37:四権候という名の猛者。
嗜虐描写注意
段橋をのぼり、入口の両側で構える屈強な男を見て、井澄ははっとした。物腰こそ柔らかだが腰が低いわけでないその男どもは、物々しい空気をまとって硬い表情を崩さない。明らかに、入る人々を見極めている。
すなわち、眼力のみを頼りとする身体検査、関所のようなものであった。井澄は八千草のアンブレイラに、必要以上の視線を注いでしまいそうになる。
「八千草……」
「まあ、大丈夫であろうよ」
幸い雪も降っているから普通さ、と能天気なことを言って、アンブレイラをたたんだ八千草はすいと井澄の前に出た。いくらなんでも無謀ではないか、とひやひやしながらこれを見守っていたが、緊張の一瞬は、すぐに弛緩の数秒にとって代わられる。男たちは「いらっしゃいませ」といかつい顔に似合わぬ言葉を吐くのみで、なにひとつ警戒の色を見せることはなかったのだ。
「……意外です」
男どもから離れて冷え冷えとした通路を進みながら、井澄はひそひそと八千草に話しかけた。すると彼女はちょっと手を伸ばして、井澄の右手に触れた。手を繋ごうとしているのだと思いひしと手の内に握りこむが、すげなくすり抜けられてアンブレイラで向こうずねを叩かれた。
「いたい」
「なぜ手を取る」
「え、エスコウトを」
「いま要らないよ。ぼくは手を繋ごうとしたのではなくてね、それを指し示したかっただけなのだよ。お前だって、得物を持ちこめていると」
「ああー……でも私のは、隠密性と携帯性のみを突きつめた得物ですから」
手首のカフス釦と、袖口やポケットへ仕込んだ硬貨幣を考えながら井澄はつぶやく。
「でも八千草のアンブレイラは、ちがうじゃないですか」
「なんだかんだ言っても名のある刀匠の一品だよ。露見しにくいように作られているのさ」
差し出されたので、井澄はアンブレイラの柄を握ってみる。すると、驚くほど軽く重心が制御されていると気づいた。横では、ケイプを留める太いリボンを締め直した八千草が、返せという仕草を見せていた。
「本物の傘とさほど変わりないです」
「だろう? まあなぜだか、これの作者は奇匠などとも揶揄されていたそうだけれどね」
「ははは、たしかにこれも珍妙な品ですよね」
「そうだ。珍しく、絶妙なつくりであろうよ」
「ええ。刀身を射出するなどという馬鹿な発想、なかなか思いつかないでしょう」
言えば八千草は固まり、しげしげとアンブレイラを見つめ、傘の部分を撫でた。
「……ぼくはそこがいいと思うのだけれど……一度きりしか使えないところに美学があると思うのだけれど」
「馬鹿と言いましたがもちろんいい意味の馬鹿ですよ。常人には真似できないという意味です」
慌て取り繕う言葉を並べる井澄だが、八千草の不興を買ったことは否めない。理解のない奴、という目を向けられて今度は井澄がしょげた。
やがて通路の途中、また両側に男どもが居並ぶ空間に出た。ここではどうやら招待客か否かの見極めをしているようで、人々はなにやら書面のようなものを見せて、ここを通行しているようだった。
「八千草、封書を見せればよいのでは」
「あ、これか」
どこにしまっているのかと思えば胸元で、わずかのぞいた肌色にどきりとしながら、井澄はぎくしゃくと歩いた。八千草は見られたとは気づいていなかったのかすたすたと歩み、封書を見せている。
途端に男は他の客に対するよりもなおかしこまって、八千草を脇の通路へ誘った。首をかしげる八千草に引き寄せられ、井澄も同じ通路へ出る。先導する男は薄暗がりの通路を行きながら、へこへことしていた。
「封書を見せる者があれば、こちらに招くようにと仰せつかっておりまして」
ということは、この先に赤火の主が待っているのだろうか。八千草がちらりと見上げてきたので、井澄はぎゅっとネクタイを締め直し、なにが起ころうとも対処できるよう身構えた。
薄暗がりを行く井澄と八千草は、すぐに狭く急な階段をのぼることとなった。かつんかつんと一段ずつ確かめていかねば、するりと元の位置まで戻されてしまいそうな段差だ。むしろ階段より梯子に近いのではないか、と傾斜を見ながら井澄は思う。そして掌を上向けて、八千草に勧める。
「落ちては大変ですから、お先にどうぞ」
「お前にまた肌着を見られるくらいならばお前を下で受け止めるほうがましだ」
