35:乗合客という名の旧知。
奈古ステイションへ走る馬車の中、井澄は手帖を用いて情報を洗い直していた。
重たげな音を立てて坂を下る馬車は、乗り心地のよさはともかくとして速度だけは出ている。たしかにこの御者は馬の扱いに長じているのだろう、とぼんやりした感想を抱いた。
「乗船するのは白商会の保有する中で唯一の客船〝藤〟です。もっぱら本土から上客を乗せてくることに利用されているようでして、早い話が接待用の船ですね」
「接待ねぇ。海上の密室という時点で、危険しか感じられない気がするのはぼくの弱気が原因かな」
「とはいえ、完全に赤火のみで固めた場というわけではないのでしょう?」
「いちおうは半年前から着工していた、四層五区と四区にまたがる蜜輿百貨店の竣工記念式典とのことでね。赤火はもちろん、黄土や緑風の周辺関係者も多数招かれている様子だよ。ただまあ、アンテイク宛てには『折り入って内密なご相談があります』という旨が記されていた」
八千草がどこからともなく取り出した封筒には、蝋で封がなされており、いかにも格式ばった書面であることがうかがえた。井澄は両手を組んで膝の上に置き、神妙な面持ちで考え込む。
「一対一での会合を所望している、というわけですか」
「どうもそうであるらしい。とはいえ、出向くのは湊波さんではなく若輩にもほどがあるこのぼくだ。湊波さんの不在を訴えても、侮られたとの思いがあるかもしれないね。つまり現時点ですでにひとつ、不義理な印象を与えてしまっているわけさ」
「さすがにそれだけで切り捨てられることはないと思いますけどね……なにが起こるかは、わかりませんか」
「火急の事態に備えて、切り札は用意してあるけれど。お前もなにが起きても大丈夫なように、心構えだけはしかと崩さずにいておくれ」
「了解しました。なにがあろうとも、八千草の身だけは御守りいたします」
自分としてはかなりキメたつもりでこう宣言したのだが、途端に八千草は不機嫌そうに眉根をぴくりと動かした。
「……ぼくだけ守ってもだめだよ」
「では他の緑風の招待客も、でしょうか」
「そうじゃない。そうじゃないんだよ」
なにを思っての言葉かわからず、慌て焦る井澄はええと、と考え込む時間を稼ごうとした。だがその前に八千草がアンブレイラの先で、井澄の左腕、右腕、と順に指し示した。
「自分も守らなければ、だめだ」
「自分を、ですか」
「ぼくは、弱い」
表情に苦いものを滲ませる。八千草はアンブレイラの先端を床に下ろし、柄をとって刀身をわずかにのぞかせながらぼやく。
「靖周や小雪路、山井さんに湊波さん。そしてお前よりも、弱い」
「そんなことは」
「あるよ。だって現に、お前がこの前両腕に受けた傷は、ぼくが足を引っ張ったせいなのだから」
悔しそうに言って、刀身を納める。傷……冥探偵・式守一総によってつけられた両腕の傷は、高くついたものの山井によって完治させられていた。なんのこれしき、と思って井澄は顔を上げ、八千草に言葉を向ける。
「お言葉ですがあれは不可抗力といいますか、仕方のないことですよ。能力の詳細も不明な人間を相手に立ちまわれば、予測を外した際の損害は覚悟しなければなりません」
「それは、ぼくの責任であろうよ」
「責任については、そうでしょうね。しかし気に病むことはないんです。私たちは、組織として動いているのですから」
「だがお前も、足を引っ張ってしまう人間を守る余裕などないはずだよ」
「自分を低く見積もってあきらめないでください、あなたも、戦力なのですから。弱いと断定して思考停止せず、正確に現状を把握してください。その上で弱さが認められるなら、できることを探せばいい。そうすれば損害は避け得なくとも、少なくはできるはずです」
個人の集まりではなく、組織として動いているからこそ。個々人で果たす義務に加えて、即時現状を把握し続けねばならない。言えば、八千草はおそれたような顔を上向けて、またアンブレイラに目を落とす。
「私はそこのところの損害の計算が少し人より早く、迅速に行動に反映できるだけですよ。だから私が腕を差し出せば、八千草に致命的な傷を与えることはないと判断しました。必要なことだと思ったのです」
