36:上陸者という名の戦闘者。
船出に際して銅鑼が鳴る。
早く島を出るべきだった、という楠木の言葉は、深い意味はないのだろうが井澄の心に浅くない傷を残した。先日、この三つ揃えを購入しにいった際に大路とも話したことが、頭に響く。
本土へ連れて帰れない事情。八千草のことを思うのなら真っ先に本土へ逃げかえることが必要だろうに、そうしない事情。死地へ向かう彼女を、助けこそしても止めない理由。
語るには早すぎる。こう判じて、いつも井澄は悩むことをやめる。……そうして心の奥にしまいこんで、取り出さないようにしているうちに、自分でもそれがどんな感情の形をしていたか思い出せなくなってきていると知りながらも。
六層四区の曲所にある仮設駅で楠木と玻璃は降りていき、それからしばらくして、井澄と八千草は二区の閣応山ステイションに降り立った。乗り換えて、船着き場へ向かう列車に滑り込む。
そうすると乗る人間の層が、明らかに変わる。異邦人や、彼らに関わる者が多くなった。異邦の民の、独特の臭気が鼻を刺激する。彼らのまとう香気に少々くらりとしながら、井澄は黙って船着き場まで辛抱した。
車窓から望む空は淀んだ灰色にくすみ、軋む寒さにギヤマンの窓へ置いた手が凍えた。混雑していたので横へ詰めて腰かけた八千草は膝の上に手を置きながら、うつらうつらと眠りに誘われている。
「……雪、ですか」
ちらちらと、埃に似てふっくらとした雪が降りてきていた。進む列車に吹きつけるように激しく、凍てついた風に乗って運ばれてくる。橋脚に支えられた線路の眼下に広がる街路へ、少しずつ降り注いで積もりゆく。赤煉瓦の街路と黒瓦の建物は白い色合いに浸食され、遠くカソリックの教会より鐘の音が清涼に響いた。
ぼおおう、とそこへ低い音が連なる。視線を海の方へ投げれば、煙をあげる巨大な客船があった。
蒸気船と思しき黒塗りの船は、太い煙突を突きだした威容を周囲に知らしめている。甲板に歩く人影も多く、船の上がひとつの町であるかのように映った。いよいよあそこへ乗り込むのだと、否が応にも気合いが入った。
あの広い場で、八千草の味方足り得るのは井澄のみかもしれない。緑風の人間もいくらかまぎれこんではいるものの、いざというときに頼れるような戦力となる人間は少ない。
……このために、鍛えてきたのだ。他に寄るべない八千草を守護するために。
今日と同じようなあの雪の日――もう一年以上も前になるあの日。四つ葉を訪れ、仕立屋こと湊波に出会い、完膚なきまでに打ちのめされて「きみでは無理だ」と追い返されてから。半年かけて呉郡のもとで鍛錬を積み、いまこうしてここにいる。
「私が八千草を、守らなければ」
ひとりごちて、横を見る。列車の揺れを心地よさそうに受けている八千草は、静かに瞳を閉じて長い睫毛をしならせていた。口元から漏れる吐息が悩ましげで、いかにも煽情的ですらある。
唾を呑んで、わずか、彼女の髪に触れようとして、やめた。唇を引き結んで、硬い表情のままに井澄は明後日の方を向いた。
じっと、左手の甲を見る。そこにはライト商会の火事で負った火傷が、いまだ残っている。
「私が、お守りいたします」
今度こそ――。聞こえないように口の中だけでつぶやいて、井澄は車窓に意識を戻した。船着き場までは、もう間もなくだった。
#
「いっくしっ。ああ、ちくしょう、ダルいなあ」
船着き場の裏手へ広がる森の中で、靖周は遠眼鏡片手にいらいらとした様を晒していた。
いつも通り継ぎ接ぎの羽織をまとい、首筋には狐の襟巻など巻いている。垂れたまなじりが穏やかそうな印象を投げかけるのが常なのだが、今日は目もつり上がり、口にくわえた伊達煙管を上下させながら虚空をにらんでいた。明らかに、機嫌がおかしかった。
「兄ちゃん、あんまイラつかんでよ。居留地苦手なのはわかっとるけど」
