34:準備という名の下拵え。
風の揺らぐ音に、大路は目を開いた。舟こぎ椅子から背を離して、白い壁に映し出された小柄な影と相対した。
音もなく室内に忍び込んでいたのは、仕立屋こと湊波戸浪である。やあ、と親しげだが感情のこもらない所作で手をあげた彼に応じ、彼女はふんと鼻を鳴らしながら杖をついて立ち上がろうとし、途中でやめて椅子に背をもたせかけた。
床を軋ませることのない、重心がどこにあるのかもわからない足運びで、湊波は近づく。
「久しぶりだね」
「ハ、久しぶりもなにもないもんだ。……あんたがこの島にいないなんてことこれまで一度たりともなかったじゃないか」
「それもそうか。そういえば、この間会ったばかりだったな」
「そうさ。あたしはあんたに会ったよ」
傍から見ていたらわけのわからないだろう会話を重ねて、けれど噛みあわない様子はない。湊波はくつくつと、肩を上下に揺らす。笑う動作を表しているのだろう、とは思ったが、大路は指摘する気も起きない。入口近くに置いていた椅子を杖で指すと、そこに座るよううながした。
「元気にしていたか、大路晴代」
「見ての通りガタガタだよ。リウマチがひどいし、ここんとこ熱っぽいし、少し動くとすぐ息切れだ。こりゃお迎えが近いかもしれないねぇ」
「少し動くと、ねえ……表で斬り合いの痕跡があったけれど、あれのことを言っているのか?」
「いちいち人数かぞえちゃいないよ。でも、そういえば、何人か斬ったような気はする……」
杖でこんこんと床を叩き、大路は気だるげに手を揉んだ。
四つ葉の黎明期からここに居を構えている大路は、様々な情報に通じており、湊波のような葉閥の主とも交流がある。そのくせ人嫌いで独居生活を営んでいるために、時折数を頼りにした馬鹿な連中にからまれるのだった。
そういう連中は斬り応えがなく、大路はいちいち記憶すらしない。反射的に斬り伏せ、相手の着物で刀身をぬぐったころには忘れてしまう。
だが。揉み手しながら、大路は思い返す。
「……今日の奴らは、少し感触がちがったね。斬り応えがあったよ、もちろん手練の剣客ってわけじゃないんだがさ。あたしはなんか狙われるようなことした覚えはないんだがね」
「〝罰刀〟の大路晴代が、恨みを買った覚えなど無いと?」
「あんたの腕ぶった斬ったこと、まだ引きずってるの」
「いいや。この通り腕はぴんぴんしているしね、気にしてなどいない。たしか左前腕、逆風で斬り上げられたのだったな……ああ、気にしてなどいないぞ」
「いいかげん忘れなさいよ」
呆れたように言い返しながら、大路は暖炉の火かき棒を手に取った。火の粉が散って、二人の影を淡くゆらめかせた。
「あたしだけじゃないんだろう」
「斬られた相手は数知れずさ」
「その話じゃないよ。あたしみたいに、刺客を差し向けられてる奴が、他にもいるんじゃないかね」
「まあそうかもしれない。この島では日常茶飯事のことだが」
「茶化すんじゃないよ。情報屋が、狙われてんじゃないのかってことだよ」
眼光鋭く、大路は仕立屋に問う。捉えどころなく揺れる湊波は、かぶった布のために顔もうかがえず、なにを考えているのかさっぱりと読めない。だがなにも考えていなかったことは、ただの一度もないのだ。緑風の主として――などという、大層な考えのもとにあるわけではないが。彼には常に思惑があった。
湊波は、大路の問いには答えず、立ち上がって一歩足を進めて言う。
「橘八千草と沢渡井澄は、ここへ来たか?」
「あんたの差し金だろう」
「お金を送っただけだが?」
「あの子が服と酒と煙草くらいにしか金を使わないことは、よくご存知じゃないか。臨時に使える金があれば、一番ものが集まるこの二層へ出向くことは想像ついてるはずさね」
「そうか来たのか。余計なことは話していないだろうね」
「それも、あんたはよくご存知のはずだよ」
