48:身の内という名の大事。
つづき。女湯。
湯気に満ちた板の間で、八千草は目をしばたいた。数回通ったためだいぶ慣れてきたが、これまで使ってきた湯屋とは客層も使い勝手もちがうため、どうも入ってしばらくは動くのをためらう。
今日は嘉田屋の人間と思しき女が多く、ほかには人が少ない。
「ふむ、混んではいないね」
長い髪が湿気を吸って重く広がり始めたのを感じながら、空いていた棚へ近づく。手桶を置くと帯をほどき、するりと落とす。はだけた鶯袖の着物を肩から下ろして、突袖のようにして動きを止めた。襦袢の隙間から右肩の傷痕を見て、やがて衣を脱ぐ。
もうすっかり癒えて薄くなってきているそれは、あのとき蒸気機関部へ向かう途中、名執という短剣使いに襲われて負ったものだ。その後銃撃から逃れ、長樂に出会い、階段をのぼって、通路で爆風に巻き込まれそうになり――金色の髪を振り乱すあの彼女の殺気にあてられて以降、記憶が無い。次に目覚めたのは、居留地の宿で、なぜか井澄の膝の上だった。
「あの、とき――」
あのとき八千草は、静かに目を覚ました。ただ昼寝からさめるような自然さで、けれど体が妙に重かったのを覚えている。そして自分が彼の膝の上にいることを悟ると、ひどく慌てた。しかし体の動きにはそれを表さず、動揺は心中のみに留めてしばし心音の落ち着きを待った。
その間に、彼の顔を薄目開けてうかがった。手帖に目を向けていた井澄は、こちらの観察にはついぞ気づくことがなかった。
どうせいつものような、真顔なのにふざけて見える顔をしているのだろう――そんな風に考えながら彼を見た八千草は、せっかく穏やかに整えた心中をまたもかき乱された。
彼は、常なら絶対に見せないような、複雑な表情をしていた。哀しみと、怒りと、少々の喜びと……けれど楽しさはなく。またそれらの感情が現れていることが不思議なまでの、深くすべてを諦めたような、絶望の表情を見せていた。
見ていられなくなって、八千草は飛び起きたふりをしたのだ。
「――辛そう、だったな」
あの日の彼を思い返してしゅんとしながら、八千草はけだしと湯文字を脱ぐ。
裸に襦袢を羽織るだけの姿となって、体を見下ろす。あまり膨らみがなく、女性らしさに欠ける胸部、流れ落ちるような胴、けだしと湯文字の重ね着に汗ばんだ細い脚。ちらと周囲を見やれば、比較して自分の体がいかにも貧相に思い、ひしと身を抱いた。
その腕にも、脚にも、腹にも、胸にも……大小はあるが、傷痕が残る。普段はなるだけ手套や丈の長い編み上げ靴で肌を隠しているが、さすがに裸身ともなれば目につく。とりわけ周りにいるのが体を大事に扱う商売の人間である以上、傷痕は余計に目立った。少し、弱みを刺激された心地がする。
襦袢も脱ぐと手早くたたみ、帯に並べて棚へ置いた。そして手首に巻いていた、かつて髪留めだった腕環を抜くと、着物の間に挟みこむ。腕環がまた、彼の顔を思い起こさせた。
「いやだな、一人になるとなんだか色々思ってしまうよ」
ごくごくたまに、彼の絶望の表情と似たものを八千草は見ていた。その記憶がある。
たとえばそれは、戦いに向かうとき。死地かもしれない場へ向かう自分を見て、井澄はたしかに、苦しさと嬉しさが同居した顔をしていた。
たとえばそれは、冥探偵の一件のとき。ライト商会で気を失い、再び目覚めたあの瞬間、井澄はやはりいまと同じような顔をしていた。
たとえばそれは、この腕環を見たとき。彼は「砕けていたので作り変えました」と笑ったが、八千草を見る表情にはなぜか苦しさが混じっていた。
まるで、自分の大切なものが壊れてしまったような、顔だった。
自分の中のなにが、彼をそうさせているのだろう。
なにが、彼を苦しめているのだろう。
