46:回想という名の投影。
要人同士の会談や密会のために造られた洛鳴館は、ある山裾にひっそりとたたずんでいた。
その山とは統合協会の存在するそれであり、すなわちこの場が明治政府と統合協会、この日本国の陰陽が入り混じる場であることを示している。よって警護には警視庁の撃剣隊の他、異能を知らぬ表の者に対する隠密行動下での異能行使に長けた術師が集められていた。
井澄と呉郡は、ここへ忍びこもうとしていた。
「と言っても今日あなたにやってもらうのは潜入と援護まで。実際にはすべて私がやる……後ろでしかと見てなよ。そして生き残れ。今日やるべきはそれだけだわ」
流麗に暗がりに伸びる長身。闇に溶け込む彼女は、両手に頑丈そうな手套をはめると手首の鋼糸を引きだした。互いちがいに、あやとりを成すように、糸をつむいで正面に構える。
高い鼻の下で、大きく口を開いて彼女は息を吐いた。ただでさえ細い目がさらに細められ、短く刈った赤みがかる髪が風になびく。臨戦態勢が、整った。毛の筋ひとつずらすことなく、彼女は正面を遮る者どもを斬り伏せるだろう。
「私の影を踏み続けること。そこから外では何が起きても知らない」
じゃあ行くよ、と彼女は森を駆け抜け、洛鳴館への潜入を開始した。彼女が近づいた窓に向かって腕を振るうと、ひとりでに開いていく。
なんらかの術式によるものではない。彼女はあくまでも一般人で、術師としての素養は一切ないとのことだった。つまりこれは、ただ窓と窓の隙間に鋼糸を通し、鋭く引いて鍵を斬り落としたに過ぎない。異常な精度で操る糸の技は、すでに異能じみていた。
蛇が柵を乗り越えるように、呉郡は音もなくぬるりと滑りこむ。井澄が追いついたときには、彼女の視線の先で男がこちらを見ていた。瞬間、きんと小さな音のあとに男の動きが止まる。叫びをあげる間もなく、壁に肩をもたせかけて男は崩れる。
喉笛に、五寸釘が打ちこまれていた。呉郡が袖内から取り出し、素早く指弾で放ったのだ。強化魔術すら遣えない彼女の指弾は、けれど得物を釘とすることで井澄の硬貨幣に匹敵する威力を誇っていた。〝爪弾き〟と彼女はこの技を呼称していた。
廊下を進むと、次に一室から現れた男と目が合う。距離は一間もなく、鋼糸を振るうには近すぎる。
即座に釘を指の間から突き出すよう構え、左の鉤突きで男の右脇腹を打ち抜く。杭を打ちこんだような打撃は鈍く骨を破砕する音を散らし、拳を抉りこむにつれ釘により肉がねじれ千切れた。またも男が叫びを上げる前に、呉郡は右手からの爪弾きで喉を潰す。
「邪魔よ、散れ――」
このように並み居る猛者を、いとも簡単になぎ倒していく。
切り裂き引き裂き殴り潰し……。もちろん可能な限り戦闘を回避してはいるのだが、その気になれば端から全員殺害して回ることも容易なのだろう。そう思わせるだけの力が、彼女にはあった。
気を抜ける場でないのはもちろんそうなのだが、しかし井澄は、いま己が存在している〝呉郡の背後〟以上に安全な場所などないのでは、と感じていた。圧倒的な力で蹂躙していく彼女は、それほどまでの安心感を井澄に与えていた。
彼女は激しく、厳しく。この半年ほど師持する間、幾度も殺されかけた。だがこの強さは、暗殺者としての強度は、憧れるべき対象で全幅の信頼を寄せるに足るものだった。
いままた、〝黒糸矛爪〟が閃き正面の敵を裂断する。彼女の十指は、鍵盤の上であるかのように滑らかな運びで空を撫でる。すると遠間で、対象物が断ち切られるのだ。その様は、運指にて不可視の死神を繰るように見えた。
香の焚き込められる部屋が近づき、呉郡は手で制して井澄の動きを止めた。ちなみにこの手より前に出ると、そこはいつ呉郡の糸に切り裂かれるかわからない死地である。彼女に師持した際に、最初にならったことだ。私の間合いに入るな、とひどく叱られたものだった。
なぜいまになって昔のことを思い出すのだろう、と考えながら、井澄は前方を観察する呉郡を観察する。三秒ほどの逡巡のあとに、呉郡は制するために出した手で、井澄を追い払う所作を見せた。
「……ここで二手に分かれる。あなたは来た道を戻って、陽動に徹しなさい。退路を開いているように見せかけるのよ」
こちらに戻ってこないんですか、と問えば、ふっと笑って彼女は返す。
