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明治蒸気幻想パンク・ノスタルヂア  作者: 留龍隆
四幕 人殺嫌疑
42/97

42:策謀という名の陥穽。

復路のねずみ。

 ややあって離れた彼女、八千は、しゃくりあげながら井澄を見上げた。つぶらなまなこは赤く染まり、つやのある頬もまた赤く。その上に、幾筋もの涙が流れていた。


「すみません」


 言うと、爆発のためにまだ聞こえづらいのか、八千草は顔をあげこそしたものの首をかしげた。井澄はもう一度、努めてゆっくりと、謝罪の言葉を口にした。


「え、なにが」


「泣かせてしまいましたから」


 肩を落とす井澄は、おどけるように言って笑った。そのように取り繕わなければ、八千の目もはばからずに滂沱の涙を流してしまいそうだった。一筋涙を流してしまった現状でさえ、彼女に心配をかけることを思えば自制するべきだったと感じているのに。


 幸い、彼女はそんな井澄の心情を察してくれたのか、含みのある様子でふふっと笑い、頬をぬぐって井澄の手をとった。柔らかで小さく、少し冷えた指先が、するすると井澄の手の甲を這った。


「そんなこと、きみは気にしなくていいよ。ところで……これは、どういうこと。きみともう一度相まみえたことは、本当にこの上なくうれしいけれど。でも僕は、たしかにあのとき、きみの目の前で」


 あのとき。彼女の言うあのときとは、どの(、、)時点なのか。反応からしておおよその推測はできたが、とりあえず井澄は己の言葉で彼女の口を止めた。


「大丈夫です、ご心配なく。私はあとを追ったわけではありませんよ」


「……そっか。それなら、いいの。でもここが現世なのはわかったけれども、あのときと同じく、危険域にはちがいないよね?」


「その通りです。よって、残念ですがあまり長く語らっている時間はありませんね……赤火の構成員による防御がどこまで働いてくれるかもわかりませんし、こうなれば二人だけで逃れるのがよいかと」


「赤火?」


「ああ、そのあたりの説明も逃れたあととしましょう。いまはこの船を脱しなくては。ところで八千、焔の力は使えますか」


「焔? は、えーと……」


 ちらりと視線を外して、八千は床を舐める火の筋を見やった。すると焔は猛り狂い、尾に火のついた鼠のごとく駆けずりまわる。最後に壁際で爆散し、周囲に新たな火の粉を撒いた。それから彼女が顔をあげて、井澄の反応をうかがった。


「……種火がなければ使えない、と」


「ご、ごめんなさい」


 八千草にはあまり見られない、しょげた面持ちで目を伏せた。愛らしさに胸がいっぱいになりながらも、井澄は薄い笑みを広げるだけに留めた。


「いえ、構いません。それならば、携帯できる火種を持てばよいだけのこと」


 井澄は懐から紙巻煙草を取り出すと、静かに燐寸で火をつけた。走り回って彼女の行方を追っていたこともあり、ここらで一服つけて休んでおきたいという気持ちもあった。ゆっくりと煙を喫んでいると、八千はしかめ面して顔を背けた。ああ、と気づいて、井澄は指に挟んだ紙巻煙草を遠ざける。


「煙草、苦手でしたね。すみません」


「前は煙草、喫んでなかったよね」


「いろいろあって、変わりまして」


 あなたも懐にシガアケイスを持っていますよ、と指摘しようか迷ったが、これ以上混乱させるのは得策でないと判断した。八千は次いで井澄の様子をじろじろと観察し、彼の顔に目を止めると人差し指でちょんと指す。


「眼鏡も、かけてなかった」


「これは、伊達です」


 外して、度が入っていないことをあらためさせる。半目になったり片目を閉じたりしながらのぞきこんだ八千は、すいと眼鏡の面越しに井澄を見つめた。


「ほんとだ。目つきの悪い子が見える」


「放っておいてください……この目つきのせいで要らぬ争いに巻き込まれるから、それをかけるようにしたんです」


「争い」


「いまもその渦中、といったところですかね。だから、行きますよ」


 さあ、と彼女に左手を差し出し、井澄は右手の中に硬貨幣を握りこんだ。


 彼女はおずおずと井澄の手を握り、あいた手で己の髪をいじくった。それから、床に目を落としてひどく強張った顔をした。


「髪留め、が」


「え、ああ……先ほど、砕けてしまったのでしょう」


 井澄が彼女の視線に合わせ下を見ると、落ちていたのは小さな緋色の髪留め。砕けていくつかの破片となっていたそれを、八千は拾い上げて顔をくしゃくしゃにする。


 いつも、八千はそれを身につけてくれていた。八千草となってしまってからもこれだけは変わらず、その姿に井澄は救われる思いを抱いていた。だがもうその姿を見ることはない。