「べつに俺ぁ苦手じゃねーよ……ただただ、嫌いなだけだ」
「余計悪いのん」
会話する小雪路はちょっと困った顔で、小首をかしげて兄の後ろを守っていた。今日の彼女は膝丈の赤い襦袢に太腿までの白い長足袋、羽織るのは黒のウエストコウトという、普段と配色を入れ替えた服装である。
兄よりも少し高い上背を屈めながら彼方を見やって、客船に乗り込む人間を見張っている。どのような客が入るかを見切り、八千草たちが入れば、そこから小雪路たちの任務がはじまるのだ。
「うー。にしても今日は寒くてかなわんね。あ、雪降ってきたん」
「うえ……雪ん中歩き回らなきゃいけねぇのかよ。やってらんないな」
しんしんと音もなく降り始めた雪に毒づきながら、けれど靖周は監視の手を緩めない。請け負った任務はなにはともあれこなす。己の好き嫌いを差し挟むことなく、彼は仕事に淡々と接する。
これは妹の暴走を止める役割だったことに起因する性質のように思われているが、実のところはちがう。幼少期に四つ葉の開拓にともない、父母を失ったがために構築された精神だ。どんな仕事であろうときちりとこなす、そうすることでしか身を守れなかったために、自然と構築された精神だった。
「しかし、仕立屋の奴がいなくなったせいでこんなことやらされるんだもんな。あいついてもいなくても迷惑だぜ」
「戸浪んのことそんな悪く言ったらいかんでしょ。うちらを拾ってくれたんよ?」
「お前よくそういうけどさ」
「好意や厚意で拾ったわけじゃない、って戸浪んが自分で言っとったんだっけ?」
「そうだよ。あいつはあいつで、あいつの目的のために俺らを拾ったにすぎない。感謝されるいわれはない、って最初から宣言されてんだよ」
「それでも、うちらが面倒みてもらったんは変わりないよ」
「まあな……」
納得しかねる表情で、けれど靖周はうなずいた。
六層の貧民街でなんとか糊口をしのいで生きてきた二人を、五層に引き上げて育てあげてくれたのは事実だ。けれど彼は「手足がほしかった」のであり、そんな彼に求められるまま靖周は殺しのために術と剣の腕を磨いた。
そしてなんとか殺陣鬼との異名をとるまでに、研鑽を積んだ。だがときには深く傷を負うこともあり、これを見た小雪路は黙っていられなかった。
いつの間にやら勝手に仕事をとるようになっていき、湊波の手によって見知らぬ術式を体得してきて、彼女もまた赤無垢という異名をとるまでになった。なって、しまったのだ。
「……だが、あいつに、会わなけりゃ」
小雪路は戦いの中に生きることは、なかったはずなのだ。
井澄と先日酒を酌み交わしながら、冗談めかして語ったものの。幼くして戦いを知り、戦場に埋没していく中で、小雪路は女としての自分を知らないままで生きているように思える。
これを才覚だ、との一言で片づけることは、靖周にはできない。知った上で自ら選び戦いに臨むのならばいい。だが小雪路は他の選択肢をまったく知らぬままにいまも生きているのだ。
……自分は、すでに多くを失ってしまっているが。それは他に手立てがなかったためとはいえ、自分で選択したものだ。けれど小雪路の生き方は、どこか湊波によって仕立てあげられてしまったように思えてならない。
どこか、作り物めいた雰囲気を、感じてしまう。
「そうだ、作り物っていやぁ、最近きな臭い空気が漂ってやがるな」
「え? いまここで?」
「ここじゃねぇよ。ていうか鼻にくる臭いって意味じゃなくてな。なんつーか、いやな流れができつつあるんだよ。狙い澄ましたように危神が殺されたことといい、ライト商会のことといい……」
「島になんか起こるん?」
「わからねぇ。だが短くない、ここでの生活から染みついた勘が働いてやがる」
変な空気が漂っている、と。
けれどいまは、目の前の仕事だ。靖周はまた遠眼鏡片手に客船を眺めて、じいっと遠くを見やる。
