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明治蒸気幻想パンク・ノスタルヂア  作者: 留龍隆
四幕 人殺嫌疑

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44/97

44:喪失という名の獲得。

回想。

 出会いから別れまではわずかに一年弱だった。いまでは楽しかった分、後悔ばかりが強く心にこびりついて残っている。


 彼女と出会ってすぐ、井澄はまた倒れ伏してしまった。そして気がつくと、あばら家の中に寝かされていた。


「起きた?」


 横合いから声をかけられて、薄い布団をはねのけて井澄は身を起こした。視界に広がる――というほど広くもない空間には、かまどと水瓶みずかめ、柳行李がひとつ。それきりの、六畳もないような場所だった。丁寧に掃除はされているようだがほこり臭さはぬぐえず、苦しいまでに圧迫感のある天井がすぐ真上にある。


 ここはどこか、と問えば、彼女は矢田野山の中腹だと答えた。地理には疎い井澄だったが、行軍に際して調べた中にその山の名を見た覚えがあり、ひとつ山を越えてきてしまったのだと知った。外の日を見るに、時刻は昼過ぎだろうか。秋の涼しい風の中に、強い日差しを感じた。


「血、ついてたけれど、怪我はないみたいだね」


 じろじろと井澄を観察する少女は安心したように言って、彼の着る三つ揃えに目線をやった。あ、と服装に気づいて、井澄は肩の肩章をそれとなく外す。晴明紋をあしらった肩章は統合協会における階級を示すもので、異能を知らぬ外部の者にはあまりさらさないようにと村上、レインに言われていた。


 二人はどうなったのだろう。どうなってしまったのだろう。ふいに強い不安に襲われて、井澄は黙りこくった。けれど少女は追及する気もないようで、縁の欠けた湯呑に入った水を差し出し、井澄ではなく戸の外を見ていた。紅葉の葉が枯れ落ちて、地面を赤に染めていた。


 水と介抱に感謝を述べ、井澄は一応偽名として〝いすみ〟と読みを変えただけの名を名乗った。少女は橘八千草と名乗り、この山に長く一人で住んでいると語った。


 介抱の礼をしたいと思って井澄は懐を探ったが、あいにくと行軍のためのわずかな路銀の他に持っているお金はなかった。これがないと帰れないだろうか、と考えたが、同時に彼の中には「どこに帰るつもりだ?」との自問が生まれていた。


 帰ったところで、受け入れられるのだろうか。行軍は失敗で、おまけにあの二人とは、とてもじゃないが再会してまともに会話をかわせるとは思えない。なにが起こったのかわからないが、村上は乱心していると見えた。たまらなく、恐ろしく、井澄は青ざめて震える。暗い面持ちの彼に気づいたか、八千草はじっと井澄を見た。


 考えを巡らし……しばらくは、統合協会の様子を見ようと判じた。幸い、山を二つ越えるだけで協会まで戻ることは可能だ。周辺事情を知った上で戻っても遅くは無いはずだと、井澄は己をごまかすように考えた。となれば、さしあたりお金は必要あるまい。


 そっと取り出した路銀を八千草に手渡すと、彼女はひどく狼狽した。なにをそんなに慌てるのか、と井澄は疑問に思ったが、あまりに彼女が固辞するので仕方なく懐に納めた。


 ややあってから井澄は彼女を買おうとしていると誤解されたことに気づき、ひどく打ちひしがれた。素直に礼がしたいのだと申し出ると、彼女は自分の誤解に気づいてまた慌てた。


「大したことは、してないから」


 こう言うのだが、それでは気がすまなかった。では代わりに、と小隊全員に装備として支給されていた銀の短剣を置いていこうとしたのだが、こちらも受け取りを拒否された。ではどうすればと途方に暮れる井澄に、八千草はこう提案した。


「もう昼過ぎだし、山を降りるには遅いと思う。今晩も泊めたげるから、お礼っていうなら薪拾いと水汲みをお願いできるかな?」


 やったことのない仕事であったが、井澄はこれにうなずいた。なるだけ乾いた枝を、と頼まれて、森へ足を運ぶ。彼女はというと、食材を探しに行くと言って森に消えた。大きなかごを持って茂みに分け入る姿は堂に入っている。勝手知ったる山なのだろう。