言えば、湊波はさらに一歩進む。大路との距離は三歩にまで近づいた。
「橘八千草の様子はどうだ」
「なにも。なにも変わりなく、だね。朱鳥も変わらず命を吸っちゃいない。奇匠・佐々木助真の一振りがあの扱いとは驚きさ。あの坊やが、殺さず済むよう守ってくれているんだろうね」
「私は刀の扱いはよくわからない。だがあなたが言うのならそうなんだろう」
「あれもひとつの在り様としては有りさ。同様に、あの黒糸矛爪の坊やも、有りだ」
「そういえばあなたは、呉郡黒羽について沢渡井澄に語ろうとしていたな」
「あの子のことは世間話程度にしか語っちゃいないよ。その正体……切り裂きジャックであることについても……その死に様……洛鳴館事件であの子を殺したのが、あんたってこともね」
進む一歩。もはや二歩の間合いに入った。座ったままでも、大路が抜けば届く距離。
「……年の功、とはよく言ったものだね。その齢まで長生きしたおかげで、あなたはいくつものことを知ったんだ。本土に居た頃は統合協会にも重用され、また武名も轟いていたね。罰刀の大路晴代」
「お褒めにあずかり光栄なこって」
「だからこそ私は橘八千草の修練をあなたに頼んだ。目論見通りにあの子を強くしてくれて、感謝の言葉もない」
「そりゃ、ありがたいこって」
「だが」
決定的な一歩は、大路の前に突きつけられる刃のように鋭く、間合いを切り裂いて侵入する。
湊波は緩まない。張りつめない。ちょうどよい間隔を保つように、その場に身を置いた。自然体を突きつめ過ぎる直立不動は、むしろ不自然さとなって大路に致命的な感覚のずれを叩きこむ。
剣術は、武術は、すべて人間を相手取ることを第一に想定されている。それに特化し磨き上げられた感覚が、間合いの中に異物が混入していると、警鐘を鳴らす。
感覚は同時に告げる。生命の危機――己の命が白刃にさらされている事実。
「あなたは四つ葉の設立に際して統合協会の要請から逃げ、ここへ来た。その罪は、贖えはしないよ……他人任せではやはり駄目だな。私自ら、手を下そう」
先の襲撃が湊波の意図するところによると告白し、伸びる手。反抗の意志を削ぐ、皮手袋に包まれた掌。湊波の間合いは、大路の間合いを浸食していた。さながら周囲を腐らせ同化する沼のごとく。
「なぜ、いまさらなんだね」
「今さら、ではない。今だからこそ、だ」
「あたしは、知りすぎたのかね」
「知りすぎていた。だいぶ昔から、ね」
「だがこの島からは出られない。統合協会にそこまで迷惑をかけているつもりは、なかったんだがね」
「情報屋のあなたがこの島に逃げ込んだこと、それそのものが問題なのさ。灯台もと暗し、と思ったのだろうが」
「灯台の中には秘密がどっさり、というわけだね」
「そのとおり」
魔手は距離を縮める。それを、ちょいと押さえるように、大路は左手の人差し指を立てて湊波に突きつけた。ほんのわずか、動きが止まる瞬間に、大路は問う。
「あんたいま、言ったね」
「なにを」
「四つ葉の設立と。あたしはたしかに統合協会からこの島で仕事をするよう持ちかけられたことはあるが……その計画では四つ葉ではなく〝笹島〟と、元の呼称のままだったよ。そもそも四つ葉ってのは――赤火青水緑風黄土の四派閥に偶然分かれたからこそついた名だったんじゃないか。それを『設立の際に』ってのは、」
「そこまでだ」
文字通りに口を封じようと、湊波の手がうごめく。
「ああ。ここまでだ、ね」
床を蹴り、大路は舟こぎ椅子に背をあずけながら跳ぶ。同時に抜刀し、右逆手に握った刀が真上に閃く。伸ばした湊波の右腕は、人差し指と中指の間から肘まで、縦に裂けた。
そのまま後方宙返りにて天井に足をつけた大路は、納刀しながらまたも跳躍する。暖炉側の壁へ空を駆け、三角跳びで湊波の横を過ぎ抜けながら首を切り裂いた。まともに受けて、湊波の布が剥がれ落ちる。一瞬おいて血しぶきが、暖炉の光にきらめいた。