「ごめん、なさい」


「謝らなくてもいいですよ。八千、あなたが無事であったのなら、それでいい」


「けれど、これ、井澄にもらった大事なものだったのに……」


「大事にしてくれていたという事実は、残り続けます。大切なことはそちらですよ」


 井澄は微笑みかけて、手を繋いだ。八千はなんとか泣きやもうと努力する表情を見せて、破片を胸元にしまうと井澄の前に立ち上がる。


「それと八千、あれをお持ちください」


「え、これ?」


 彼女の後ろに転がっていた、直刀とアンブレイラ。指差す彼女にうなずいてみせると、八千は刃を手に取り首をかしげた。軽く振るえば、風切る音は八千草が振るうときのそれと似ていた。しかし刀身を納めてからもおっかなびっくり、いかにも危ういものを手にしているという顔でじりじりと不安そうな動きをしているところは、ちがう。


「これ、僕の?」


「一応は。珍奇……もとい貴重な品だそうですし、切り札(、、、)です。持っといてください」


「ふうん」


 八千は不思議そうに、八千草の愛刀をためつすがめつする。井澄へ向き直ったときには表情もだいぶやわらいでおり、現状を突破するための意志が固まったと思しき色が見えた。


 ところが一歩踏み出した途端に表情がひび割れて、八千は左右で均衡のとれない顔をした。よろめいて背を壁に押しつけ、荒い息遣いで肩を揺らす。


「いっ……たっ」


「どうしました」


「なんか、頭に疼痛が……」


 彼女が片手で押さえる位置は、ちょうどあの傷痕がある箇所だった。雨が降るたびに痛むと、八千草が撫でていた箇所である。


 加えて言えば、今日判明した事実がひとつ。雨天でなくとも、大きな火を見ることで、彼女は頭痛を覚える。そして痛みはいずれ、八千の人格を呼びもどす。ライト商会のときは阿片の影響もあってかすぐに昏倒してしまい、話すこともままならなかったが、やはりあのとき彼女が小声でつぶやいたのは井澄せいとの名だったのだ。石油瓶の爆発にさらされて井澄が無傷だったのも、おそらくは彼女の焔が守ってくれたためだろう。


 目を閉じて痛みに耐える八千の肩に手を置き、身を支えるようにしながら井澄は言った。


「意識をしっかり持ってください」


「う……ごめん。ちょっと、移動はゆっくりで、いいかな」


「はい。私の後ろに、ついてきてください」


 弱弱しい足取りは、彼女の存在の不確かさを表しているようだった。抱えて離さぬようにしたいと思ったが、それでは互いに身を守ることができない。つかず離れずの距離を保ちながら、井澄は進路を見定めるしかなかった。


 もはや赤火の守りに期待はできない。船を、脱してしまうべきだと思った。


「いきましょう。甲板に出れば、逃げられます」


「上に行く、ということ?」


「はい。たしかこちらに階段があったはず」


 言って前へ出ようとする体を、八千がぐいと引きとめた。どうしたのかと顧みれば、顔を歪めた彼女が首を横に振る。


「そっち、だめ。さっき僕を狙ってきた人が、そっちに逃げたから」


「ああ」


 言って足下に目を落とし、井澄は砕け散った六連発リヴォルヴァの残骸を目にした。


「なるほど銃遣いの……では道を変えましょう」


 きびすを返した井澄に、八千はほっとした様子だった。よほど危険な相手だったのだろうか、と考えれば、井澄の脳裏には先ほど斬り捨てた名執の姿が浮かぶ。彼も相当な短剣術の使い手ではあったが、術式は井澄と同じで術師を相手取ることが専門だ。能力抜きでの戦闘はそこまで得手としていなかったのだろう、式守ほど苦戦させられることもなく殺すことができた。


