41:放火という名の崩禍。
逃れゆく八千草は、背後からの銃撃に怖れを抱いた。鉄橋の上から逃れてすぐ、狙い定める殺気は剣呑さを増した。走って逃げるのではすぐに追いつかれると判じ、八千草は周囲をうかがって隠れやりすごせる場を求めた。
幸いにも通路の脇に、飛び込むに足る隙間を発見する。八千草は少しだけ逡巡したが、命には代えられないと思い直刀を逆手に持つ。
ドレスの裾を払うと、その場でくるりと一回転して刃に沿わせた。膝上くらいまで斜めがけに寸断され、これで潜り込みやすくなったと八千草は意を決して足を上げた。刀をアンブレイラに納めると、肢上げ靴から吸いこまれるように、通気口と思しき穴倉へ身を投じる。穴の幅は、ちょうど八千草が一人で入りこめるかどうかといったところだ。
「くっ……」
つっかえそうだった腰骨が抜けると、するり狭い中を滑り落ち、曲がりくねって左右に身体を揺さぶられる。ざりざりと背中と腰が擦りつけられ、顔を強張らせているうちに爪先から着地した。屈むと、まだ少し先に続いている。這いずって移動すれば出入り口を塞ぐ格子窓のようなものがあったので、がつがつと掌底で殴って外した。
進み出た空間は広く、右手にはしんと静まりかえる巨大な蒸気機関部が見えた。どうやら先ほど戦っていた鉄橋の下に位置するらしい。どう逃げたものかと周囲を見渡せば、視界の端から声を拾った。
「……おぉい。助けを、呼んでくれないかね」
片手を上げて柄杓を振るのは、先ほど落下したはずの長樂だった。どうやらあの奇妙な術は解けたのか、常の気の抜けた喋り方を取り戻している。
「無事だったのかい」
「無事じゃないから助けを呼んでくれと……まあ、いますぐ命に関わることはなさそうだが」
顔をしかめながら言う長樂は壁に背をもたせかけて座りこんでおり、どうやら足の骨が砕けているらしい。妙な方向に、足首がねじれていた。八千草が上を見ると、鉄橋までは高さにして六間はある。
もう一度、長樂を見やった。足はひどいものだがそれ以外はこれといって外傷は見当たらず、刺された肩の傷にもいちおうネクタイで止血が施されており、失血の心配もなさそうではあった。
「よくその程度で済んだものであるね」
「きちんと足から落ちたのでな、運がよかったよ」
「本当に。まあ、あなたには普段からお世話になっているし、助けてもらった恩もあるのでね。ここにいることをだれか、赤火の人間に会ったら伝えておくよ」
「是非頼む。ご覧の通り、蒸気機関部には向こうの手の者はいなかったわけだが、けれどきみが追われている以上ここも安全圏とは言い難い。赤火の者もまだここまで辿りついておらんようだし……そこの階段を上がれば、上の階層に戻れる。そこで左にまっすぐゆけば、先ほど九十九さんが降りていった先に出る。あの人が部下を従えてこちらに向かっているのなら、鉢合わせするはずだよ」
そう言って長樂が指差した先には、螺旋を描いて上にのぼる、簡素な階段が見えていた。視線を上げていくと、八千草に銃撃を仕掛けてきた者がいたと思しき、機械類のひしめく広めの踊場のような場があった。
「ねえ、あそこからぼくを撃ってきた人間、姿は見えたかな?」
「射手か? いいや、そのときはまだ倒れ込んでいたよ。角度がきつくて、さすがに見えていない」
「そうかい」
銃を扱う人間に狙われたのは、居留地で遭遇した風砲遣いを含めても数回だ。飛び道具の相手は八千草には辛い。奇襲用の朱鳥は一度きりしか使えない上、殺傷能力を保てる距離は短いのだ。現状、対抗する術はない。このまま逃げ続けるしかないと知り、同時に八千草は考え込んだ。
――あの名執という男は、八千草を狙ってきたと口にした。井澄と会話していた内容から察するに、彼は昔の、本土にいたころの井澄を知っている。すなわち、あの殺言権の術式会得に関わっていた、本土の人間と見えた。
その名執が、あの射手に呼びかけていた。八千草を狙うにあたり、本命となる殺し手は自分ではなく向こうだと。