頬を赤く染めてそっぽむいた八千草を前に、肩をすくめた井澄は先にのぼった。すぐさま周囲を見回して、それから八千草にのぼってくるよううながす。
またしばし天井の低い通路が続いていた。彼方は暗さに呑まれてなにも見えなくなっており、作り物の洞窟じみた不自然さ、違和感があった。見れば、薄暗がりの途中から赤く光が差し込んでいる。八千草がのぼってくるまで待ってから、案内役の後ろへ二人並んで光の中へ踏み込む。
先にあったのは、広い部屋だった。
依然として天井は低いままであったが、広さとしては申し分ない。踊りまわることもできそうだ、と考えながら、井澄は足を置く。ふかふかと長い毛足の、瓶壺紋様の絨毯が敷き詰められていた。波斯の品だろうか。
天井では赤く染め半球状に仕立て上げたギヤマンの覆いの向こうから、明かりが降り注いでいた。視線を下げれば奥には猫足の小さな丸テエブルと、その脇にいかにも座り心地のよさそうなソファが安置されていた。否、むしろ鎮座ましまし、などと言うべきだろうか。それほどにソファは立派な品である。
「主がいらっしゃるまで、いましばらくお待ちください。傘は、お預かりいたします」
躊躇いなく八千草が手渡せば、ちょっと迷った様子だったが、男は入口の脇にあった帽子かけへと傘を引っかけていた。
ソファの前へ置かれた一脚の椅子――これも悪い品では無い――に八千草の居場所を勧め、案内役の男は民族的な意匠をこらした陶製の火鉢に暖を宿すと去っていった。座りこんだ八千草は、居心地悪そうに不在の主を待つ。井澄は彼女の後ろに居場所を定めた。
「式典の前に会うつもりなのでしょうか」
「でなければここまで呼ぶまいよ。式典の間中待たせるというのかい?」
「勘弁願いたいですね」
「まったくだよ。……立食パアティだというから、昼を抜いてきているのだし……」
どこか間の抜けたことを言いながら、八千草は頭を抱えた。思っていたよりも余裕があるのですね、と軽口のつもりで言えば、彼女は真顔で「最後の晩餐になるかもしれないだろう……」と言ったので井澄ももうこれに関してなにも言えなくなった。
「しかし」
部屋を見回して、井澄は調度品の数々に目を配る。足下に広がる絨毯もそうだが、けっして安くはなさそうな品々に囲まれていた。かといって物の価値のみを誇示するような配置ではない。配色から大きさまで、細かで繊細な美的感覚のもとに配されていると見える揃え方がなされている。
「仮に私たちを亡き者とする算段であるのなら、ここへ来るまでに仕留めているのではないでしょうか。階段など、襲うにうってつけかと」
「そんなところで先に行かせようとしたのかい、お前」
ああ言えば自分を先に行かせると判じてのことだったが、井澄は曖昧に微笑んでなにも言わずおいた。いまのところ、あの案内役の男も、通ってきた空間にも、殺気などは感じていない。
「なんにせよ、このようないかにも客を出迎える場で、わざわざ殺しなどはしないと思います。血を流して絨毯が汚れでもしたら、それだけでひどい損害でしょう」
「まあ、彼らは商人であるからね。金は命より、というものか」
「命が安いのか金の価値が高いのかはわかりませんけどね」
「他の場はともかく、この島においては命が格段に安いのだと思うよ。軽くて安くて吹けば飛びそうな程度に、さ」
別段この島だけの話ではない。どこでも命は安く扱われる、と思いながらも、井澄は警戒怠らず両腕の暗器を使えるようにしておいた。
次第に、先の男が火鉢に香でも焚いていったのか、室内に甘くとげのある匂いが漂い始めていた。己の指先に残る煙草の香りと比べて感じられる、まとわりつく鼻腔への刺激。不審に思ったが、毒や危険な匂いではない。
あまり覚えの無いものだったが、少しして記憶の底から沈香の匂いだと思い出す。……洛鳴館でも、この香りが焚き込められた部屋があった。
嫌な記憶を振り払いながら、井澄は気分を変え状況に応じるべく、八千草へ話題を振る。
「ではどの用件で呼ばれたのでしょうね」
「やっぱり牽制……かな。危神を失い戦力の落ちた緑風へ、威圧して動きを縮小させるための。もっとも湊波さん相手なら、あまり効果はなかっただろうけれどね。しかしぼくらが相手となるともっと大きく出て、直接に赤火の傘下へ降れと口にするかもしれない」
「勢力図の塗り替え、ですか」