 また、殺したな。少しだけその事実に気をやり、すぐに現状打開に意識を戻す。


「いきますよ」


 通路を戻り、十字路を右に折れる。崩れ落ちている三人の男を尻目に、二人は進んでいく。まだあたりには爆発の痕跡が色濃く残っており、爆ぜる火花と燻ぶる煙が踏みだす足に降りかかる。


「まっすぐいった先に、やはり階段があります。そこを上がれば元の階層……もとい、甲板の下の階層に出ます」


「よくわかるね」


「先ほど案内用の看板を見かけましたので。一目で覚えました」


「でも、甲板から先へはどうするの」


「逃げ道は確保してあるので、支障はありません」


 断言して、井澄は口から紙巻煙草を離した。ふうと吐きだす白煙に、芳しい香りを感じた。


「それにいまのうちなら、銃遣いは苦戦を強いられているでしょうから」


「援軍でもいるの?」


「いえ」


 べっと舌を突き出すままに振りかえり、井澄は八千草に横目を流した。


「――用兵を狂わせてやっただけです」


 言うと、銃遣いが去ったと八千が説明した方向から、銃声や剣戟の音が響きだす。ちょうどぶつかってくれたようだと知り、井澄はそのまま彼らが足止めしてくれることを願う。


 名執から逃げる最中に〝殺言権〟を発動させた井澄は、あるひとつの言葉を人々の記憶から消し去っていた。それは九十九の口にした、「第一区画の者は機関部へ来い」という言葉。


 機関部へ移動中だった赤火の構成員たちはこの命令の消失により「自分たちがどこへ行こうとしていたか」「なにをすべきだったか」を思い出せなくなる。九十九も同様だ。結果、彼らは右往左往することになるが、元の区画を守りに戻る可能性が高いと井澄は判じていた。


 そうして彼らが八千草の盾となればそれでよし、そうでなくとも足止めくらいにはなる。この推測は正しかったようで、銃遣いの逃げ道をふさぐ形で彼らの進路は定められていたらしい。うまくことが運んでいることに機嫌をよくして、井澄は足早に通路を抜けていった。


 たどりついた階段は急こう配で、またもこういう場所か、と井澄は先に這いあがる。八千があとに続いてきて、また狭い通路に並ぶ。頭の中に思い浮かべた地図は、井澄の足を正確に退路へと導いた。


 曲がり角では爪先から進み出て、腰を低くし頭を出す。様子をうかがいながら歩く道すがら、薄くではあるが、通路で煙たさを覚える。この船は沈みかけているのかもしれないと感じ、なおのこと急がねばならないと気がはやった。また血の臭気も、どこからか漂いあふれている。


 だが幸いにして井澄の選んだ経路は争いの気配が薄く、ところどころに首や心臓を貫かれて倒れる者どもがいるほか、人影はない。まるでだれかが一掃していったあとのようだと思った。


「あとは上に出るのみっ……」


 接敵を避けるべく慎重に進んだため、長くはないはずの道のりも相当の時間がかかった。絶えず神経を張り詰めていたこともあり、目の奥に鈍痛を覚え始める。かくしてようよう辿り着いた最後の階段は、のぼりきった踊場のすぐ脇に扉が見えていた。


 急いで近づき、扉に耳付けて向こうの様子を確かめる。人の気配はそこかしこにあり、争いはここにもあるようだが、扉に向けられる注意は少ないと判じられた。ぐずぐずしていると下から追いあげられる可能性もある。覚悟を決めて、扉の先を臨むこととした。


「私が出ます。八千は、あとからお願いします」


「で、でも出た途端に撃たれたりしたら」


「もし開けてすぐに敵がいたら、これを使って私の前に焔幕えんまくでも張ってください」


 井澄は、移動中も消費されてすでに五本目となる紙巻煙草を取り出し、己の口にくわえていた燃え尽きかけの一本で火を灯した。


 扉に隙間を開けて、煙草の火を放る。直後に大きく開いて駆けだし、低い姿勢のまま両手に羅漢銭を構える。海風が頬を撫で過ぎ、鼻腔から口腔へ塩気と苦みを生じさせる。


 四間ほど先に柵があり、左右へ甲板は広がっている。薄暗い中で閉じていた片目を開き、足音を消しながら井澄は右左と敵の存在を確認する。そこかしこで斬り合いが行われており、夜闇に閃く剣筋がうかがえた。こちらを向いている者はいない。


