40:硬貨幣という名の兇器。
「本土にいた頃の、知り合いかい」
左逆手に傘を、刀を右片手正眼に構えたまま、八千草が言う。井澄は笑みをたたえた男を前に、ぐっと感情を制御し、右手に羅漢銭を左手に指弾を構えた。
「知り合いではありません。ただ、互いに互いの術については、知っているようです」
おそらく、男の術式は〝言壊〟。
被術者はあらゆる法則性・表現性から外れた言語しか操れなくなり、施術者と被術者以外の人間とは意志疎通ができなくなる術だ。当然、口から出る言語もこの効果に準じたものとなるため、詠唱系術式は使用できなくなる。
そのような、言語魔術。
言語に干渉する特殊な魔術。鶴唳機関で研究されていた、新時代の産物。
井澄の殺言権と、同じ――。
「……話したくないことは、尋ねはしないけれど」
渋面をつくっていた井澄に気づいたか、八千草は目をしばたいてこう口にした。井澄は、すかさず以前と同じ言葉を口にする。
「いずれ、話そうとは思っていたことです」
言いつつもたかぶる気持ちを抑え、井澄は男の出現について思考をめぐらした。なぜ統合協会の人間がここへ来た。赤火へ襲撃を仕掛けているのは、青水ではないのか。
そもそも政府管理下にあるとは言い難く、事実上の放置をなされているはずの四つ葉に、裏側で明治政府と繋がりを持つ統合協会の人間が来ることはまず有り得ない。では彼も脱走者か――いや、ならば井澄に戻る気がないか問うのはおかしいか?
現状では判断材料に欠ける。とりあえず判明していることは、この男が八千草に手を出したという事実のみ。
深く息を吸って、思考を推測から現状対処へ切り替える。情報を聞き出せるのなら、そうしよう。そうでなければ、殺そう。と。魚顔の男に向き直り、井澄は構えに緊張を走らせながら言った。
「ひとつ言葉をかわしましょう。あなたは、」
「名執だよ。いまのお前と同じく、偽名ですがね」
「……名執。先ほどの問いかけに返答いたします。私は統合協会の元に戻るつもりは、一切ありません」
「つれない言葉ですなぁ。現状がわかっていないと見える」
「状況ならばよく理解しています。そちらこそ、よもや前後を挟まれた二対一の現状で、自分が有利だとでも思っているのですか」
「ははは、視野が狭い。俺ァそういうことを言ってるわけじゃないんですがね。……ん? おいセイト、まさかお前理解してやがらないてぇわけですか?」
驚き戸惑うような顔で、名執は言った。井澄はこれに応じることができず、しかしそれが男にとってはなにかを察するに余りある反応であったらしい。ゆっくりと目を細めていき、短剣を構えたままに顎先を突きあげ、天井を見据えながら彼はぼやいた。
「……ああ、そうか。脱走したのは二年半も前でしたか……〝事代〟すら殺せるお前でも、深度伍級以上の情報は開示されてないわけですな」
「事、代」
「そう、コトシロだ。聞き覚えはござんしょ? まあ、抜けたいまとなっちゃ、お前にとって大して重要でもないわけですがね。〝糊塗白〟の俺や、〝異支路〟の村上……。それらあらゆる言語魔術の中で、お前だけが異質な特性を示したというに」
にやりと笑って男は言う。言及している対象は、殺言権。
〝言死呂〟の、魔術。
「だからお前の脱走、機関内でもかなりの問題になったんですぜ。追跡してなんとしても殺すべきだとか、いや殺そうとすれば〝殺言権〟で研究資料を消される、とか。侃々諤々の議論を経て、悩んだ末に放置決め込んだってぇわけですが」
「やはり放っておけないと、連れ戻しにきたわけですか」
「いや? たしかに仕事で来たとは言いましたが、そういうわけでもありませんやな」
切っ先を揺らしながら名執は言った。井澄は構えを崩さず、ためつすがめつしながら彼の一挙一動に目を配る。
「俺の仕事は、」
と――肌に沿って、全身を剣山で撫でるような強烈な気配が、彼方から注いだ。この鉄橋に向けて、どこからか。思わず気配を探った井澄は、右手の奥、五間ほどの薄闇にのぞく足場へ、その気配を認めた。機材がひしめき場を埋めている位置から、放たれている。
気配が殺気の域へ研ぎ澄まされ、威圧が身をすくませる。とっさに正面へ意識を戻したときには、隙を見逃さず名執が飛びかかってくるところだった。
「――そっちの嬢ちゃんを、殺すことでさ」
