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明治蒸気幻想パンク・ノスタルヂア  作者: 留龍隆
幕間 平時生活
49/97

49:幻影という名の伝聞。

だんらん。

 口笛を鳴らして湯からあがった井澄は服を着ると、袖口の軽さに気づいた。やられたな、と思い板の間番、つまり脱衣所の見張りをしている人間に、浴室まで持ちこんで肌身から離さずにおいた小銭を払った。


 こうしなければ、盗まれた品があった場合も返してはくれない。ちなみに盗まれたものがなかった場合、つまり盗人の腕が良くて板の間番が気づかなかった場合も払った金は帰ってこない。


 どうやら今日は板の間番のほうが腕っこきだったらしく、白鞘の刀を抱えて片膝をつく男はちゃらちゃらと井澄の硬貨幣を返してくれた。安心した井澄は板の間の、むわりと湯気に満ちた場を出る。番台の横を過ぎて、階段を上がると二階座敷にのぼった。畳が敷いてある座敷は、簡素な食事なども出るが大抵は髪が乾くまで休むだけの場だ。


「よぉ、遅かったな」


 いつの間に気絶から目覚めたのか、板の間に転がしてきたはずの靖周がいた。継ぎ接ぎ羽織に作務衣の奇妙な姿で、あぐらをかいて壁際に座りこんでいる。


「そちらは早かったですね、起きるのが」


「鍛え方がちがうからな。というかお前容赦ねえな」


「十分すぎるほどの容赦をしましたよ。もし八千草の裸身をしかと目におさめているようなことがあれば、いまごろ袖の硬貨幣が空になっています」


「まじかよ。……というかなに? あの可憐な着物姿の子って八千草だったのか? 全然気づかなかったぜ」


「雰囲気がだいぶ変わりますからね」


「変わりすぎだろ」


 いぶかしげに言う靖周の横に腰を下ろして、ええまあと曖昧にうなずいておく。


 かつて八千草が八千だったころは、あのような洋装はしていなかったのだ。むしろその意味で、雰囲気は変わったというよりも元に戻ったといったほうが正しい。だがそのようなこと教えはしない。


「でも俺ああいう乳尻ない体型好みじゃねぇってのに……後ろ姿だけだと判断に誤りが出るもんだな」


「靖周、私の袖の硬貨幣を空にしたいんですか? お金の力の恐ろしさ、体感してみますか?」


「普通に使う場合と意味ちがくねそれ。お金の力っていうか物理攻撃じゃねーか。つーかそこまで激昂するくらい思慕ってんならさっさとモノにしちまえよ、なんのために二人暮らししてるんだよ」


「そういうことの機は当事者が決めるものでしょう、あなたに指図されるいわれはありません」


「よその男にとられちまっても知らねえぞ」


「それは、たぶんないと思います。八千草はある意味で、小雪路よりもそうした部分が発達していないでしょう」


「……記憶がないから、か」


「ええ」


「女は経験なんか思いの丈が募りゃ一瞬で埋めちまう。ぼやぼやしてると取りこぼすぜ」


 どこか知った風なことを言って、靖周は歩いていた売り子の女を呼びつけ、茶を頼んだ。


「小雪路になにかあったんですか」


「いやなんも。こいつぁ俺の経験だよ。いつまでもお取り置きしておけると思ってた女が、いつの間にやら掻っ攫われててよ」


「ははあ、あなたも失恋などしているのですね。そういえばいい歳ですけど、だれかとつがいになるご予定はないのですか?」


「つがいってなんだ鳥かよ俺は。そんな予定はとんとねーよ。基本的に同じ相手と一晩以上の付き合いはしねえんだ」


「不埒者」


「うるせえ。だいたい妹の面倒見なくちゃならねえのに所帯なんて持ってられっか」


「二代目危神の座にまで上り詰めたのですから、もう面倒見るほどのこともないと思いますが」


「そりゃあ、」


 そこで頼んでおいた茶がやってきて、靖周は懐から小銭を払うと女から湯のみを受け取る。ついでとばかりに相手の手に触れて「おっとすまねえ」などと良い笑顔で言っていたが、話の流れのせいか、どうにも作為的に過ぎる笑みと見えた。


