表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
明治蒸気幻想パンク・ノスタルヂア  作者: 留龍隆
五幕 虐殺遊戯
57/97

57:致命傷という名の撤退。

「……おおおおおオオッ!」


 屋根の下からとんでくる罵声の唸りに鼓膜を揺らし、靖周はあごに伝う冷や汗をぬぐった。


「噂通りだな、怪神」


 情緒不安定で攻撃的。一応の主たる瀬川の言うことにはかろうじて耳を貸すが、ひとたび動き出せば周囲の地形や景観が崩れ去る程度に暴れ回る。先代危神が殺害されたとき、力量は満たすにもかかわらず彼女が犯人として疑われなかった理由がこれだ。彼女が現れれば、もっと現場は荒れている。


 しかし戦闘技術はすこぶる高い。身体強化魔術だとしてもいきすぎた、正に怪力乱神のあの腕力脚力に頼っているわけではなく。隙のうかがえない、大陸系の体術を修めていると思われた。あのポケットに手を入れたままの姿勢も、流派の系譜に連なる業なのだろうか。


 ちらと後ろを見やれば、井澄と八千草が一目散に逃げていくのが見えた。階段横町の屋根を伝い、少しずつ段差を降りていく。それでいい、と靖周はそちらへきびすを返――さない。


「行くか」


 靖周は、逃げるつもりなどなかった。あれだけ挑発したのだ、桜桃はすぐさまのぼってくると判じていた。


 すぐさま足下に符札を叩きつけ、空傘の術式を発動する。突風に撃ちだされて空中を舞い、こちらに向かってこようと仰ぎ見ていた桜桃と目を合わせる。そのまま彼女の頭上を駆け抜け、一部が崩壊した塀の上に着地した。


 小雪路を、探した。先ほど桜桃の一撃によって吹き飛ばされた彼女を、回収しなくてはならない。


「小雪路っ、」


 靖周が庭を見はらし、向き合って刃圏の測り合いをしている瀬川と黒衛に目がいったとき、足下を過ぎる影があった。


 安堵と、焦りが頭の中を埋め尽くした。長く髪をたなびかせて走る姿は、目を合わせてみれば小雪路だった。無事ではある。けれど、彼女は冷静でない。


「小雪路!」


 叫んでも聞かず届かぬふりをして、小雪路は崩れた壁の間から通りへ出た。靖周めがけて跳ぼうとしていた桜桃に意識を集中し、唸りをあげて襲いかかっていく。


「あああああっ!」


「邪魔すンじゃネェ」


 こめかみに青筋を浮かべ、桜桃はポケットに手を入れたままで二、三度肩をいからせた。次に地団太踏んでいた足を振り上げ、落とす。びしりと周囲にひびが走り、小雪路の歩みに淀みが生まれた。


 意識の間隙を見逃さず、前の足に後ろの足を引きつけるようにして滑るように進む。桜桃と小雪路の間合いが重なり、桜桃が腰を落とした。右手がポケットを離れる。腕が伸びゆく間にその手は拳と化し、衝撃が最大となるとき、縦拳が完成した。


 摩纏廊をかけた右掌で、小雪路はこれを滑らせ回避しようとした。だがいなそうとしたその掌が巻きついた瞬間、あらぬ方向へ弾き飛ばされた。


「――、」


 この交叉から刹那の間に、音も無く、小雪路の体に拳が触れた。寸前で小雪路は左へ体を逸らし、半身を引くようにしていたが、左肩をかすめた。


 たったそれだけの接触で、またも小雪路は吹き飛んだ。吸いつくように背中が地面へ引っ張られ、また磁石の反発がごとく、空中へ跳ねた。これでもまだ運動量は遊び飽きていないのか、ごろごろと彼女の体を転がし続けた。


「こゆ、きじ」


「……う、」


 けれど転倒の中で姿勢を戻して立ち上がり、なんとか左半身に構え直している。痛そうに肩を押さえてはいたが、動きにまだ乱れはない。折れているわけではないようだ。とっさのことで摩纏廊を摩擦低下に切り替え、体表で威力を滑らせたにちがいない。