 夕刻までかけて、井澄は背にいっぱいの薪を拾って戻った。水瓶も汲んだ清水で満たし、ついでだからとかまどに火をいれようとする。だが火をつける道具が見当たらず、仕方がないので自前の燐寸を擦った。そこに八千草が帰ってきて、頬をほころばせながらありがとうと言ってくれた。お礼なのだから当然だと言おうとしたが、なにやらむずがゆくて言葉にならない。


 彼女は少量の米を炊き、鍋に水を注いだ。湯が煮立つまでに包丁で手早く下ごしらえを済ませ、山菜と茸を味噌で煮た、簡素な食事ができあがった。


「大したものは出せないけれど。食べたら、山を降りる道教えてあげる」


 こう口にして、彼女はおずおずとかまどから鍋を下ろした。味噌の風味の中に、芳しい茸と山菜の香りが立った。丸一日ろくなものを食べていなかった井澄には十分な食事に見えて、ありがたくこれを頂戴することにした。


 二膳の箸を持ってきて、彼女は自分のぶんも取り分けた。いただきます、とささやくように言って、しばし黙って食事をとる。素朴な味わいの食事は腹に染みて、井澄は空腹が消えゆくのを感じた。八千草は華奢で小柄な見た目によらず健啖家で、よく食べた。


 食べ終えると、彼女は手招きして井澄を呼んだ。暗くなりはじめた森の向こう、ぽっかりと口をあけた道が在り、そこを行けば広い山道に突き当たると言う。


「明日の朝になったら、あそこを下ればいいよ。薪と水汲み、すごく助かった」


 助かったのはこちらのほうだった。井澄は深く礼を言い、彼女は両手を振って大したことじゃないと返した。今後については……まだあまり考えることができていなかったが、とりあえず人里で統合協会の支部を探し、情報を精査してから身の振り方を考えようと思った。


 八千草は水浴びをしてくると言ってまた森に消え、一人小屋に残った井澄は少しだけ休もうと身を横たえた。その前に、と路銀の革袋を板張りの隙間に隠し、いつか八千草が見つけてくれることを願っておく。朝になったら出立だ、とまどろみに落ちて、井澄は思考を中断する。


 目覚めると、明け方だった。寝過ぎてしまったと思いながら、井澄は室内を見渡す。彼の体には薄い布団がかけられており、どうやら八千草は着物を数枚重ねることでかけ布団の代わりとしているようだった。申し訳ないなと思いながら布団を外し、彼女の上に重ねた。


 寝返りをうった彼女はぬばたまの黒髪を乱し、どこか苦しげな顔であった。なんとなく後ろ髪をひかれるような思いがして、井澄はしばし足を止める。出ていってしまっていいのだろうか。なぜかこのような疑問が生まれた。彼女の苦しげな顔は、なかなか終わらない。


 結局、挨拶もせぬまま出るのは無礼だと思い、彼女が目覚めるまで待つことにした。


 すると、朝もやが晴れて日も照ってきたころに、小屋の外へ気配を察した。すわ村上が追ってきたかと身構えるが、もし村上などが来るのなら、もっと巧妙に気配を断つはずだと考え直す。


 小窓からそっとうかがえば、やってきたのは三人の男だった。着物を身にまとい、散切りの頭を左右に振って、辺りを気にしている。統合協会は三つ揃えの人間が多く、西洋の文化を多分に取り入れた生活をしているが、まだまだ山間のほうではこのような文化風俗が当たり前なのだな、と書物から得た知識に実感が追いついた。


 彼らは八千草の身内だろうかと考えるが、それにしては態度が怪しい。不審に思って、短剣と羅漢銭を後ろ手に構えながら、井澄は男たちの前に躍り出た。


「な、お前、何者だ」


 通りすがりでここの者に助けていただいた、と素直に述べる。男たちは問いかけたくせに「声をひそめろ」と井澄に言い、手にしていた麻袋を地面に置く。人攫いだろうか、と警戒を強めるが、麻袋の中には米と味噌壺、干した芋などの食料が納まっていた。