「……ん?」
手桶と手ぬぐいを手に浴室へ歩む道すがら、思考はそこに至った。己が、彼を苦しめているのではないかと、そう判じて――胸が痛んだ。
あの冥探偵によって井澄に大怪我を負わせてしまった、と感じたときでさえ、このような痛み方をすることはなかった。そっと手首を押さえ、八千草は脈を測る。とくりとくり、明らかに、速かった。山井からなにか持病の気があると聞かされた覚えはない。不思議にくわえて、ちょっとこわくなった。
わけのわからない不調に、八千草は気を病んだ。と、横を通る女性に肩を押されて、少しよろける。よく見ればその女性は先ほど、井澄を客引きしようとしていた彼女だった。彼女はつんと上向いた釣鐘のような胸が目立つ体型をしていて、澄ました横顔はある種の自信を内に秘めた強さを帯びている。
八千草は己の身について、つまりは歳に見合わぬ幼い顔立ち、体つきについて思う。ぺたぺたと掌を上下に這わせうごめかしても、指先がひっかかりを覚えることはなく、どこまでもすとんと落ちていく。起伏を感じさせない体だった。
嘉田屋の女とは対照的だ、と感じた。
そういえば井澄は、女から個人的に誘われたことが幾度かある、と答えていた。
「……いやいや、なぜいまそれを思い返す……」
そしてなぜまた胸が痛む。わからず、答えにあぐね、八千草は思わずうなった。
足を止めて考え続けても、答えは出そうになかった。
それは自分の過去について考えるときと同じく、虚しく徒労と終わる行為に思われた。止めていた足を再度湯船へ向けて、浴室に入った八千草は乱暴に湯をすくい、頭から浴びた。熱い湯に髪がほぐされ、土埃が解けて流れる。そのまま何度か浴びせかけて、自分の中にわだかまるもやもやしたものも流れてくれないかと願った。
ところがすでに火照っていた体は多少熱を帯びてもなにも変わることなく、ただしとしとと体を伝う水滴の感覚だけがいやに鮮明だった。なめらかに、なだらかに、落ちていく。うつむいたまま嘆息した八千草は、気持ちを切り替えるのを諦めた。
垂れ落ちる長い髪を手で梳いて、八千草は丁寧に汚れを落とした。持参した石鹸のかけらを手で揉み、粘りをもたせてから体と髪を撫でるように洗う。最後は流して軽く水気をしぼり、湯船に身を沈める。肩までつかると、水中に開きかけた髪を束ねて手で押さえた。
「ふぅ……。はぁ」
あご先まで沈んで周りを見る。今日に限って、若い客ばかりだ。ぼんやりと湯気にけぶる視界の中、動く人々は皆どこか自信ありげに見えた。背筋を伸ばし、自分の女らしさを誇示して、鎬を削り合っている。湯船の縁に肘つけて、腕の上に頭を載せた八千草は目を閉じた。
普段ならべつに、さほど気になることではない。自分は自分であり与えられたこの身で以て生きていく。それは皆変わらぬ真理で、それでいいと考えている。
だが今日に限って、妙に他人のことが気にかかった。他人と自分を引き比べていた。胸の拍動はいまだ乱れたまま収まらない。この一年と半年ほど……八千草が〝いまの己〟として目覚めてからの月日の中で、こんな気持ちになったことはない。
それ以前の自分には、あったのだろうか。こう考え至って、ひときわ強く胸が鳴る。同時に、わずかながら頭痛を覚えた。こちらはすぐに治まりを見せたが、心音は変わらない。目を閉じていると頭にまで響く。
「……ぼくは、」
これまでなにかを不満に思ったことはなかった。境遇、環境、状況に対して不運だと感じるところは多々あったが、それは目覚める前の自分、おそらくは十数年生きたのであろうこの身にかつて宿っていた人格の責任だ。だから己に対しての不満とは感じられなかった。そもそも、目覚めてからの八千草はあまりに忙しく、生きる術を身につけるために暇がなかったこともある。他人と自分のちがいを、じっと見ている余裕はなかったのだ。
