけで終わらぬために。瀬川には情報を操り、騙しすかす狡猾さを持つ右腕が必要だった。そうした考えのもとに、幾度かの接触を経て。ほかの四天神には無い彼女の聡明な一面に勘付いた彼は水面下で交渉をかけ、彼女もまた己の力を発揮できる場として青水を気に入り、いまに至るという次第である。
恐怖を操る者ども。それこそが青水の正体であり、本領だった。
羊皮紙を脇に丸め置き、煙管に火を灯した瀬川は、ひと息ついて煙を喫むと桜桃に問う。
「だがその言い分では、残り二名には一切傷が与えられなかったようだな」
「四権候代理にまで攻撃が届きゃ、かなり向こうの緊迫感煽れたんだろうケドな。あいつらなかなか手ごわいゼ。まさか噴上ホウルに飛び降りて逃げてくれやがるなんざだれが思うよ」
「……あの、風使いの功績か」
「そ。風を緩衝材にして、うまいこと五層に逃げ込んでやがった。マア言い訳じみちまうが、そいつしばらく戦線復帰できネェように痛めつけたんだゼ? なのにまだあれだけ余力あるとは驚きに驚いちまったよ」
「あれであの男、この島にてほとんどの生涯を過ごしておるようだからな。しぶとさは折り紙つきだろう」
「ああ、元島民ってヤツ」
「左様。……次があれば、気をつけろ桜桃。手負いの獣は手に負えんぞ」
「はん。進ちゃん、なぁんか妙に買ってんじゃネェの、あの子のコト」
「べつに買ってなどおらんさ。ただ、奴を見たことがある。いまでこそ変わっておったが、そのときの奴の目は」
言いかけて、瀬川の脳裏には先ほど四権候代理の背後に控えていた男が浮かんで消えた。たしか爪弾きと呼ばれていた、暗器使いの男だ。
闇を煮詰めた瞳。すでにひとつ腹に決め込んだ者の目。あれとよく似た目を、かつての三船靖周は宿していた。あれが消えたことは、果たして三船靖周が良い方向に進んだことを示すのか、それとも。
「……まあよいわ」
「ぅん? おぅい。気になる切り方すンなよな。ていうか、さっきから気になっちゃってんだケドその紙なんだよ?」
「羊皮紙だ」
「紙の種類訊いてんじゃネェっつの……内容に決まってンだろ」
「なに、大したことでは無い」
残っていた火を消さぬように煙管をくわえた瀬川は、つまらなそうに紙を指ではじいた。紙面には流麗な筆致で長々と詩的な表現が連ねてあったが、あいにくとそうした芸術に造詣が無い瀬川は要約した内容をつかみとると早々に読むのをやめた。
末尾には、呉郡黒衛と差し出し人の名が記されている。
「ただの、果たし状だ」
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闇と夜霧にとざされた横浜。波止場に立つレインは長い外套をはためかせ、静かな水面を眺める。黒子のような立ち姿は、しかし麦や稲の穂を思わせる金色の頭髪によって、浮かび上がる影絵の魔物じみた風情を漂わせていた。
横合いに止まる大きな帆船から、人が降りていく。入れ換わりにレインたちがこれへ乗り込み、出航する手はずとなっている。にぎわい、乗降する客には目もくれず、レインは水面を揺らさぬと努めているかのように、かたく身を縮こまらせていた。
そこに現れた男が、かっかっと地面を蹴って己の存在を知らせる。
「……今回の相棒はお前か」
近寄りながら、レインは言った。闇の中からやってきたのは小柄な男で、背を丸めながら汗をふいて歩く。体型と髪型にこれといった特徴はないのだが、頬によく肉がつき、てらりと光っている。これが団子鼻と細い目と相まって、顔だけで妙に太った印象を与える者だった。
「まだもう一人が来ていない。悪いが乗船はしばし遅らせるぞ」
言えば、男は首をかしげたあと、仕方なさそうに嘆息した。
男はレインの三つ揃えとはちがい、藍色の着物に羽織をまとって帯に扇子など挟んでいた。隠密行動のため目立たない努力なのかもしれないが、島についてからでも着替えるのは遅くないとレインなどは思う。