「悪いこた言わねえ、早く逃げろ」


 もう一人の、のっぽの男も言う。一体なにをそんなに怯えているのかと問えば、馬面をしたもう一人が言う。


「そこに住むのは悪鬼だ」


 悪鬼がわざわざ夕餉ゆうげを振る舞うだろうか、と首をかしげるが、男たちはそれ以上語ろうとはしない。ただ麻袋の中身を渡しておけと告げて、早足で去っていった。


 さっぱりとわけがわからず戸惑っていたが、かねてから考えていた通り彼女が起きるまで待とうと井澄は室内に戻る。八千草が目覚めたのは、待つのに飽いて時間つぶしに井澄が食事の準備をはじめたころだった。


 薪を積んで火をつけようとしたところで、着物と布団の山をおしのけて彼女は起きる。そして置いてある麻袋を見て井澄の知らぬ彼女の事情を再確認したのだろう、ああ、とひどく面倒臭そうにうめいて、乱暴に頭を掻いた。


「人、来たんだ」


 よくわからないことを言っていた、と井澄はこれまた素直に応じた。すると彼女は自嘲気味に笑って、井澄から視線を外した。


 途端に、薪が発火した。燐寸を取り落としたか、と手元を見るが、まだ擦られていない。驚きに顔を染めながら、井澄はもう一度八千草を見た。彼女の顔には、いたく傷ついた様子が見られた。貼り付けた表情は長年遣っているものなのか感情がすりきれており、自嘲の中には皮肉や韜晦はなく、ただ痛ましさだけがのぞいていた。


「こういうこと。焼かれたくなかったら、早く山を降りなさい」


 この小屋に火つけ道具がなかった理由が、ようやくわかった。同時に、彼女を恐れる男たちの態度にも得心いった。女の身一つでこのような山深くに住んでいることからなにがしかの事情があるとは推察していたが、よもやこのような理由だったとは。


 井澄は考え込んでから燐寸を懐にしまい……、ひとこと「便利だな」と言った。きっと目線を上げた八千草は凄まじい勢いで井澄をにらみ、ともすれば彼の体も薪に続いて消し炭になるのではと思われた。しかしそうはならなかった。井澄の目を見て、彼女は動きを止めた。


 恐怖や、それをぬぐい去ろうとする虚勢がなかったと言えば嘘になる。どのような術かは知らないが、彼女の発火能力の前に井澄の力はあまりにも弱い。けれど臆して戸惑うほどに怖がることはない。なぜなら井澄はそうした異能の力が存在することを、知っている側の人間だ。


 井澄が燐寸を擦って行うことを、彼女は別の方法に頼る。ただそれだけの差だと理解していた。


 どうして怖がらないの、と八千草はつぶやいた。怖がってほしいかのような物言いは語尾が震えていて、むしろ彼女が自らの力に臆していることを如実に物語っていた。こんな化け物じみた力を、と続けたので、井澄は口の中に刺飾金を転がした。


 ――自分を蔑むように、化け物なんて言おうとしないでください。そう言って、井澄は八千草に近づいた。今度は彼女が驚く番だった。


 殺言権で、彼女の言葉を殺した。化け物じみた、と自分を騙る言葉を殺したので、彼女はまだ自分がその自虐を口にしていないと思いこんでいる。心中を読まれたような心地だろう。次いで彼女は「物心ついてこのかた、迫害されてきた。化け物と呼ばれてきた。感情がたかぶって、村の一画を焼いてしまったこともある」と告白した。これもまた殺言権で殺し、井澄は彼女に「村を焼いて気に病むのなら、それは人の心があるということでは」と述べた。


 彼女は、井澄が心を読む力があるように感じたらしかった。そういうわけではないんです、と言って、井澄は己の力について話した。統合協会によって異能は秘されているが、たしかに存在していると。あなたのような力も、この世の摂理に基づいて存在していると。一般からすれば慮外の異能でも、ところ変われば当たり前の存在だと。


