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明治蒸気幻想パンク・ノスタルヂア  作者: 留龍隆
五幕 虐殺遊戯

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56/97

56:三つ巴という名の攻防。

四天神の大盤振る舞い。

 詩神の襲撃。それについて、瀬川と井澄は同じ考えに至った様子であった。


 彼が赤火から離反したというのは虚言であり、この襲撃のために油断させるための赤火が仕掛けた罠だったのでは――と。加えて瀬川はこの、緑風との会合を狙ってきた際どい局面からして、赤火と緑風が組んでいる可能性を考慮しているようだった。


「乃公を呼んでおるのか」


「ええ……オヤジを呼べと叫んでいます」


「そうか」


 部下の必死の訴えを耳にした瀬川は、さも面倒臭そうに片手で頭を掻きつつ、井澄からも目を逸らさない。長い針先が心の臓めがけてゆっくりと進んでくるような殺気の中に、井澄は耐えがたいほどまどろっこしい時間を感じた。


 けれど沈黙は実際には数瞬で、瀬川はすぐ表へ向かうことを決めたらしかった。


桜桃インタウを起こしておけ」


 言って、瀬川は左手で井澄のネクタイをむんずとつかむと立ち上がらせた。刃があとすこしで、肩に斬りこみそうになる。


「これ以上詩神に被害を出されるのは敵わん、が、こやつらを逃がすわけにもいかん。奴の蔵へ放りこめや」


「は、承知です」


「気ぃつけろ。こいつ、ナリこそこんなだが覚悟はできてる」


 そのように述べて、揺さぶるように前進をうながした。井澄はなされるがまま、前へ行くしかない。どうにか八千草と共に逃げ出す機がないかとうかがっていたが、どうやらここまでのようだった。


 青水四権候、ここまでの使い手だとは、さしもの井澄も想像だにしていなかった。構えとしては、彼にも隙が無いではないのに。殺言権を用いれば、奇襲の成功確率も上がるだろうに。そんな行動は許されないと自分の感覚が絶叫する。


 攻める隙があると見えても、向こうの攻め手は読めないのだ。どこから刀が来るか、いつ来るか、まったく予想できない。


 ――殺気の操作。それがこちらの先読みを阻害している。


 これを体感して、実感する。瀬川の手の内がすべて人々に露見していてなお、最強の一角に数えられる理由。極寒の地を思わせる眼光が、彼のすべてを指し示す。


 通常、どのような人間でも攻勢に転じる際は意識の流れが変化する。言わば平時である〝ケン〟の状態……『相手の動向観察による攻撃法・防御法の推測・選択』から、己の身体稼動について意識が移る〝コウ〟の瞬間のことだ。


 これがいわゆる殺気、攻撃の気配というもので、達人はこの変化を相手の視線や重心の変化から察知する。そして相手には己の攻勢意識、己の身体稼動について悟られぬよう、剣の動きを反復練習して反射の域で繰り出せるまでに鍛え上げることで、自分の意識の変化を表に出さぬべく努める。


 だが瀬川にはこれがない。


 相手を見ていて、意識しない。己を動かし、御することはない。


 己で己の在り様をこれと完全に定めることで、彼は自身の肉体の自動化に成功していた。意識のみで、鍛錬を重ねる必要もなく、肉体を完全に隷従させていた。それは数多の剣豪が目指し、そのうちごくわずかな剣聖と呼ばれた者だけが到達した境地に最も近いものである。いつどのように攻めてくるかわからない、無念無想。


 ただ斬ると決めたら斬る。これを極めた彼は全身(これ)殺意の塊と化しており、相手など位置さえわかればそれでいいという思考――否、本能じみた意識のみで動く。


 これにより彼には〝見〟の姿勢が無いため、攻勢に移る際の一瞬の意識の流れ(シフト)による隙ができない。単純な話だ、攻撃までに『観察する』『行動選択する』『攻める』と三段階の意識の流れを踏まえなければならない常人と、『攻める』の一手のみで済む化け者(、、、)とでは、動きだしの速さに差がありすぎる。