暗殺は全損を恐れても喪失は恐れるな、という師からの教えに基づくものだ。状況と戦力を認識し、最小の損害で最速の手をとれるならば恐れるな。最善手は捨てろ、結果を見てあとから最善を知り反省しろ。結果を読もうとするな、いまお前がいるのは過程だ。
「あなたはアンテイクの代理店主なのですから。頭をみすみす死なせるような部下がいると思われれば、風評にも関わります」
それよりなにより……惚れた女を死なせるようなことがあってはならない。
死の結果を見ないためにこそ、いまという過程がある。井澄はそう考えている。
「これでも私は、全体と最終結果を考えて動いているんです。それでもなお八千草が命ずるのであれば、おっしゃる通りにいたしますが」
問いを投げかけて締めくくると、八千草はいささかならず驚いた様子で、下唇をかみしめた。うつむいた面持ちの中に自嘲の色を漂わせて、次に顔をあげたときには、不敵な笑みを浮かべて雑念を振り払っていた。
「……すまない。やはり少し、弱気になっていたみたいだよ。自分の弱さを知るといえば聞こえは良いけれど、いたずらに自分を卑下してしまったようであるね」
「気持ちは、わかります。大舞台に近づく中で、自分を信じられなくなることは往々にしてあり得るでしょう。ですが過信も不信も禁物です。理想を抱かず現実を、現状を直視できなくては何事もなせません」
「井澄にも……そういう経験があったのかい?」
「ありましたよ。なにせ、戦地やそれに類する場にいくらか出向いてきた半生でしたから」
思い返して天井を見つめる。戦場に嫌気が差して、逃げ出した記憶。行軍のさなかに隙を見つけ逃亡し、一時はささやかながら普通の中に埋没して、紆余曲折を経て――結局また、このような戦場に身を置いている。
自分は戦いから逃れられないのだろうか、と井澄は師に問うた。
呉郡は、悲しげに笑いながらささやいた。
『あてがわれた場所で愉しみや生きがいを見つけていくしかない』と。……彼女は、愉しめていたのだろうか。仕事の中で追い込まれ、燃え盛る館の中で落命した彼女は――
「井澄は、ぼくよりよほど多くの戦いを経験しているのだね」
声をかけられて、記憶に没入するのをやめる。いまは、今なのだ。ええ、と首肯しながら返し、袖を振るって硬貨幣を一枚、取り出す。
「いまのような戦い方はしていませんでしたがね。指弾と羅漢銭は使えることは使えたのですが、強化魔術を覚えていなかったので牽制の打撃にしかなりませんでしたし。糸についても……」
「あ、いや、詮索する腹積もりではなかったのだよ」
慌てた様子で八千草は言う。暗い過去を思い返していると、心配させるような顔をしていたのだろうか。ぐにぐにと自分で頬を引っ張っても、よくわからない。井澄は背筋を正す。
きん、と弾いた硬貨幣を空中で手の内に握りこみ、八千草に向かって拳を突きだした。
「べつに、構いませんよ。八千草が相手ならば。いずれは話そうかと思っていました。大した過去でもありませんが」
「大したことのない過去なんて、ないはずだよ。少なくともその人の過去はその人にとっては、大事なもののはずさ」
「そう、ですね」
道端でふと足を止めるような沈黙が忍び寄ってきた。なんとなく、どちらともなく、話しだすきっかけを失ってしまう瞬間であった。その間隙はしばらく続き、井澄がどうにか話しだそうとしたときには、だいぶ駅が近づいてきていたのでもはや機ではなくなっていた。
「またそのうち、語りましょう」
「うん、聞かせてほしい。長くならないのなら、だけれど」
冗談めかすように八千草は言って、やがて馬車は車輪の動きを止めた。
奈古ステイションの大階段をのぼり、ホームに踏み込んだ二人は列車の来訪を待った。噴上ホウルをぐるりと回ってくる車両は遠く、黒煙を吐きながら迫りくる。
四層から降りてきた下り線の列車、弦米号は黒光りする車体を窮屈そうにホームの屋根の下へくぐらせ、ゆっくりと静止した。途端にがやがやと人の気配が高まり、乗り降りと荷の積み下ろしでごった返す。
仕立ての良い服をまとい、美しさを引き立たせた八千草の周りでは、ちらちらと彼女を見やる者がある。井澄は彼女を衆目から守るべく、密着して横に背後に立ち回った。