「ああまったく、容赦しないね」
首を斬られたにもかかわらず湊波は平気で喋り、後ろを振り返ろうとした。
「だが私に、は、が……?」
だが、そのまま上体をねじる動きの中で、彼の頭が床へ落ちる。続けざまに、上半身も――腰のところで切断されており、達磨落としのように落ちた。大路は首を斬って即座に反転し、返す刀で背後から胴を薙ぎ払っていたのだ。
「……リウマチだって言ってるのに、あんま老体に無茶させんじゃないよ」
鎮、と納刀した大路は頭を押さえ、そのまま外へ逃げた。
さてどこへ行ったものか。もはや緑風の主に傷をつけた身の上、まずは身を隠して、それから密航の企てをするのが最善か。うかうかしていると湊波に追いつかれる――考えながら大路は走り、自分の自動四輪車に乗り込むと、まずは駅前まで走らせることにした。
夕刻の街並みは紅蓮の太陽の残光にさらされ、影が長く伸びている。自動四輪車と馬車しか通れない道を選び、急ぎ大路は加速機を踏み込む。
と、周囲の影が、少し伸びたように感じた。
「……ん」
まばたきを繰り返し、大路はしかと周囲を見回す。左手でごしごしとまぶたをこする。だが影は少しずつ広く、大きくなっていき、そこでようやく己がめまいに見舞われていると気づく。まぶたをこすった左手が、びっしょりと汗にまみれていた。
「……これ、は」
まずいと思ったときには、意識が遠のきかけていた。慌てて減速機を踏み込み車体を止めようとするが、もう遅い。ふらついたハンドルはあらぬ方向へ車輪を進ませ、車体は道から外れると歩道へ乗り上げ、衝撃に備える間もなく建物へ突っ込んだ。座席に沈む全身に、滝に打たれたような重さを覚える。えずいて、大路は胃の中身を吐いた。
「ぐ……、」
なんとか車から這い出るが、どうやら突っ込んだ先はブティイクと呼ばれる洋裁店であった。店を切り盛りしていたと思しき若い女が、悲鳴をあげて逃げ惑う。
「こりゃ……いかんね、騒ぎを聞きつけられる前に、逃げにゃ」
大路は身を起こし、進もうとする。だが凄まじい倦怠感に襲われ、うずくまってしまう。先の衝撃が抜け切っていないのか、と疑うが、体捌きである程度まで力と勢いは逃がしたはずなのだ。こうまで重くなるはずはない。ではなにが、と思いながら顔を上げ、散らかった店内の中に転がっていた鏡が、目に入る。
映る己の姿を見て、違和感に肌が粟立った。
首筋が腫れ、喉元には黒っぽい痣が目立つ。はっとして手袋を外してみれば、両手の甲から肘までにかけても、似たような痣が散見された。目を見開き、疑問の言葉を継ごうとして、喉に痛みを覚え衝動のまま吐き出す。
血の絡んだ痰が、べとりと床に垂れた。
「な、がっ、」
「もう終わりだ、大路晴代」
鏡面越しに、湊波が背後に立つ。布を切り裂かれ、素の姿をさらした彼は言う。ブティイクの中に散乱していた被外套のうちひとつを手に取ると、身体にまとって身なりを整えた。その際に、先ほど大路が切り裂いたはずの右手も、なんなく使っていた。包帯と手袋に覆われた腕は、傷一つ感じさせない動きをしていた。
「……いい、の? あんた……姿をさらして、殺しなん、て」
「私の素顔を知るものなど、あなたの他にはいないんだ。そしてそのあなたも、今日ここで死ぬ」
冷徹ささえ滲ませず、淡々と述べる。突き放されるよりむしろ死の実感が強くなり、大路は倒れ伏した。なにを仕掛けられたかはわからないが、この身体の異常も湊波によるものなのだ。
「ではもう行くよ。これで二件目、まだ数件の仕事が待っている」
「しご……と、」
「この島は、これからかつての動乱のころと同じか、それ以上に荒れ狂うことになっている。その下準備が必要でね」