 彼は常在戦場、常時攻勢ということだ。ただしそれは攻撃のために完全に防御を捨てているということであり、反射による肉体の稼動……たとえば砂をかけられてとっさに目を閉じる、この程度の所作すら行えない状態であるという。


 だが関係ない。


 圧倒的な速度は、他者の意識と動きを凌駕し、斬殺する。その様は、時の間に沈みこんでいるようだとの噂だ。故に、もはや小手先の手管に頼ろうという思考ただそれだけを浮かべるのみで、彼の前では大きすぎる隙となる。彼に太刀打ちするには、同格たる無我の極致に至る他ない。


剣征けんせい〟瀬川進之亟。


 井澄では、到底彼の速さに敵わない。


「歩け。飛び石の向こうだ」


 井澄を人質に脅されるかたちで、八千草も歩まされる。縁側の彼方、庭の先に、小さな蔵が見えていた。座敷牢でもあるのだろうか、と嫌な想像をふくらませながら、二人は飛び石の上を進んだ。まだ季節は弥生、飛び石から伝わる冷たさは芯まで冷やす。


 前庭の方からは、まだわずかだが怒号と剣戟の音色が響いている。本当に、詩神が襲撃してきたのだろうか。まだ半信半疑のまま井澄は歩き、どうすればこの局面を脱することができるか思案に暮れる。


 結論としては、一人ではどうにもならない。殺言権を使えば一瞬の隙は生めるかもしれないが、八千草を置いていくなどできない以上選択肢には入らない。


 とはいえ蔵に入ってしまえば、一巻の終わりだ。瀬川が起こしておくよう部下に命じた者の名は、桜桃インタウ……この島において、もっとも敵に回したくない、狂者。青水最兇の危険人物。


最終死拳さいしゅうしけん〟の怪神かいじん、桜桃。


 すぐそこに迫る往生際を、井澄はひしひしと感じていた。


 嫌な予感だけが、強まっていき――


「――っくふふひひ」


 直後、どのように跳んだのか、庭の敷地と外部とを分ける塀を越えて笑い声が降ってきた。


 大方の予想通りではあったが、ひとつに束ねた髪を振り乱し、四つん這いに着地したソレは、三船小雪路。赤き衣を焔のごとくゆらめかせはためかせ、犬歯を剥き出しにして笑い続ける。猛者のにおいを嗅ぎつけてきた、戦闘狂の登場だった。


 しかしその様に、どこか井澄は違和感を覚えた。横を歩いていた八千草も、なにか察した顔をしている。いや、詩神のような猛者が訪れているのだから、彼女の登場はうなずける事実なのだが。それにしてもその相貌には普段とわずかな差異がある。


「助けに来たんよ、井澄ん八千草ん」


 声をかけられ、この感覚の発端に井澄は思い当たる。


 そうだ、救援が来たにもかかわらず、自分には嫌な予感(、、、、)が続いているのだ。彼女の顔に、死相を見ているようで……ここ最近彼女の様子がおかしかったことと、いま感じている不安が繋がってしまったようで。


 待て小雪路、と声をかけようとしたその時、嫌な予感は、さらに加速し重さを増す。


「――やあ」


 じゃ、と玉砂利を踏みしめて、現る。


「青水四権候。わざわざ出向いていただけるとは、この僕への奉仕サアビスでしょうか」


 すらりとした、柳を思わせる長身に深紅のシャツと漆黒のベストを着用している。赤錆びめいた色の長い髪で顔を覆い、隙間から遠くを見やる目の持ち主は、詩神しじん黒衛クロエ。切れ込みじみた、人形のような口を開いて、右肩へ担ぐように剣を構えている。


 刀ではない。西洋の、ロングソウド。十字鍔を持つ、肉厚で腹が小高く膨れた両刃の剣。刀身は一寸半といった幅広のもので、全長は三尺を越える。まさか青水邸内で奪った得物ではあるまいし、彼が持参したものなのだろうが、なぜ西洋剣なのか。