すると、視界の端を横切るものがあった。白い輪郭から帆船か、と思い、小さく丸い視界を巡らして横切った違和感を突きとめんとする。
やがて見つけたのは、商船と思しき中型の船であった。先ほどまで見ていた巨大な客船に比べて、全長も半分ほどしかない。港の端に錨を下ろしているようだが、人気がなかった。商船だというのに、この夜にほど近い時間帯に人がいないとはずいぶんな不用心さだ。こう考えながら見るうちに、靖周は視界の中に動く影を見つけた。
先の商船から近いところで、客船へ足を向けている人物がいたのだ。人影は二つ。片方は大柄な男で、もう片方はそれよりは華奢なものの、背丈は小雪路と同程度と見える女だ。女は闇夜でもわかる金髪を肩まで伸ばしており、異邦人を毛嫌いしている靖周は低くうめいた。
「異邦人も夜会に出向くのかよ……って、おい」
靖周はそこで見る。女がジャケツの裏に、こそりと短銃を隠したところが見えたのだ。それから、男と連れだって客船へ向かう。危険な臭いがした。
「……やべぇ、やっぱ八千草たち、危ない目に遭ってんじゃねぇか」
「なに? どしたん?」
「短銃もって船に乗ろうとしてる奴らがいる。止めるぞ」
森から駆けだした靖周の後ろから、慌てた小雪路が追い付いてくる。すぐに小雪路のほうが速度に乗り、靖周を横から追い越していく。彼女は両掌を合わせると、短い詠唱の後に跳んだ。
「――〝纏え天地擦る力の流れ〟!」
両掌を下駄に叩きつけ、下駄裏の摩擦を弱める。着地して、石畳の港を滑走しはじめた小雪路は徐々に加速を見せ、あっという間に二人組の前に滑り込んだ。左半身に構えて拳を作り、にっと笑みを見せながら問いかける。
「どこいくん? 銃なんてもって」
「……おお? 急に出てきて一体なんのことだい、嬢ちゃん」
魚のような面をした男のほうがしらばっくれて、金髪の女へ目配せする。女もこれに応じてわからないという顔をして、腕組みすると沈黙を保った。
「あの客船に、乗ろうとしてたろ」
背後から牽制するように靖周が言えば、男は振り向き、女は小雪路に向き合っている。ふざけたように、男はもろ手をあげて首をひねった。
「我々が客船に乗ろうとしてったってぇのかい? いやどうだろうな、招かれてた覚えはないんだが」
「暗殺目的、とか言うんじゃねぇだろうな」
かまをかけるつもりで言えば、男が笑みを強めた。いかにも不自然な、拍子をはかったような笑みのつくり方だった。これで確信を得て、靖周は一歩踏み出すとともに威圧する気で以て畳みかける。
「もしそうであるなら、乗せるわけにゃいかねぇ。ここで、倒れといてもらうぜ」
両腕を、いつでも短刀を抜けるように身構える。男は困ったように頭を掻いて、どうする、と問うかたちで隣の女に向かって目線をやっていた。女は答えず、ただ腕をほどいた。
「動くな」
それより一動作速く、靖周は右手で抜いた短刀の切っ先を突きつける。左手は五指を広げて腹の横へ配し、右半身に深く足を広げて構えた。背後であるため女に見えてはいないだろうが、威圧が殺気へ変わったことから察したと見える。女の指先まで、力が宿るのを感じた。
「……名執」
ここでようやく、女は声を発した。よく通る、凛として澄んだ声音であった。あいよ、と男が応じたところを見るに、男は名執というらしい。
「どうしやす? 潜入の任で露見しちまった以上、俺は退くのも手だと思いますぜ」
「潜入などとわざわざばらすな。大体、現状こうして足止めを食らっているのも貴様のせいなのだぞ。わざわざ術をかけたりなどするから」
「いやでも仕方ないでしょうよ、あれは奴らに俺らの話聞かれないようにするためのもんであるからして」
「言い訳は要らん。とにかくだ」
ふつりと言葉が途切れるとともに、女の気配が消失した。目の前にいるのに気取られない状態。
経験から靖周は悟る。