八千草は自分が清廉潔白に生きてきたなどとは思っていない。人を傷つけ、罪重ねて生きてきた。だからこのように命を狙われることも当然とは思っている――だが。それはこの島での生き方故のことであり、島の人間に恨まれこそすれ、本土の人間に狙われるいわれはない。
またも冥探偵・式守一総のような雇われの島外民に追われているのだろうか。そう考えて、八千草は自分が希望的観測としてこの可能性をあげていると思った。あわててかぶりを振ると、短い時間に膨れ上がっていた多くの推測を終わらせる。
いまはただ、現状に対処を。
「銃遣いの二人目がいないことを祈るよ」
「そうだな。とはいえ、いま船内には赤火の構成員が駆けずり回っておる。賓客としてきみらのことは伝わっているからね、もし遭遇したら手助けはしてくれるだろうよ」
「ありがたい」
会釈して、八千草は長樂の元を去った。螺旋階段は赤錆びが浮いた手すりをさらしていて、蒸気に晒され続けてきた年月を思わせる。脆くなっているかもしれない、と思って、なるだけ手すりに寄らないようにしながら、八千草は駆けだした。
かんかんと音を響かせてのぼる。こういうときに肢上げ靴は面倒だった。いっそ脱いでしまうほうが楽かもしれない、と考えながら、あっという間に鉄橋と同じ高さまでのぼりつめる。ふとそちらに目をやるが、井澄もあの男、名執もすでにいなかった。浅手とはいえ井澄が怪我を負っていたことを思い出し、不安に駆られながらも八千草は動く。
己にできることから手をつけていかねばならない。憂いも悩みも体を動かしてはくれないのだ。
「ふぅっ……」
呼吸の乱れをひと息に整え、鉄の扉の前に足を止め、八千草はあたりの気配をうかがった。扉の向こうから物音などはなく、とくに争いのある様子はなかった。ためらいながら隙間を開け、アンブレイラから直刀を抜き放ちながら手狭な通路へ躍り出る。
人影はなく、無骨で装飾の無い通路が続いていた。上の階層とはちがい、ここらは客を迎えるための設備ではないらしい。金をかけない部分もあるのだな、と思いながら八千草は刀を深く掻い込み、狭い通路で敵を仕留めるに適した、突きの構えをとる。
遠く低く、駆けまわる足音などは聞こえてきたが、この階層、少なくとも近くで戦闘が起こっているわけではなさそうだった。慎重に歩みを進め、八千草は己に向く気配を察知しようと努める。
すると左手に見える十字路の彼方から、一定の速度で近づいてくる者がいる。敵にしては足取りが軽やかだと、音の拍子から八千草は察した。通路の繋がり、船体の構造に慣れた者だと思われた。しかし乗り込んできた連中が、しかとこの船の構造を調べていた可能性もある。
すぐに身をすくめて、低く姿勢をとると呼吸を止めて四肢から力を抜いた。船体のわずかな揺れに身をゆだねるようにして、構える。
走り来た者の横顔をとらえるか否か。耳がとらえていた距離感と視界の情報が合致した瞬間、八千草は鋭く平突きを繰り出した。刃を地面と水平に寝かせるような突きだ。狙うのは喉仏――の、少し手前。切っ先はやってきた男の前で空を貫き、男に緊張を与えた。
だが寝かせた刃は男に峰を向けるようにしていたため、刃が首を裂くことはない。走る勢いのせいで少し喉に当たってしまったようだが、呼吸が一瞬詰まる程度だ。そして八千草が刃を返し、男の挙動を制するには一瞬で十分だった。
「止まれ」
命じて、八千草はじろりとにらむ。目を見開いて彼女を見下ろす男は、洋装の青年だった。井澄よりもいくらか背は高く、けれど目つきは険がなく、彼のような威圧感は無い。
実際、八千草は井澄に対して常々、彼が慇懃無礼だと感じていた。言葉の上では丁寧に振る舞っており、だれにも敬いを持ったように接するのだが、そつなくなんでもこなす裏で相手を慮ることに欠けている部分があると思っていた。どこか冷めた目で、遠くを見ていることが多い。そしてそういうときは大抵厳しさを包んだ面立ちだった。そのくせ八千草の前ではよく笑い、からかうような言葉をかけてくる。