「暑苦しい。鬱陶しいよ」
「失礼。しかし混雑していますので。八千草のドレスを踏む者があるかもわかりません」
「言いながらお前が踏む可能性だってあろうよ」
「あ、いいことを思いつきました。私の背を踏んで八千草が上に乗ってはいかがでしょう」
「大道芸をさらしてどうするんだい」
「小銭が入れば我が弾数の節約になるかと」
二人は安価な五両目のコンパアトメントに乗り込み、腰を落ち着ける。窓際で頬杖つく八千草は小さくあくびをかました。発車の汽笛はいまだ遠く、彼女はまどろみに誘われている。
そこへ、コンパアトメントを開く音がした。出入り口に目をやれば、二人の女が乗り込んでこようとしていた。
「すみませんだわね、他に空いてるところが……あ」
小柄な女は井澄に目を留めると、口元に手を当て半歩退いた。
薄墨の振り分け髪は毛先が跳ねており、眉は少し太く、重さに耐えかねたように枝垂れている。赤銅色の瞳は驚きに見開かれており、肌の色は小麦を炒ったような香ばしい色合いだ。
紺の着物に前垂れを合わせた女中のような格好で現れたのは、楠木千里。楠師処、先代危神のいた場所の、店主であった。
「……だれかと思えば、楠師処の」
目を開いた八千草も訪問者に気づき、驚きはしないものの居ずまいを正した。楠木はもぞもぞと入るか否か逡巡している様子だったが、やがてつっかえていた後ろから押されたのか、室内に踏み込んできた。
「千里、遅い」
「いたっ、ちょっと玻璃、押すんじゃないわよ」
「わたしは疲れている。早く座りたい」
ぶっきらぼうな物言いをしているのは、千里より少々上背のある女だった。起伏の激しい、瓢箪を思わせる体型をことさらに強調するように、丈の合っていない短いシャツを着ている。袖も裾も短く、釦は弾けそうになっていた。その下に袴を穿いており、こちらは丈が長すぎるのか裾を引きずっている。
眉間に強く皺が刻まれているが、それは険しい顔つきを絶えず続けることで構築されたような固さをうかがわせた。高い鼻だけが皺から孤立したように、彼女のかんばせから突き出ている。半ば以上閉じたような細い目は、けれど目尻までの切れ込みが長く、三日月のような線を形作っている。髪は若干色味が薄く、二つに分け結び、胸の上へ流していた。
……どこかで会ったような雰囲気の持ち主であった。記憶にはないが、妙な迫力に覚えがある。だが思いだそうとするその前に、向こうから正体を示す挙動があった。
両手を突きだして、八千草と井澄に向けた。その彼女の掌に、ぎょろりと、直径にして一寸はあろう巨大な目玉があらわれたのだ。肝を冷やしながら、井澄は問う。
「手の目……あなたまさか、〝賭場嵐〟ですか?」
「長らく、久しぶり。アンテイクの二人。その節どうも」
慇懃無礼に振る舞う手の目――かつてその掌の目と幻術によって賭場を散々に荒らしまわった挙句、アンテイクに負けて敗走することとなった人外の妖が、そこにいた。
断りを得ずに井澄の横へ腰かけ、ひらひらと手を振ると掌の眼球はすうっと消える。
「あれからずいぶん経った。ここで会ったのも天運天命、廻り合わせ」
かすれた低めの声で話す手の目は、険しい顔つきのままに唇の端で笑った。奇妙な迫力に呑まれそうになりながら、井澄と八千草は警戒の中にて問いかけた。
「お前、あのあと賭場を仕切る青水のところに連れて行かれたはずじゃ」
「賭場は、イカサマ禁止。もう二度とできないように禁ずるように、手首から先落とされた。でもわたし、手の目が本体だから。捨てられた両手から、半年かけてなんとか体作り直した」
「まるでとかげの尻尾ですね……」
それも体のほうが尻尾だ。恐るべき生命力である。
「あんたら、玻璃と知り合いだったの?」
楠木に問われて、井澄は八千草と顔を合わせた。知り合い、というほどの仲ではないな、と。
「知り合いというか、仕事の上でぶつかったことがあったんですよ」
「あの時間、あの半荘は忘れられない。苦慮苦心にあえぐ苦戦、なかなかのもの」
兇暴な面相のまま、玻璃と呼ばれた手の目の妖は井澄の顔をのぞきこんできた。戦場における実力差とはまたちがう、言うなれば度胸のみで構築された威圧感は、どうにも慣れないものがある。博徒はみなこのような気配を発しているものだ。