これは、相手が己の認識よりも素早く移動した結果なのだと。
「っとおぉ!」
襲うならば正面の小雪路、背後の自分ではない――こう判じたわずかな油断に乗じて、左のかかとを軸に右へ反転した女が襲いかかってきた。低く身を屈め、下から切り上げる軌道で、どこからか取り出した両刃の、木目のような模様が目立つナイフを振るう。
右腕を引いてかわし、体を開いて正面を向けてしまう。そこへ、手首を返しての突きが飛来する。薄闇にまぎれる銀の残光を、左前腕で外から内へ払うことでなんとか回避した。
同時に脇へ抜ける際、左の拳槌を敵の右腕の上へ滑らせる。顔面へ直撃するはずの拳は、しかし首を振ることでかわされた。
「ちぃ」
舌打ちして仕切り直す。互いに刃を向け合い、彼我は一間の距離を保つ。懐の短銃は、音を気にしてか使うつもりはないようだ。となると、気になるのは術式の有無である。いまのところは術を使う素振りがないが、詠唱を防ぐ意味合いでも攻め続けるほうがよい。
跳びかかろうとしたところで、靖周は背後に詠唱を聞く。
「〝纏え天地擦る――」
妹、小雪路の詠唱だ。すでに下駄に付与してある以上、今度は両腕、あるいは全身にかけることで〝忌蝕獣〟を発動させるのだろう。こうなればもう必勝の定番だ。背後は任せて、靖周はしかとこの金髪女を相手取ればいい。
と、
考えたのもつかの間。
「――Tofor uolf!! ……Uti」
小雪路の口からは、聞いたこともない言葉が飛び出していた。……それは、あまりにも奇怪な言葉だった。発音が、というのではない。耳慣れない法則性のせいでもない。
ただ聞いても、感情や意図が読み取れないのだ。たとえまったく未開の土地の言語であっても、言葉の強弱や音程の上下からいろいろなものが推察できるはずだが、その言語に対してはこれらの経験がまったく働かない。一応は英吉利、清の言葉も理解できる靖周だが、この言語に対する違和感はこれらを学び始めたときにも感じなかったものだ。
ただひとつ、はっきりとわかることがある。
言語をたがえてしまった以上、小雪路の〝摩纏廊〟は不発に終わっている――!
だが振り向いて、助けに向かうことはかなわない。対面する相手は、目線を反らすことも許さない。わずかでも意識を揺らせば、すぐさま刃は靖周を貫くだろう。そう思わせるだけの技量をうかがわせる。
「Prizitasur」
わけのわからない言葉を連ねながら、小雪路の声が背後で移動している。そう、まだ下駄に付与した術式は残っているのだ。両腕で削ぎ裂く〝衣我得〟は使えないが、脚力を利した機動でかわし続けるくらいは可能だろう。少し安心して、靖周は切っ先の彼方へ女を見据えた。
「妙ちくりんな術使いやがって。あとできっちり元に戻せよ、テメエら」
「……名執。こうも早い段階で〝言壊〟を使って大丈夫なのか」
「心配要りやせんよ。まだ四回は使えまさぁ」
「Prizitasur Prizitasur」
名執という男と戦いながら、小雪路は何事か喋りつづけている。意味を察することのできない靖周にはどうしようもないが、とにかくあの状態を引き起こしているのは〝バヴエル〟という術であるらしいことはわかった。
少なくとも詠唱を必要としない自分には、通じない術式だ。
戦闘中に妨害される可能性は、ない。落ち着いて、目の前の敵だけに集中できる。
「うし。とっとと――終わらせてやる」
鋭く一歩を踏み出すと同時、手首を内へひねりながら、相手の右手を下からすくいあげるように斬りつける。誘っていたのか腕を引いて応じた女は、そこからまっすぐに振り下ろすことで右前腕を狙ってきた。
だがこれは陽動、見せかけの攻撃。放っておいても当たらない。真の狙いは……またも突きだ。喉を狙う刺突から跳び退って、後方へ避けながら靖周は左の回し蹴りで腕を弾く。こうして体勢を崩してから、右手の短刀を投擲した。