視界の奥で、八千草が目を見開く。彼女にまたも、銃撃が注いで、身をかわす。井澄は状況に気づき、名執への敵意を極限まで強めた。次いで腹部を締めあげるようにして、怨嗟の念を呪詛のごとく放つ。
「貴様ら……!」
激昂する井澄は一歩退いて、右手の羅漢銭を放つ。三打すべてが二振りの短剣に叩き落とされ、同時に投じた鋼糸も屈んでかわされる。すかさず左手から名執の顔めがけて指弾を撃ちこむが、ぎゆんと奥歯の根に響く音のあとに、彼の短剣に硬貨幣が突き刺さるのを見た。
次いで、炸裂する銃声。殺気の放たれた位置から、響き渡る。狙われているのはこちらではない。
「八千草ぁッ!!」
「はっ、人の心配など」
硬貨幣を切っ先に載せたまま、突き出される名執の短剣。左手を引きながら井澄は後ずさり、一足飛びに右手の柵の上へ逃れる。名執はさらにそこへ短剣を振るう。この足場を払う一閃をかわした時、井澄は勢いよく後方へ飛んで、先ほどの長樂のように空へ身を躍らせてしまった。鉄橋に並行するような移動はすぐに止まり、落下が始まる。
「なさる暇ぁ、ありやせんよ」
「……っ!」
苦し紛れのように、再度左の指弾で狙う。だが体勢の崩れた状態からの一撃は弾くこと造作もなく、名執は不快な笑みを浮かべながら落ちゆく井澄を見送り、きびすを返した。彼の姿が、遠のく。
仰向けに天井を見上げながら、落下する一秒。内臓が腹の内から押し出されそうな、奇妙な圧迫感がある。冷や汗流れる中で井澄は袖を振るい、左手親指にカフス釦を載せ、指弾の構えを取った。
次いで、右腕を引いた。途端にぎしりと音がして、首と腰に衝撃を与えながら落下は止まる。先ほど右手の羅漢銭を放った際に投じた鋼糸を、柵にからませておいたのだ。鋼糸は長さ一間と五寸である。ぎりぎりで届いていた。強靭な糸は、井澄の体重を支えてぴんと張る。
あとは落ちる勢いに任せて、井澄は半円を描くように空中を移動した。そして弧の終着点に行き着くと、柵をつかんで体を引っ張り上げる。ちょうど正面に、八千草のところへ向かおうとしていた名執がいた。
「な、」
「仕留める前に目移りですか」
突如として真横へ現れた井澄に硬直した隙を逃さず、こめかみへ向けて指弾を放つ。急激な制動をかけて重心を後背部へ移し、名執は寸前でかわした。だが殺しきれなかった勢いが、鋼糸へと名執の身体を近づかせる。喉仏が、鋼糸に触れそうになる。
そこで彼は短剣の切っ先を、糸と首の間へ差し込んだ。すんでのところで首の両断は免れ、静止した彼は柵上の井澄に刃を振るう。また跳躍してかわした井澄は、両腕の糸を袖内に巻きとりながら、彼の行く手に着地した。
「行かせませんよ。生かせませんよ。あなたは唯々ここで死ね」
「心配せずとも、俺ァ追い込むだけの役目ですぜ。本命は、向こうがやる」
通路の方から、大きな音が聞こえた。正面の名執に牽制の指弾を放って振りむけば、先ほどの射撃手の位置から、黒い影が躍動するのが見えた。
足場もなく、ただの垂直な壁を猛然と。一歩ごとに破砕を振りまくような足音を踏み鳴らし、三歩かけて渡りきった。出鱈目だ、と思って見るうち、通路に逃げた八千草を追って影が進む。空気が破裂する音と共に、銃弾が八千草を追っていた。連発しているということは、先込め式の単発銃ではない。リヴォルヴァか。
「待て!」
「仕留める前に目移り、いけませんやな」
先の言葉を返され、名執の追撃がはじまる。近づく足音に、けれど井澄は振り向かない。ただ両腕より硬貨幣を手の内に落とし、両手に羅漢銭の構えを取ると、外側に両腕を振り抜いて放つ。柵のそこかしこで跳ねかえった硬貨幣は、井澄の横を過ぎゆきて背後に飛びかかった。鉄と銀が互いを削り合う音が背後より響き、名執が吼える。
「ッハハぁ!! 逃げなさんな、セイト!」
決定打は与えられていない、そんなことはわかっている。逃げること、一秒でも時間を稼ぐこと。それだけに重点をおいて、井澄は駆ける。
かろりと音を立てて口の中に転がる刺飾金を思い、鬱陶しそうに舌を突き出した。それから、通路へ飛び込みすぐに角を曲がる。途端に音を立てて壁に短剣が突き刺さり、名執の舌打ちが聞こえた。次に罵るように、恫喝の言葉が届く。
「止まってもらえませんかね、別にお前を殺す必要はないわけでして」