 柵の前で一転し、井澄は八千に視線を送った。彼女はこわごわと甲板の様子をのぞいており、いかにも危なっかしい。早く離脱を、と考えた井澄は、もう一度柵の方を向いて海の向こうを望んだ。


 もともと四つ葉を周回するだけの船旅である。見はらす先には、潰れた円錐に似た島の影がある。距離にしておよそ三町だろうか、不測の事態から船は進路を島に向けていたらしく、だいぶ近づいてくれている。これならば、問題ない。


「八千、私の横に!」


「うん!」


 跳ぶように来る彼女を、右腕で柵に押し付けるようにして守る。それから左手で懐を探り、取り出した書簡――に偽装した発光弾へ口の煙草で着火する。即座に上へ掲げると、ぽすんと気の抜けた音がして、上空まで煙の帯が伸びる。それから、赤い光がはじけて広がった。


 当然周りの人間がこちらへ気づき、乱戦での周囲への不信からか井澄に敵意を向けてきた。だが支障はない。井澄は口元から煙草を離して放り投げ、八千に目で合図した。


 小さな煙草の火を中心に、薄く半球状の形を成した爆焔が拡散する。瞬時に甲板が照らし出され、闇に目が慣れていた者どもは腕で視界を覆った。井澄はこの隙に八千を抱え込むと、彼女が持っていたアンブレイラを開いて先端を足下に向けた。


「全部使用しても、稼げる距離は一町もないでしょうが――」


 つぶやく彼が見るアンブレイラの内側には、靖周の術式〝空傘〟に用いるための符札が十数枚も貼り重ねられていた。これをすべて剥ぎ取り、井澄は島の方を向く。姿は見えないが、信頼できる同僚が、そこにいるはずだ。


 符札は、術式を記してから時間が経過すればするほど力が落ちる。そのため靖周が戦闘に用いることかなうほどの威力を保持できるのは、書きこんだ当日の二十枚ほどが限度だ。その、今日の分の二十枚のうちほとんどを、彼は八千草たちの脱出のために譲ってくれた。


 そして脱出の機を見計らうため、この時刻までずっと見張りを続けてくれている。


 島の沿岸を移動しながら、遠眼鏡で絶えず井澄たちの様子をうかがうことで。


「――空を飛べば、泳いで逃げるよりは断然速い」


 焔の幕が晴れる直前、井澄の落とした一枚の符札より暴風が顕現した。背中にこの風を受ける井澄は、ぎゅっと目をつぶる八千を抱いて甲板を蹴った。


 柵を飛び越えた二人は、そのまま空中を飛び退る。だが二人分の重量を飛ばすのはさすがに難しいか、四間ほどで失速し、海面に引き寄せられていく。背からの風よりも顔面に吹きつける風が強くなり、あわや海面に叩きつけられる寸前で、井澄は二枚目の符札を正面に突き出す。


 海面が、見えない大鉄鎚を振り下ろしたかのごとく、大きくへこむ。生じた風がまたも二人を持ちあげ、波の上を跳ねるように吹き飛んだ。かたく縮めた身の内で内臓が押し込められるような感覚は、慣れそうもない。


 これを繰り返して、船から距離を稼ぐ。わずかばかり後ろを向くと、身を乗り出してこちらをにらむ人影と目が合った、気がした。直後に銃声が轟き、井澄の脇でじゅぶんと着弾を知らせる。慌てて符札をばらまき、井澄と八千はさらに逃げた。


「――っ、――!」


 海風に掻き消される遠方から、なにか声を聞いた気がした。もう井澄は振り返らず、声に応じずに飛び続ける。夜の海は静かで、ただ黒々と深く、見通せない怖さがあった。


 やがて符札が尽き、二人はとうとう海に落ちる。井澄の推測と目算を信じるのなら、やはり一町ほどの距離を飛んでいた。静かにさぷんと爪先から落ちて、井澄の三つ揃えに水温の低い海水が染みた。季節はまだ如月、冷たさは心臓まで這い上り、あっという間に二人の体温を奪っていく。すぐに師より教わった泳法を思い出し、井澄はゆっくりと岸へ泳ぎだす。