「にしても、楠師処で拾ったんですか、この人のこと」
「拾った、ってまあ、文字通りだわね……うちの店の裏手で掃除してたら、こいつの両手がうろうろしてたんだわよ」
「そこで拾うという発想に至るのが恐ろしいね。ひとりでに動く手など見たら、ぼくなら細切れにしてしまいそうだよ」
「細切れ勘弁。もう斬られるの御免」
首を横に振りながら、玻璃はつぶやいた。まあ当然の反応ではある。そこで汽笛が鳴り響き、列車が重く静かに動きだす。
「しかし体も再生するとは、驚きだよ。妖はみなそうなのかい」
「いいや。わたしこと手の目はたぶん、特殊特別。ほかは斬られたら生えてこない。おそらく」
「たぶんとかおそらくとか随分とあやふやであるね」
「他の妖も怪も、会ったことない。だからわからない」
掌を開いて、目玉をぎょろりと動かしながら玻璃は言った。そもそもこの手の目という存在に会えることもめずらしいのだから、致し方ないことだろうと井澄は思った。
人外……妖と呼称される生物は、この国の中でめずらしいものとなっている。古くはあらゆる地域にあらゆる種が存在したというが、陰陽寮によって異能が秘されると同時期に、少しずつ人前から姿を消していったのだという。
多くは山の中に隠れ里を持つなどして身を潜めているが、時折そこへ人が迷い込むことがある。これが俗に言う迷い家、神隠しというもので、いまでも頻繁に発生しているそうだ。
だが逆に人里へ妖が降りることは滅多にない。彼らは大半が人語を解する者であるとはいえ……いやむしろだからこそ、なのだろうか。身体的な差異によって差別され、いらぬ誤解や迫害を受けることが多いらしい。
よってこの手の目もわりと、特別な存在なのだった。
「なんにせよ、気をつけたほうがいいですよ。人語を解す妖など、さるところに見つかればどのような目に遭わされるかわかりません」
「両手斬られるよりひどい目?」
「見つけたのが研究機関であれば囲い込まれたりするでしょうね。術の研究に用いられたりするかもわかりません」
脅すような物言いの井澄に多少は思うところあったか、玻璃は身をすくめてふうん、とつぶやく。対面に腰かける楠木は「それだとかくまってるあたしもまずくない?」とつぶやいて、救済を求める目線をこちらにくれていた。
「それを言うのならだいたい、どうしてそいつを助けたんだい?」
「や、めずらしいし見世物になるかと思っただけだけど」
「よく考えて拾いましょうよ」
げんなりした顔で言えば、あははと笑って頭を掻く。けれど楠木の表情にはどこか生気が無く、力に乏しい。
動きだした列車は噴上ホウルの円周に沿ってゆったりと下りはじめ、窓の外を見やった井澄はふと遥か下方の六層を見た。巨大な蒸気機関部をうごめく政府職員や、レエルを点検する整備士たちの姿が見えていた。
ふと、楠木は弁解のように、玻璃を指差しながら言った。
「ま、こんなんでも使い走りの足しにはなるのよ。うちはいま人員不足になってるわけだし、安く使える人間は重宝するのだわ」
「……危神の件は、お悔やみ申し上げます」
「この島じゃ、ああいう死にざまも普通だわよ。三船って奴にもそう言っといて。護衛解除したのは、あたしらの方なんだから」
井澄同様に窓の外を見ていた楠木はこう言ってはにかみ、けれど気落ちした様子で、あーあとつぶやいた。
危神の死去からしばし。緑風内部の情勢も多少は落ち着きを見せ始めてはいたものの、依然としてかつての強者が居なくなったことに対する不安は蔓延っている。
二代目危神として小雪路の名も知れ渡るようにはなってきているが、これによってむしろ「二代目が初代を殺害したのでは」「今後の緑風は大丈夫なのか」と流言飛語が飛び交っている。状況はなんとも言えず、ぎすぎすとした空気が薄く広がりつつあった。
「今日は、墓へ向かうのですか」
「まあ、ね。途中であいつが殺されたあたりも通るし……」
遠い眼をして楠木は言葉を切った。窓の外に彼女がなにを見るかは、井澄たちにもわからない。
あの日、ライト商会で井澄たちと会って、帰路に着いたところで危神こと桧原真備は殺害された。異能の者によって彼の霊魂が残っていないかと捜索もなされたが、そもそも霊体となる素質は死んでみるまでわからない。残念ながら彼には素質がなかったとみえ、周囲には魂魄の痕跡ひとつなかった。