けれどいまは、己がこの身にどこか不満を覚えていた。鏡面に映し出されるからだの中に、気に食わない部分があると判じられた。傷が多く、見栄えが悪いという他にも。
うっすらと目を開け、湯船の縁から離れると、また体を撫でさする。正座を崩した姿勢のまま、水面に浮かぶ己の顔を波間に崩し、胸から腹部、腰にかけてじりじりと手を下ろす。
小豆ほどのわずかな突起の他、手に感じる落差は無いに等しい。肉感に乏しい。湯と石鹸に磨かれた玉のような肌はしっとりとやわらかさを孕んではいるが、細い身の下にある骨や、戦のために蓄えた筋と肉の硬さは隠し切れていない。
さぞ抱き心地は悪かろうな、と結論付けた。
「……っ。ぼくは、なに考えて……」
抱かれるとは、だれにだ。
瞬時に首から頬、額に熱がこもり、自分の顔が赤くなっているのを自覚する。白い肌に朱のさした様子は、きっと桃の皮のような色の混じり合いを見せているに相違ない。
ばしゃんと両手を水中深く沈め、もう悪さをしないよう両足の間に挟んで止める。だれ見るわけでもないだろうが、八千草はうつむいて顔を見られないようにした。だが顔の熱は引く様子がない。頭の中には悶々と、抱く抱かれるという言葉がめぐっていた。
なぜそんな言葉を考えるのか。自分はそれを求めているのか?
だれに対して。
「……ぼくは……、」
理解不能な感情に対して、八千草は薄く広がる恐怖を覚えた。
自分のことなのに自分で支配しきれない事象に、目覚めてはじめて直面した。三つ子の童よりも短い彼女の人生経験では、対処しきれない事柄だった。
まるでそれは。
自分の中に、知らない自分がいるかのような。
……顔をあげたとき、八千草は心音が静まったのを感じた。いや、音が消えただけで、胸の奥底ではまだくすぶるなにかがあるのは確かだった。けれど一旦落ち着きを見せた。
心と体の反応が、切り離されていくような感覚に、陥る。
「……おぅい、八千草ん」
「わ、わ!」
忘我からもどってきたところで話しかけられ、慌てた八千草はひっくり返りそうになり、相手に湯をひっかけた。だが顔に当たる前に平手で水を打ち落とし、あぶないあぶないとぼやきながら、幼く甘い声の主――三船小雪路は上体を屈めて湯船の外から八千草を見ていた。
「だいじょぶなん? ぼーっとしてるから湯あたりかと思ったのん」
「……ああ、まあ……いや、いやいや。お前のほうが大丈夫かと問われるべき見た目に思うけれど」
「え、そう?」
きょとんとしてこちらを見る彼女は、髪から顔から血にまみれていた。おそらくは仕事の帰りで汚れを落としにきたのだろうが、周囲の湯あみ客がこちらを見る目に、怖れが見えた。
「どうせ返り血なのだろう」
「せーかい。今日は賭場近くの貸本屋で御守りしてたんよ。十対一くらいだったかな? 忌蝕獣使わんとならん程度には力出したった」
「あー、じゃあ相手は全員病院送りなのだね」
「んー。手足の皮削ぐくらいで留めたんよ」
手桶を片手に膝を折り、ざばんと頭から湯をかぶる。靖周に似て色の薄い髪が、水滴をしたたらせて床まで伸びた。こびりついた血痕はその程度では落ちず、彼女は髪をくしけずりながら鼻歌をうたいだした。
猫目石に似る虹彩輝かす丸い瞳と、つり上がって不敵さを演出する眉。小さなおとがい、笑みにこぼれる八重歯。八千草の前にいる小雪路は他に言い表しようもなく、子供っぽい。けれどそれは顔つきに限定してのことであり、首から下は八千草よりも遥かに成熟している。
細い首元から降りた先にある、鎖骨とくぼみ。撫で肩ではないが、肩幅を狭く見せる角度をつけて上体の均整をとっている。腋から下はゆるやかに、次第にきつく曲線を描き、形を崩れさせることなく豊かに実った乳房に張りをもたせている。