「二階からヤバいにおいがする。そいつ片づけてから行くわ」
さあ早く、と尻を蹴飛ばされ、井澄はもときた道を辿った。
曲がり角を過ぎて、呉郡が殺した護衛の死体脇を通った、瞬間。轟音が背を叩いて、井澄はすぐさま踵を返した。
戻ると、伽羅の匂いは四散している。通路には物焦がす熱と黒煙が満ちて、先ほどの部屋が爆発したことが察せられた。顔が引きつり、井澄は叫びだしそうになる。
「――早く、速く、戻りなさい!」
が、呉郡は生きていた。少なくともこの時はまだ。焔の渦に遮られて廊下の向こうには声しか届かないが、たしかに生存していた。
「師しょ、」
「殺すぞ! 早く戻れ!」
激昂する彼女の一言で、井澄は即理解した。重心を後ろに預け、ぐるり反転して走り出す。
彼女は職業柄か、独自の死生観を持っていた。そこに――否。底に至るまでの熟考の結果だろう。彼女は滅多なことでは、生死に関する言葉を発しない。それなのに、殺すとまで脅しをかけた理由。それほどに切迫した状況ということ。
走り、駆け抜けて、群がる護衛を打ち崩し。必死の思いで逃れた井澄が振り返ると、もはや洛鳴館は一階部分が火の中に沈んでいた。飲まれゆく館、その様に井澄は八千との別れの瞬間、血の中に横たわる彼女を思い出した。
また。また、喪うのか。振り絞る思いで、井澄はちいさく彼女の名を呼ぶ。
くれごおり。
その時、闇夜の天蓋の下、踊る影を見る。屋根の上、斜めに傾いだ足場を蹴りながら、師が戦いを繰り広げていた。這いのぼる火に囲まれ、下から照らされながら、彼女は両手を広げる。時折、釘と糸が焔のかがやきを受けて光った。
相対するのは、長身で異様に手足の長い男だった。手には白い手套、足は黒の革靴で覆っており、服装は着流し。それでいて腹部が異様に膨らんでおり、餓鬼のような見た目に――いや、腹に見えたのは巨大な袋だった。肩から提げたそれに隠され、影が大きく見えているだけだ。
顔を見れば耳たぶが大きく、垂れたまなじりと半端に開いた口元、口周りに生える黒い髭とが目に入る。顔つきは丸味を帯びてふくらみ、妙にてかりがある――おそらくは仮面だろう。姿は袋と仮面に隠され、さっぱりと素性がつかめない。
そいつはゆっくりと、滑るように近づく。袋に引っ張られるような、重心を前にあずけるような動きだった。呉郡との距離は五間ほどだが、危険と判じたか彼女は近づかせないよう釘を放つ。ところが当たっても意にした風ではなく、三歩ほど歩んで仮面の男は肩をいからせた。
それから上体をじりじりと、異様な筋肉の使い方をしながら、緩慢に足場へ近づけた。袋の上に乗って、這いつくばった姿勢である。その状態から――あの呉郡が反応できない速度で、彼女の左手へ回り込む。さながら四つ足の御器齧り。そして手足を振りかざし、低い姿勢から蹴りや掌底を打ちこんでいく。
二、三発身に受けながら、彼女は後退した。屋根の端に追い詰められ、あとがなくなる。息を呑む井澄の見る前で、彼女は両手を広げた。風切る糸が、焔に煽られつつ像を結ぶ。
交錯は一瞬だった。
両腕を前方へ、閉じる形で振るう。同時に爪弾きで両手より釘を六本飛ばし、牽制した。痛みが無いのか仮面の男の反応は薄いが、五寸釘で両手を足場に縫いつければ関係ない。襲いかかる二本の糸が、回避できない男の首に迫る。
途端、男の両腕があがる。釘で骨と肉を砕き割いてでも、防御を優先した。血にまみれながら糸を払った男――その眼前に、呉郡が迫っていた。
払われた糸を引き戻し、両手の手套にからませる。丈夫な手套は切り裂かれることなく、形を保った。そして糸は、引き戻す際に男の首の後ろにも回っている。
呉郡が両手を強く横へ引き絞ると、仮面の男の両腕、首が、次々と宙に舞った。確実な止め。返り血に赤くなった呉郡は、ふうと息を吐いて糸を袖に戻す。
だが、
井澄は見た。
油断せず、次の動きに移れるはずだった呉郡が、突如として上体を折って姿勢を崩し、
次に仮面の男が抱えていた大袋の中から、革の手套に覆われた手が伸びるのを。
「――――っ」
声にならぬ声をあげたのは、井澄か呉郡か。
手は呉郡の足首をつかんで引き、同時に首と両腕のとんだ胴体も動いた。頸椎と食道を叩きつけるように、呉郡の体にぶつかろうとする。