 傍らで、八千は泳ぐのに難儀しているようだった。もともと泳いだ経験というものが少ないのもそうなのだろうが、裾を取り払ったとはいえ水中でドレスはあまりにも動きづらい。浮いているのがやっとと見えた。


「アンブレイラの柄で、私の肩を引っかけてください。岸まで、引っ張りますから」


「ごめん、泳ぐの、苦手で」


「得手不得手は仕方ありませんよ」


 水練など、八千は行ったことがないのだから。寒さに震えながら井澄は彼女を引っ張り、両足で水を掻いて右腕で手元に水を引き寄せるような、体を横にした泳ぎで岸を目指す。がちがちと細かに拍子を刻む歯の根を必死で押さえ、重くなっていく手足を懸命にばたつかせる。


 断崖のほうへ引き寄せる潮流に抗いながら、井澄は浜になっている場所を目指した。靖周たちもそちらへ来ているだろう。合流する前に火を焚いてくれているといいな、などと考えつつ、もがく足は遅々とした進行を続けた。


 やがて島が近くなれば足の動きは激しくなり、口元は空気を安心して吸える場を求めて喘いだ。水を掻く爪先が砂の感触に埋もれたときには心底ほっとしたものだった。踏み出して、一歩一歩と砂浜に足を埋めていく。


 松の林が並ぶ浜辺は、海の闇に慣れた目にはせりあがってくるように感じられた。体を抱いて寒さをこらえながら進むと、身を削る風吹く林の奥にぱちぱちと爆ぜる火が見えた。後ろの八千を見ると凍りついてしまいそうに白い顔をしていて、慌てた井澄は彼女の肩を抱くようにして焚き火に向かった。常なら、ともすれば劣情を催してしまいそうな距離だが、さすがにいまはそんな気にもなれない。


「これから、私の同僚に、会います」


 震えて不明瞭な音を発しながら、井澄は彼女にささやいた。


「同僚?」


「いま一緒に仕事をしている連中、です。あなたも……いえ。八千は、知らない人々です。けれど向こうは、あなたを知っている、と思っていますので。てきとうに相槌だけ、打っておいてください。答えに窮したら、寒くて答えられない振りを」


「わかっ、た」


「あと、焔の力は使わないように」


 留意するよう指示して、明るい火に近づく。火を囲んでいた靖周と小雪路、そして山井が、井澄たちの足音に反応した。


「……よお。遠眼鏡で見た感じ、爆発に巻き込まれたのかと思ったが」


 八千の焔による焔幕のことを言っているようだが、爆発相次いだ船でのことだ、あれが異能の力によるものだとは気づかれていないらしい。


 羽織の袂に両手を突っ込んでいた靖周は、小雪路たちと囲んでいた焚き火から顔をあげた。口にくわえた煙管を上下させながらじろじろと井澄を見て、左腕にある刺し傷に目を留めるとそこだけを注視した。八千にも同様に、右肩に残る傷跡を観察している。


「軽傷だけのようでよかったぜ。船に横付けされる船が来たときゃやべーと思って、念のために狼煙で山井を呼んだんだがよ」


「ま、出番がなかったならよかったわ」


 ひらひらと手を振る山井は、隻眼で井澄と八千を見た。彼女の診療所は、五層二区だ。やろうと思えばぎりぎり、狼煙を見ることができる位置だったのだろう。


 それにしてもまさかいるとは思っていなかった。やりづらい、と井澄は心中で舌打ちする。山井は鋭いので、ひょっとすると、八千の事情について気づいてしまうかもしれない。


「二人とも、とりあえず着替えんと。そのままだと風邪ひくんよ」


 言って、小雪路が手ぬぐいと着替えを差し出してくる。ありがたく受け取るものの、井澄は彼女にも注意すべきと考えていた。小雪路は、洞察力は鈍いものの獣じみた勘で八千の変化を察してしまう可能性がある。


 なんとか露見しないように努めなくてはならない。火の傍を離れ、八千が小雪路と共に林の奥へ行くのを見送る。山井はふざけた表情でのぞきにいこうかしら、などとほざいていたが、あくまでそういう姿勢を見せるに留めて、あとは静かに紙巻煙草をふかしていた。


 井澄も木陰で三つ揃えを脱ぎ、手ぬぐいで体を拭くと小雪路に渡された着替えに袖を通す。火の近くで温めてあった衣類はほんのりと暖かく、けれど芯まで冷えた体には焼け石に水……という言葉を使うのも合っていない気がするが、とにかく効果は薄かった。