 ……長い説明になり、日は高くのぼった。


 昼下がりになって話を終えたころ、八千草は静かに涙をこぼした。この世の中で己がはじき出された存在だと感じていたのが、同様のひとびとがいると知って安心したのだろう。泣きやむまで、井澄は彼女のそばに居続けた。


 また昼を過ぎてしまったので帰れないと言い、井澄は薪を拾いに出かけた。八千草も食事の用意をしなくては、と森に入っていった。


 だが昨日とはちがい、作業が手につかない。生まれてはじめて目にした、同年代の少女の涙を見て、井澄は自身の胸の内にこれまで感じたことのない疼きを覚えていた。時間が経てば治るだろうと思い、薪探しに集中しようとするのだが、我に返ると彼女のことを気にかけていた。


 夕食を終えても気は晴れず、八千草が水浴びに出かける間に彼も体を水で洗ったが、胸の内のしこりはとれない。もやもやしたまま眠りにつき、また翌日、目が覚めてすぐに同じ感覚に支配される。これは一体なんだ、と考えながら朝食の用意をなし、起きてきた彼女に火を頼んで、共に食事をとる。彼女は終始そわそわしていた。


 井澄も八千草も互いになにも言わず、身じろぎひとつしないまま昼まで過ごした。日が頂点に達し、傾きかけたところでようやく、井澄はぽつりと「また帰れない時間になった」と述べた。八千草はこれを聞いて少し嬉しそうにしながら「そうだね」とつぶやいた。


 それからは、ぽつぽつと雑談をして、また夕食の準備に二人出かける。食後は別々に水浴びをして、別々に眠る。翌朝起きて、また朝食を食べて、昼過ぎまで無言の時間が続く。井澄は日が高くなった頃合いを見計らって「また帰れない」と告げ、八千草はこれにうなずく。




 ぐだぐだと、言い訳がましいこのやりとりを続けて、二人は徐々に親しくなっていった。八千草は井澄よりひとつ年上だとわかると、ちょっとだけ態度が大きくなった。ただ、世間のことをあまり知らない彼女にいろいろ教える役割となったので、井澄はあまり彼女が年上だとは感じなかった。


 次第に昼に定例のやりとりもなくなり、お互いに遠慮がなくなってゆく。井澄は彼女に本名で呼ばせ、井澄のほうは彼女を八千、と呼ぶようになった。そして水浴びこそ別々のままだったが、冬に入るころ、二人は寝所を共にするようになった。寒いからだとここでも互いに言い訳を交わした。


 そのころになって八千が、ひとつしかない枕を抱えながら布団の中でつぶやいた。


「……じつはあの森の道、半日もかからずに人里までいけるの」


 だと思った、と井澄は返した。枕に顔をうずめた八千草は、けれど顔の赤さを隠しきれない。赤くなった耳が、掻きあげた髪の隙間からのぞいていた。八千、と呼びかけると、彼女はわずかに枕から顔をのぞかせて、薄く笑うと井澄にしなだれかかった。


 井澄は笑って、こうして笑いあえる話としてそのことを語り合えることが嬉しくなった。きっと当時の彼女は、とても切実な気持ちの元に、このささやかな嘘をついたのだろうから。


 しかし村の人と八千は、最後まで相容れることはなかった。話を聞くところ人的な被害はなく、彼女の焔で焼けたのも納屋一つとのことだったが、異能への理解は生まれることがなかった。この力でなにがしかの利益を生めたのなら話もちがったのかもしれないが、井澄はあまり彼女の力を「利用する」ということに積極的になれなかった。


 こうして数カ月が過ぎた。井澄は八千と村の仲立ちのような役割となり、多少の怖れと憐憫と蔑みとを受けながらも、まあまあ円滑に交流を行えるようになっていた。というのも、彼らの村と他の村との争いに井澄が割って入り、殺言権を――バレないように用い、争いを収めたことがきっかけだった。