暗に殺すのは容易いと述べて、名執の圧力が増した。速度に乗って追いつかれてはかなわない。井澄は気を落ち着けて、さらに強く踏み込む。右腕のカフス釦を指弾の構えに置いて、背後に声を飛ばした。
「八千草を殺そうとしている以上、止まるわけにはいきません」
「もう死んでてもおかしかないですぜ」
「そう簡単に敗れないと信じています」
しれっと言ってのけて、さらに逃げる。広い通路では、後ろからの投擲でも簡単には当てられないと判じたのだろう。名執は追いながら機会をうかがっていると感じられた。さながら獲物が弱るのを待つ、狼の群れのごとく。
しばらく走ると通路が狭まり、人が二人すれ違える程度にまで道幅が減少する。背後から投擲を狙う名執には好機となる狩り場、井澄には危険を匂わせる窮地である。踏み込む一歩一歩が死地への歩みに思われて、けれど井澄は止まらない。
通路に入る、その寸前で両腕を振るう。鋭く飛んだ糸は、空を切って進んだ。狙うは道の両側に巡らされた蒸気管である。ここへ巻きつかせた糸を引くことで井澄は真上に高く飛び、背を反り返らせるような跳躍で足を天井に付けた。
見はらす眼下で名執が歯噛みする。そう、狭い通路に入るからこそ、投擲で追撃する好機だったのだ。しかしいまや井澄はどちらかの糸を緩めるだけで、左右への移動は容易い。立体的な移動術を取得した井澄に、投擲はあまり効果的でないのだ。
「では」
そして、ばらまく。逆さに宙づりとなった一瞬の姿勢の中で、井澄は袖から大量の硬貨幣を四散させた。そして再度両手に四枚ずつの硬貨幣を取り出し、空中へ浮かせる。次いで四本の指を折り曲げ親指で力を溜めた。
「さようなら」
言葉と共に正面へ手を突き出し、指の力を解放する。四連の指弾に撃ち抜かれた硬貨幣八枚は加速し、先にばらまかれた硬貨幣の群れへ突撃する。一枚が一枚へ当たりその一枚がまた他の一枚へ。連鎖し増殖する飛来物は、しかし偶然の動きによりもたらされる軌道を描く。
井澄の意志が、一切介在していない。ゆえに軌道を読むことはできぬ、完全に無作為の乱打と化す。もちろん連鎖させて力を伝える以上は一打あたりの威力はかなりの減衰を免れないが、それでも通路の壁に反射し跳弾する弾幕には、さしもの名執でも対処のしようがない。
小気味良い、金が金を打つ音が鳴り渡り、通路を埋める。腕を畳んで顔と喉、胸をかばった名執は、背後へ一歩跳んだ。それが精いっぱいの防御だった。殺到する硬貨幣に、最後に彼は目を見張った。
「ぐぅゥッ――、」
四方八方から乱れ飛ぶ硬貨幣に余すところなく打ちのめされ、名執の足が止まる。瞬時に井澄は左手の鋼糸を緩め、右へ跳びながら糸を巻き取った。くるりと反転して足を地に向け、同時に再度左のカフス釦を引きだす。これを右手に構え、指弾と成した。同時に左手には羅漢銭を構え、そうしたところで着地する。
瞬時に名執へ向けて駆けだし、右手を差し出したまま突き進む。乱打の終わりに防御を緩めた彼に視認され、残りの距離は三歩。右手が意識と同時に反応して指弾を撃ちだし、名執の喉笛へ迫る。
「舐めるな!」
あれほどの乱打の中に沈んでいながら、名執の動きに衰えは見えない。振るった左手の短剣に、軌道を外側へ逸らされる。井澄から見て右側へ、糸は飛んでいった。
しかし途端に名執の顔色は変わる。失策をなぞったと、己で気づいたらしい。
井澄が、左腕を外へ開くように振るいながら、羅漢銭を放つ。当然、左腕から引き出されている鋼糸は、動きにつられて流れる。名執の左側から、首を狙って襲いくる。必殺の一糸は防がぬわけにはいかず。けれど三つの羅漢銭を、すべて右手のみで払うことはできない。
結果、左脇腹と右の肋骨あたりから、鋭く細く血が噴き出した。一枚は短剣で打ち落とした様子だったが、残り二枚は彼の斬撃をすり抜けた。肌を貫きめりこんで、筋肉まで傷つけている。
「が、ああああ」
負傷しても、名執は短剣を手放さない。振り上げる右の切っ先が、井澄に向けて擲たれる。
「終わりだ」
冷たく告げて、井澄は短剣を指先でつかみとった。同時に左の鋼糸を力いっぱい引っ張り、短剣の側面をこすらせる。不規則に変化した軌道はのたうつ蛇の如く、暴れ回って名執の左腕を引き裂く。筋を斬ったか、名執は短剣を取り落とした。