 ややあって戻ると、八千が長い黒髪を火の元で乾かしていた。必要以上に震えていて声を発さないあたり、喋らずに通すつもりなのだろうと井澄は思い、「八千草、泳ぎが苦手だったみたいでして」という言葉で誤魔化しをいれておいた。三人はそれぞれうなずき、一応は納得をえられた。


「なんにせよお前ら二人とも、おつかれさん。とりあえず火の元であったまっとけ。あと、これ飲み干せ」


 差し出されたのは湯呑に入ったブランデエで、あたたかで甘い香りに誘われるまま、井澄はこれを胃に落とした。冷え切った体がやわやわと溶かされるように、次第に温度を取り戻す。八千もちびちびと舐めるようにしているうち、顔色はだいぶましになってきていた。


 それから井澄は一服しようとして、けれど海に浸かって己の紙巻煙草はびしょぬれになっていた。物欲しそうな顔をして山井を見ると、彼女は仕方なさそうに己の七星を井澄に差し出した。ちなみに七星のほうが、敷嶋よりも値の張る銘柄だ。


「いや、助かります」


「一本しかやんないわよ。……ああ、八千草も要るかしら。パイプ自体は無事でしょうけど、煙草葉はだめになってんでしょ」


 箱から取り出して、吸い口を彼女に差し向ける。う、と詰まった様子で八千は答えに迷ったが、井澄と目を交わしたあとで「僕、要らない」と告げることでこれを断った。山井は不審に思った顔でもなく、そう、と言って箱を白衣のポケットに戻した。


「それにしても、ひどいことになったわね」


 手でひさしを作り、山井は海の彼方を見やる。そこには、進路を変えて港へ戻ろうとしている船舶〝藤〟があった。もうもうとあがる煙は蒸気機関によるものだけではなく、あの船体はもはや客船としては機能しないだろうことは自明だった。


「ま、あんたらも疲れてるだろうし、今日はもう温まったら居留地に泊まっていきなさい。宿なら手配しとく。あとあとから体調崩すかもわからないし、アタシも泊まっていくわね」


「すいません、お世話になります」


「俺は家に帰るぜ。居留地は好かねぇし、アンテイクの俺たちが店外で五人も揃ってんのは変に周囲を警戒させちまうだろうし」


「うちも明日朝から仕事入っとるから帰るん。ごめんね八千草ん」


「え、いや。僕にそんなに気を使うこと、ないよ」


 本心からの言葉で流し、八千は静かにうつむいていた。小雪路は頭の後ろで手を組んで、つむじをまげたような仏頂面をさらす。妹の様を見ながら靖周は井澄に向き直り、ぱきりと音を立てた焚き火が彼の心配そうな顔を照らした。


「早いとこ今日は休んどけ。ああでも、早急に対処すべき事柄とかはあるか? 懸念があるんだったら、それだけ伝えといてくれると助かる」


「懸念ですか。特別に考えておくべきことは……」


 言って、名執など統合協会の人間に追われつつある事実に気づく。かつていた場所から追っ手がかかってしまったことは、井澄の心中に暗い影を落としていた。


 とはいえこれは靖周たちに言ってもどうしようもないことだ。


「いえ、ありません。赤火の主、九十九さんとの会合もさほど無茶なことはありませんでした。むしろ新しい販路の開拓を共同でやらないか、と打診されまして」


「なんだそりゃ」


「まあ詳しくはまた明日にでもお話しますよ」


 今日はもう、疲れていた。食事をとって、ゆっくり眠りにつきたいと体が叫んでいる。


 ふと見やれば、八千は小雪路の肩に頭をあずけていまにも眠りに落ちてしまいそうだった。ライト商会でのときは、目を覚ました八千は八千草に戻ってしまっていた。また切り変わってしまってはたまらないと、井澄は彼女の頬に手を伸ばす。ぺちぺちとはたけば、目を覚ました。うろんな目つきはたしかに井澄をとらえ、かすかに微笑む。