 桜桃は戦闘不能になっていない小雪路を見て、いぶかしげに半目で鼻を鳴らすと爪先で地面を何度も何度も蹴りつけた。


「オイオイオイ、なにかわしてくれやがっちゃってンだよ。いまのァかすったダケでも鎖骨と肩甲骨が皮膚から飛び出すはずだゼ」


「うちも、やわな生き方、しとらんからね」


「ハ。ダテにあの不良剣士の後釜継いでネェってワケね……結構ケッコウ。じゃあ次は、もうちょい強く打ってやるよ」


 再び肩をいからせ、いまにも拳を抜き放ちそうな体勢で突っ込む。小雪路もこれへ応じ、両手を広げて抱きとめようとする構えをとった。


「よ、よせ!」


 靖周は慌て、状況の変化、小雪路の変貌についていけない。本来の彼女と自分の仕事は窮地に陥った井澄と八千草を逃がすことにあるはずで、すでにこれを果たしている現状、無理に怪神と交戦する必要はないのだ。それはもちろん、逃がす時間を稼ぐべく戦うというのも間違いではないのだろうが……


 不安をはらんだまま四天神二名の激突が再開される。手をポケットへ納めたままの桜桃が、刀の横薙ぎを思わせる右回し蹴りで距離を詰めた。はためく着物に蹴りをかすらせそうになりながら、小雪路は下駄を滑らせ一歩ひくことでかわす。


 左右の掌底を打ち下ろして迫らんとするが、桜桃の蹴り足が内側に弧を描いて戻ってきた。慌てて頭を下げ、掛け蹴りを危ういところで頭上に過ぎゆかせ、ならばと詰め寄り右肘からの体当たりを叩き込もうとうする小雪路。


 ところが桜桃は右足を引きもどす勢いで左半身にとり、動きに乗せて小雪路を後ろに受け流した。つんのめって重心を崩し、無防備に背面をさらした小雪路に、魔手が迫る。


「やめろ!」


「ム」


 寸前で、靖周は短刀を投擲していた。回転しながら刃は飛び、そして刃に通した符札により風で急加速する。風きり音で察したらしい桜桃は、抜き放たんとしていた手をそのままに、重心を落としこんだ勢いを利して脚を伸ばし、場を離脱した。


「……逃がすか、よ!」


 靖周は歯を食いしばり、かわされた瞬間にもう一枚の符札を発動させる。回転する刃がその峰に風を受け、空中で急激な方向転換を果たす。逃れようとした桜桃に追いすがり、切っ先が腹部を示した。


「鬱陶しいッ」


 抜かれた拳槌により、短刀は地面へ叩き落とされた。だが、まだ終わりでは無い。


「〝空傘〟っ」


 刃に通していた三枚目が、地面に向けて風を解き放つ。飛び散るつぶてと砂ぼこりに、桜桃は目を覆った。この隙に塀から飛び降りた靖周は、上から視認していた小雪路のもとへと走る。


「逃げろ小雪路」


「でも――」


「いいから逃げろ! どうせ勝てねぇし、お前は前に出るな(、、、、、、、、)!」


 土煙の中で怒鳴りつけると、小雪路ははっとして下唇を噛み、うつむいた。行動に迷うその様に、なんだその顔は、とさらに声が低く大きくなりそうだったが、理性で制して感情をおさえ、靖周は妹の体を軽く押す。


「いまは一刻も早くこの場を脱しろ。足止めはもういい」


「……うん」


 まだわずかに逡巡を残しながら、うなずいた小雪路はくるりと階段横町を向いて駆けだした。すぐに下駄で滑走する様子が見えて、靖周もあとを追いかける。


 そこで、土煙をぶち抜いて、真上に跳んだ桜桃が見えた。近くにあった家の屋根に飛び乗ると、周囲を見回して靖周たちを探している。見つからぬよう身を低く屈めて、靖周は階段を駆け下り始めた。


