54:四権候という名の侠者。
「ふむ、ついたか」
結局あれから眠りこけていた八千草がのびをして、あくびをした。
四層に辿り着いて駅に降り立つと、五層の大階段とはまたおもむきの異なる階段が目に入る。
駅から出て南、日の照る一区の方角を見れば、駅舎と並行に東西に延び、二区と三区を切り分ける広小路の通りが見える。その向こうには壁のごとく、斜面となった二区がそびえ立つ。そして斜面に沿うように長屋や家屋が建ち並び、それらの間を縫うようにして階段が乱立している。軒先には赤い提灯がぶら下がり、ところどころの石灯籠にも火がいれられており、なんとも像が揺らめいているような印象を受ける街路だ。
他の土地とちがい、この四層一区・二区は完全に青水のみで占められている。他の層・区では同じ葉閥の人間が固まっていることは多くとも、完全に他葉閥が排除された場所はない。
ここ四層でも、たとえば五区などには赤火の手が入っている。このたびは百貨店などが建造されるそうだが、四層五区は賭場も隣接しているためそちらでは領土争いの火花が散っているとのことだ――手帖をめくって四層の情報を確認しながら、井澄たちは表通りへ踏み出していく。人や馬車の間を抜けて、石段をこつこつ登りだした。
途端、うろつく和装の人々が、見知らぬ人間である井澄たちに厳しい目を向ける。シマへの強いこだわりがそうさせるのだろう。努めて気にしていないと振る舞いながら、四人は歩む。
「通称を〝階段横町〟というのでしたか、この街は」
「ああ。家も平屋とかが多いからな、斜面に沿って建ってるせいで街全体が階段みてぇに見えるって寸法だ。四層の普請の多くを請け負っている、清の奴らの建築方式も特徴だな」
「と言いますと」
「左右対称のつくりと、風水を気にした生活様式とかだ」
なるほど、言われてみれば階段を挟んで並ぶ家々にも左右対称のものが多い。そういえば長樂を追って四層五区で戦いを繰り広げた際も、竹で足場を組んだ普請の現場に出くわしたことがあった。
「青水は異人嫌いで知られてるが、大陸の方の連中とは親交があるらしいぜ。もちろん利害関係を考慮した上でのもんだがな」
「嫌っているのは西洋の流れを汲む者、というわけですか」
「そういうこと。向こうにある幇ってぇ団体の奴らを引き入れてるそうだ。最近じゃ煉丹術を扱う術師を招いてるとかで、妙な噂もあるな」
「煉丹術……清の方で行われる、仙丹などの霊薬を生みだす術ですね」
「ほお、知ってんのか」
煙管を上向けながら、靖周は井澄の顔をうかがった。井澄は首をすくめて返す。
「かじった程度です。なんでも不老不死やら、人体に影響を与える術を幅広く研究した結果の術だそうですね。西洋の錬金術と通ずるところもあると聞いたことがあります」
自分で言って、ふと錬金術という語に思いを馳せる。
最初に思い返したのは、かつて共に暮らした彼女、レイン。だがその次に思ったのは、赤火に呼ばれ船舶へ向かう際乗り込んだ馬車の御者だ。彼はたしか、青水の者が鉱山から銀塊を盗んだかどで殺された、などと話していた。
最近ではあの赤火船舶への襲撃も、それが原因と噂されていた気がする。
「しかし煉丹術師ですか。不老不死か、それとも金のなる木を求めているのか。まあ前者はないでしょう。時代と技術がここまで進んで、魔術や異能の限界だってわかりつつあります。人間は朽ちるものという当たり前のことが、当たり前になってきているのです」
「そういやお前、本土では術とか研究してるとこにいたんだったか」
ええ、と井澄は言う。八千草だけに話すのもなんなので、靖周たちにも生い立ちの軽い説明はしておいたのだった。無論嘘を含んだ作り話ではあるが。
「魔術や異能はよくできていて、とても便利です。しかし、これまで出来なかったことは、これからも出来ないだろうと言われています。……魔術とは、現実否定と幻想肯定により概念への印象を万能の叡智から汲み上げるもの。つまり未知だった現実を、既知の想像でしか変えられないんです」