それにどうせ、服装で取り繕ったところで彼の実力は隠せない。腰の低い態度で物静かではあるが、その実、動きに油断が無さ過ぎる。雪駄を擦る足に音はなく、その細い目でどれほど見えているのか、彼は警戒を怠らずに歩むのだ。
男が口を開けると、中には銀の短剣を模した刺飾金がのぞく。彼の名は睦巳。言語魔術の使い手であり、村上の後輩、井澄の先輩にあたる人物だ。
その能力は言死呂の〝朽約束〟と糊塗白の〝文解〟、統合協会唯一の言語魔術二種会得者である。黙してなにも語れないが、腕前には信用がおける人物なのだ。
まあ、いま現在待ちぼうけをくらっている原因たる男も、腕前には信用がおけるのだが。
「やや、ちょっと遅れましたかぁ。お久しぶりでございます」
と、レインが考えているうちに現れた。細い赤毛を総髪に結い、広く額を出した男である。漆喰の壁が長く風雨にさらされたあとのような白けた肌に、ひびわれじみた皺を多く寄せており、眼光は遠く見据えてレインを見ていないようにも思われる。
「三分遅刻だ、礼衛門」
「すみませんすみません。前の仕事がなかなか片付かなかった次第でございまして」
懐中時計で確認しながら言うと、彼は装飾過多な白い手套をすりあわせて謝罪した。目は変わらず遠く感じられたので、あまり真に謝っているとは思えなかった。
「その道の精鋭との自覚があるなら、なにがなんでも片づけるか次善の策として連絡くらいは寄こせ」
「すみません以後気をつけます故」
この国ではめずらしい、羊毛の外套をまとっている礼衛門は、すらりと伸びた足に対して九十度に上体を折り曲げた。レインが目をうかがっていると気づいてのことだとしたら、あさましいものだ。
だが、そんなことはどうでもよい些事である。結局のところ、レインにとって重要なのは礼衛門の誠意や真意ではない。どれほどこいつが強いか、使えるかの一点のみである。
「もういい……さっさと乗り込むぞ」
「ははぁ。承知でございます」
長身の礼衛門は、レインの斜め後ろをついてきた。睦巳もすたすたと歩み、礼衛門の横につく。けげんな顔をした礼衛門は、突然同行し始めた彼にちらと横目を向けていた。
「レイン氏、この方はどなたでしょう」
「名は睦巳。言語魔術寮の出身でな、村上の後輩にあたる。今回仕事に同行してくれることとなったようだ」
人畜無害な笑みを浮かべ、けれど身のこなしだけは異常きわまる睦巳を見て、礼衛門は鼻を鳴らした。
人員の増加について、暗殺に特化した己ら呉郡一族の腕を、信用されていないのだと思い気に食わなかったらしい。こういうところでは矜持や主義が働くのか、彼も露骨に感情をあらわにする。
「この方、どの程度の腕前か存じませんが、俺だけでは力不足と村上氏は判じたのですかな」
「万全を期すというだけだろう。わたしも奴も、お前の腕は信用している。村上のもとに、唯一残った呉郡だからな」
「そう言っていただけると嬉しい心持ち否定することかないませんが、とはいえなにもわからない人間を横に配されて仕事に励むというのも、難しい話でございますよ」
ねえきみ、自己紹介くらいしていただけませんか、と礼衛門は睦巳の脇腹を肘でつつく。だがハンケチで汗を拭く睦巳はこれに答えられず、曖昧な笑みを浮かべてやりすごそうとするだけであった。
これに少々腹を立てたか、礼衛門は強めに肘でこづいてからレインに向き直る。睦巳は頭を打たれて、少々よろけた。この音に気づいたレインは足を止めて振り返った。澄まし顔の礼衛門と目が合う。
「レイン氏、睦巳氏に喋っていただけないのでは、仕事に支障をきたすのではと存じます」
「……その点はわたしが間に入ってやりとりの補助を成す。睦巳は言われたことはきちりとこなす男だ、その点は心配ない」
「可及的速やかな対応求められる火急の事態においては、どう致すおつもりで」
「気持ちはわかるが、あまり奴を手荒く扱ってくれるな」
レインは頭を打たれた睦巳の様子を見た。こめかみがわずかに赤くなっているがその他に変化はなく、また表情にも変わりはない。