「どこだッ、チョコマカと逃げくさりやがって! ぶっ殺し晒してやんぞぉァァ!」


「とんでもなくキレてんな」


 散々に翻弄した挙句逃亡したのだから無理もない。やれやれとため息をつきながら、右逆手にとった短刀と口にくわえた仕込み煙管を離さぬように、靖周は駆け下る。音を立てずに滑りゆく妹よりはわずかに遅いが、このまま駅前より五層行きの列車に飛び乗ってしまえば逃走も完了だ。


 戻ったら、小雪路の暴走について問い質さねば。そのように先のことを考えながら靖周は歩みを止めず、周囲への警戒も怠らずに進んだ。人を惑わすように入り組んだ隘路あいろを、三段飛ばしにくだり続ける。


 しばらくして大通りに辿り着き、行きかう人の雑踏にまぎれるように駅へ近づいた。井澄と八千草はすでに切符を買ってホームに忍び込んでいるらしく、辺りには見当たらない。懸命な判断だと後輩を心中に褒めながら、靖周も大通りを横断しようと歩く。


 だが遠く、なにか大きなものが倒壊する音を聞いて、身がすくんだ。瞬間に、だれかにとらえられたと察した。視線が背骨を貫いて、肺腑を縮こまらせた。


 ――見つけた。


 声が聞こえた気がした。振り向いてもどうにもならないというのに、靖周は背後を確認してしまう。


 崩れ去り、もうもうと煙をあげる一軒の家だった(、、、)物体から出てきた桜桃が、しかと視線を合わせて、跳躍してくるところだった。息を呑む間もなく、周囲への迷惑をかえりみずに靖周は空傘で体を斜め上方へ飛ばす。眼前を遮ろうとした馬車の屋根を蹴り越えて、駅まで半町ほどの残りの距離を詰めていく。


「待て、卑怯者ッ」


 馬車を避けて、人の間を抜けながら桜桃の追撃がはじまる。もはや二区は過ぎたため、ここらは青水の領域ではない。周囲への被害など考えれば来るまいと考えていたが、おちょくるように靖周らが逃げおおせた事実は、払拭せねばならない汚点として彼女を激昂させてしまったようだった。


 とはいえ、流通担う駅は四つ葉の動脈だ。下手な騒ぎは起こせないし、あそこまでたどり着ければ逃げ切ったと考えてよい。


「運がねぇな」


 ぼやきながら眼下に小雪路が走るのを見てとると、靖周は短刀をしまってもう一枚符札を遣い進路をそちらに曲げた。急に降るように背中に降りた兄を、小雪路は少し驚くだけでやすやすと受け止めた。


「なっ、んなのん?」


「加速しろ、ホーム飛び越えるぞ」


 背におぶさる姿勢となれば、小雪路はなにも問わず応じてしかと両腕で靖周の脚を固定する。すぐそこまで迫り来た桜桃へ見せつけるように、靖周は背後へ二枚の符札を投げ放った。もう効力は知っているからだろう、桜桃が身構えて横に逃げようとする。


 けれど風の方向は射出時のみ自在だ。逃れんとする彼女へ風の矛先を向け、またもう一枚で己らの前に経路を開く。


「あばよ」


 二人の眼前に人がいなくなったところで、突風に背中を押させる。同時に桜桃を吹き飛ばし、時間を稼いだ。


 ぐわんと周囲の景色を置き去りにする感覚と共に、顔に吹き付ける寒風の中、身を低くした小雪路が滑りゆく。細かに足の位置を変えて路面の凹凸が激しい場を避け、滑り滑って距離を稼ぐ。


 またたく間にホームが近づいて、改札が眼前に迫った。人の波を避けるよう小雪路は飛び、同時に靖周が二枚目の符札で再加速をうながす。ここで天地逆転し、ホーム天井を支える梁を足場に滑走して、二人は停車する列車の上に飛び出した。