平皿のような己の胸を見下ろしたあと、小雪路に再び目をやる。
「…………、」
裏返したお椀のような……いや、大きさから言えばどんぶりだろうか。小雪路が髪に手をいれるその都度、胸は二の腕に押し付けられてむゆんと形状を変える。湯を流そうと手桶を持った彼女が肘を曲げれば、前腕に乗って下からもちあげられ、重たそうに揺れ動く。いままた胸に散った血痕を落とそうと爪の先でしだけば、彼女の指の間から、弾けそうな水気をまとってまろびでる。
八千草が同じように二の腕を寄せ合っても、前腕を持ちあげても、胸には影ひとつ現れなかった。指先でしだくなど、以ての外だった。
別段小雪路の体型がうらやましいわけではない。うらやましいわけではないが、自分と比べて見てしまう。
「小雪路」
「ん、どしたん?」
「お前、いま十六だったかな」
「そだよ。ちょうどこの島が四つ葉になり始めたころに生まれとったから」
「……精神的には、ぼくの十倍くらい生きているというわけか」
見た目も上に見えなくはないと思いながら言えば、湯で頭を流して、水気をしぼってから髪の隙間より八千草を見つめた。それからぶるぶると雨中の犬のごとく身を震わせて、髪を振り乱してから湯に入ってくる。八千草の隣で、膝を抱えた。
「ん。十倍って言えばそうなるんかな。あんま数かぞえるの好きくないからわからんけど……八千草んはやっと一年ちょっとだっけ」
「体はたぶん小雪路より老いているけれどね。ただ中身については、ぼくはまだ赤子といってもいいのかもしれない」
「うちより頭いいのんにね」
「生きるための能力しか詰め込まれていないよ」
「うちもそうよ。ちゃんともの考えるようになってから、の年月を歳に数えるんなら、うちもせいぜいまだ八歳くらい」
小雪路は指折りかぞえて、曖昧な笑みを浮かべた。口角の上げ方と目元が靖周に似ていて、兄妹なんだなぁ、と八千草は何気なく思った。
「なぜ八歳なんだい?」
「お仕事しやん、しなきゃいかん、って思ったんはそんくらいの時だから。それまではうち、兄ちゃんにおんぶにだっこしとったもん」
「八歳の子供ではまだ仕方ないと思うけれど」
「この島に子供はおらんのよ」
抱えた膝の上に腕を置き、口元を影に隠しながら小雪路は言った。
それは実際的な意味と精神的な意味、双方がからまりあう事実だ。政府によってこの笹島が四つ葉に変えられる過程で、先住民だった島民は大半が本土へ渡ったり、四つ葉の中でも一区や二区へ住まうことで安定した生活を得た。
じきに子供という存在はひどく少なくなった。あまりに危険すぎるこの島での生活を捨てる者が増え、また四つ葉となって十二年の歳月が流れたことで、当時子供だった者も大半が『大人になるか、死ぬか』どちらかに道を定められていたからだ。
小雪路は死なないために大人になったのだろう。あるいは死ななかったから大人になった。
「子供、か」
「なんか気になることでもあるん?」
「いやね、大したことではないのだよ。ただ、その……小雪路は、自分の体を不満に思ったことはあるかい?」
「あるよ」
当然のように返してきたが、あっけらかんとした表情を見る限り八千草の求める方向性の答えを出したわけではなさそうだった。いや、八千草自身も、己の問いがどちらを向いているのかよくわからないのだが。
「それはもっと強くなりたいとか、思うように動いてほしいとか、そういう意味だろう……」
「あり、よくわかっとるね。でもそれ以外はうち、とくに不満ないんよ。というより、そんなこと言ってもなにも変わらんし、って思っちゃうから」