「最近青水と赤火の小競り合いが増えているとの話もあるからね。だがもしそのような打診があった場合は、ますます危神の死がなにによるものか気になるところであるよ」
不機嫌そうに目を細くして、空席のソファをにらむ。井澄はまさか、と躊躇いながら首を横に振った。
「赤火によるものだと言うんですか? そりゃ、危神がいなくなって不安定となれば、交渉するに容易いと思わせるのかもしれませんが」
「可能性としては考えられなくもない、ということさ。だがもし相手がそれをほのめかすようなことを言ってきたら、もはや状況は最悪と見たほうがいい。井澄、抵抗の色を見せたりはしないでおくれよ」
「なぜです。また自分の身を守れ、ということですか」
言い返せば、それだけではないと八千草は否定した。
「それもあるけれど、なにより危険が大きいからだね。考えてもみなさい、襲撃者は楠木が席を外したわずかな隙に訪れ、あの危神を斬り捨てたということになるのだよ。速度・隠密に長けた相当の実力者だ。正体不明のそんな奴が、ここにいるということになる」
「正体……普通に考えて、赤火所属の四天神〝詩神〟あたりではないのですか。奴ならば実力的にも妥当でしょう」
「けれど同じ剣士としての性質か、怖いくらいに桧原と仲が悪かったよ。そもそも四天神自体、黎明期の四つ葉でしのぎを削って争ったため全員がお互いを嫌ってはいるものの……あの二人はとくにひどかった。不意打ちだとしてもあそこまで一方的な斬殺はできないはずさ。確実に危神も抵抗する」
「だから新たな危険人物がいる、と。八千草はそう思うのですね」
「赤火が下手人を抱えているのなら、ね。もちろん、黄土の〝盗神〟の可能性もあるけれど。青水の〝怪神〟は……たぶんないね。奴は暗殺などできない」
けれど推論はどこまでいっても推論でしかない。悩み、考え込む井澄はどんな状況をも打破できるよう考えを巡らしながら、席を離れて室内を歩いた。ふと見やるとソファの後ろにある壁へ小窓が開いていたので、そこから顔を出してみる。
三間(一間は約一・八メートル)ほど下に、大広間があるのが見えた。赤き絨毯が敷き詰められ、ところどころに大きなテエブルが並ぶ。白いクロスをかけられた上には、銀食器に設えられた豪華な食事が載っていた。
「……下が、式典の会場でしたか」
話声が群衆の存在感を縁取る。階下で動き回る人々は、思いおもいに食事をとり、あれこれと談笑していた。顔ぶれは四層の人間が多い。もちろん、敵対する青水の人間はいないのだが。
そういえば二九九亭の主人はどうなったのだろうな、と考えの隅で思いをやっていると、背後に気配が差しこんだ。慌てて席に戻り着くと、入口から三人の人間が入ってきた。
「おまたせを」
声のあとに、三人が入ってくる。八千草も立ち上がり、二人して会釈しながら到着を待つ。
一人は、見知った人物だった。〝渦中の繰り手〟こと長樂重三。二九九亭での争いにて戦ったことのある、柄杓を用いた術で水を操る術師だ。バアラウンジで店主を務めるときとは打って変わって、いかめしい表情で部屋に進み入る。
次に入ってきたのは先の、案内役の男である。変わらず腰の低い様子で、ハンケチで汗をぬぐいながら長樂と共にソファの脇へ控えた。両手で捧げ持つように抱えてきた葡萄酒のボトルを、丸テエブルへ置いている。
最後に現れたのが――
「ようこそ我が船舶へ。歓待の準備もままならず申し訳ない――私が赤火・白商会代表を務める九十九美加登と申します」
やわらかで、聞く者に安心感を与える声音であった。年長者であるがゆえの驕りや、代表であるがゆえの貫録などとも少々遠い。ほうと、人に溜め息をつかせるような印象だった。
にこやかな笑みを湛えた顔は、下膨れていて白い歯がのぞく。研がれた鍾乳石のような、立派な犬歯が目立つ口元だった。年の頃五十かそこらと見えるが、肉づきがよいために皮膚も引っ張られ、だいぶ皺が少ない。
ひげは薄く、唇の端と端を覆うように生えている。大きくて潰れた鼻は深い呼吸のたびにひくつき、目元はむしろ大きく反った弧を描いたままぴくりともしない。大きな耳を覆う髪は襟元からうなじへかけて短く刈り込まれており、額も刈られたような後退が目立つ。すっと、太い手を差し出して、九十九は八千草に話しかけた。
「以後お見知りおきを」
腕も腹も太く恰幅のよい体型で、釦が弾けそうな黒の三つ揃えをまとっている。大柄な九十九に気圧されたようにぎくしゃくしながら、八千草はおそるおそる手をとった。