 湯のみを吹いて冷ましてから、靖周はくいと一口すすった。嘆息して、上を見ながら続ける。


「そりゃあ、強さだけなら我が妹はもう相当なもんだ。だが兄としちゃあよ、どんだけ強くなろうと妹は妹なんだ」


「ですか」


「お前がうらやましいよ」


 湯のみを置いて、井澄に視線をくれてから言う。私のなにが、と返そうとすれば、その前に靖周は答えを言った。


「お前は八千草のことをそんだけ好いてるってのに、死地で共に戦える。信頼を置いている」


「まあ……、そういう見方もできますが。それはあなたたちも同じでしょう」


「俺たちが? そうだな、連携に関しちゃもう体に染みついて取れないくらいだ。先日は、ちぃとばかし小雪路の術が封じられちまったからうまくいかなかったが……でも術のことがなくても」


 言葉を切る靖周に、井澄は目を見開いた。彼には似つかわしくない、歯切れの悪い様子だった。これ絶対あいつには言うなよ、と一言念を押してから、靖周は言葉を継ぐ。


「俺はほんとは、あいつと一緒には戦いたくねえんだよ。お前だって、平気なふりしてるけど八千草を前線に立たせたくはねえだろ」


「それは当然そうです」


「俺だって可愛い妹を戦わせたくねえんだ、それだけだ。とくに俺は小雪路が全然強くなかったころを知ってる。八千草の場合は、お前がここに来たときにゃもうだいぶ強かったからそういうのないだろうがよ」


 もちろん本土にいたころのか弱い彼女を知っている井澄だが、根掘り葉掘り訊かれてもたまらないので、神妙な顔でうなずいておいた。


「俺はあいつが強くなかったのを知ってる。いまは危神と呼ばれるほどに強くなったが、かつてはそうでもなかったってのを知ってる。傷だらけになって――ってのは、いまも昔も同じか。とにかく、そんなあいつが危なっかしくて仕方ねえ。きっと俺の小雪路への気持ちははお前の八千草に対してのそれより遥かに、信頼が少ねぇのさ」


 血が繋がってる兄妹なのに嫌な話だよな、と自嘲気味に言って、靖周は視線だけ下に向けた。


「だから所帯持つ気にゃならん。俺は現状でもういっぱいだ。小雪路以外にだれかを心配しようとすれば、きっと背負い切れずに潰れちまうよ」


「……心配しなくて済むような、平和な場所に。本土に渡ることは、考えなかったのですか?」


「俺もそれお前に対して訊こうと思ってたんだけどな」


 思わぬ迎撃に面食らうと、靖周は口の端だけ笑って「まあ八千草の境遇見る限り、無理か」と結論付けた。懐から取り出した伊達煙管をくわえて、彼は目を閉じる。


「まあ、俺たちも境遇からしてもう無理だ。最初は、まだここが四つ葉と呼ばれなかったうちは、外に出ようかとも考えてたんだけどよ。どうやら親が特殊労役として本土に連れてかれたときすでに、俺たちのまっとうな戸籍は消されちまったらしい」


 特殊労役。四つ葉へと笹島を改造する際に行われた措置だ。元からの島民が接収される土地から立ち退かなかったり、政府に逆らったりした場合に強制的に課せられる労働のことである。大抵は本土に連れていかれて、それきり戻ってくることもなかったという。


「確かめたんですか、戸籍の有無を」


「一度だけ単身本土に行ったことがあってな。親の行方を尋ねてるうちに判明した」


 煙管を口から離すと、まるで煙を吐くように深く息をつく。薄く目を開けてしばたき、畳の目を数えるような、虚しそうな目をした。


「それに、俺も小雪路もここでの生活が染みつきすぎた。たとえ戸籍があったとしても、まともな生き方はもうできなくなってたろうよ。……そういう感覚、お前もわかるだろ。わからないとは言わせねえぞ。お前はある種、俺たちよりもこの島の人間らしい目をしてる」


「また、目の話ですか。前に酒の席でも同じことを言っていましたね。人を殺すときでも目の色が変わらない、でしたか」


「あの〝まともじゃない感覚〟を、俺は本土でも思い返した」


 井澄の言葉を無視するかたちで、靖周は続けた。


「問題、ささいな問題でいい。わずかでも目の前に障害となるものが現れた際の、選択肢の話だ。俺もお前も――ごく普通に、世間では罪となじられる行いを選択の候補にあげるだろう」


「こんな島で暮らしていれば当たり前でしょう」


「そうだな。だがその当たり前(、、、、)って言葉が出る時点で、俺たちはもう本土の人間とは混ざり合えないんだと思うぜ。選択肢に出るってことはヤる可能性が出るってことだ。本土にいるようなまともな人間は、夢想幻想として思考に浮かぶことはあっても、行動選択の候補にまではしねえ」