良い言い方をすれば凛々しい顔立ちではある。娼枝たちに人気だったのもわかる。だが、冗談を言う顔には見えない。
なぜなら彼は、その冷めた目だけは常に、変わりないのだ。
「あ、あの」
「ああ、すまないね」
話しかけられて、ちょっと考えてしまっていたことに気づく。――戦場のただ中でこのような対応、腑抜けだぞ。こう己を戒めておいて、けれど井澄のことが気になっている。正確に言えば、彼の負傷が気がかりなのだ。またぞろ冥探偵のときのように、大怪我をされてはかなわない。
八千草は目の前の青年をじろじろと眺めて、片手にステッキを持っている他はなにも手にしていないことをあらためる。それから声をかけた。
「洋装、ではあるようだけれど。きみは赤火の人間かい」
「え、その、」
「いや質問が悪いか。ぼくがだれかは、わかっているのかな」
長樂の言う通り赤火の者に伝わっているというのなら、この問いに対する反応で相手が敵かどうかは判断できる。しばし待つと、言葉を口にする喉の動きに気をつけながら、青年は「本日、九十九様がお招きしたという……緑風アンテイクの店主、代理かと……」との言葉を紡いだ。
招待客であることまで言い当てている。この上まだ疑うこともできないではなかったが、八千草はひとまずよしとしておいた。背を向けないようにする程度の警戒は、払っておくつもりだが。
「ふむ」
刀を振るい、アンブレイラに納める。こちらもいまは敵意が無いということを示すと、青年はほっとした様子で息を吐いた。八千草は手短に、青年へ現状の説明を済ませる。
「ぼくは九十九さんと共に機関部の奪還に動いていたのだけれど、途中であの御方とはぐれてしまってね。なおも長樂さんとそちらに向かったものの、まあ、敵に追われてここまで戻ってきてしまった次第さ」
敵手の正体については、不明である以上語ることもできない。最低限の情報だけ伝えると、青年はそうですか、と心底悩んだような声を出していた。
「では九十九様と長樂様は、所在が不明ということでしょうか」
「九十九さんについてはわからないけれど、長樂さんはそこの先にある鉄扉を抜けた先さ。螺旋階段を降りて蒸気機関部へ向かえば、すぐに見つかるよ。賊に左肩を刺されていて足の骨も砕けているが、それ以外の傷はない。命には別条がないよ」
「そうでしたか。あの長樂様が、そこまでの苦戦を……」
落胆と驚きが入り混じったさまは、青年から長樂への信頼度の高さが思われた。彼の年齢もそうさせる一因なのだろうが、やはり信頼に足る腕の手練として赤火に属しているのだ。たしかに、井澄や名執のようになにがしかの詠唱妨害手段を持たない限り、彼には攻撃を仕掛けることさえ難しいだろう。
「現状、船舶は混乱の域を脱しつつあります。大広間の奪還は成功し、あとは残党を追い立てている最中です。ここで長樂様のお力をお借りできれば、賊を一掃するのも容易かったのですが」
室内で距離をとり範囲攻撃を仕掛けられるという点で長樂の術は非常に有用だ。先ほど己の目で確かめた事実に、八千草はうなずいた。
「ちょっと、足の怪我は重く見えたね。あいにくと戦線へ復帰できるものではないよ」
「そうですよね。では、我々第一区画の護衛は――」
青年が言葉を継ごうとしたところで、八千草の身体を強い震動が襲う。ドレスの裾がはためき、皮膚の下まで怖気が走ったところで、これは轟音なのだと気づいた。耳が音と認識する前に、全身を大気の震えに打たれていた。
どぅっ、という太い音を最後に、耳の中で音の尾が引き伸ばされるように感じる。詰め物をされたように音がとらえられなくなる。
