5:水撒きという名の凶行。
おちみず。
人差し指、中指、薬指、小指。
曲げたこれらの間に挟みこまれた三枚の硬貨幣は、親指に押さえられて力を溜める。そして外へ開くように腕ごと振り抜かれた瞬間、指を離す機を微妙にずらすことで乱れ飛ぶ。
羅漢銭の三連撃に、男は動じず構えた。
一枚は柄杓に弾き落とされるが、残り二枚は男の袖口とこめかみをかすめた。回転する硬貨幣によりわずかに皮膚を切られ、出血しながらも男は体勢を崩さない。柄杓の、抜けた底の穴を通して、井澄の足下の布を見ていた。
「空の器よ撒き手に応えよ――出でよ、〝死丹水〟」
湿り気が満ち満ちて、汚泥が吹きだす。流れ落ちて襲いかからんとする泥の滝を、すんでのところで井澄は跳んで避けた。そのまま屋根に着地し、背後に重みで耐えきれず千切れ落ちた布と汚泥の音を聞きながら、一枚を指弾の技で放つ。
硬貨幣は、きんと快い音と共に弾きだされ、頭部をかばう男の左手首を穿つ。鈍い衝撃音から察するに、骨は折れたか砕けたか。
だがこの隙に柄杓の先端が井澄を向き、汚泥の一撃を見舞おうとする。
「出でよ」
「当たるか」
毒づき走り出して、歩幅を御することで間合いを誤らせる。危ういところで汚泥を背にかわした井澄は、振り向きざま羅漢銭を放ち男の周囲を狙う。まずは相手を観察しつつ、動きを止めるのが狙いだ。続く指弾で頭部を狙い仕留める算段である。
ところが男は柄杓を自らの下に向けて構えると再度呪文を詠唱し、汚泥を放った。その勢いで自分の身体を空中に押しやり指弾から逃れつつさらに上昇、ついには天井に足をつけるに至る。
当然、膨大な水量を叩きつけられた家屋の屋根は崩壊し、井澄の身体も崩れる足場に飲みこまれる。
「う、わ」
「――放て、〝変若水〟」
と、吹き出されるものが汚泥から、澄んだ透明な水へと変わる。なにが起きる、と思う間もなく水は降り注ぎ汚泥を溶かし流し、崩れた屋根に撒き散らされる。
瞬時に屋根が形を取り戻す。家屋の中に入ってしまった井澄の眼前で、屋根の破片が浮き、宙を舞い、元の位置へと帰っていく。またたく間に屋根は閉じ、井澄は部屋の中に閉じ込められていた。
「ど、どっから入ってきてんだよぉ」
低く、震えた声で言われて振り向く。見れば井澄の落ちた部屋の住人と思しき男が、部屋の隅に置いた布団の中から顔を出していた。
「失礼、どうせすぐに出ますので」
「ねえちょっと、どういうことなの!」
井澄の言葉に続く高い声も、同じ布団の中からだった。首をかしげ見れば、ひょこりと若い女が首を出す。どうにも不満そうというか、慌てや恐れよりも、自分たちの秘め事に乱入されたことへ苛立っている様子だった。
「すぐ出るって、どういう!」
「いえ、あなたの伴侶の悪口を言ったわけではないのです……」
「はあ?」
「御達者で」
発言をとらえて遮り、窓を開け放つと屋根の上へ戻る。どこへいったかと見回せば、遠く屋根の上を走るのが見えた。いまのは時間稼ぎだったのだろう。
逃亡か、と判じて、井澄は追って屋根から屋根へ跳んだ。乾いた冷たい風にさらされながら、道を挟んで隣に立つ家の屋根瓦に足をつき、即座に蹴りだして次の家へ。「屋根の上走んな」と叫ぶ声が下から響いたが、意にしない。飛び石を行く要領で、四区の奥へ消えゆく男を確認するとすぐさま追跡を開始した。
奴は接近戦闘を得手とするわけではないらしい。中距離からの汚泥濁流で攻撃する戦型。間合いでいうなら、投擲を主な武器とする井澄とほぼ同じである。
「寄ってくれるな、少年――出でよ〝死丹水〟」
「そう何度も見せられて、くらいますか」
汚泥の噴射を横に飛んで回避しつつ、硬貨幣を構える。しかし確実な威力を期待するのなら五間(約九メートル)以内に近づかなくてはならない投擲術の性質上、まだ十間以上も距離のあいている男には、攻撃を仕掛けづらい。……ましてや指弾より羅漢銭より射程の短い〝奥の手〟など、攻撃に使うべきではない。〝切り札〟も、使うに値する機ではない。