回転する刃を正確に見極め、女は左手で柄を捕える。見事なものだと心中で賞賛しながらも、二刀流になった敵にひるむことなく靖周は攻め込む。蹴りとばした右腕が防御に戻る前に――口にくわえていた、煙管に指を添えた。
火皿を人差し指で握り、中指で雁首を挟んで、親指で支えながら抜き放つ。
「んっ……!」
わずかに出遅れた女の右袖が、ぱくりと割れた。
三寸ばかりの、針の如く細い仕込みの白刃が切り裂いていた。
「浅い、か」
血が出ないことに気づき、すぐさま追撃に移る。女が横薙ぎに振るおうとした右腕を左掌底で押し込み、また体勢を崩す。次いで右の前蹴りで腹部を狙い、当たったところで跳躍。空中で旋回し、左の後ろ回し蹴りで顔面を狙った。
着地と同時に向き直り、すべてを防がれたと知る。けれど構わない。本命は、ここから。
口にくわえた仕込み煙管の、管が相手へ向けられる。その先端からはみ出た紙片……丸め筒にして仕込んだ符札に、力を送り込む。がりりと吸い口を強く噛みしめてブレぬよう制御すると、圧縮された風が管の中で荒れ狂い、極小の矢が押し出された。
仕込みの刃からの二段構え。矢の先には近海でとれた河豚の毒が塗布してあり、刺されば動くこともできなくなる。構えや詠唱といった予備動作もなく放たれた矢はさすがに慮外のものであったか、防御のために固まっていた女の肩へ、吸いこまれるように矢が刺さった。
「よっし」
ぐらりとくずおれた女を見て、一安心だと思いきびすを返す。術を封じられて苦戦しているであろう妹をすくわねば――考えながら歩きだしたところで、油断に足下をすくわれる。
背後からの殺気に、反射的に振り返った。
「……ッチぃ、外したか」
ひゅかっ、と音を立て刃が背後の壁に突き立つ。
投擲されたのは己が短刀で、振り向いたおかげで背後の壁に突き立っているが、そうでなければ刃は後頭部を射抜いただろう。まさか矢が刺さっていなかったのか。
否。たしかに矢は刺さっている。それが証左に小さな切っ先を、血を垂らしながら抜いて石畳に投げ捨てていた。わずかに発汗しており、額から流れる汗をぬぐう。くずれかけた体勢を元に戻し、それでもう、先ほどまでと変わらぬ様子で向き合った。
「……ばかな。毒が、効かねーってのかよ」
「効かないわけではないが、職業柄毒物には慣れている」
薬師かなにかか、とあたりをつけながら、靖周は間合いをとった。靖周の知る薬師――楠師処の楠木などは、右手に常に巻いている包帯の下は毒に浸した魔手と化している。効能を調べるべく様々な植物の副作用に耐えた結果、ほとんどの毒が効力を発揮しない体質となったらしい。
似た系統の能力を持っているとすれば、薬を知る者は毒を極める。間接的な攻撃を得意としている可能性は大きい。そも、毒使いならば暗殺にはうってつけだ。
確実に、首を刎ねて殺すべきか。こう考え至り、靖周は仕込みを納刀すると腰布の中から二振りの短刀を取り出す。右は逆手に、左は順手に構え、歩幅を狭く取りながら左半身で近づく。
「二刀?」
「おうよ。俺ぁ〝殺陣鬼〟。人殺しの鬼でなく、陣形を殺す鬼。その戦術」
とくと見晒せ。
つぶやきと同時に、左手に握った符札を炸裂させた。放たれた白刃、けれど二度目は予測できていたのだろう、冷静に見切って右手のナイフで弾き、あらぬ方向へ飛ぶ。
この隙に距離を詰め、かざされたナイフの下へ潜り込む。逆手に構えた短刀を、相手の右腕の軌道上へ掲げた。うかつに振り下ろせなくなって硬直した相手を前に、靖周はうつむく。膝蹴りが、顔面へ迫っていた。
そこで一瞬早く、袂から散らした数枚の符札が視界に入る。
「〝空傘〟!!」
全身に風を受け、飛びあがる。加速した靖周の体当たりに女は顔をしかめ、胸に頭突きを食らう形でのけ反った。そのまま前方宙返りした靖周は、無防備に正中線をさらした女の頭上で、天に足裏を向けた。