異様な事態だが、回避できるだけの時間は、あったはずだ。
彼女は驚愕や戦慄を律して、反射的に殺戮行動のみを選択できる精神構造をしている。
だというのに、かわせなかった。彼女の足に受ける重みが増して、耐えきれず、背面に向かって倒れ込み、そこに足場は無く。
自由落下した先は、一階から漏れ出た焔の中だった。なにもできないというのに井澄は手を伸ばし、視界の中、伸ばした手に隠れるかたちで呉郡は落ちた。まずはどん、と鈍い音がして、びしゃりと水気の広がる音が続いた。
伸ばした掌の向こうで、呉郡黒羽は、死体にのしかかられたまま無残に死亡した。
#
昔の夢を見たのは、先日見た焔のためか。もしくは彼女の現状が、自分に似てしまったからか。
布団の中で身を起こした井澄は、小汚い天井へまだ慣れない。室内は以前よりも手狭になり、四畳半といったところか。まあべつに元来物を多く持つ性分でもないのだが、手帖の置き場が少なくなったことにはすこし困った。書き物のための机の下、クロウゼットの引き出し、ベッドの下。おける場所はだいたい埋まってしまった。
ふと壁を見て、天井近くに棚でも作ろうかと考えるが、こんこんと叩いてみてその薄さを知るとこれは危険な行為だと判じられた。棚など作って負担がかかると、壁が崩れるかもしれない。
「ん? 待てよ」
壁が崩れたら、八千草の部屋と繋がることができる。もちろん故意にそんなことをすれば彼女の逆鱗に触れるのは必定だが、棚を作ろうとしていたという前提があれば例のもにょもにょとした口調で「まったく、しようがない……しょうもない」などと言って許してくれる気がした。
となれば早速、と思ってなるだけ崩し易く壁の薄いところを探ろうと、井澄は壁をさすって耳をぴとりとはりつけた。
瞬間、ざぐんと音がして鼻っ面に釘の先端が現れた。
「……っひぃ、」
「……おや? 井澄、起きていたのかい」
くぐもった声音が壁の向こうから聞こえた。ばくんばくんと鳴る心臓はいまにも口から飛び立とうとしていたが、つばをひとつ飲みこんでこらえる。
「え、ええ、まあ」
「……あれ? なんだか声が近いね……あ、ひょっとして壁際にいたのかな。すまないね、いまちょっと壁に傘掛けでもこしらえようと思って、釘を打ち込んだのだけれど。当たってない?」
「幸いにも」
「そうかい。しかしこの部屋、こうまで壁が薄いとは誤算であったよ。下手なことをすると崩れるかもわからないね。なるだけ壁に触れることはしないようにしておこうか」
「……はい、承知いたしました」
「? どうしたのさ井澄、元気が無いようだけれど」
朝っぱらから元気な人もそういませんと返して、溜め息をつきながら井澄は壁より離れた。
クロウゼットからいつもの衣裳を取り出し、袖を通して扉を開ける。六畳ほどの居間はテエブルと炊事場でほとんどが埋まり、家具は少ない。隣の部屋から八千草も出てきて、あくびをひとつかましながら朝食の準備に入った。
居を移して四日。ここぞとばかりに貯蓄を吐きだし、井澄は新居を定めた。二人きりの暮らしは、けれどいままでと大して変わり映えのしない日常として井澄の前に開けていた。
統合協会からの追っ手がいたこと、彼らに八千が狙われていること。これらの事情を鑑みて、井澄は住居を他へ移すことを提案した。二人の住む五層三区は治安もほどよく、住民もましな人間が揃っているが、それは荒事に慣れた者が少ないことも意味している。要はアンテイクが抑止力となっているから治安が良いだけで、アンテイク自体が狙われてしまえば、どうにもならないのだ。
いろいろな考慮の末に辿り着いたここは五層五区。居住環境としては、手狭になったこととぼろいことを差し引いてもあまりよろしくない。周囲に住む人間は荒っぽく面倒な人格を備えた者ばかりで、騒ぎは頻繁に起こる。
けれど力さえ示せば必要以上に関わってくることはない。アンテイク所属の二人に、わざわざ戦いを挑む者はなかった。そうなってしまえばあとは楽なもので、こうした場の人間に特有の「共通の敵への嗅覚」は防犯としてはとても役に立つ。怪しい輩、見慣れぬ輩があれば、即周囲の住人が警戒する。その気配が伝播すれば井澄たちも気づくことができる。