 思う間に、彼を囲み襲いかかる三人の姿がある。覆面をした彼らは腰だめに直刀を構え、突きこもうという意図が見えていた。声も無く忍び寄った彼らは、瀬川に出逢えた瞬間の黒衛の隙を貫かんとしたのだろう。


「――〝軟体」「術・極」「芸雑戯〟――!」


 三人の男が、詠唱と同時にぐにゃりと歪む。そこで井澄は思い出した。彼らは平賀電機で、井澄たちと競り合った奇妙な体術使い。あの後いつの間にか姿を消していたが、よもや青水の人間だったとは。


 ともかくも、彼らは全身の間接駆動を出鱈目に変化させる能力の使い手であり、いまやその動きに薄い直刀の、刃のしなりまでもが付随している。これは避け難い決め技に思われた。


 だが次の瞬間に、彼らの首は刎ねられていた。覆面が割れ、まだ間合いに入っていない、と疑問に思った顔をさらして、三つの首は宙を舞う。


 黒衛は振り向きざま、右手のみで刃を振るった。その際に握りを緩め、人差し指と中指を浮かせていたのを井澄は見た。そこからの動きはもはや目にもとまらぬ早業であったが、振り抜いた直後、彼の右手は鍔元から柄頭へ移動を果たしていた。彼は手の内で柄を滑らせることで、間合いを伸ばしたのだ。


ッ、ッ!」


 続けて、掛け声と共に矢が飛んでくる。おそらくは極限まで縮め、一音に圧した威力強化の呪文詠唱である。尋常ならざる力で飛来した矢は、攻撃後で無防備と見えた彼の背を射抜かんとする。


 その動きが中空で停止し、軌道をいなされたのを井澄は見た。


「……な、」


 たしかに、見た。


 詩神・黒衛の背を守るべく、あの一瞬、空中に閃いたのは。


「無粋。扱う者の意を離れ、流れに身を任せるのみの飛び道具など、この僕の前には止まっているも同じです」


 そして矢の飛来した角度から射手の位置を見抜いたらしい彼は、屋根の上に目をつけると跳躍した。雨どいを蹴りつけさらに上を目指し、井澄が目線を送った先で、またも閃かせる(、、、、)


「貴様には剣をくれてやる価値もありません」


 遠間から腕を振るうだけで、両断する。男の弓と指と首が、血しぶきをあげて切り裂かれる(、、、、、、)


 その、得物は。


「……桜桃!」


 途端。小雪路にも黒衛にも目を向けることなく、瀬川が怒鳴る。瞬間、蔵の扉がぶっとばされ、一人の影が現れる。蝶番の根元から弾け飛んだ厚さ二寸はあろうかという鉄の扉は、ごしゃんと音を立てて庭に転がった。


 場へ、死の気配がさらに濃厚となる。先の黒衛の得物への疑問が、吹き飛んでしまった。


「――飯時以外に起こしやがってくれてんじゃネェよ」


 高い声音はどこか独特な抑揚をつけた喋り方で、その人物が踏みだす。


 目元まで前髪を残したあとは腰まで無造作に三つ編みを垂らしており、細い体つきには大陸の匂いを感じさせる衣服をまとっている。顎先のとがった顔は小さく、長身であることと相まって背がかなり高く見える。小雪路と同じくらいの背丈だろうか。


 群青に、絹の光沢を敷き詰めた詰め襟は、左肩に向かって留め具(トグル)を伸ばす形で前の合わせを押さえている。女性的な体躯にぴちりとはまった上半身と対照的に、下腿を包むのはゆったりと横に広がる白いズボンで、足には甲を大きく出すような硬皮の靴を履いていた。


 まなじりの垂れた目は黒眼が小さく三白眼で、目の下に暗くくまがあるためひどく落ち着かない、老けた印象を与える。そんな怪神・桜桃は不機嫌そうに、場を睥睨して己が主人に目を留める。そして不遜な態度で、ポケットに両手を納めたまま言った。


「……なんだこりゃ。なにしてくれやがってンの。なんの祭りだよコレ」


 言葉は軽いが、状況はたしかに、祭りのごとく異常だ。


 小雪路、黒衛、桜桃の三者の位置関係が作り出す三角形の中に囚われた、瀬川に刃向けられる井澄と八千草。危神、詩神、怪神と四天神が三名まで揃った場に、青水四権候と緑風四権候代理がいる状況。もはや戦争と言っても過言ではない。