 一両を越えて、二両目。反対のホームから乗り降りする車両、下り線の車両の上で、小雪路は両足を振りまわして勢いを殺した。そのまま天地を元に戻し、靖周から手を離しながら着地する。まだ少し、なにかやりきれない気持ちがあるのをこうした態度に表しているのだろう。つんとして、すましている。


「よっと」


 妹の無言の抗議には応じず靖周も着地に成功し、あずき色をした屋根の上にごんごんと足音を立てた。


「ま、料金はあとで支払うか」


「……靖周、なにをしているんです」


「小雪路を連れ戻しにいっていたのかい」


「お、二人とも居たな」


 見下ろせば、二人がホームから声をかけていた。ちょうどコンパアトメントに乗り込むところだったようで、出入り口から八千草が降りている最中だ。ちらと横の小雪路を見て、


「なかなかしつこかったからな。二人一度に逃げるにゃこういう手しかなかったよ」


「乗車料金、後払いだと高くなりますよ」


「仕方ねぇさ、背に腹は代えられねぇ」


「あとそこ、一等車両です」


「そりゃやべぇな、腹差し出しちまうとこだった」


「まったくです。我々、そっちは中に乗ったこともないのですし」


 貯蓄などさっぱりの靖周には、安い客車か荷物扱いがいいとこなのだ。そうした懐事情をよくご存知の井澄が、しょうがなさそうに苦笑を返そうとした。靖周も首をすくめようとして、そこでふっ、と頭上に影が差す。


 同時に、八千草の顔色が変わり、


「死ね」


 吹き飛ばされたというのに。早すぎる殺意の到達に振り返れば、桜桃のかかとが斧刃のごとくかざされるのが見えた。だが狙いは、靖周の方では無く、わずか隣の小雪路を向いていた。


 とっさの、判断だった。


 小雪路を突き飛ばして、靖周は一撃の下に、その身を晒した。


 ぱきゃんと乾いた音が、身の内から響いた。



        #



「…………おっ、」


 最初に声をあげたのは、靖周だった。


 上体を屈して彼の身がかしいだ。次いで、せきを切ったようにぼたぼたと、赤い血が伝って羽織を染める。色の薄い髪に、ぱっと散った色彩の出所は、左のこめかみだった。


「んなっ、が、」


 疑問を呈する声は長く続かず、靖周は奥歯を軋ませ、時間差で到来する痛みに耐えていると見えた。そして彼がうずくまろうとする、それまでの短い紆余にも桜桃は構え直している。ポケットに入れた手を着地時の重心落下に合わせて抜き、起上しようとする脚の動きに合わせて靖周に叩き込もうとしている。すぐさま井澄が指弾を放ち、桜桃に反応させることでその動きを止めた。


「あ、あ――」


 次に声を発したのは小雪路だった。それは落胆のような、恐怖のような、呆れのような、諦念のような――絶望という観念を表した声だった。あらゆる負の要素をはらんだ声。


 井澄が見る間に彼女は瞳に怒りを燃え上がらせ、声がかすれて巨大な音となるまで、息を吐いた。一瞬の大音声に彼女の体が震え動き、鋭く爪先でこそぎ落とすような右の貫手で桜桃を突いた。


 首を狙った一撃を、桜桃は身を逸らしてかわす。続けざまの右肘、素早く腕を戻しての右拳槌をも、水が石を受け入れるがごとく身に受けながらのらりくらりといなす。彼女の胸に当たった二撃は、ほとんど威力をなしていなかった。


 だがもともと、小雪路は一撃で相手を仕留めることに主眼を置いた戦型の使い手ではない。もちろんいま首を狙ったように急所に当てることは考えているが、彼女の体術の基本は削っていくことにある。どこに当たろうとも鑢のごとく削ぎ落とし、防御を崩したところで決定打を与えるのだ。