 ほっとしたのもつかの間、今後どうするかは考えねばならない。井澄は懸念が多くなった己を思いながら、ただ静かに八千に笑みを返した。



        #



 船尾で呆けた表情をさらすレインは、手にしていた短銃を海に落とした。船内で赤火構成員に足止めを食らった際に、彼らから奪い取った代物である。せめてこれが常の愛用しているリヴォルヴァであったなら、もう少し結果はちがったのだろうか。


 先ほどの情景。甲板で広がる、奇妙な形の爆焔。まずまちがいなく橘八千草の力によるものだと気づいてすぐ、レインは一目散に駆けた。だが時すでに遅く、井澄せいとは橘八千草と共に、船外へ飛び立ったところだった。それでもまだ届く、とばかりにこの短銃で狙いをつけたはいいが、もしまかり間違って井澄に当たりでもしたら。そう考えると引き金は震え、結果狙いは大きく逸れて橘八千草を外した。


 蒸気機関部の鉄橋でも、同様の理由で外してしまった。任務は失敗である。おまけに、同行していた名執も機関部近くで死亡していた。おそらくは井澄に殺されて。事態は、最悪といってよい。


「……っ、井澄せいと!」


 胸元から引きずりだしたロケットには、現在の上司である村上と、いまよりなお若い井澄と、三人で映した写真が納められている。皮肉った笑みの青年と、目つきの悪い小柄な少年。間で二人の肩に手を置くレイン。


「どうしてだ、井澄……!」


 かつて共に暮らした三人の、思い出の一枚。だがいまや村上は上司として統合協会の深部にまで入りこんでおり、遠い存在となってしまい。井澄は行方不明となって以降、このような島に居を移していた。

 そして橘八千草と暮らし、あまつさえ彼女を助けてもいる。有り得ないことだった。有り得てはならないことだった。


「あいつは、日輪の守人……我ら梟首機関の、標的なのだぞ」


 橘八千草は、魔狩りの対象となるべき存在である。共に暮らすなどあってはならない。有り得てはならないのだ。故に狩り出す。


 それが二百年の昔より守られてきた、統合協会――当時でいう陰陽寮からの、御役目がひとつだった。闇の者どもはそのように歴史の影で政に携わり、この国を興すため動き続けた……鎖国を続けたことさえ、この御役目の目的に沿わせてのことである。この国を守るため、もう二度とあのような事態を引き起こさないため。


 明暦の過ちを忘るることなかれ。


「なぜ惑った。奴が――、惑わしたのか」


 柵を叩いて、レインは心中の苦痛に身を焼かれる思いだった。翠玉の瞳は猫のように瞳孔が細められ、殺意と悲哀とに満ち満ちている。


「このままには、すまさんぞ――」


 今度こそ(、、、、)


 つぶやいて、レインは姿を消す。この船舶に自分が、統合協会の人間がいたことを知られるのは、都合が悪い。


 この現状、日輪が目覚めてしまった事実を伝え、部隊を再編成する。その上で出向き、今度こそ。心に誓い、レインは今一度、本土への帰路を目指した。



        #



 惨憺たる有様となった大広間で、九十九は一人葉巻をふかした。


 乗客はすべて船室へ逃がし、蒸気機関部からも仕掛けられていた罠を回収することで通常の運航を取り戻した。やっとのことで収められたな、と苦労に肩が重くなるのを感じながら、転がっていた一脚の椅子を立て、座りこむ。


 こちらの被害も、思ったより大きかった。青水の精鋭というほどではないにせよ、乗り込んできた連中はそれなりの練度で統率がとれており、逃げ回る連中を抑えるのにも労力を要した。こちらの損害は、幹部である人間としては長樂が重傷。弌鬼疾閃が死亡。轢き役と引き立て役は軽傷だが、足をやられたためしばらく業務で使い者にならない。その他部下では十四人が死亡、二十二人が重軽傷。


「わりに合わぬわ」


 言って、葉巻を口から離す。煙越しに、大広間を見渡す。


 赤い絨毯は、さらなる赤に上塗りされる形でその色に黒さを混じらせていた。飛び散る人肉、分断された肉塊、あふれ出る血肉……大広間の静寂は、直前までの争乱の騒がしさに疲れ果てたがゆえに訪れたものとも思われた。