 いつかは、異能に理解を得られる日もくるだろう。そう考えて、井澄は日々を安穏と暮らした。もうこのころには統合協会に帰ることも考えておらず、彼女と二人、ここでゆっくりと過ごしていくのも悪くはない、と思い始めていた。


 ……井澄が己の認識の甘さを思い知るのは、夏の日のことだった。


 いつものように村に降り、物々交換や交渉に励んでいるとき、周囲が騒がしくなった。一体どうしたことかと思いながら彼らの話題に耳を澄ますと、森から黒煙が上がるのを見た者がいると言う。


 途端に、井澄に向けられる視線が厳しいものとなった。井澄は焦り、いやな予感に胸を覆い尽くされた。食事の準備か炭焼き程度にしか焔の力を使わないと、八千と井澄の間では約束をしていた。村からも見えるほどに大きな黒煙が上がるような使い方は、するはずがないのだ。


 急ぎ、井澄は八千の元に戻る。頭の中では、今朝の彼女との何気ない会話が思い返されていた。何気ない、別れの前にはあまりにも不釣り合いな、軽い会話。内容もよく思い出せない。ただ、彼女が笑っていたこと、その事実だけが重要で、そんな日々が、掛け替えのないもので。


 いずれ失われるなどとは、思ってもみなかったのだ。


 辿り着いた小屋の近くは、すでに焔にまかれていた。紅蓮の火線が目に痛い。薪を拾った森も、水浴びをした湖畔も、すべてが赤く染められていた。真っ赤になった木を見て、秋にはまだ早い、などとくだらないことを井澄は思った。


 煙が多いせいではなく、息が詰まる。まともな呼吸の仕方を忘れてしまった。浅く荒い息を繋げてなんとか進み、せきこみながら八千の名を呼ぶ。


 三度目の呼ばわりが、大きな音に掻き消された。巨大な樹木が倒れたような音。決定的ななにかが、踏みにじられた音。心臓が止まりそうな恐怖におぼれながら井澄は火の海を渡りきり、そして小屋に辿り着いて、見つける。


 頭から血を流し、仰向けに倒れる八千。火の揺らめきを照り返す血が、額を下って顎まで流れ落ちている。左足と左腕からも、血が流れていた。傷口を見て銃撃だと気づき、やっと井澄は先の轟音が銃声だったと知る。


 八千、と呼びかける。返事は無い。二度呼びかける。返事は無い。


 だが触れることは、できなかった。揺れ動かすことで悪化するのでは、などという冷静な思考ではない。触れて、彼女の体から鼓動が聞こえなかったら――夕暮れのように赤い景色の中で、井澄は己の想像に血管が凍りついたような恐ろしさを覚えた。


 こうして井澄の世界は、二度目の終わりを迎える。村上とレインに続き、今度は思い人を失った。絶叫することもできず、かは、かは、と乾いた泣き声をあげて、井澄は己の無力を呪った。


 世界を呪った。




 そして彼に出遭う。火の海をまたいでやってきた一団、その先頭に立っていた小柄な男……羽織袴に被外套をまとう出で立ちの人物。


 彼は賀茂秀徳かもひでのりと名乗った。たまたま近辺を調査中に立ち寄り、山火事に気づいたのだという。どうやら彼自身には医術の心得はないようだったが、ふもとからよい医者を呼ぶと言って八千を運び始める。井澄は深く感謝し、山を駆け下って彼らに随伴、彼らが馬車に乗り換えてからも走って追いかけ、医院の前で手術の終わりを待った。


 なんでもいいから彼女を助けてくれと、だれにともなく願い祈った。ややあって、賀茂が近づいてくると「二、三うかがいたい」と話を訊かれ、彼女の異能について知っていたかと問われた。顔を上げると、「統合協会、というのを知っているか」と言われた。


 官憲や政府の裏にある統合協会は、当然このような異能の絡む事件において関わってくる。通常の法では裁けない案件は、同じ穴のむじなに委託されるというわけだ。やっと井澄は彼の名〝賀茂〟の字面を知り、そういうことかと得心した。