そのときにはもう青年が掻き消えていて、吹きあげる爆焔の壁に眼前を閉ざされていた。高い音の耳鳴りに悩まされ、八千草は身をかばいながら背後に飛ぶ。曲がり角の先から、焔と暴風が荒れ狂った。あらゆるものが焦げる臭いに少しの生臭さが入り混じり、これが人が焼ける臭気だと知って吐き気を催した。
「――っづぅっ――、」
瞬間的に頭痛がひどくなる。井澄と共に爆発に巻き込まれかけたときにも感じていた痛みが、また一段と強くこめかみを打つ。このところ不調続きだ、と感じながら身を起こし、八千草はまた刀を抜いた。聴覚が頼りにならなくなったいま、もはや視覚でじかに相手を見つけるしかない。
曲がり角まで身を寄せると、一間ほど向こうまで吹き飛んだ青年の亡骸が、煙をあげながら倒れているのが見えた。恐ろしくなって涙腺が緩む。理性でこれを律しながら、八千草は十字に交差する通路を駆けて、反対側へ抜けながら爆焔の出所を見た。
残り火の散らばる通路には、着流しをまとった、青水と思しき連中が三人。全員が銃口をこちらに向けていた。もちろん八千草めがけて連続する銃声があったのだろうが、耳はなにも感じない。ただ肌に伝わる空気の震えが発砲を察した。そしてはらりと髪が落ちる。髪の一部を結うのに使っていた緋色の髪留めが、砕けて通路に落ちていた。弾に当たったらしい。
「……単発銃、であったね」
では銃弾を詰め直す隙であるいまが好機――のはずはない。そのような隙をさらすはずはない。隠し持っているだけで、おそらく着物の内に二挺目を携帯しているだろう。不用意に飛び出せば穴だらけにされる。
考えるうち、またも強くこめかみが痛んだ。これではろくに戦いに集中できない。とっさに壁に背をあずけて、切っ先を下ろしながら深く息を肺腑へ落としこんだ。気を落ち着けて、痛みから意識を逸らそうと試みる。
相変わらず耳の痛みもひどいが、果たして彼らは近づいてきているのだろうか。いっそきちりと「緑風の者だ」と名乗れば攻撃は止むだろうか。彼らは赤火への襲撃を目的としている様子だった、緑風だと判明すれば襲わないのではないか? けれど、井澄はどうしているのだろう……、
痛みで頭がぼうっとして、足下に見える火が妙に明るく見えた。そうしているうち、八千草は目の前が白くなっていき、意識が途絶えそうになっていると気づく。
いけない、と気を持ち直したときには、すぐ左手まで男たちが迫っていた。一人が匕首を順手に構え、あと二人が銃口を向ける。銃口がこちらを指す寸前で体を奮い立たせ、どうにか一歩目を刻もうとしたわずかな硬直の隙に、男たちはびくりと体をすくませた。
「え」
己の耳に聞こえない声で、八千草は疑問の声を漏らす。
次いで血が噴き出す。男たちの、得物を構えていた右腕が。一様に前腕の内側を撃たれて、血を上げた。
悲鳴をあげているのだろう、あんぐりとした口の開き方で男たちは己の腕を見た。皮膚の内側から生えるように、硬貨幣がめりこんでいた。そして男たちが硬貨幣の飛来した方、彼らにとっての左手へ向き直る瞬間。三連続で頭をのけ反らせ、男たちは皆倒れる。
彼が指弾に用いたのだろう硬貨幣が三枚、空中に回転して舞うのが見えた。
「 !」
十字路に駆けこんできた井澄は唇を震わせながら、眉根を下げて。常なら見せない表情でやってきた。言葉は聞こえないが、たしかに彼が呼んだことがわかった。八千草はなんとか、へらりと笑ってみせようとする。
けれど、無理だった。
八千草から見て三時の方向から、井澄が駆けてくる。だが十二時の方向には――銃口をこちらに向ける女がいた。
見る者に目覚めを余儀なくさせるような、朝日に似た金色の髪。黒き三つ揃えに包まれた肢体は、しなやかにして強靭さをうかがわせる。鋭く照星越しにこちらを見る目は玉翠の輝きで、何者も揺るがすことのできない意志を感じさせた。
八千草は、鉄橋で己を狙った人物をしかと視認したわけではない。
けれど、蓮根のように銃弾を備えるその銃に宿る殺気で、まちがいなく先の射手は彼女だと悟った。彼女の薄い唇が「今度こそ」と動くのが、見えた。