「よくわかんねえなその辺。俺も術師の端くれだけどよ」
「感覚でやってる人も多いですからね。とりあえずの大原則としては、『事象と現象を確実にする行い』はできないのだそうです。時間と空間だけは、どんな人間でも捻じ曲げられないとか。あとは、概念や法則を消滅させることもできないとか」
「うう、頭痛くなってきたんよ」
後ろでいつの間にか聞いていた小雪路が、うんざりした顔で肩を落とした。
「お前も術師でしたね、なんか忘れがちですけど。そういえば二人はどのように術を習得したのでしたっけ」
「俺ぁ仕立屋に言われて、術師に手習いした。剣術もそいつに習ったな、まあもう師匠はこの島にゃいないが」
「うちは戸浪んに術書と、この鵺の髭もらっただけよ」
「え、読んだだけで使えるようになったと」
「うん」
けろりとした顔で言うが、いくらなんでも感覚に頼り過ぎだろう、と井澄は思った。もっとも、小雪路の術は作用出来る対象も大きくなく、効果も単純であるためそこまで習得に手こずらないものである可能性もあるが。
「なんか知らぬ間に代償とか取られてるんじゃないですか」
「こ、こわいこと言わんでよ」
「そういやよ、魔力以上の代償払えば個人でも結構すげえ術使えたりするじゃねーか。そういうのでも常識外れた力は出せないもんなのか? ほれ、たとえば体の一部とか全部とか捧げるっての、あるだろ」
「無理ですね。並はずれた才能ある人が命を賭しても、先に述べた大原則は覆せません。どころか、どんな優れた術師でも発動媒介を失くすだけで常人に逆戻りですよ」
媒介なく異能を行使できるのは、生まれついての異能者くらいだ。そして彼らも人間である以上、大原則は覆せない。
それらの縛りを完全に無視できる可能性があるのは、人でない種――人外。
まだ眠そうに目をこする八千草を見て、思う。発動媒介もなく、威力や回数や範囲にも、ほとんど制限が見られないあの焔。山ひとつ焼け落とすことも可能な暴威。それを秘める彼女は、やはり、人間ではないのだろうか。
まあ、どうでもいいことだ。井澄にとっては、八千がどんな存在でも、八千であればいい。
「……さて、しばしぼくは入れない会話だったけれど」
「すみません」
「なに、専門的な会話というのはどこにでも存在するさ。それはともかくとして、瀬川一家の屋敷が近づいてきたね」
懐から出した懐中時計の風防を開き、八千草が告げる。指定された刻限まではもう少し、そしてこの階段横町の道のりもあと少しだった。
「では到着してからの段取り確認といこうか。まずぼくと井澄は邸内へ。靖周と小雪路は、あちらに見える櫓の下に待機しておくれ」
アンブレイラの突端で示したのは、望楼と思しき櫓である。平屋の多いこの街では、他の場所よりわずかに高いだけのそこが、よく目立っている。
「のぼって見張ってりゃいいのか?」
「さすがに青水の本拠地でそんな真似しなくともよいよ。それに、青水全体もそうだけれど、瀬川一家の屋敷は入り組んだ構造になっているからね。上から見ていたところで、おそらくぼくらの動向はのぞけないさ」
「下で待っとればいいのん?」
「ああ。話しあいが穏便に済めば、それでいいけれど……もしぼくらが複数人から殺気を受けていると感じたら」
言って、八千草は気配察知に長ける小雪路を見た。彼女は大きくうなずき、どんと拳で己の胸を叩いて揺らした。
「任されたった」
「うん。靖周と共に、屋敷の中まで迎えにきておくれ」
「今回は俺が視認できないから、符札渡しといても空傘は使えねーもんな。となると、俺らで塀を飛び越えて邸内侵入、そっから合流して離脱って形か」
「頼みますよ」
「言うな頼むな。俺らが動かず済むように、穏便に終わらせてくれよ。赤火のときも青水の襲撃から逃れてきたってだけで、九十九との会合自体はなんとかなったんだろ」