それは楠木がほんのわずか、コンパアトメントから席を外したときだったという。ざくりと袈裟がけに一閃、桧原は斬り殺されていたとのことだ。抜刀術の達人にして、遠間の敵すら切り捨てる腕を持つに至る危神が。抵抗のいとまもなく、無残に殺されたのだ。
「それと、あとちょっとしたら、あたしら島出ようかと思ってんだわ。墓前にその報告もかねて、ね」
「ずいぶんと、急であるね。そもそも、島を出て頼れるところはあるのかい」
「玻璃の隠れ里に身を寄せようかと考えてるわ。うかうかしてると、あたしも殺されかねないし。力と人脈が残ってるうちに、とっとと逃げるのが得策ってもんだわよ」
「長年の相棒が殺されたわりに、いやに冷静に引き際を見極めていますね」
非難めいた口調を交えながら井澄が言えば、楠木は笑って、通路側の小窓に頬杖をつきながら足を組んだ。着物の裾から脚部がのぞく。
「あたし一人ならとくに逃げる気も起きなかったかもしれないわね」
「手の目の助けを借りられるから、逃げようと思ったと?」
「ちがうわ。こいつの助けうんぬんは、逃げようと考えたあとだわよ。そうじゃなくてねー……あたし、一人の体じゃないらしくてねぇ」
腹をさすりながら、楠木は口の端をひん曲げた。慈愛とは程遠いが、けれど強さを内包している。守るために得た意志のようなものが、感ぜられる顔つきをしていた。驚く井澄と八千草は、身を乗り出す。
「まさか桧原との間に、子どもがいたのかい?」
「より正確な意味での二代目危神ってわけだわね。いやはや、いかず後家気取っていい加減に暮らしてたらこういうこともあるんだから、世の中ってわかんないわ」
「最初期から四つ葉にいたんですから、あなたも結構歳ですよね……」
「ん。だからまあ単純に産むにも少しばかり負担があるし。ここに留まるわけにもいかないと思ったんだわよ。去り際にはまた連絡するし、山井の奴からツテを頼って、すでに代理の散薬師は立ててあるから安心していいわ」
「まったく知らなかったよ、ぼくでさえ」
「だって弱みもいいとこじゃないのさ、子供できたから本土に逃げるなんて。周囲の、それこそあたしら楠師処を恨んでる連中に知れたら、出立前につぶされるわよ」
「それはまあそうだろうけれど」
「というわけだから、あんたらも最後まで秘密にしといて頂戴な。楠師処の営業自体は、出ていくぎりぎりまでやる。その中で次の店主に、薬の流通経路とか取引のあれこれはこっちで全部引き継ぎしとくから」
よろしく、と締める彼女は、どこか晴れやかな笑みだった。とても長年連れ添った相棒を、しかも伴侶に近い関係性だった男を、失ったようには見えなかった。どうしてもそれが気がかりで、不思議で、井澄は愚問と知りつつ問うてしまう。
「危神、桧原が亡くなってすぐだというのに、どうしてそうも前向きなのですか」
「前向き、なのかしらね。自分ではそんな気してないんだわよ」
腹をさする手を止めて、楠木は頬杖をやめると両手を組んだ。籠をつくって子を守るような格好で、面差しには暗く、理性が宿る。
「あいつはあたしにとって欠け替えない男だったわ。同時に、この子も欠け替えのない存在なんだと思う。だから、なにはともあれ動かなきゃと思っただけよ」
「動かなきゃ、か」
「あんたも子供できたらわかるわよ」
反芻するようにつぶやいた八千草に、楠木は笑いかけながら言った。とうの八千草は否定しようとする表情を見せたが、口を開いたところで言葉がどこかへいってしまったのか、むにゃむにゃと言葉にならない。縮こまって、腕組みしてしまった。
「大事なものがあるって、悪くないわよ。あたしはひとつ取りこぼしたけどね。……うん、やっぱこの島は最低限生きる以上のことはできないわ。気づくの遅かった。人生をちゃんと生きるなら、早いとこ出るべきだったわね」
あんたら若いから、まだ間に合うんじゃない。
含みを持たせるように言って、楠木はまた笑った。八千草はそっぽを向いて、井澄も、考え込むふりをして目をそらした。
そらさざるを、得なかった。
島外退場者。