それでも道を、そして地形を知る井澄の前に、男との距離は着実に縮められつつある。追いつくのは時間の問題で、また男には逃げても勝ちの目があるようには思えない。
「逃げきれると思ってるんですかね――っと」
男が汚泥を前方へ放ち、同時にその汚泥の落ちる方向へ降りた。上を逃げるのでは追いつかれると思い、下道で人ごみにまくつもりなのだろう。させまいと、井澄も同じ箇所で降りる。
が、目の前を遮るのは地面と水平に立ち並ぶ竹林だった。
否、先ほどまで足場としていた家、そこの建て直しのために作られた、普請(ふしん。土木・建築などの工事のこと)用の足場か。にやりと笑う男の姿を路上に捉えたとき、井澄の腹部に鈍痛が走る。横に渡して組まれた竹の一本に、腹から激突していた。
「ぐ、む……」
こみあげる胃液を飲み下しながら、ずるりと足のほうから落ちる。反転して、また竹で背を打ち、反転して、向こうずねを打つ。そのまま頭から落ちそうになり――
「っとおぉ!」
するりと鋭く、井澄の腕が風を切る。
〝奥の手〟を使うことで、頭からの墜落は防いだ。空中、頭と地面が接吻するまで三寸のところで井澄は動きを止め、そこから受け身をとって路上に転がった。周囲の人間がざわめいているが、井澄が落ちてきたことについてでないのは、反応から明白だった。皆、井澄でなく去った男の行った方向を見ている。
見回せば、道へ放たれたはずの汚泥は消えていた。先ほど屋根を破壊したときもそうであった。男のもうひとつの術……汚泥でなく澄んだ水を吐き出すほうの術が、この仕掛けをなす肝であると井澄は推測した。
「穢れ……と、なにかを操るのか」
いまひとつ推測に加算するべき破片が足りないと自覚しつつ、井澄は男を追う。姿は見えなくなっていたが、衆目の指す方向を見据えればまだ追いつける。
急ぎ道を駆け抜ければ、逃れようとしていた男の背に迫る。だが道幅が狭くなった途端、振り向いた男は詠唱しながら井澄を向いた。
「また、ひとつ覚えにそれですか」
「あいにくこれしか能がない――出でよ〝死丹水〟!」
汚泥を放って普請用の足場を崩し、井澄の進行方向を塞ぐ。組まれた竹が砕けて飛び散り、倒れてきた足場をかわしつつ井澄は横っ跳びに近づいた壁を蹴った。
斜め上方に身を投げだし。空中から指弾で男の柄杓を持つ手を狙った。だが汚泥を噴射し続けて後方へ退いたため狙いを外す。舌打ちしながら汚泥の上へ着地、しようとすれば、噴き出す汚泥が水に変わる。
「放て〝変若水〟」
落ちていた竹の破片が水のかかった瞬間に跳ね起き、真下から元の位置へ戻ろうとして、軌道上にある井澄の額を打った。さらに尖った破片のいくつかが、まだ空中にいる井澄に飛んでくる。
「く、そ、おぉおっ!」
羅漢銭、加えて身をひねっての左足刀蹴りで、すべてを打ち落とす。男のほうへ視線を戻せば、続けられる汚泥の噴射が足下へなだれ込んできた。機動力を削ぐ目的か。
「足元ばかり見て、」
再度〝奥の手〟を用いて、滑る危険と汚泥をかぶる窮地を一挙に脱した井澄は、脇にあった排水管を足がかりにして男の頭上を取りにいく。
「上が御留守ですよ」
弾いた硬貨幣が飛ぶ。狙いは、男の進行方向。彼は噴き出す汚泥による加速がついているが、これ以上の加速はできないらしい。一定速度ならば、井澄からすれば止まっているのと同じだ。狙い打つに難くない。これに気づいたらしい男は急に汚泥の噴射を止め、井澄の指弾から逃れる。
けれど井澄の狙いからは、逃れられない。
狭い道幅を利した、跳弾。壁に当て、反射角の先にあったのは、蒸気缶の管だ。一旦家屋の外に出して蒸気を冷却するための設備である。四つ葉の水道局により、通常の排水管などと間違えぬよう配色を青から赤に変えるきまりなので、井澄にはすぐわかった。
管に亀裂が入り、圧力に任せて蒸気が噴き出される。
「うお」
男が白い湯気に包まれる。となれば、高熱の蒸気を抜けて向こうに行けるはずもなく。