仕上げに、奪い取った短剣の柄を、指弾の要領で飛ばした。名執は防御に使った右腕を、腹部に縫いつけられる。駄目押しに井澄は柄頭を蹴り込み、より深く身の内まで刃を沈ませた。ぶぢっ、と音がして刃が抉り、血があたりを汚した。
「は、あ」
「死ね、名執」
ゆっくりと、足が凍てついたように、名執は仰向けに倒れる。自分の腹部に刺さる刃に生気を吸い取られたか、顔が青ざめていく。
悠然と見下す井澄は左の鋼糸を取り出し、名執の首元に向けて投じた。ぬらぬらと光る極細の刃は、舌舐めずりするように鋭く、名執の命に迫る。これを見て、彼は口の端を歪めた。
「……へ、へへ。八つ裂きの業物、〝切り裂きジャック〟ですか……呉郡以外で、こうまで使いこなせるたぁ、驚きですぜ」
「師を存じていましたか」
「洛鳴館事件についちゃ、統合協会では知らない奴の方が、少ないもんでさ」
この言葉に、わずか井澄は首をひねらざるを得ない。洛鳴館事件……井澄の師、呉郡黒羽が命を落としたあの場、要人暗殺のあの依頼。これについて知る者は大半が呉郡を極悪人と判じ、彼女の業をあの忌々しい蔑称〝異刀鋸〟と呼ぶはずなのだが。
「なぜ、あなたは〝黒糸矛爪〟の名を呼ぶのです」
「さあて、ね」
「八千草を狙った理由は」
「そっちは、すでに気づいて、ござんしょう」
せせら笑うように言う名執に向けて、井澄はすっと表情を消した。その上で右足を振り上げ、短剣の柄頭に振り下ろす。名執の体の中で刃が滑り、みりみりと臓腑を掻きわける感触が足裏に伝わった。苦悶に脂汗を流し、名執はうめく。
「あああっ……があぁッ!」
「なぜいまになって。ここにきて、狙うというのですか」
「……あああぅぅぎぁ……、っか……、は、ははは! 仕方、ないこと、ですぜ。お前も、統合協会に残っていれば……、いまごろあの子を追う側にいたはず、でさぁ」
「世迷言を」
「はて、さて。本当に、世迷言……ですかねぇ。――ああ。でも、お前は、ちがうやもしれませんな」
ぎょろりとした芽を動かし、名執は井澄を見上げた。血のこぼれる口元をぬぐうこともせず、じいと見上げて視線を止めた。その目から光が弱くなり、次第に焦点が、前後にぶれ始める。流れ出した血が、床に大きく血だまりを作っていた。肝臓あたりが破けたのだろう。
「お前の根元にゃ、世界を救う意志など、ござんせん」
「世界など。どうでもいいことの筆頭です」
「ほら……そう言ってのける。なるほどたしかに、そうある以上、お前はあの子を追う側にならんのでしょうや。ただ、お前の目は……、」
咳き込んで血を吐いた。こぼれた血が点々と、井澄の革靴にまで飛沫を撒く。いよいよ目線がずれてきた名執はそれでも口の端を高々と上げて、にいいと、呪い師のごとき軋んだ笑みをたたえた。
「お前の目は、世界を憎んでますぜ。あの嬢ちゃんの、なにも憎まぬ目とは、相容れない」
「……世迷言を!」
鋼糸を振り抜く。
最期まで、目は逸らさない。
首から鮮血をほとばしらせ、絶命した名執は。まぶたが中途半端な位置に降りて、笑みをほぐし、すべてが弛緩した様をさらした。震え、痙攣するような呼吸を繰り返す井澄は、名執の遺した言葉に恐怖に似た感情を覚えていた。
目。また目の話だ。靖周と先日、酒を酌み交わした際にも言われた……色を変えぬ、不変の目だと揶揄された井澄。その動揺は得物に伝わり、震えとなって現れている。床に垂れた鋼糸は、細かに揺れる探導線のように血で床に軌跡を描く。
「……どうでも、よいことだ」
言い聞かせることばを胸に、井澄は眼鏡を外す。血だまりには、ひどく目つきの悪い、己の顔が映っている。眼鏡にまで散った血の飛沫をぬぐい、なるだけ己の顔を見ないようにしながら、井澄は腕を振るって鋼糸を巻き取る。血を吸ったように、なびく糸は重たさを感じさせた。
世界など、どうでもいい。いまは、八千草を。そう思いなおし、井澄は散らばった硬貨幣を素早く回収し、袖に収めながら走り出す。どこまで追われているかはわからない。なにが起きているかはわからない。己の目ですべてを確かめるために、井澄は駆ける。
そしてふと、連発銃というものについて考えを馳せて、なにか思い出しかける。頭をかすめた像は懐かしさを感じさせるもので、街中で吹く風に過去を想起するような、鼻腔の奥につんとくる感覚があった。
銃声と硬貨幣。