「…………うっ」
「おいどうした。なんか急に顔色悪くなったな」
「あ、あまりあの会合には触れないであげよう。いろいろあったのだよ、いろいろ」
すかさず庇ってくれた八千草に、井澄は涙を一筋流しつつ感謝した。
この涙は感涙というわけではなく、単純にあのとき九十九に味わわされた苦汁――文字通り苦い汁の味を思い返したせいだ。いまこうしている間にも脳裏をよぎるあの味覚、感触、それだけで口に酸っぱいものが込み上げた。
「……また今日もああいう目に遭わされたりしませんかね。固めの杯、とか言って」
「な、ないと思う……けれど。もしあったら、そのときは、ああ。ぼくが、辛酸を舐めよう」
「そんなことさせるわけには参りません! お気持ちは大変うれしいですが、どうかその際は私にご用命を。そのための部下なのです」
「少しは自分を大事にしなさい。始末を押し付けてばかりでは、ぼくこそ店主である資格を失いかねないじゃないか」
「いや、それは」
「ぼくも自分にできることをしたいのさ。己をこれと決めつけて縛りつけることなく」
胸を軽く押されて、井澄は返す言葉に迷う。
自分を、大事に。あの冥探偵との戦いで少々深手を負ってから、八千草はよく井澄のことを気遣ってくれている。実際、あのときまではこの島の戦いにおいてそこまでの傷を受けなかったので、初めて目にした井澄の大きな傷に動揺したのかもしれない。傷の原因となったのが八千草をかばったことであるのも、彼女に罪悪感を生んでいるのだろう。
「なんか最近お前ら、空気変わったな」
口の中に髪の毛があるような、歯にひっかかる物言いで靖周がつぶやく。唇を震わせて八千草は抗議の声をあげようとしたが、一瞬早く靖周が口を開いた。
「良い変化にも、悪い変化にも見える」
「どういう、意味ですか」
「いんや、俺が言えた義理でもねーけどよ」
先に石段を登り終えて、櫓の方向を見据えながら、煙管を腰布の中にしまった。
「互いを大事にするってぇのは、いい方に働くときと悪い方に導くときがある。共倒れしねぇよう、線引きは明確にしとけ」
「線引きとは」
「いつも言ってるだろ? 仕事と私情は斬り分けろ……ほんと、俺が言えた義理じゃねぇな」
頭を掻きながら靖周は言う。と、なんだか井澄は周囲がかげったような、生気を失ったような、妙な感覚にとらわれた。
変化の原因を察するべくあたりを見回して、すぐに気づく。小雪路が、なんともちぐはぐに歪んだ笑みを浮かべていた。靖周は櫓の方を向いているため、気づいていない。この違和感がなんなのか判断しかねるうちに、いつの間にか小雪路は常のへらりとした顔に戻っていた。八千草が怪訝な顔で咳払いする。
「まあ……無事に帰れることを、目標とするよ。もちろん仕事として。できそうにない場合は」
「私が身を賭してでも八千草を御守り致します」
「だ、そうだ」
手短に会話を終わらせれば、少しばかり不服そうな靖周は黙ってうなずきを返し、両手をもぞもぞと腰布の中へ差し入れた。愛用の短刀を握っているのだろう。
「じゃあ、もう言うことはねぇな。俺たちは向こうで待つ」
「またあとでね、八千草ん井澄ん」
小雪路と共に、櫓の方へ歩いていく。並ぶ二人は、歩き方も少し似ていた。
ただどこか、普段とちがってしっくりこない。絵にならないというか、らしくなさが漂っていた。靖周より背が高いはずの小雪路が、少し小さく見えている。
「……言われてみると、たしかに落ち込んでいますね」
「だろう」
それでも、と言葉を切って、八千草は彼らに背を向け青水の本拠地へ向かう。
「仕事にひどく支障をきたすことは、たぶんないよ。これだけでそこまで揺れてしまうのなら、とっくのとうにあいつらはこの島にいないさ」
「ですかね」
井澄は、振り返らずに道を進んだ。