 続けて彼女は口を開く。乱杭歯らんぐいばが、がぱりとのぞいた。


「進ちゃんよ」


「なんだ」


「あたしが出張るってコトぁよ、」


 語の後、殺意が振りまかれる。


「周りになにが起こってくれちゃっても……知らネェってことだゼ?」


 瀬川の殺気、桜桃の殺意、黒衛の威圧、小雪路の狂気、四つの気配がまぜこぜになり、頭がおかしくなりそうな場が生まれる。


 このまま彼らを戦わせてはならない。井澄の中に警鐘が鳴り響いていたが、いまの彼は状況に流されるまま成す術がない。妹の止め役である靖周は、どうしたのだ。


「構わん。この場には身内はおらん」


「あっそ。でもここ、あんたが居やがるわけだけど、そこ考慮しなくていいワケ?」


「手前に乃公が殺せるか」


「まあ、無理だネ」


 ほう、とどこか辛そうに溜め息をついたあと、桜桃は三つ編みを左右に振るうようにして勢いよく首を鳴らした。その間も両手はポケットに入れたままだった。


 次いで、すうと目を見開くと、場の人間の数をかぞえているようだった。


 かぞえ終わると、うつむいて肩を震わせた。


 戦慄きの予兆を察して、井澄の中で嫌な予感が爆発的に強まる。


「…………ッああアアあああ面倒臭ェ」


 うめくように叫んで、桜桃が一歩を踏み出す。


 地響きがして、彼女の足の形に、地面が一寸ほどへこんだ。


「全員死ね」


 状況がまたたきの間に、展開を始めた。



        #



 井澄が瀬川の刃を逃れ得たのは、ほとんど幸運によるものだった。


 殺言権の使用により、桜桃の殺意の言葉を消し。生まれた一瞬の空虚空白に際して、後ろに飛びながら硬貨幣の指弾を放った。これも当然のごとく切り裂かれて、瀬川の剣先はそのまま井澄を狙ったが、そのとき井澄の動きが加速した。


 瀬川からは一直線上にあり、動きがわずかに見えなかった八千草が、井澄の襟首を引っ張ってくれたのだ。彼が逃れようと動き出したのを見てからでは到底間に合わない好機だったので、彼女がちょうど動かんとしたところで井澄の殺言権使用が合致したのだろう。


 転がり間合いを逃れたところで、上から降ってきた詩神の西洋剣が瀬川を襲う。これに応じるべく瀬川は井澄たちへの追撃を取りやめ、二人は立ち上がり彼らから離れた。


 そのころには桜桃に小雪路が突撃を仕掛けている。


「よせ、逃げるぞ!」


 八千草が叫ぶが、小雪路は止まらない。彼女の笑みには、危険な色が宿っていた。


「〝纏え天地擦る力の流れ〟――」


「嬢ちゃん、鬱陶しいゼ」


 踏みしめる玉砂利が砕け散り、凄絶なまでに苛々した顔の桜桃が乱杭歯を剥きだして待つ。手をポケットに入れたまま、大した構えもとらずに立ち尽くし、半身にさえならず体の真正面を小雪路に向けていた。


 だがそれが彼女の構えなのだ。


「戻れ小雪路!」


 八千草の呼びかけも虚しく、右掌を顔の正面にかざし、小雪路は低く突撃していく。桜桃も応じて、攻勢に出ていた。


「……〝閃抜閃攻せんばつせんこう〟」


 叫びと共に、桜桃がわずか身を屈める。筋を残して肉を緩める、自由落下の現れだった。このとき、腕の位置はそのままに。下腿のみが落ちることで、自然とポケットより手が抜ける。


 同時、足下に亀裂が現れる。地形を抉り抜く暴力の顕現だ。その踏みこみの力により生まれた反作用、真上に向かって発生する運動を、彼女は腰の動きと、先に残した筋を張ることでまとめあげる。