また袂から符札をばらまき、力を送ることで風を起こす。足の裏から羽織の内まで風を受け、真上から垂直落下する形で短刀を突き下ろす。
女は、苦悶の顔で、ナイフを構える。
眼光鋭く、靖周を射抜く。
そして轟音が響いた。重たい、着地の音だ。
着いたのは、靖周の切っ先。位置は……女が腹の上で構えた、ナイフの刃の上だった。
「おいマジかッ、」
真横から蹴り飛ばされ、空中で静止していた靖周は転がる。起き上がった女は大した痛みもないように、腹をさすって埃を払った。構えたナイフは、さすがに突きの威力に耐えかねたのか、ひび割れて刀身の真ん中で折れた。
「か、はっ、どういう、目ぇしてやがる……」
「碧い眼だが」
こともなげに言ってじろりと見据えられ、苛立った。
その目の色、髪の色、肌の色。すべてが癪に障る。女はナイフを見つめて、どこか他人の物が壊れたような、興味関心の薄い目つきでつぶやいた。
「……折れた、か。ふん。ダマスクスは鍛造に時間がかかるのだが……まあいいか」
ナイフを投げ捨て、女は懐から短銃を取り出した。六連発のリヴォルヴァ。銃口は正確に靖周の額へ狙いをつけ、いまにも引き金がひかれそうだった。放たれるであろう弾丸と同じくらいにまで、命がすり減って軽くなったような気がした。
「そちらの女。名執を襲うのをやめなければ、この男を撃つぞ」
冷やかに、別段相手が聞きとれなければそれでもよい、という程度の声で、女は告げた。名執という男はまだ目立った外傷こそないものの、ぜえはあと息を切らしながら小雪路と向かい合っており、劣勢に追い込まれはじめたところと見えた。
動きを止めた小雪路は、もう名執を見てはいない。ただ銃口と、靖周との間にある空隙を見つめて、ざわりとあたりを鎮める気配を放った。忌み事の起こった近くを通るような、寒々しい気がそこらを覆った。
「……Illk es iv fipa」
「なんと言っているんだ」
「あー、撃てば殺すって言ってますぜ。ただまあ術を封じてこの技量、あながち冗談とも思えないのが怖いところでさ」
呼吸を整えた名執は、小雪路を見ながらぱちんと指を打ち鳴らした。
「――兄ちゃん撃ったら、殺す」
「はいよ、ご覧の通り。きっちり元の言葉喋れるように戻しといたぜ」
くく、と笑いながら名執は紙巻煙草を取り出し、火を灯すと深く一服した。風に流れて煙は消えゆき、それを目で追っている。名執はよほど女の腕を信頼しているのか、すっかり気を抜いた態度であった。
対照的に女はまったく気構えを崩すことなく、小雪路か靖周かどちらが動いてもすぐに撃てるよう注意をこぼすことがない。判断力、集中力ともに限界まで研ぎ澄まされており、身じろぎするだけでも殺されるという直感があった。最悪の事態が、幾度となく脳裏をよぎる。
「……ではさらばだ」
動けば撃つ、との姿勢を崩さず、銃口を向けたまま女は去る。その前を名執が歩いていき、やがて二人の姿は、夜霧に消えて見えなくなる。遠のき、気配が消えたところで、靖周はふはあと息を吐いた。小雪路は駆けより、兄の横でぺたりと座りこんだ。
「兄ちゃん、ごめん」
「あー……しゃあねぇよアレは。ちときついな、まさかあそこまでの使い手だなんてよ」
まずい人間の乗船を許してしまった。心中に湧きおこる後悔の念は深く、重い。一刻も早く八千草たちへ離脱をうながすべきだろうか、と森の中に残してきた狼煙の用意を考える。
しかし離脱は、早すぎても遅すぎてもいけない。赤火の招待には応じた、と言えるだけの行動を残してからでなければ、緑風に弱みを作ることとなる。すでに湊波ではなく代理店主の八千草が向かっている時点で不義理がひとつあるのだ、ここで八千草までもが態度を誤れば、緑風全体が危うい。先代危神もいなくなったいま、赤火と対立は避けたいところなのだ。