井澄の動きは止まっていない。このまま八千草のほうへ駆けこんでくれば、必ず射線上に入る。
彼が、撃たれる。
己に向いた銃口を目にしてそこまで思い至り、八千草は射手の引き金がしぼられるのを見て――
そこで再び、頭痛から眼前を白に染められ、意識が飛んだ。
#
レインが見たのは、燃え上がる残り火だった。
十字路の周辺で燻ぶっていた、おそらくは爆薬の名残。それらが一斉に燃え上がった。
否、そのような表現では追いつかない――まさに爆発的な、燃焼を見せた。
銃口を向ける己に向けて、矢の如き速度で火焔が伸びた。狙いは正確に、過たず、レインのリヴォルヴァを目指していた。
たとえこの一発は撃てても、負傷はまぬがれない――そう判断して、レインは銃を手放した。同時に術式を発動させ、一歩でその場から高速退避する。六発分の火薬が爆ぜて、愛銃は無残にも砕け散った。
「ハっ、は――」
床に手をついて着地し、滑りながら後退する。同時に腰から、先ほど奪い取った単発銃を抜いた。低い姿勢のままでも抜群の安定を見せ、レインは八千草を狙い撃つ。放たれた弾丸が彼女めがけて突き進む。
しかし火の幕が凄まじい圧力と共に進行方向を塞いだ。結果、八千草の遥か後方の壁が砕ける。あらぬ方向に弾丸が逸らされて、舌打ちしそうになりながらレインは身を起こす。そこに反撃が降り注いだ。火の槍は瞬く間も与えず本数を増やし、レインに迫る。揺らめく熱の奔流は、彼女を焼き貫こうとしていた。
即応して彼女は袖内より銀の短剣を取り出す。これを正面に投じて、同時に詠唱した。
「〝Ein silberner Schild〟――!」
飛ぶ中で短剣は形状を変えて、失速が停止に移ると同時、薄い円盤状の盾と化した。
〝ゲオルク・ファウスト式錬金術〟。エリクシルを用いた〝プレラティ式錬金術〟の恒久的な変成とちがい、魔力を込めた金属を一時的に変形させる詠唱系術式である。この盾に身を隠しながら、レインは壁と天井を床のように蹴りつけ、三段跳びで通路を駆け抜ける。追尾してきた火の槍が、彼女の足跡を焦がした。
すぐさま通路の角を曲がり、さらに疾走を続ける。視界から外れてなお追いかけてくるとは思わなかったが、念には念を入れた。ちらりと顧みれば、火の槍は行き場を失って、丁字路の突きあたりを砕かんばかりに叩いていた。
「あれが……〝日輪〟の、片鱗」
振りかざされた火焔に身悶えしながら、レインは走る。まだ、機会はあると判じていた。奴がこの船を降りるまでに倒せればそれでよい。
そしてそのあとで、彼を。今度こそ、彼を。胸元に隠すロケットを掻き抱くようにしながら思い詰め、けれどいまのレインにはただ走るしかできなかった。
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階下で爆発の震動を耳にした井澄は、最悪の状況を思い浮かべてさらに体に鞭打った。早いとは言えない脚で、それでも必死になって、階段を駆け上がり音のもとへ走った。
撃たれているかもしれない。焼かれているかもしれない。それはたしかに、井澄は八千草に迫る危険を、望んでいた。だがそれはあくまでも彼女の安全がある程度確保されていることが前提で、常にそうあるようにするためにこそ、井澄は本土からこの島へ来たのだ。
彼女を守り続けながら、彼女を危険に晒し続ける、その必要があった。これこそが、彼が彼女を島から連れ出さず、共に危険域で暮らすことを望んだ理由だった。
すべてはただ、取り戻すために。しかし取り戻すために、その元を失うのでは本末転倒甚だしい。もしまたそのようなことになれば――井澄は今度こそ、絶望から自刃を選ぶだろう。
肺腑がつぶれそうで、息も絶え絶えになりながら、彼は駆け続けた。そして、黒煙と残り火の赤が目に痛い通路を発見する。その中で、三人の男がそれぞれの得物をだれかに向けていた。