 ことここに至っては隠しておれまいと、井澄はうなずく。賀茂はそうか、と肩を落とした様子で、「申し訳ないが、回復した暁には放火の咎で連れていかれる」と告げた。もちろん銃撃した下手人も警察が追うとのことだが、そちらは捕まるかどうか。


 深く絶望し、井澄はそこからなにも耳に入らなくなった。




 幾日かが経過したはずだった。はず、というのは腹具合があまりにもひどかったことから推察したのみで、実際に経過した日数はいまとなってもよくわからない。病室の前で、井澄は八千の回復を待った。もちろん回復したところで連れていかれてしまうのだが、その前に一言でも交わせれば、と思っていた。いつまでも彼女を待つと、一言告げられたなら――


 そんな風に思い詰めているうちに井澄までが倒れ、目を覚ますと院内であった。少しすると賀茂が訪れ、「良い知らせと悪い知らせがある」と口にした。井澄はこれ以上悪い知らせを聞く気になれず、良い知らせだけ聞きたいと願いでた。


「橘八千草はおそらく刑を差し止められることとなった」


 賀茂はよほど人がいいのか、本当にそれだけを告げて去っていった。差し止め、と考えて、井澄は横になったまま想像をめぐらした。どのような場合に、差し止めとなるのだろうか。


 やがてひとつの可能性に思い当たり、井澄はがたがたの体に鞭打って、八千の病室を目指した。白く天井の低い廊下は、かつて彼がいた統合協会を思い起こさせた。長い、長い道のりに思われて、時折力尽きて屈みこみながら、井澄は進んだ。むせるように呼吸し、いまにも絶息しそうな状態で、進む。


 無様な体をさらしながら歩み、やっと辿り着く。扉は固く閉ざされて、井澄の入室を阻んでいた。だがそれ以上に、彼の中の意志が入室を拒んでいた。最悪の想像が現実となったのを目の当たりにしたとき、己が耐えられないと自覚していた。


 それでもわずかな可能性に賭けて扉を開く。


 開く瞬間、八千の顔を見た瞬間、頭の中にあった推測が一気に解き放たれる。


 ……なぜ賀茂は差し止めになると言えたのか。それは八千がすでに目を覚まして、彼になにかを告げたからではないのか。


 では、目を覚ました八千は……なぜ(、、)己に会いに来ないのか(、、、、、、、、、、)


「あれ」


 ひどく驚いた様子で、八千の顔をした少女は言う。半目でこちらを見る表情はいぶかしげで、懐疑的で、次いで井澄に問う。


「どちらさま、でしょう」


 ――記憶が、ない。


 心神喪失ということだろう。当人と認められるだけの連続した存在性が無い以上、彼女に罪を償わせるかどうかは、判断に困る案件というわけだ。ゆえの差し止め。彼女の身は、守られた。なるほどたしかに良い知らせだ。


 けれどそれはもはや井澄の知る彼女ではないのだ。込み上げる嗚咽を、手で口を押さえることでなんとか漏らさぬようにして、井澄は扉を閉める。何度。何度希望から絶望へ移れば、気がすむのだろうか。慣れてくれるのだろうか。


「部屋を、間違えました」かろうじて言えたのは、それだけだ。




 これ以上入院費用を払うことはできないので、井澄は無理に退院した。もう、気持ちの置き場をどうすればいいかわからなかった。ただ八千への思いだけが心中で暴れ回り、ふと目に入るものすべてに彼女の影を見てしまう。


 心折れそうになりながら、ただひとつだけ理解していた。


 たとえ抜けがらであろうとも――自分はきっと、八千を見捨てることはできない。彼女が消えてしまったのなら、もう一度やり直そう。そう考えて、次の行動を見定める。統合協会の支部で、賀茂を通じて機関へ戻れないか試してみよう。その先は、行ってから考える。まず先立つものは金と住みかだ。


 おそらく、刑を差し止めると言っても彼女は長く自由を奪われるだろう。では彼女が牢から出てくるまでに、井澄が彼女の居場所を作ればいい。その日まで、しばし――別れを告げるべく、最後の面会として井澄は彼女の病室を目指した。