羅漢銭を三枚打てば、上へ逃げるか来た道へ戻ろうとする男に直撃するはずであった。
「……出でよ〝死丹水〟……!」
だが男は湯気の中で、さらなる汚泥を放った。
なにをしている、と焦る井澄の前でさらに続けて、
「変じよ、〝死丹水〟!」
詠唱を続けた。すると井澄の方へ、店で襲って来たような巨大な掌を模す汚泥が迫る。のけぞってかわせば、下から走る音が聞こえた。
「蒸気を――」
火傷するのを無視したか、と考えるが、もうもうと立ち込める蒸気の中、男がどこにいるかはわからない。井澄を通り過ぎて真上にいった汚泥が落ちてくるのを避けるためにも、井澄は下へ降りて男を探す。排水管を伝い降り、道を探した。
丁字路にさしかかり、どちらへ行ったかと辺りをうかがうが、泥を落としながら移動しているわけでもないので判断はつかない。悩む時間はすぐに切り上げとし、ジャケツの懐にある手帳を見ようと左手をポケットから出す。まだ痛む手は冬の風にさらされてかじかみ、早くしまいなおそうと考えたところで。異変に気づく。
「……手が」
さながら枯れ木のように。
皮膚から水分が失われ、かさかさとひび割れている。毒でも酸でもなかったか、と思いながらくまなく調べると、どうやらあの汚泥に触れた部分から老化しているように見受けられた。
「穢れを伝染することによる、なんらかの呪術、でしょうね……」
震える左手は、とてもじゃないが指弾や羅漢銭を放てる状態ではない。こちらは使えないとポケットにしまいこみ、慣れない手つきの右手で手帖をめくる。
しばらくして頁を閉じ、井澄はふたたび走り出す。西汽通りからまた少々離れ、住宅地が多い一帯へ、行く先を定めた。
#
井澄が二階へ向かってすぐ、引き戸を開けて店内へ入ってくる者があった。客かもしれない、という可能性はほとんど頭から排除していた八千草だが、推測は相手の挙動により現実に対処すべき事態へと変じていた。
厨房の前に置かれた長机に付属する椅子のうち一脚が、男の蹴りにより八千草へ飛ぶ。まばたきすることさえなく屈んでかわせば、接近してきた男の振り上げた刀が、脳天めがけて唐竹割りに打ちこまれるところだった。
「させないよ」
すばやく屈む際にひねった腰の動きを利して突きを繰り出せば、寸毫の差を制して八千草の切っ先が男の左腋の下を狙う。
身を開いてかわす男はそのまま距離をあけ、八千草と一足一刀の間合いで向き合う。四方田の悲鳴が聞こえたが、無視して八千草は座敷へ上がった。わずかでも高さのある場所をとるのは有利に働くからだ。
片手正眼に構えつつ、男の得物を見る。鍔の無い打刀は刃渡り二尺(約六十センチ)を越えると見え、長脇差程度で刀身の短い八千草よりも遥かに間合いは長くとれている。
男は油断なく両手正眼に刀を据えており、袴姿に長靴を履いた、三十そこそこといった風体である。結うことなく風に舞う髪はぎとりと脂に濡れており、剣呑な目つきは刃より刃らしい。場数を踏んだ剣客であることがうかがえた。
「我らがお役目遂行のため、障りとなると判断した。斬る」
「わかりやすくて大変結構であるね」
互い名乗ることもなく。敵と判断し合い、即座に斬り結ぶ。
重心を落として突撃してきた男は刀を自らの右側へ下ろし、切っ先を背後へ向け刀身を地と水平にする〝脇構え〟に変えると、八千草に向けて横薙ぎに振るう。間合いから逃れて半歩後ろへ逃れる八千草だが、彼女の動きに刀が追いつくまでに男の動きが変化した。
両手で構えていた刀を、十分に加速が乗った時点で、左手のみに持ち変える。左足で踏み込んでいた男の間合いはさらに伸びた。のみならず、切っ先が八千草の直刀をとらえた好機、すなわち切っ先が彼女の顔面を指し示した瞬間。刀は指先から放たれ、八千草の頭を団子刺しに貫こうとした。
「賤刀術――〝眉目飛刀〟」
とっさに頭を横に振って回避するが、続く男の右拳は刀を弾かれ体勢の崩れた彼女には防ぎきれない。こめかみへの鉤突きを避けるべく拳の向かう方向へ跳び、座敷を転がる。