なにも、考えられなかった。ただ、銃がだれかに向いているという、その意識だけで、反射的に指先が動いた。右手に羅漢銭の構えが淀みなく生じ、三枚の硬貨幣は男たちの得物持つ腕をぶち抜いた。
次いで、駆けこみながら左手で三枚の硬貨幣を取り出す。宙に浮くその間にこれらを指弾で放ち、男たちの頭部を穿った。殺すまではしない。だが動けないように。
そうして十字路に駆けこもうとして、
「――ぐぁっ!!」
井澄は眼前を火の槍に阻まれた。またも爆薬か、と怖気づいて一歩退いたところ、まるで来るなと言わんばかりに、槍は数を増やして壁のように井澄の前にそびえたった。
だがこれほどの凄まじい熱を発していながら、井澄のほうには火の粉ひとつ飛ばしていない。完璧と言えるまでに統御された動きで、槍の形状と矢の速度を維持していた。眼鏡の奥で目を見張り、井澄は口を開けて紅蓮の炎を見つめ続けた。
決して、爆薬などに生み出された粗雑な焔ではない。人の意志の介在が認められる、術としての焔。技としての火。数秒の後に火焔が消え、通路を塞いでいた劫火の壁もめらめらと形を崩す。井澄はふらつく足取りで足下舐める残り火をまたぎ、十字路の向こうへ、いざなわれるように進む。
火焔の向こうに、果たして、彼女はいた。ドレスは裾が引き裂かれて素足を大きく晒し、埃と煤にまみれたような格好で、立ち尽くしていた。
美しい黒髪は乱れ、顔を覆うように垂れている。隙間からのぞくようにして、ふっと彼女が目をあげた。
「……せ、いと」
――彼女はあの、ライト商会での一件のときに同じく。
小さな声で、名を呼んだ。
他のだれでもなく、しっかりと目と目を合わせて。
井澄の名を、呼んでくれた。
「…………あ、」
声が漏れて、井澄の手が伸びる。壁に背をもたせかけた少女は、しぱしぱとまばたきを繰り返しながら、半目で井澄を見る。直刀を取り落とした彼女はぼんやりと自分の体を見て、それから、もう一度しっかりと井澄を見た。
今度は目をしかと開いて、その瞳に驚きと、喜びと、苦しさと、哀しさと、感情がないまぜになった色を浮かべた。
「――っ、井澄!」
よたよたと、弱弱しい足取りで近づく。井澄は硬直したままで、そこにぶつかるようにして、彼女は体重をかけてきた。後ろに足をひいて踏ん張り、井澄は彼女の体を支える。井澄の胸へ顔をうずめた彼女は、腰に手をまわしてぎゅうと井澄を抱きしめた。
茫然と、彼女のつむじのあたりを見下ろしていた井澄は、少しだけ顔をあげて息を呑んだ。そのまま歯を食いしばり、頬を震わせ、ただ静かに潤む視界を閉じた。この場が危険だと理解していてなお止めることはできず、井澄はゆっくりと彼女の背に腕を回し、細い体を抱きとめた。
……だいぶ、月日が経っていた。彼女と別れて、孤独に生きて、一年と六ヶ月。その間彼は彼女の幻影を追い、色あせぬ彼女との日々を想起し続けた。過去だけを支えにして、師との辛い鍛錬に耐えて、この島に過ごしてきた。
変わり果てた彼女との暮らしは、楽しくも悲しく。朝目が覚めて、おはようと声をかけるその都度、いまの〝八千草〟が〝彼女〟でないことに小さく絶望した。けれど彼はおくびにも出さず、日々を八千草と過ごしてきた。
井澄よりはるかに低い背丈の彼女は、ひょいと上からのぞきこむと髪の隅々まで見渡せる。その隙間に、ごくたまに垣間見える、指の先ほどの激しい傷跡。雨が降るとこの古傷がいたむと八千草は言い、その都度井澄は思った。古傷とは言うけれど、それは八千草ではなく彼女の古傷だと。
だが、いまは。
その古傷によって失われたはずの、彼女が。再び目を覚まして、井澄の目の前にいる。これを奇跡と呼ばずしてなんと呼ぼう。言うなれば、彼女の存在こそが奇跡だ。彼女がいることが、井澄の生きる意味だ。
だから精一杯、心をこめて、井澄は彼女に言う。
「おかえり、なさい。八千」
抱きしめた彼女から返事はなく、ただ腰に回る腕に、いっそう力が込められた。
劫火絢爛。