「どうでしょうか。他人の頭の中などわかりませんよ。必要に駆られれば、どれほどおとなしく愚鈍に見えた家畜でも、打って出ることはあると思います」


「でも連中はまだ必要に駆られていない。対して俺たちは、もう必要に駆られ、行動を終えたあとの人間なんだ。いや――、お前は、まだ行動の途中なのかもしれねえな」


 井澄の目を見て靖周は言う。


「私の目に、なにが見えるというのです」


世界(、、)


 一言、単語のみで、靖周はおそろしく鋭く核心を突く。


 努めて態度には表さぬようにしたが、無味無臭ゆえの不自然さというものを、靖周は敏感に嗅ぎ取ったと見えた。その態度は、かつて己の師によく見たものだ。呉郡は、井澄の中のなにかを見抜いていた。いや、なにかを見出したからこそ、井澄に糸を教えたのか。


 あるいは。


「……お前、自分の意思ってのがすべて自分の思い通りになると思ってるだろ」


「自分の思うようにならないのならそれは自分の意思ではありませんよ」


「意思ってのは過去からの感情と感想を帆に受けてはしる船だ。お前は船の針路を急に直角に曲げられるのか?」


 船は、はしり続けて進路を曲げるか、ゆっくり止まるかしかできない。


 後ろへ戻るには、ひどく時間がかかる。


「のせられるなよ。自分の意思に」


 そんなことを言って、靖周は口をつぐんだ。しかし船どころか、井澄の意思は心中深くに沈んだままのような気がした。あの日から位置を変えず、ただうめきだけが水面まで響いている。


 黙って茶をすする彼の横で物思いにふけるうち、やがて八千草と小雪路がやってきた。



        #



 帰路に着いて、四人でしばし夜道を往く。アンテイクにいた頃よりは靖周たちの住まい(六区の端)ともいくぶん近くなったので、途中まで道を同じくすることとなった。五区の大通りへの分かれ道に差しかかったところで、靖周がぼやく。


「しかし腹減っちまったな。今日は仕事で多少動いたからよ、五区になんか食いに行くわ」


「兄ちゃんそんなに働いとらんかったよー。うちばっかり戦ってたのん」


「しかも風呂場ではのぞきをしようとしていました死ね」


「あれおっかしいな。口調は柔らかなのになぜか井澄からすげー害意を感じるぜ」


「害意ではありません殺意です……あれおかしいな。私はなにもしていないのになぜか八千草からすごく害意を感じます」


「害意ではなくて敵意だよ。靖周と一緒になってのぞきなどしてはいないだろうね」


「するわけがありません」


「でも本意は?」


「興味は少々……なに言わせるんですか靖周」


 そんなことを言いながら歩くうち、五区のなかほど、とある下り坂まで来る。そこで、遠く警笛のような音が鳴り響くのを耳にして、だれともなく足を止めた。


 靖周が耳を澄まして、片目をつむりながら耳に手をやる。小雪路はぴょこぴょこと足首から先で跳ねるようにしながら遠くを望もうとしている。そして八千草は、口にくわえていたパイプを手に取るとこれは、とつぶやいた。


「井澄、今日は何日だい」


「二十一ですね」


「ということは荷運びの多い日、だよな。そんでこの警笛……〝幻影列車〟か!」


「なんなのん幻影列車って」


 一人首をかしげる小雪路。まあここ半年ほどの間にちょくちょく有名になりはじめたものに過ぎないので、知らなくても仕方ないのかもしれないと井澄は思った。小雪路は自分の興味ないものには、おそろしく知識が薄い。


「説明はあとだよ。とにもかくにも行かなくちゃ。警笛は割合小さく聞こえたから、まだ四区に入る前ということかな。ああ、まさか今月は五層に来ていたなんて」


「だがまだ急げば、四区の曲所仮設駅でぶつかることもできるぜ。とりあえず妹よ、そうだな、これでいいか」


 道の脇に野ざらしと捨ててあった大きな羽目板を手に取ると、地面に置いて靖周は短刀を抜いた。切っ先をずぶりと刺して、身を縮こまらせて羽目板の一画に陣取る。


「妹、こいつに摩纏廊だ。摩擦低下のほうな」


「え? え? んと、なんかよくわからんけどわかった」


 ぱしんと手を互いちがいに打ちあわせて、詠唱した小雪路は靖周が尻に敷く板へ摩纏廊を付与した。途端に下り坂のため、滑りそうになったので井澄が靖周の首根っこをつかむ。つままれた猫のような姿勢で、靖周はしめしめと笑みを浮かべて懐を探った。