「寸前で自ら跳んだか」
そんなことを口にして、男は壁に刺さっていた刀を右逆手に抜くと、迫りくる。座して抜刀を狙うような構えに起き上がっていた八千草は脇構えに刀をとり、迎撃するべくさらに身を縮める。
男はまた寸前で右足を踏みこんで自らに制動をかけると、勢いに乗せて刀を振り抜き、手放す。
「またかい」
回転して迫る刃が足を狙うと知り、慌てて八千草は刀を畳に突き立てる。足へ当たる前に刀身に当たって旋巻く刃は止めることかなったが、踏み込んだ右足に重心を移した男の左後ろ回し蹴りは、またも避ける術がない。左手をかろうじて頭の横へ配し身をひねるが、蹴りの重みに耐えかねた。厨房の方へ飛ばされる。
起き上がってみれば、男は拾い上げた刀の刃を自分へ峰を外へ向くように、右順手に構えた。そして手首を返さず、ただ持ちあげるだけのような切り上げの動作で投げ打とうとした。
通常の剣術ならばこのような持ち方は邪道の極みであるが、軌道の途中で投げることが前提であるなら、手首を手前へ引くだけで素早く切っ先が相手を向くこの持ち方も納得いく。見栄えはすこぶる悪いが、続けざまの体術で相手を追い詰めることまで計算された技だ。
「――いい技であるね」
八千草の剣技は、正攻法に搦め手を交えるこのような相手ほど戦いづらい。十九という年齢にしてはかなり体格に恵まれない彼女がその身に合うよう身に付けた剣の腕は、真っ当な剣客か真っ当な術師にこそ効果を発揮するものである。彼のような奇妙な剣には、対応しづらい。〝奥の手〟も、ここでは意味がない。
……避けも、受けも、だめだ。
こう判じた八千草は床を蹴り、左斜め前方、相手の間合いへと跳び込んで、投げられる前に相手の刀へ袈裟に斬り込む。男は八千草の度胸に驚いた様子だが、右へ逃れればむしろ相手に投擲で狙うだけの機を与えると気づいたための戦略だった。
「斬らせてもらうよ」
鋼と鋼が身を削り合う硬質な音が響いて、しかし体格差の理に従い、八千草の刀がむしろ押し込まれそうになる。
ここですぐさま八千草は左手を峰に添え、相手の刀の鎬の上に、己が刀を滑らせる。そうして鍔の無い刀であることの弱点――鍔迫り合いの不得手をこそ狙う。男は八千草の思惑を勘づいて刀を引こうとしたが、もう遅い。
刃を渡りきった八千草の直刀は、切っ先で以て男の親指を斬り落とした。
「ぬ、」
「とどめ」
刀が右手から落ちる機に、一気呵成に詰め寄る。
左手で刀身をしごくように持ち、切っ先を振り抜いて男の腹部の前を行き過ぎ、左手の肘めがけて真っすぐに突く。尺骨のあたりにある神経を断つ一撃だ。さらに連ねて左肩で体当たりを仕掛け、鳩尾の下を全身で叩く。息詰まり後ろに倒れかけたのを見るや否や、左足首の骨と骨の継ぎ目へ切っ先を突き立てた。
最後に男の刀を蹴って、遠ざける。仰向けに床に倒れた男は口惜しそうに唇を曲げ、やがて諦めたように「殺せ」と言った。八千草は刀身を男の着物でぬぐうと、いやいやと首を横に振った。
「悪いのだけれど、今日の仕事は御守りでね。殺し屋殺しは別料金であるよ。……店主、追加料金はどうする?」
「い、いえ、そこまでは、必要ねえと思います」
「だそうだ。お前が店主の代わりに殺し屋殺しのための残り一円五十銭を支払うというなら、話は別であるけど?」
ぬぐったばかりの切っ先を向けて、八千草は言った。男はしばし逡巡したが、
「……いや、いい」
「なんだい、命が惜しいのかい」
「命惜しくば斯様な勤めはせぬ。また、金あらば、斯様な勤めはせぬ」
こう締めくくって、親指を拾い上げる。男は素早く身を起こして這うと場をあとにした。
「あ、そ」
八千草はアンブレイラに直刀を納めて、シガアケイスを取り出すと、パイプに煙草葉を詰めて一服せんと準備をはじめた。ついでに、四方田に鍋を作り直すよう頼む。びくつく彼に、擦った燐寸の焔を見つめながら、続ける。
「頼むよ。……そろそろ井澄も、戻ってくるはずであるからね」