「本日は、お招きいただいてありがとうございます。主不在の折、代理としてアンテイク代表を務めております橘八千草と申します」
「お噂は予予。さあ、おかけください」
そして座るよううながすと、にこにこしながら九十九はボトルを撫でて深く腰掛けた。いかにもゆったりとしていて、くつろいだ様子である。緑風の、代理とはいえ代表を前にしてこの態度。油断ではなく、ひたすらな余裕として感じられた。
「そう硬くならず。さてしかし、代理が来たということは。仕立屋・湊波はこの場には来ないということですな」
「申し訳ありません。主は長く本土での任についており、先日帰還したのですが……またも姿を消し、現在行方がつかめなくなっております。本日私は、お詫び申し上げる次第でこちらに馳せ参じました」
八千草が言えば、九十九は考え込んだ様子で肘かけに頬杖ついた。なにか裏があるのだと疑われているように思われて、指先がしびれるような怖さが震えとなって全身へ伝播した。
やがて、笑んだままの九十九は、ボトルを手に取ると中身を揺らさぬように静かに持ちあげた。
「まずは、一献どうでしょう。酒は、飲みますかな」
「嗜む程度には」
「結構。お前、ゴブレットを用意しなさい」
案内役の男に命じて、九十九は先に己のゴブレットへ葡萄酒を注いだ。部屋に入ってきてからここまでにこやかなまま、糸のように細い目から八千草と井澄を見つめ続けている。しかしなにかに似ていると思ったら、九十九は恵比寿によく似ているのだ、と気づいた。
「御盃を」
やがて案内役の男も、張り付いた笑みを崩すことなくゴブレットを持ってきた。銀でできた、いかにも値の張りそうな品である。ありがとうございます、と受け取り、八千草は手ずから注いでくれようとしている九十九に向かって、杯を傾けようとした。
だが、そこで動きを止め、身がひるんだ。どうしたのか、と思い井澄が背後からよく見ると……杯の、中に。
「どうしました? 早く注がせてください」
九十九の顔が、ゴブレットに歪んで映る。引きつるように長く伸ばした笑みは、引きちぎれて中から本意をさらしそうに見えた。
彼の視線は、杯の中にも届いている。だというのに、このように笑んだまま。本意は、明け透けになりつつあった。
暗い杯の中には、生死こそ不明なものの……御器齧り、百足、その他毒虫と思しき者どもが、ひしめきあっていた。
さながら、蠱毒。狭い器を満たさんばかりの毒は、強烈な、悪意の象徴であった。思わず顔を上げて見やるが、案内役の男も、九十九も、表情を崩していない。ただ長樂だけがいかめしい表情にわずかな揺らぎを示し、それが逆説的に状況の過酷さを表していた。
なるほど。
下手な交渉も小細工もせず、まずは不義理に対する誠意を見るつもり、ということか。
「どうかしましたかな。ゴブレットを、さあどうぞ?」
笑みを崩さぬままに、九十九は勧める。
恵比寿に似た顔だからだろうか、宿る悪意が数段際立って見えた。――これが彼の、赤火のやり方なのだろう。月見里の苛烈さとはまたちがう、人を人とも思わぬ扱い。
それが四権候。四つ葉を支配する、四人の強者が生き方。
「…………、いただき、ます」
八千草は、固まった関節を、意志の力で振りほどいた。肘を伸ばし、捧げ持つ形で、九十九から葡萄酒をいただく。よほど底のほうまで虫が詰まっているのか、葡萄酒がほとんど注がれぬうち、水面はせりあがってきた。
ぎりぎりと、胃が痛む。目の前の光景はこの世の闇の一部だ。わかってはいても、必要な代償と理解していても、井澄は納得も承服もできない。
もう一年近くこの島にいるが、いまだ自分の心は本土にいるときと変わらないのだ。毒も皿も食らわねばならぬ状況には、慣れない。
「では乾杯を」
「……はい」
関節とは逆しまに、八千草は覚悟を固めたと見えた。黒く、紫に濁る液体を、口元へ寄せていく。表情は、背後からではうかがえない。ただ苦悶に歪みそうになるのを、精いっぱい堪えていることだけは確かだろうと、そう思った。
美しい彼女の唇に、ゴブレットの縁が、触れる。沼のようにどろりとした体液混じる葡萄酒が、なだれこもうとする。この様を確認するのと、己の手が動くのと、どちらが先だったか。
「――失礼」
「あ」