「く、うぅっ!」


「軽いゼ。やる気あンのか?」


 ところが桜桃は、その身にいくら打撃を受けてもわずかたりとも削られていない。衣我得ころもがえと小雪路が呼ぶ攻撃は、分厚い革の衣服でもまとっていなければ受け流すことも困難であるはずなのに。


 目を見開いて、小雪路は連打にさらなる力を与える。


「――だったらっ」


 通じずと見るや否や、小雪路は術に応用を加えた。以前嘉田屋の一件で争った敵に、忌蝕獣いしょくじゅうを攻略されたことから編みだしたという技だ。


 その敵こと撲身求ボクシングの使い手・度会わたらいいわく。『押すか引くかしなければ、削ることはできない。ゆえに接触面をずらさないように拳を打てば、全身が鑢と化している小雪路にも打撃を加えられる』とのこと。この理論を突破すべく、小雪路は頭をひねったそうだ。


 結論。


 相手が触れた瞬間に摩擦低下で滑らせれば、体表の接触面は一点に留まることかなわなくなる。そこで滑るさなかに摩擦強化へと術式を変化させれば、相手の皮膚は削られる道理。


「――〝削裂装甲さくれつそうこう〟!」


 衣我得、一指不纏いっしまとわず、忌蝕獣に続く四つ目の技。戦いを渇望する小雪路の集中力がもたらす、驚異的な動体視力と反応速度により成立する技。奴の、攻防における接触の瞬間を余さず逃さぬとの思いが可能とした極技。


 それは一瞬のうちに破られた。


「だから、あたしが軽いって教えてやっちゃってンのがわかんネェか」


 ごく平然と、小雪路の両手首が外へ弾かれた。ガラ空きとなった正中線に、振り上げられた桜桃の膝蹴りが叩き込まれる。


 自分から後方へ跳ぶ小雪路だが、間に合わない。鳩尾から、肉の詰まった袋を叩くような音がして、小雪路はホーム上空を水平に飛ばされた。


 ホームの終端を押さえる柵を越え、架線貨車ロウプウエイなどが張られるのが見える、広く大きな穴へ。吹上ホウルの、一層から六層まで貫く大穴の上へ、その身を躍らせた。彼女が吐瀉物を、中空へ吐き散らすのが見えた。それから、水平にたなびいていた赤き着物が、はためく方向を天に向けた。


 力を失い、落下が始まる。井澄と八千草が、動きだす。だが動きは意図してのものではなく、背中から風圧を受けてのものだった。


「やすち、」


 彼らを飛ばす符札の使い手に声をかける間も無い。


 みるみるうちに迫る柵、ぶつからぬように身を強張らせるのが精いっぱいで、二人も柵を越えた。――吹上ホウルの直径が、こんなに広いとは。こんな局面でそのような感想を抱いて、井澄と八千草も落下を始める。まずいと思う間に、二人の間を影が抜けていった。


「おおおおぉぉっ!」


 符札で加速をつけた、靖周だった。落下よりなお早く空を駆け、圧濃く体覆う大気を蹴りつけ、血しぶきをあげながら遥か下方の小雪路へ追いすがる。そして彼女の袖をつかんだ途端に、さらに符札を取り出して下から風で撃ちあげることで制動を為した。まだ速度を殺し切れてはいないが、だいぶ減速した。相対的に井澄たちが速くなったように感じ、彼らに追いつきそうになる。


 そこで靖周は頭上の井澄らへ短刀に通した符札を投げつけてきて、井澄たちの横を過ぎる一瞬に暴風が荒れ狂った。下から吹きつける風圧で井澄たちも勢いを殺され、落ちようとしていたはらわたが上にせりあがるような感覚に吐き気を催す。同時に、進路が横に逸れる。さらに二度三度と風が巻き起こり、井澄たちを蹴鞠のように水平に飛ばした。


 すぐ近くにいた八千草の体を抱きしめ、井澄は背を下に向ける。そのまま二人で風の終わりを待つうち、背に重たい衝撃と共に横へ転がった。臓腑が圧迫され、脂汗がぶわりと流れ出た。