 そして抜かれた右手が拳を形作り、眼前の小雪路へ叩き込まれようとした。


 かくして成る業こそ、最終死拳。


「――とべッ!」


 その威力が発揮される前に、塀の上より声がかかる。耳慣れた声に反応して、井澄と八千草は同時に跳んだ。


 足下に突き刺さる、投擲された短刀が見える。短刀は符札を貫いており、瞬時に辺りへ暴風を撒き散らした。この気流に乗った二人は、危うい体勢で塀の上にまで吹き飛ばされる。八千草がスカートを押さえながら、井澄の横に降り立った。


「靖周!」


 塀の上に居たのは、小雪路と共に行動していたはずの靖周だった。苦々しげにことの推移を観察していた彼は、井澄に声をかけられると申し訳なさそうな顔をして八千草にアンブレイラを渡した。


「悪ぃ、小雪路が暴走してやがる」


「お前が居ながら、どうしてこんなことになったんだい!」


「わからねぇ。そりゃあいつは猛者との戦いを求めるきらいがあるが、それでもここまで俺の言うことを聞かないなんて、一度もなかった」


 先の一撃は回避できたのか、小雪路は桜桃の左手に回りこんでいた。続けざまに両掌で連撃を繰り出しているが、どれも片手でいなされている。


 途中で、桜桃の目がこちらを向く。小雪路もこれを察した様子で間を詰めようとしたが、桜桃の方がわずかに早い。たった一歩で、縮地のごとく塀まで距離を詰めた。飛び上がろうとしている彼女を見て、井澄は足下を蛇に囲まれたような恐怖を覚えた。


「逃げろ!」


 靖周が一枚の符札を取り出し、その場で炸裂させる。空傘の術式により生じた暴風が三人をばらばらに吹き飛ばし、迫り来た桜桃の旋巻く二連回し蹴りを回避させた。彼女が塀の上に着地すると、這い上がってきた小雪路が背後から左の手刀を振り上げる。


「うちから目ぇ離さんでよ」


 天頂を指し示して振り下ろされる一撃、摩纏廊の術式によって触れるものを削ぐ手刀は、もはや斬撃と呼ぶのが相応しい代物だ。ところが桜桃はこれに向かって、無造作に左手を掲げるのみで応じた。


 小雪路の手刀が、桜桃の掌底に止められる。力が掌の上に集積し、鮮血が飛び散る。はずだった。


 桜桃は無傷で立ち尽くし、小雪路の動きが止まる。止められている。驚愕に満ちた小雪路へと旋回し、桜桃の右裏拳が放たれた。


「え、」


 ぴしりと音がして桜桃の足下にある瓦が砕け落ちた。次に見えたのは、木端のように宙を錐もみし、塀の上を水平に吹っ飛ぶ小雪路だった。


「あたしに力は通じネェ」


 まさか、掌で受けた小雪路の力を、足下まで受け流したとでもいうのか。


 問いを浮かべる時間も惜しんで、井澄は両手からの指弾で桜桃を狙う。右膝に向けた一打はかわされ、喉を狙った一打はつかまれた。逸らすかいなすかされるならまだ理解できるが、掴みとるとはどういうことだ。


 そのまま振りかぶって投げ返され、足下に打ち込まれる。威力は井澄の指弾より数段上なのか、地面深くまで穴を穿っていた。いかに牽制のための業とはいえ、鍛え上げた力がまったく歯が立たない事実は大きな動揺を生んだ。


「ばかな……」


「なあオイ、だれから死ぬよ?」


 ひょいと降りてきた桜桃は、己を囲む形の井澄、靖周、八千草に向けて、苛立たしげに問うた。逃亡か、応戦か。選択に惑い一同が硬直した一瞬、その短い猶予ですら彼女には耐えがたい時間だったか、即座にポケットを抜かれた拳が背後の塀を叩いた。


 雷鳴轟くがごとき、質量を持った音が全身を打つ。塀には巨大な蜘蛛の巣状にひびが入り、先の震脚しんきゃくで砕けた瓦が落ちてさらに割れた。漆喰で固められた硬質な塀が、もう一撃食らえば障壁の役割を失いかねないほど傷んでいた。尋常な人間の腕力では、ない。