ひどい凌辱に我慢ならず、とうとう井澄は背後から手を出した。そしてゴブレットをさっと奪い取ると、ひと息にすべてを、呑みほした。喉越しも最悪の液体が、口の中にざりざりと、頭の中にがりがりと、異物としての認識を感覚へ宿らせていく。眉間に寄せられた皺がほどけるまでの数瞬、首筋から肩にかけて、震えが止まらない。
なにもかもを忘れようと努め、呑みほしたゴブレットをつかつかと歩み寄って丸テエブルへ置き、井澄はハンケチで口元をぬぐいながら八千草の横へ戻った。八千草は口をあけたままで手に空を掻かせており、それは井澄が九十九へ向き直るまで続いていた。
九十九は、愉快そうに笑っていた。嗜虐的で、酷薄な笑みだった。
「……なにを考えているのかね? 私はきみの主人へ勧めたのであり、脇へ控える身分でしかないきみへ注いでやったつもりではないのだがね」
吐きそうな心持ちを押し殺して、笑みをかたどったまま問う九十九を見やる。アルコウルによる陶酔を瞬時に冷ますような、凍てついた威圧に晒されていると気づく。
だが八千草への狼藉を赦すくらいならば、井澄はこの場のすべてを敵に回す覚悟であった。
「申し訳ありません、九十九様。小蠅が器に入るのが見えたもので、つい差し出口を致しました」
文字通りに、というやつだ。続けて井澄は言葉を継ごうとしたが、胃の腑からこみあげる気体を吐きださぬよう努めるのに、一拍置いた。鼻まで、嫌な臭いが抜けていく。うつむいてえずいてしまいそうな体をおさえ、井澄は拳を握りしめて背筋を正し続けた。
「おそれながら、いかに九十九様より賜った酒といえど、私は我が主の護衛。その業務において、主人へ小蠅の入ったものを召し上がっていただくわけにはまいりません」
拍子のずれそうになる声を、腹の底に力を込めて御する。また一拍置いて、生唾を飲み、井澄は真っ向から九十九と向きあう。
「さりとて九十九様より注ぎいただいたものを突き返すも無礼にあたりましょう。……分を越えた振る舞いとは存じておりましたが、このようにする他ありませんでした」
容赦を、とは願わない。ただ頭を垂れて、九十九に己が行動の正否を問う。
乞えば、自らを格下と認めることになる。譲らぬ意志を、その線引きの位置を明確にせねば、対等な関係を持つことはできない。井澄は誠意は見せるが譲歩はしない、との意志を示した。あとはそれに九十九がどう応じるか、それだけであった。
沈黙が、場を占める。数秒の後に、九十九は言った。
「……名を」
「はい」
「覚えてあげよう。名乗りたまえ」
この部屋を訪れてはじめて、九十九が井澄の存在を認めたと思われる瞬間であった。
苦しさに唸りそうなまま、井澄は胸を張り、名を告げる。
「沢渡、井澄と申します」
「沢渡――緑風アンテイクの戦闘者、か。しかと覚えておこう。物のついでだ、そのゴブレットはきみにくれてやる。市場に出せば六十円は下らぬ代物だ」
「身に余るお言葉、恐悦至極に存じます。しかし、いただくわけには参りません」
「この私の勧めを断るか、沢渡とやら」
「お言葉ながら。九十九様に名を覚えていただけたことには、千円でも足りぬほどの価値がございましょう。この上こちらをいただいてしまうというのでは、果報が身に余ります」
「……くくふふ。遠慮を覚えるにはまだきみは若いと思うがね。ではお願いしよう、このゴブレットを持って帰れ」
杯をひっくり返し、中身の虫をくずかごへ捨てる。手ずからハンケチで表面を磨き、磨き終えるとハンケチを捨てて、九十九は銀色を突きつけた。
「二度の勧めを断るのは、流石に不躾というもの。不肖の身ながら、御好意を謹んでお受けいたします」
差し出された杯を押し戴いて、井澄はうやうやしく頭を下げた。九十九はくつくつと声をもらしながら、銀の器を手放した。
「器を見るたび思い出せ。きみが嚥下した苦汁の味を」
脅すような言葉に、凍る空気を吸ったように、肺腑が軋む痛みを覚えた。
これが、赤火との対峙。いまだ切り抜けた状況に怖れを抱きながら、井澄は八千草の背後へ戻る。通り過ぎざまにうかがうと、彼女は井澄の様に発奮してくれたのか、居ずまいを正して芯に強さを取り戻したと見えた。
ここからが、本番だ。くつろいだままの九十九を前に、再度二人は気構えを表す。
「さて……では二、三、お話しましょうか、緑風代表・橘八千草殿」
相対する九十九の笑みは、深くつかみどころがなかった。