「ぐ……む」


 いまにも吐きそうなのを必死にこらえ、井澄はよろよろと膝立ちになる。転がるうちに離れてしまった八千草が、一間ほど先に身を横たえていた。八千草、と呼びかける声を出そうとするだけで、肺から喉までが痛んだ。


 結局こらえきれずに胃の中身をもどして、井澄はその場に伏せってしまいそうになる。硬く冷たい、石の感触。そこまできてやっと、井澄は周囲を見回した。不安げな人々と視線が合う。大きな柱と梁に支えられた、長い屋根が上にある。


 五層二区・奈古ステイションのホームだった。一層分、井澄たちをも落とすことで桜桃から逃れさせようという策だったのだろう。


 無茶なことを、と思ってせき込む。


 そこで背後に、ひとが崩れ落ちる音がした。身動きとれない井澄が目線だけそちらへやると、腹を押さえて体を丸める小雪路を抱えて、靖周が膝を屈していた。痛みに震える小雪路をそっと下ろすと、彼自身もその横に倒れ伏した。こめかみからの出血は多く、荒く浅い息を繰り返していた。


「靖周っ!」


 痛む胸を掌で支えるように、井澄は声をかけた。小雪路も顔をあげず、靖周はぴくりともしない。ようやく起き上がれた八千草も這って井澄のところまで来て、不安そうに二人の様子を見ている。


 血だまりが、少しずつ広がっていた。だくだくと、血が流れる。


「こんな怪我を負ったままで……、なんて無茶を」


 やっとのことで臓腑の荒れ様を正すことができた井澄は、少し咳を漏らしながら二人に近寄る。小雪路もそうだが、靖周は特に楽観視できない。頭部への一撃は、ほとんどきれいに決まったはずだ。


「いや、ぎりぎりで、空傘が間にあっていたようであるね」


「え?」


 ひどくぐずぐずになった靖周の傷口を見ながら、八千草はひとつ大きく息を吸って、つぶやいていた。


「完璧に怪神の蹴りが決まっていたなら、首から上は消し飛んでいるさ。おそらく寸前で空傘を用い、軌道を逸らしたのだよ。だからかすっただけなのだろうけれど」


 逆説的に、奴の暴威を説明してしまった。かすっただけで、この威力か。この島で最兇の存在と揶揄されるものの底知れぬ力の片鱗を見て、井澄は総毛立った。


 一方で小雪路の様子をうかがい、八千草は冷静に彼女の状態を見極めんとしていた。しかし手を伸ばしてすぐに引っ込め、顔をしかめている。


「どうなされました?」


「……痛みで術式を制御できていないらしい」


 八千草が舐める指先から、じわりと血が滲んでいた。驚いて見やる小雪路の体は、見た目こそ常となんら変わりないが、全身に施した摩纏廊の摩擦強化が働き続けているらしい。


「奴の蹴りをまともに食らったんだ。仕方がないね」


「いずれにせよ、早く山井のところへ運ばなければ」


「……そういえば、山井さんは無事かな」


「瀬川が手の者を差し向けていた、との言葉について心配しているのですか」


「うん。あの人に限って、後れを取ることはないと思うけれど」


 山井は遠距離への攻撃手段である〝煤〟の呪弾の他、周囲に吐き出す〝黒煙〟による能力低下の術と併用した杖術も得意としている。アンテイクの中で唯一、どの距離でも戦闘を行えるかなりの古兵ふるつわものだ。


 滅多なことでは、敗れない。ただ、今日は怪神によって三船兄妹両方が深手を負うなど、滅多にないことが起こっている。どうにも嫌な予感がして、井澄は夕闇が訪れんとしている吹上ホウルを見た。