「じゃあちょっくら行くか。全員乗れや!」


「まあ四人でできそうな移動手段は、現状こんなもんしかないですか」


「……いやだなあ、苦手なのだよこれ。というか靖周の運転するものには極力乗りたくないなぁ……」


「ああ、以前いやな思い出があるんでしたっけ。というか運転と呼ぶんですかこれ」


「あ、八千草ん刀刺して支えにしとる」


 とととん、三人が飛び乗って座ると、重たくのろく板が滑りだす。じりじりと音を立てるなめくじのごとき歩みは、次第に速度に乗り始める。五区の住人がちらほらとこちらを見ているのがやはり気恥ずかしかったが、せっかく幻影列車に会える機会かもしれないのだ。最善は尽くしておきたい。


「んじゃとばすぞ。全員振り落とされねーように」


 行って、靖周が懐から手を出す。


 数枚の符札がばらばらと散らされ、井澄たちの後ろで舞った。


「せーの……〝空傘〟!!」


 振り向いた靖周の一言と共に、背後で炸裂した暴風が井澄たちの背中を押した。ど、と全身で空気を打ち抜く感触がして、横に流れていた景色が引き伸ばされて数本の色彩へ変じる。


 下り坂を、四人乗りの羽目板は凄まじい加速で疾走していた。靖周は短刀で自身の体を器用に支えながら、重心の移動と風の利用で左右に板を操っている。


「はっはぁ、久々にやったがまだまだ体が覚えてんなァこれ!」


 大層昂ったご様子で、靖周は符札を握る拳を振り上げた。吹き荒れる風の中でもよく通る声で彼は叫び、すでに平地に入った五区の大通を滑り抜けていく。冬のつめたさを袖口から注ぐ冷気に感じながら、井澄は襟巻を口元に引き上げて視界の向こうに目を凝らした。


 ……基本、仕事の際に敵を追撃するのは小雪路の役目である。嘉田屋の一件が良い例で、追尾の嗅覚でも基本的な脚力・速力でも妹に劣る靖周は、風を用いて彼女の補助をするのが常なのだ。


 しかしなんらかの事情で二人一緒に追撃しなくてはならないとき、あるいは危険域から二人で脱出するときには、決まってこの手を採っていたらしい。元々空傘は人間一人くらいなら六、七間くらいは吹っ飛ばす威力の術式だ。数枚も使えば高速移動にはもってこいである。


 乗り心地の悪さはひどいものだが。


「っと、あぶ、あぶな、あぅ」


「八千草ぜひ私の方に身を寄せてくださいさあ早く私の胸に」


「い、いやだ。それはそれで、また別の危うさを感じる」


「そんな危ないことなどなにもしませ……っとっと!」


 またも背後で暴風が弾け、あまりにも勢いが強いので、もんどりうって倒れ込みそうになる井澄と八千草。途端に小雪路の背中に支えられる。どうやら彼女は自身の体の摩擦強化を成して、板をしっかりと足裏で支えているようだった。振り向きざま、小雪路が首をかしげる。


「だいじょぶ?」


「ええ、おかげさまで。まるで私と八千草が帆、小雪路がマストですね……」


「折れないでおくれよ、小雪路」


「あっはは、折れん折れん」


 ぼやく間に、景色はどんどんと後ろに過ぎ去っていく。道行く人が危険を察して身をすくめ、進路から飛びのいていく。どうもご迷惑を、と相手には見えないだろうが軽く頭をさげて、井澄は身を低く屈めた。そんな彼の肩に手をかけ、小雪路がきょとんとした顔で問う。


「で、幻影列車ってなんなん?」


「ああ、知らないんでしたね。いやなに、夜半過ぎになって、最終列車もなくなった線路に現れるという、幻の列車ですよ」


「格納庫にも見つからない一両編成の車両で、どこから現れるのかだれも知らないのだよ。ここ半年ほど、ちょくちょく目撃されていてね。なんでもその列車は移動式の食事処なのだとか」


 風に掻き消されぬよう、ゆっくりと説明する。小雪路はへえ、とあっけにとられた顔で、井澄と八千草の顔を見比べていた。


 幻影列車は荷運びの多くなる七の倍数日に、どの層ときまりはなく唐突に現れるのだという。最終列車もとうに過ぎた時間に、警笛が鳴り響くことで来訪は知らされる。その店内では他で味わえぬ妖酒や霊酒、人外ひとはずれにしか手に入れられないような摩訶不思議な食事が振る舞われるとのことだ。