「人間かよ」


 思わず漏らした靖周の言葉は、認めたくないとの意の表れであるがゆえに耳にしたくはなかった。自分たちが手に負えない化け物を相手にしているとの思いを、確たるものとするからだ。


「突きつめた武の研鑽サ。重さにして十四貫(約五十二キロ)の物体あたしを、超高速で叩きつけてくれやがればコレくらいできちまう」


 ぺきぽきと指の関節を鳴らして、桜桃はまたポケットに手を納めた。閃きの如く抜き、閃きの如く攻め、死をもたらす拳がそこにあった。


「サア、だれから挽き肉袋になる?」


 がすがすと地面を踏みつけて怒りを発散させながら、彼女は井澄たちを見た。三人がかりでも、倒せる気がしない。冷や汗と脂汗がないまぜになったものが、体の表面を覆いつつあった。


「……井澄、八千草っ」


 靖周が声を発し、桜桃が目を見開き、


「――サア、」


「俺が動きを止める」


「――誰から、」


「その隙に」


「――死ぬか、」


「左右から」


「――決めろよ」


「挟み打て!」


「――いやヤッパお前から死ね」


 鳳仙花の弾けるように、起こりの予兆は無い。桜桃は塀を蹴りつけて弾丸のように迫り、靖周に向かって突っ込む。とうとう耐えかねた塀が崩れ去り、大穴をさらす間に、


 井澄と八千草は遁走を開始した。


「……あアア?」


 いぶかしげに見回す桜桃の視線が気にはなったが、出し惜しみする余裕はない。袖を振るって糸を放った井澄は、階段横町を構成する一軒の屋根端にカフス釦のおもりを巻きつけて跳躍した。八千草も身の軽さを利して、平屋の家屋にのぼってゆく。靖周が笑い、短刀の切っ先を彼女に向けた。


「真っ向からるかよ、阿呆」


 先の発言は、アンテイク面子の複数人で戦闘を行う際の符牒だった。『俺が動きを止める』など、わかりやすい策を相手に伝わるように言う時は、全員散開して逃げろとの合図だったのだ。


 目に見えて激昂した様子の桜桃からは、鋸で石を挽くような歯ぎしりが聞こえた。振りかざされる前蹴りが、靖周をとらえようとする。


 寸前で靖周は足下に符札を叩きつけ、真上に跳び上がった。


「――っざけてくれやがってッ、逃がしちまうわけネェだろ混蛋!!」


 蹴り足をそのまま地面へ叩きつけ、桜桃も跳躍する。俊敏かつ柔らかな踏み込みは、見た目の優雅さから想像もできない力で彼女を真上に打ち出す。そこで、井澄には靖周が煙管の仕込みを抜くのが見えた。


「無策で飛ぶなよ混蛋」


 口元に残る羅宇らおから、吹き矢の要領で河豚ふぐ毒を塗布した針が飛ばされる。空中で身動きのできない桜桃に向かう針が、彼女の目を狙っていた。


「ぐぅぅ!」


 危ういところを手の甲で払いのけ、靖周に迫る。ポケットに残る右拳が、靖周にめがけて引き絞られようとしていた。


「おぉ怖ぇ」


 仕込みを抜きざまに袖から出した符札で風を生み、靖周は後方へ加速する。垂直跳びの軌道から、ほぼ直角に曲がって逃げられ、桜桃の右拳は空を打ち抜くに留まった。風で体勢を崩された桜桃は、屋根上を逃れる靖周を目で追いながら、先ほどまで居た地面に落ちていく。


「く、そ、ぉぉおオオッッ!」


 咆哮がびりびりと井澄の鼓膜を震わせた。屋根上を階段代わりに斜面を下り、そこから井澄は己と八千草の身の安全を確保するに執心することとした。


「おい、単純馬鹿からとっとと逃げるぞ!」


 最後に、靖周の声が届いた。


大盤振る舞い、大番狂わせ。

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