 暗さが増していく穴は、どこまでも不気味に、不吉な風を呑みこんでいるように思われた。


「井澄、適当にお金を渡して、周りの人を手伝いに呼んでおくれ」


「はい」


 悩んでもどうにもならない。まずは直面する事態に対処せねばと、井澄は八千草と現状へ挑んだ。



        #



 アンテイクで店番をしていた山井は、唐突にドアを蹴破って襲いきたごろつきどもを打倒し、気絶した彼らの上に腰を下ろして紙巻煙草をふかしていた。


「ったく、なんだってのよまったく」


 七星の芳しい香りを胸いっぱいに吸い込んで、白い煙を吐く。煙はたちまちに、黒煙に呑まれて消える。すると満足げに口元を緩ませて、彼女の抱える人頭杖から、灰色に濁った煙が吐き出された。


「……ああはいはい、欲しいのね」


 面倒臭そうに杖をつかむと、半分ほど喫んだ煙草をくわえさせる。杖はさもうまそうにふかふかと鼻から煙を出し、辺りを囲む黒煙に色を滲ませた。


 厄廻払いの術式を起動した山井は、左顔面をひび割れと露出した肉に覆われた恐ろしい面相としてさらしながら、店の前に留まり続けていた。足下に転がる連中は、服装から察するに青水の人間だろうか。しかしなぜ、わざわざアンテイクにやってきたのか。


 井澄と八千草が、会合でなにか失敗でもしたか。だがそれにしては、対応として早すぎる。これではまるで、最初からこの状況が予定されていたようではないか。


 とまれ、考えても仕方ないと、ひとまず臨戦態勢を解く。煙が雲散霧消するとともに、山井の顔面も元の通りに復元されていく。最後に、左目を縦一文字に封じている傷痕が修復されると、山井はすっくと立ち上がって店内に戻った。


 と、室内に入ったとき、なにか足りないような気がした。


「……あら?」


 なにか、というか。


 店内にあるはずの品が、いくつか消えていた。小さなものから、ほどほどに大きなものまで。これは一体どうしたことかと、山井は慌てて周囲を探しまわった。


 それでも、見間違いではなく見つからないところから察するに窃盗、なのだろう。ただ、山井はこの島で長く生き抜いてきた自負がある。たとえ表で乱闘騒ぎを起こしていたとしても、店内に忍び込まれてその気配を感じないはずはない。だというのに、こう易々と盗んでのけるなど……


 易々と、盗んでのけるなど。


「……まさか」


 この島には一人だけ、易々となんでも盗んでいきそうな人物がいる。


 際立った戦闘技能もなく、ただ〝盗む〟その技術のみを買われて、四天神に名を連ねた奇人。


 だが仮にこれが彼の仕業だとして、なぜ。彼にアンテイクが狙われる理由が、山井にはわからなかった。


「とりあえず、なに盗まれたか確認しなきゃ」


 あせあせと店内を歩きだし、頭を掻く。


 山井の脳裏に浮かんでいたのは、かつて彼女自身も所属していた黄土の四天神。


 すなわち〝盗神とうじん〟。そして一度疑い始めてから店内の様子を見れば見るほど、彼の仕業としか思えなくなっていた。足跡ひとつ、気配の残り香も漂わせずに、去っていく手口。物の大小を問わず、物音も立てず消えてしまうやり口。状況はほとんど、彼を犯人だと示していた。山井は妙な来客の多い日だと、溜め息をつく。


 ――と、作業の途中で、アンテイクに訪問者があらわれる。忙しいときに来たものだと、若干対応に険しさを滲ませながら戸口に立った山井。だが馬車を駆ってやってきたという男から話を聞くにつれ、顔に真剣さを取り戻していった。


 すぐに行く、と告げて奥に戻り、緊急用の医術道具一式をとった山井は、外套掛けにあった白衣をまとうと男の止めていた馬車に向かう。戸口を開ける寸前で、先ほどまで書き留めていた盗難被害にあった品物の一覧表を、くしゃりと畳んでポケットへしまう。


 一覧表の頂点には、幻灯機と記してあった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