これで夜襲には備えられるだろう、と井澄は判断していた。
「……代理とはいえ、店主が店を離れるというのはいかがなものだろうね」
「安全が確認できるまでは仕方がないです」
「しかしお前がまさか、統合協会ゆかりの者だったとはね」
「すみません、追っ手がかかるとは思っておらず」
「なに、気にしてはいないさ。この島にいる人間など、皆後ろ暗いところを抱えていて然り。……おそらくはぼくも、ね」
水に浸しておいた米を炊きながら八千草がぼやき、井澄が味噌を探しながら気の無い返事をした。
八千草には、自分が狙われているので居を移すと伝えてあった。彼女が狙われているのだと教えれば、それはそのまま彼女の過去に触れざるを得なくなってしまう。それは彼女も、望むところではないだろう。
八千草は他人の過去も詮索するつもりはないが、自分の過去も知るつもりは無いらしい。それは湊波より聞かされたことで、彼は多くを語らなかったが、井澄にもだいたいの予想はついた。
――医院で目覚め、記憶を失っているにもかかわらず、この四つ葉という島に流された身の上を考えれば。自ずと答えはすぐ見つかる。己の過去が、なにか過ちを犯したのだと、推測は成り立つ。
「井澄、あとで水を汲んできておくれ」
「昨日汲んでおいたはずですが」
「いやなに、汲み置きにしておくと、なにか仕込まれるかもわからないだろう? 悪いけれど遣いきってしまったのだよ。……五区ともなると上水道がないのがつらいね」
言いながら八千草は水瓶を指し示し、その横顔と水瓶のならびに、井澄はあのころを想起する。
過去。
過去の自分がなにをしでかしたか、知りたくないと思うのは当然だ。記憶なく身に覚えが無いとはいえ、その身がなしたことならばそれは罪だ。だから井澄は彼女に、なにひとつ過去のことを伝えない。かつて彼女と共に暮らしたこと、おそらくは自分こそが彼女に一番近しい存在だったであろうことも伝えない。
この島に来て、初めて出逢った存在として、今日まで振る舞ってきた。湊波などは勘付いている部分もあるだろうが、幸い彼はなにも語らない。ただ仕事で上に立つだけで、井澄たちに深く関わろうとはしなかった。彼のことはいまだに好きになれないが、その点に関しては井澄も感謝している。
「ぼくは火の番をしているから、早めに頼むよ。あと、余裕があったら帰り路に露店で食材を見つくろってきてほしいな」
「わかりました。では行って参ります」
歩きだす井澄は、ふと彼女の手元に目が行く。こつ、こつ、と律動刻むように床を叩いているのは、丁の字型の杖だ。
大路晴代の遺品。さすがに仕事では扱いに慣れている朱鳥しか用いないが、家の中にいる間は、なるべく手放さないようにしているらしかった。
船舶〝藤〟から帰還し、居留地を出てアンテイクに戻った井澄たちは彼女の訃報を知った。情報屋として常々狙われていることの多い彼女だったが、まさか本当に殺害される日がくるとは、だれもが信じられなかった。
八千草は取り乱し、青ざめた顔で彼女に対面することを望んだ。しかし彼女は正体不明の伝染病に罹患していた恐れがあるとのことで、遺体を焼くまで対面は実現されなかった。そうして骨となった大路を見たところでやっと認識に現実が追いついたか、憔悴しきった顔で八千草は手の上に骨を載せていた。
以来、形見として譲り受けた仕込みの杖を、ああして手に持ち続けている。
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「あら、来たの」
九時ごろアンテイクに向かうと、横浜日毎新聞を眺めていた山井が顔をあげた。今日は靖周と小雪路が仕事で出払っており、店番は彼女である。
八千草と井澄がストオブの横に外套をかけていると、彼女は奥へ引っ込んで薬缶を手に取った。ちょうど湯が沸いたところらしく、紅茶の香りが店内に広がる。
「療養もそろそろ終わりってことね。その後怪我の具合はどう」
「おかげさまで復調しました。私も八千草も万全です」
「そりゃよかったわ。しっかし、あれからもう七日ほど経ったけどさ」
台所から山井が投げてきた新聞を、井澄は片手でつかんだ。こちらは本土発行の横浜日毎新聞ではなく、踊場などが関わる四つ葉新聞だった。