 だが店主がなんらかの術師なのか、一両編成の店内がわずかな客に埋められてしまうと、もうその日は他の人間が入れないようになってしまうのだそうだ。ゆえに幻、幻影列車。だれも店主の素顔も素性も知らず、問わず尋ねず訊きださずが暗黙の了解としてまかりとおっている……


「……らしい、です」


「伝聞ばかりで申し訳ないけれどね。確たる情報が出回らないのだよ」


「どして?」


「店に行ったことを言うまではいいが、細かい情報を他言したやつは、もう二度と幻影列車を見つけられねぇんだとよ。それが惜しいと思った奴が口をつぐんでるのと、行ったって嘘を吹聴してる奴によってどんどん噂だけが広まってんだと」


 うそつきばっかだぜ、と肩をすくめて靖周は締めくくった。ちょうどそこでぐうと腹の音が聞こえて、小雪路がちょっとはにかんだ。


「話きいてたらうちもお腹すいてきたん」


「おおそうか。俺もたまにゃ妹とぱーっと飯くいたいぜ」


「けれど席にあきがなければおしまいだからねぇ。そこが厳しいところであるよ」


「その特異性秘匿性もまた好まれる要素かもしれませんけどね。っと、もう五区の端まできたようです」


 上を見た井澄は、頭上を過ぎる看板に記されていた『この先四区 曲所駅』との表記を確認して眼鏡を押し上げた。人気も少ない時間帯だったことが幸いして、ずいぶんと移動時間を短縮できたものだ。


「しかしすごい速さでしたね。これなら列車が埋まる前に間に合うやも……あ」


 だがそこに、明らかな障害物が現れる。


 紙屑屋と古金屋の兼業と思しき荷台引きが、進行方向を塞いでいた。道幅からしても速度からしても、到底避けきれない。車の主である三度笠をかぶった男が、慌てて道の端に逃げるのが見えた。


「や、靖周ぁ!」


「ほいほい」


 八千草が叫べば、短刀を一振り抜いて、三枚の符札を貫き通した状態で前方に投げつける。


 いやな予感がして、井澄は前に座る靖周へ身を乗り出した。


「……ちょっと、あなたまさか、」


「まさかまさかの真っ盛り」


 ふざけた口調で言う靖周に井澄が文句をいおうとしたときには地面に突き立ったそれに近づいており、ちょうど羽目板が符札に乗り上げる瞬間、靖周は素早く短刀を地面から抜きとりつつ空傘を発動させる。


「ちょ、――ぃだぁっ!」


 真下からの風が、板を撃ちあげた。凄まじい空気圧に上から押さえつけられ、喋ろうとした井澄は舌を噛んだ。そのまま四人、板に押し付けられ身動きとれないままに空中を舞う。凄まじい速度が出ているはずなのに、ひどく時が遅く感じられた。


 やがて左右に振れながら地面より二間ほどの位置を滑空し、障害だった荷台を飛び越えて通りに着地した。先ほどまで感じていた重く粘っこい空気の圧力ではなく、尻から伝わる太い衝撃の圧力に井澄と八千草は跳ねた。無茶な扱いに耐えかねて、板の一部が軋み砕けた。


「あ、あぶなっ、」


「八千草ッ!」


 軽いためか後方へと落ちそうになった八千草の腕をつかみ、井澄は抱えるように引き戻す。


 一瞬、八千草が目を白黒させて、次いでなぜか力を抜いて身を任せたのがわかった。胸にぶつかるように彼女の重さを受け止めて、井澄は短く息を吐いてから運転手に文句を言う。


「靖周ぁ! あんた私らが落ちたらどうするつもりですか!」


「こんなんで落ちる程度の使い手なら一年あまりもこの島で生き残ってねぇって……。それより、急いだおかげでだいぶ四区が近づいて来たぞ。あとは走って行くとするかぁ」


「靖周、ぼくはもう、絶対に、お前の運転するものには乗らない」


「まじで。今度俺、質変化で自動二輪車オウトバイサイクル借りる予定だったんだけど。お前らも後部座席に乗せてやろうと思ってたのに」


「絶対呼ぶな。私たちを巻きこまないでください」


 言っているうちに羽目板は失速し、破片を散らしながら停止した。やっとこさここから降りられる、と井澄は立ち上がろうとした。と、己の胸元に顔を寄せていた八千草を見て心臓がきゅうと絞めあげられるような心地がした。


 そういえば先ほどはこちらに身をゆだねるような力の抜き方をしていたな、と思い返しながら、井澄は彼女の肩をつかんで顔を見る。


「八千草、大丈夫ですか」


「え、ああ、うん。近い」


「あう」


 すぐに突き離されて、それからはいつもの調子だった。



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