「……仕方ねぇ、状況だけ知らせる狼煙をあげるぞ。離脱の機会は八千草たちの判断に任せる。俺たちはあの二人の外見特徴と戦型を早急に伝えよう」
「戦型」
「そうだ。あの男の戦型はちょっと観察してる余裕がなかったからな……一体どういう技の使い手だったんだ? 〝バヴエル〟とかいう名前の術だったようだが」
「うん、兄ちゃん、それなんだけど」
言いにくそうに小雪路はうなずいて、ゆっくりとあげた片手で自分の口元を覆った。なんの仕草だ、と疑問に思っていると、手を離した小雪路は口を開け、舌を出していた。目を白黒させていて、どこか迷いが感ぜられる。
「なにやってんだよ」
「これなのん。兄ちゃん、あいつの術、これだったんよ」
出した舌に、小雪路は人差し指を突きつける。
「あいつ、術使う前に、井澄んみたいに舌出して……舌に、同じ刺飾金が刺さってたんよ」
#
段橋をのぼって客船の入口に立ったレインは、不躾なまでにじろじろと見つめる護衛の男どもの視線をものともせず、乗船することができた。名執もあとに続く。
「まったく、下世話な視線ですぜ」
「仕方あるまい。触れて確認するほどの不躾ができない以上、仕草や服装より武器の有無を判別する他ないのだろう」
もっとも、重心制御までなされた完成度の高い暗器や、得物の存在を悟らせない領域の人間相手には通用しないのだが。
とりあえず一挺の短銃を頭に載せたハットの中へ隠していたレインは、周囲に露見しない手さばきでハットをとり、ごく滑らかにジャケツの隙間からズボンとシャツの間へ得物を収めた。髪を整えて、ハットは不要となったため折り畳んでくずかごへ捨てた。
「ふん。二挺ないと落ち着かんな」
「ナイフも先ほど失くしてましたっけな」
「刃物はなくとも支障ない。フラスコに入れて持ち歩いている薬剤で、その辺りの銀食器から作り出せる」
ジャケツの懐から出した鉄の容器にてとぷんと音を鳴らし、レインは名執に目配せした。名執はさすが、と笑って肩をすくめた。口の端から、刺飾金が光る。
「〝言壊〟はあと、四回か」
「陽動を起こす際にいくらか使えりゃ問題ないでしょうよ。緑風の〝殺陣鬼〟と〝食神鬼〟の二人がさっきの奴ですからここにゃいない、〝黒闇天〟も店番。黄土で出席する〝予示婆〟は戦力外、その他術師で危険な連中は呼ばれてない」
すらすら情報をそらであげて、淀みなく喋る名執は視線を巡らした。いかにも油断した、おのぼりさんといった風情に見えるが、その実彼は腹式呼吸により、ほとんど口を動かさずに喋る。隣のレインも口元をさりげなく手で押さえ、読唇術を使われないようにしていた。
「となると赤火・白商会お抱えの術師で危険なのは〝渦中の繰り手〟に〝弌鬼疾閃〟の奴と〝轢き役〟と〝引気立て役〟の連携、あとは〝戸曇り〟に〝撤拐仙人〟でござんしょ」
「四人を越えたぞ」
「あり? まあそこはなんとか。露払いと囮のほうはお願ぇしますよ」
「まったく」
尻ぬぐいは上司に任せる、との意志を全開にして、名執は笑っていた。
「笑っている場合か。危険な任務であることを貴様はよく理解するべきだ」
「笑いながらやっても泣きながらやっても、結果に変わりはありやせんぜ。なら気楽にやったほうがいいでしょう」
「気楽になどやっていられるか。もうはじめるぞ。我々は――」
ざっ、と仕事場へ踏み出して、レインは残りを言わない。名執はいつも気楽そうにしていて、あまり好まない人格ではあるが、幾度か仕事をともにする中で抱く矜持は同じだと知ったから。
我々は――統合協会梟首機関。
魔を狩りて現世の安寧を保つ闇の者ども。
二〇〇年以上の昔より、術を守護秘匿し人外を追いたてた者ども。
この国を滅ぼさぬため。明暦の過ちを、繰り返さぬため。
「殺すぞ――橘、八千草」
今宵も彼らは、人外を追い立てる。