「ほい、ほい」
「わ、っとっと、あんまり連投しないでください」
続けざまに六つ投げつけられ、井澄は腋に挟んだり顎の下にとらえたりしてなんとか落ちないようにした。けらけら笑う山井を尻目に売り物の机へと新聞を下ろすと、井澄は記事の一面から順に目を通していく。
「これは」
「……ふむ、そういうことかい」
後ろから首を差し入れてきた八千草が、髪を掻きあげながら誌面に目を落とす。近い横顔にどきりとしながらも井澄は平静を装い、記事の中のある共通点について言及する。
「どうやら、赤火はあの襲撃をなかったことにしてるようです」
「あれほどの大規模な襲撃、そもそも緑風や黄土の面々にも知れ渡っているだろうに」
「まだ〝水面下の抗争〟と位置付けなくてはならないんでしょうよ。赤火も青水も、どちらもね。後ろ暗いことがあるのか、まだ機ではないと力を溜めているのか」
一触即発、島全土を巻き込んでの大波乱の幕開けかとも思われたが、いまのところ島は平穏を維持している。各葉の不気味な沈黙は人々の間に不安を呼び、四つ葉新聞以下の三流紙ではことさらに不安をあおり立てるような憶測が書きなぐられている現状だ。
「とりあえず大きな動きとしては、月見里さんは赤火に抗議へ出向いたっぽいけど。黄土は直接的な死傷者は出てないから……警護体制の管理責任について問い質してちょっとした対外交渉の札を揃えに行ったって感じかしらね」
「嘉田屋の件もありますし、二度目ですからね。さすがにもう忠告のみで黙っているわけにはいかないのでしょう。ところで仕立屋はどうしているんです? 大路さんの葬儀には顔を出していましたが」
「緑風の立場としては、そもそもあいつの不在が不義理になってる部分もあるからねえ。ま、賠償とかじゃなくて、あんたらの聞いたっていう販路拡大について深く切り込むつもりみたいよ。なるだけいい条件を取りつけられるように。いまは下準備のために流通方面の専門家と根回しの最中」
「めずらしくまともに仕事をしているのだね」
「アタシもあいつの仕事内容を把握したのは二年ぶりくらいだわ」
新聞の上に載せてきた紅茶をすすめて、山井は白衣をひるがえす。井澄と八千草はしばし熱い香りに胃を温め、横浜日毎新聞に目を通した。軍拡、小麦の値上がり、海軍の保有船舶の増強などについてやかましく書かれていた。
やがて飲み終わるころ、応接室から漂ってきた七星の煙に触発されて、二人は煙草を取り出した。
「……大路さんの件だけど」
姿を応接室に潜ませたまま、山井は言葉を継いだ。井澄と八千草はストオブの横で火をともし、煙をくゆらせながら声の方に目をやる。
「アタシが実際に見たわけじゃないけれど、皮膚が黒ずんで血を吐く症状もあったみたい。それが喀血なのか吐血なのかは、そのばか医者が怖がって腑分けしなかったみたいだからわかんないけど。急な発症、なんらかの伝染病かしら……でも感染源も病名もいまだ不明」
「オウトモビルでの事故は、病にやられての副次的なものに過ぎないということかい」
「そのようね。あと伝染病っていやぁ、六層六区で赤痢が流行してるらしいから。あんたら、近づくんじゃないわよ」
「物騒になってきましたね」
「やれやれ、この島で物騒なんて言葉聞く日がくるとは思ってなかったわ。とっくのとうに物騒が日常だと思ってたのに」
煙を喫む間があり、ふうっと応接室から吐きだされる。顔が見えずとも、表情の読めるだけの間だった。
「靖周も言ってたけど、ひどく危うくなってきてるんじゃないかしら。この島全体、なにか混沌が晴れつつあるみたいよ」
「混沌が晴れるのなら良い気もしますが」
「そりゃ普通ならそうなんでしょうけど。どうも、だれかの、外からの意志で流れを変えられてる、そんな気がする」
勘だけど、と付け足して山井はまた黙った。
パイプをくわえる八千草は、窓の外を眺めて静かにたたずんでいた。彼女の手首には、八千の残した腕環が光る。砕けた髪留めを用いて作った腕環を見て、最初八千草は戸惑ったものの、いまは慣れたらしい。
……失われることがあっても、いつかは慣れる。慣れは鈍化を生む。良くも悪くも。
早くいつも通りになることを願いつつ、井澄は紙巻煙草の灰を落とした。
釘打ち。ネイルノッカー。