 静かな院内に、井澄の足音が響く。二度目となる、重い扉が立ちはだかる。だが今度は、この前とはちがい、すんなりと開いた。気持ちの整理がついたからか、と考えるが、よく見るとそうではなかった。


 扉が開いている。井澄が開く前から。だれかが、中に。


 徐々に開いていく隙間から。一人の人影が、目に映る。


 鯉の口がごとく襟元の開いたシャツを着た男が、ズボンとシャツの隙間から白刃を取り出している。片手でベッドに横たわる八千の口元を塞ぎ、声を出せないようにして。逆手に構えた刃が、振りかざされる。


「八千っ!!」


 踏み込んで叫んだ井澄に、男の視線が向く。殺気が、井澄の体から動きを奪う。せめて後ろに倒れ込めれば、と思ったが、男の蹴りだした下駄が扉に当たって閉まる。内開きの扉だ、開けて逃げるには一拍子遅れてしまう。


 猛然と襲い来る男はぎらついた目つきで、口元が「悪いな」と動いた。どの口で言うんだ、と思いながら、井澄は強張った体に冷や汗を流す。刃が届く前に寿命がくるのではないかと思うほど、長い数秒を味わう。


 だが命に幕が下ろされることは、なかった。


 視界の奥で八千が目を見開き、たしかに口元が動いていた。


 ――せいと、と。己の名を呼んだ。有り得ない、ことだった。


 次いで、爆焔が井澄の視界を覆う。熱への反射か、やっと動いて顔をかばった腕に、浅く刃が筋を残す。そのまま男は井澄の横に倒れ、またたく間に焔は全身を舐め尽した。悲鳴さえ上げられない。開いた口元を焔が封じ、喉奥まで焼いて音の震えを殺している。


 茫然とこれを見下ろして、はっと八千に意識が向く。全力で走ったあとのように息を切らす八千は、もう一度だけ井澄を呼んだ。優しげな目で。いつもの声で。うっすらと笑んで、たしかに井澄を呼んだ。


「せい、と」


「や……八千、」


 そこで糸が切れたように、がくりとうなだれて倒れる。頭から床に落ちそうになった彼女を、井澄は支えた。彼女の顔には苦しさだけが張り付いており、井澄はすぐに医者を呼びに走った。




 下手人が何者だったのかは、いまもってわかっていない。そして再度目覚めた八千はまた井澄を知らない別人になっており、矢田野山で彼女を銃撃した者についても、わからなくなってしまった。


 ちなみに矢田野山が全焼した一件は、一般人への対外的な説明は「不審な山火事」となった。八千の異能を知っていたはずの村では、井澄は会ったこともない人物とされていた。火事について問うても、だれもが貝のように口を閉ざす。緘口令かんこうれいが敷かれたのだろう。


 賀茂に尋ねたところ統合協会の中でさえ、反目する組織による地脈の破壊、戦術的防衛線の妨害の企てというのが通説とされているようだった。焔を自在に操る異能を、危険視されたためかもしれない。こうして八千の存在はひた隠しにされ、医院は封鎖され。ひと月もしないうちに、彼女は院内よりいずこかへと連れ去られてしまった。


 けれど井澄は悲観していなかった。


 むしろ、希望が見えてきたと感じていた――失われたと思っていた八千は、たしかにいる。いまは目覚めていないが、あの身の内にいるはずなのだ。


 目覚める条件は、おそらく〝生命の危機〟。彼女の命が危うくなったとき、その身を守るために八千は目覚める。焔操る異能と共に、呼び起こされるのだ。であるならば、再会することはけして夢物語ではない。


 立ち上がった井澄はぎしりと軋んだ笑みを浮かべ、ポケットから硬貨幣を取り出した。


 まずは彼女を探すべく行き先定めようと、親指ではじいて上に飛ばし、表か裏かで進路を決めることにした。


 ……井澄が四つ葉に至る道程は、そこからはじまる。



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