 九十九の他、生きている者はいない。と、思いきや。


「う……、」


 転がっていたうちの一人の男が、うめく。九十九は目をやることもなく、頭の中で損害の計算を進めながら、それとは切り離した思考の内に男へ言う。


「まだ生きていたか」


 とはいえ、死にいたるのは時間の問題だろう。男は両膝から先を失い、大量の血をぶちまけていた。一間は離れている九十九の足下にも、彼の血がひたひたと押し寄せているほどだった。いや、どれがだれの血かなどわかりはしないのだが。


 男は血の気の失せた顔を悪夢のように歪めて、九十九に呪いの言葉をがなりたてる。


「う、く…………、こ、この、化け物、め!」


「貴様らが弱いだけではないかね。己を基準に物を語るなよ。私は人間だ、貴様らとなんら変わりはない」


「なにを、戯言を……そもそも、この抗争も、貴様らが吹っ掛けたものだろう……」


「戯言を述べるのは私か? 貴様の方だろう。図々しくも我が船舶にまで乗り込んでおいて、あまつさえ火薬を浪費して(、、、、、、、)くれおって。喧嘩を売るにも手法というものはあろうに」


 嘲弄するわけでもなく、淡々と述べる九十九の姿に、むしろ神経を逆なでされたのだろうか。男はぎりりと歯ぎしりの音を高く響かせ、目を剥いて彼を睨んだ。


「ふざ、けるな……! そも、貴様ら赤火が、我らの同胞に手を」


「同胞?」


「とぼけおっ、て。先日の、精錬所で。我らの同胞を、追いたて殺したのは……!」


「ああ、それか」


 さしたる興味もみせずに、紫煙の行方を目で追う九十九は言い捨てる。認める言葉を吐いておきながらただのひとつも謝罪はなく、ほんのわずかにも感情はこめられない。どこか遠い地で起こった、自らと関わりの無い事象であるかのように扱った。


「あれは仕方のないことだった」


 そう続けた。


 男は、すんでのところで沸騰を抑えていた激情を、あますところなくぶちまけた。


「屑め、貴様こそが、屑だ! 仕方がないだと、よくそのような、言葉を吐けたものだな!」


「銀を盗みだしたのだろう。殺す他に方法があるかね?」


「やつは、盗んだわけではない!」


 憤慨して鳴りたて、しかし血へどがからんだか咳き込んで罵倒を止める。ぜえはあと息も絶え絶えとなり、遺す言葉もあとわずかと見えた。


「あの銀は……、青水が主、瀬川の親分より頼まれて、購入したはずの、品だ!」


「ああ、そうだったかもしれんな」


 流すように言い、九十九は相手の反応をさらにうかがう。


 絶息直前の人間というのは、えてして己の生きた証を残したがる。彼が己の証として、自分にとって有益となる情報を吐くことを、九十九は待っていた。


「我らが……やつに、手に入れろと命じたのは……鋳塊となる前の、銀塊よ……」


 ふむ、と九十九はうなずかずに唸る。彼ら青水が、掘削した銀を横流ししようとしていた事案もすでに九十九の耳に入っている。真相(、、)に辿り着いているのはそこまでか、と値踏みする視線を送りながら聞き入る。


鋳塊インゴットと成る前、か」


 反芻するようにつぶやいて、九十九ははじめて笑みを見せた。くく、と聞こえる声音には淡く嗜虐的な色が宿っており、気づいた九十九は己で自制した。だが男はただならぬ声に怖気をなしたか、表情を固めて九十九を見ていた。


「おや、失礼したな。私としたことが、笑ってしまうとは。だが笑いたくもなるというものではないかね。貴様らがまだまだ、手の上だとわかったのだからな」


「手の、上?」


「釈迦の手の上駆けずり回っても、得るものは屈辱と屈服のみだ。もういい、去ね」


 九十九は葉巻を挟んだ指先を、横に振るう。軌道に沿って、足下に広がる血だまりが鎌首をもたげた。


 大蛇のごとく現れた赤き鞭は、次の手刀に合わせて男に振り下ろされる。ひ、と発音を形作られた口が音を漏らす前に、鞭は彼の喉を削ぎ落した。いままた、橙色を滲ませた鮮血が、血だまりに混ざりゆく。


「貴様もそろそろ屈服を知れ。青水、瀬川進之亟せがわしんのじょう……」


 宿敵たる青水の主を呼び、九十九はまた葉巻をくわえる。


 しずかにくゆらす煙の行方は、そよぐ風に押されていま、向きを変え始めたところだった。



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