「それは、そうなのだけれど。そういうのではなく……ああ、そうだこれだ。人からどう見られているか、が気になったりはしないのかな?」
「んん、よぅわからん。どう見られとっても、やっぱりなにも変わらんって思う」
「そうか」
「ただよく見られとるなぁ、とは感じてるんよ」
「だれに?」
「だれっていうか、男の人全般から。井澄んはむしろ目逸らしとるけどねー。なんでなんかな?」
「……さあ」
男性の視線を集めていることについてはやはり無自覚なのだなと、再確認した。ぴちょんと天井から落ちてきた水滴の波紋を見るふりをして、八千草は隣の大きな胸をのぞく。突き出た彼女の膝の向こうでふかりと水面に浮かぶ白い双球は、自己主張激しく男性の視線を奪う。
けれど井澄は見ない。小雪路と会話するときはいつも目を見て、嫌そうな感じで言葉を継いでいる。どうも彼女の明け透けな性格を苦手としてのことらしいが、とにもかくにも、胸に惹かれることはないらしい。
考え至って、今度は無闇に心音が落ち着いた。もはや自分で自分がよくわからず、体調のことは気にしないようにした。
「にしても今日もつまらんかったぁ。もうちょっと強い人と戦いたいのん」
「相変わらずだねお前は。よくそんなに戦闘欲が出てくるものだよ」
「欲なんかな、これ。まあたしかに、うちは戦っとるときが一番気持ちいいんけど……でも弱くなれない、っていう思いが強いから戦うのもたしかなんよ」
「お前が弱くなるなど想像もつかないけれど」
「でもこないだも負けた」
ぶくぶくと、水面下に口元を沈めて小雪路は目を閉じる。あの小雪路が、二代目危神が? と八千草は度肝を抜かれて慌てた。すると小雪路は浮上して「完敗じゃないんけど」と言い訳するように口をとがらせた。
「八千草んも会ったっていう金髪。取り逃がしたから」
「ああ、それか」
「……いや、ごめん。いまのは嘘。取り逃がしたんじゃなくて、こっちが逃がしてもらったんよ」
目を開けた小雪路には闘志が宿る。
同時に、自らへの失意も滲んだ。
「兄ちゃんに銃向けられて、うちはもう詰んどった。あそこで撃たなかったんは、単に金髪の状況が不利になるから。あれが殺し屋殺しの仕事だったら、少なくとも兄ちゃんは死んどった」
「でもそれは、靖周がぼくらの脱出のために強力な符札はほとんど持ってなかったからであろうよ」
「うちは万全に術式使えた。でも詠唱封じられて、体術だけじゃ兄ちゃん、守り切れんかった」
兄ちゃん、とか細い声で呼ぶようにささやき、小雪路は顔をうつむかせた。
彼女と兄、靖周は、この島で手を取り合って生きてきた。なぜ親がいないのか、いつから親がいないのかは、靖周が語らないためわからない。とにかく、小雪路が物心ついたときには、すでに靖周によって育てられていたのだという。
そして靖周がいまの小雪路と同じくらいの年の頃、仕立屋によって拾われ、命がけで己を鍛えて六層四区から這い上がってきたのだという。その兄の背を見て彼女はさらに育ち、いつしか兄の背を守って戦えるだけの能力を手に入れた。
「背中くらい、守れると思っとったんだけど、なぁ」
弱気な声をあげて、小雪路はすっと体を湯船からあげた。ひたひたと床板を踏みしめて、浴室の出入り口へ向かう。
途中で足を止めて、八千草に振りむいた。
「あ」
「なんだい」
「だれにどう見られてもなにも変わらん、って言ったけど、やっぱ撤回しやん」
悲しげに彼女は瞳を流して、眉をしなだれさせて言った。
「この身が兄ちゃんから頼られんくなったら、うちはそれが一番、つらい」
ああ、と八千草はつぶやく。
……対象はちがえど、どことなくそのつぶやきに理解と賛同の意が込められていたと自らが気づいたのは、小雪路が脱衣所へと消えたあとのことだった。