左手に長く塀が現れ始め、いよいよ瀬川一家の邸宅に近づく。ものものしい雰囲気に人々が萎縮し、この近辺を通るときだけは声を潜めているような気がした。音の無い場にて、広く豪奢な屋敷の構えが目にうるさい。
門に辿り着くと、白鞘の刀を腰に差した屈強な男が二人、並んでいた。疲れはしないかと心配意になるほど肩肘張って、あたりを威圧し続けている。恐れなく、井澄と八千草は彼らの間合いに入った。当然一歩向こうも詰めてくるが、彼らが口を開く前に先制する。
「本日お招きいただいて参りました、緑風四権候湊波戸浪が代理、橘八千草と申します。こちらは私の付き人の沢渡井澄」
会釈するのみで、あえて声を出さずいることで井澄は二人を威嚇した。わずかばかりひるんだ様子で、二人はこちらに、と門を開く。ぎりぎりと開かれる門は重く、何年も閉ざされていたかのように軋みをあげた。まるで城塞だな、と井澄は思う。
「御苦労様」
すいと敷居をまたいで、八千草は進む。後ろから男たちの、好奇と薄い敵意の入り混じった視線が注いでいたが、なにも言わずに踏みこんだ。
飛び石を踏んで前庭を越えると、いよいよ屋敷に通される。右を見ても左を見ても、屋敷の果ては遠い。同じ四権候の本拠地でも、アンテイクとはちがいが大きすぎる。こう考えながら、戸を開け通してもらい、案内役と思しき男に会う。八千草は傘立てを借りてアンブレイラをおさめ、井澄は彼に背を向けぬよう注意しながら靴を揃えて上がり框へのぼった。一歩邸内へ入っただけで外の空気は遮断された。静かに押し込められた空気に圧迫感が付与し、全身にまとわりつく。
黄土四権候・月見里さとと対峙したときにもあった、あちらの領域に入ってしまったとの実感がある。迷いかねない山道に、それでも足を入れたときを思い起こさせる焦燥、後悔、不安。あとにはひけないと知らされる、五感への働き掛け。
「客間にてオヤジがお待ちです」
いよいよか、と唾を呑み下して井澄は進む。八千草も堂々としてみせてはいるが、足取りは少しずつぎこちなくなっていた――進むたび、体が重くなる。客間より届くのは殺気では無い、ただの攻撃的な気勢だ。ただそれだけで、相手の動きに作用してしまうのだ。
気迫であらゆるものを呑みこみ、己の腹の内に溜めてきた者のそれ。覚悟も無くこの気にあてられたなら、人はなにかの終わりを予感し、寿命が縮む思いをするのだろう。
いよいよふすまの前に辿り着き、二人は膝を折った。廊下の板が、うぐいす張りなのかきゅうと鳴った。横に控える男が、すっとふすまを開ける。
ふすまで区切られた向こうにあったのは、簡素でなにもない、二十畳ほどの室内だ。
縦に長く続くその奥に、果たして彼は居た。
「よお」
しわがれた、轟くような声を耳にして、腰から八千草は頭を下げた。井澄もこれに習う。
彼を瞬間に見て、感じとったのは、怖気だ。
座して漆塗りの肘置きに右腕をのせ、こちらを睥睨する様子。長身というわけではないが、肉づきが薄いからか実際よりも背が高く見える。骨ばった指先といい、手首も細く、どこか古木、あるいは枯れ木の風情を漂わせている、初老の男。
の、はずなのに。
視線を向けられ、声をかけられたと感じただけで――大のおとなでも数抱えある大木が、己に向かって倒れ込んでくる像が頭をよぎった。
潰されると、本気で思った。八千草が頭を下げたのも、単なる敬意を表する行為のための行為ではなく、この威圧感に気圧され、反射的に身を守らんとした結果だったのかもしれない。
胸と背を重く圧されている感覚があった。
血と息が、行き場を失って悶えている。
「……頭、上げろ」
数秒の長い観察を経て。ようやくの許しを得て、絶息しかけていた井澄はちいさく息する。八千草からも、呼吸の音がした。横に控えていた男でさえ、安堵の表情で肩を上下させている。
これが、青水四権候。侠客としての生きざまをこの島に体現した、瀬川進之亟という男。
瀬川は、厚ぼったいまぶたの隙間から、薄黄に濁った白目を剥いて井澄たちを見ていた。
兇客。