声一つ、漏らさない。
「睦巳は喋ることが、できないのだからな」
レインはつぶやき、睦巳の事情を代弁した。へ、と固まった礼衛門は、一歩詰め寄るようにしてレインに問いの姿勢をとる。これへ彼女も応じた。
「言死呂の〝朽約束〟と糊塗白の〝文解〟。本来なら一種しか修められん言語魔術を、統合協会で唯一二種会得した術師、それがこいつだ」
「あの、なぜいまその話を」
「繋がってくるからだ。こいつの口無しの事情とな。――お前は魔術を扱う者ではないが、幾多の戦闘経験から知っているだろう。『魔術師は、自然へ近づくほどに力を増す』と」
老齢の魔術師。精霊を従えた魔術師。
これらの存在へ至れば、通常の魔術師よりも遥かに強力に魔術を行使することができる。その理由は……魔術や魔力の源である、自然に近づいているからだ。
人間は文明を作った。文化を咲かせた。そうして利便性を追求し、ひとつひとつ自然を制していく中で、〝人間〟という存在は、自然から乖離した存在となっていった。
いまでこそ、人が魔術を扱うには発動媒介が必要となっているが、かつてはちがった。杖や剣、異形や化け物の一部を使った装飾品など、現在の人々が要する媒介無しに術を使えた。それはまだ人が自然に近しい存在だったからだ。杖や剣は、補助具でしかなかった。
だがいまは、それなしに術を扱えないほど、人間は自然から離れた存在となってしまっている。つまり発動媒介、術法のための道具とは、まだ文明が未熟で自然に近かった時代の人間の姿を模すためのものなのである。
――さて、ではそんな現代の人間たちが、自然に近づくときとは一体いつか。
仙道に入り瞑想にふけるときか。文明を捨て自然に回帰するときか。
否。それ以外でただひとつだけ、人が自然に最も近づくときがある。そしてそれはだれにでも訪れる。大きな自然の一部へと、その身を沈めて環る瞬間。
「自然へ近づくほど――つまり、死に近づくほど、魔術師は力を増す。ゆえに、死に近づき人の在り様から外れるよう代償を支払えば、人の魔術はより強くなる。身の一部や命を賭した魔術が凄まじいものになるのは、お前も幾度となく経験しているだろう?」
大原則こそ覆せないが、先払いで代償を捧げれば、魔術師の能力は飛躍的に上昇する。
要するに、睦巳は代償を支払ったということだ。舌を巻いた様子で、礼衛門は首をかくかくと揺らす。
「手にした二つの能力が、言葉を失わざるをえないほどに強い力だった、ということでございますか」
「ああ、強力な魔術だった。それこそ、見ているこちらも言葉を失うほどに。……まあ、それでも機関の求めた水準に達したものではなかったがな」
顎に手をやりながら言えば、礼衛門は呆気に取られた様子だった。その彼の脇を、船から降りてきた女性の二人組が過ぎる。振り分け髪で眉が少し太く、肌が小麦色と思しき女。もう一人は眉間にきつく皺の寄った、目を開けているのかもわからない女。すん、と彼女らから薬草のにおいがして、散薬師かなにかかとレインは判じた。
続けて礼衛門はぼそぼそと、レインに問うた。
「言葉を失くすほどの術でもまだ、水準に達しないと?」
「求める質が、方向性が、ちがったからだ。……求められたのは、因果捻じ曲げる強大な力。言葉を殺す力。つまりは、人外の――」
言った途端、「ひっ」と声がした。何事かと思って背後を見ると、先ほどの女二人組がすたこらと波止場を逃げてゆくところだった。風下にいるレインに向けて、散薬のほかに、なにか変わったにおいが届いた。そう、これはどこか、人間から外れたモノの……とはいえ現状、人外が四つ葉から上陸していようとレインの与り知るところではない。
だがあまり往来で話していると、いまのように人の耳に入る可能性も否めない。いかに己の先が、見えているとはいえ。軽率な行動は村上に迷惑が及ぶ。
ひとまず話は乗船してからとしよう、と提案し、レインはまた歩きだした。