頭をフウドですぽりと多い、顔に翁の面をつけた湊波は、被外套をはためかせて告げる。その隙間に、大路は見た。
襟元に輝く鶴の首のブロオチ。統合協会、鶴唳機関の紋章。歯噛みして、また大路は血を吐いた。
「あの世からゆるりと観覧するといい。世界は、これから大きく動く。この国の行く末は、すでに件の計画によって……」
湊波の言葉尻を聞きとることかなわず、大路は力尽きた。
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大路に仕立ててもらった三つ揃えは、井澄の体躯にしかと合った代物であった。また彼女が気を利かせてくれたおかげで、硬貨幣と鋼糸の仕込みも普段とさほど変わりなく使えるような拵えがなされている。
八千草は着替えを山井に手伝ってもらうそうなので、店の前で馬車を待たせつつ井澄は紙巻煙草を喫んだ。もうすぐドレスで着飾った八千草に会えると思うと、浮かれ気分でそわそわとしてしまう。待つ間、井澄は御者と取り留めもない話をかわした。
「旦那、ずいぶんといい仕立ての服ですな」
「わかりますか?」
「ええもちろん。客の身なりを見極める力がなきゃぁ、商売なんてのはやってられませんて」
「ああ、金のある客を見極めるためですか」
「身も蓋もない言い方をなさいますなぁ」
「着飾る人というのは、この島では素性を明かせない人も多いでしょう。ここなどは五層なのでまだいいでしょうが、二層のような街ならば『着飾る人の素性は訊かざる』ものだと聞き及びます」
「よくご存知でいらっしゃる。でも旦那は、訊かれて困る方じゃなかったでしょう?」
「そりゃまあ、素性はわりと知られていますしね」
「だから問題ないと思って話振ったんですよ。さすがのあっしも、二層で似たようなことする度胸はありませんて」
二層は嘉田屋の所在地だ。そこで着飾った人間というのは、十中八九金を持っている、女を買いに行く途中の富裕層である。中には本土からわざわざお忍びで来る者もいる。下手に素性を尋ねるのは、礼儀作法に反するというわけだ。
ところが御者の男はひげを撫でつけ、したり顔でのたまった。
「でもどこでも時折、金のにおいと不釣り合いな身なりの客もいらっしゃいますからな。そういうのは見分けられる嗅覚ってのがないと、仕事が立ち行かなくなるってもんなんですよ」
「不釣り合いって、ひょっとして私のことを言っているのではないでしょうね」
「とんでもない! 旦那はもっと仕立てのよい服を着ててもおかしくない御方でしょう」
「五層三区の住人にその言葉は皮肉ですよ」
「でも少なくとも危うい金のにおいはしませんな?」
危うい橋を渡るのが仕事なのだが。そのあたりはまあこの島では大半の人間が共有する事実であるため、御者の男も考慮に入れていないのだろう。人はえてして、自分が見てきたもの以外を常識とすることはできない。本土においては特殊と呼ばれる場にいたとはいえ、まだ井澄はここに一年も暮らしていないのだ。
「危うい金の持ち主というと、盗人などですか」
「ですね。そういう連中を乗せると、ほらこっちも逃亡幇助っていうんですかね。下手すると共犯と思われて〝白状物〟のお世話になりかねません」
「それはこわい」
「でしょう? だから嗅覚てのはなにより大事なんですよ。あっしらは戦う力なんざ持っちゃいません。必要もない。こいつを駆って逃げるのに長じてりゃ十分です。なにごとも奥の手として、退路のひとつは必要だと思いますね。昨日も強くそう思いましたよ」
「なにかあったんですか」
「いやね、あっしは一層の方で土日に馬をお借りして仕事してんですが、つーんとくる奴がいたんですよ」
ぴーんとくる、の間違いではないかと思ったが、男が鼻を指差していたので、先ほど彼の言ったところの嗅覚とやらになぞらえて述べているのだろうと察した。ほう、と相槌を打てば、男はよほどだれかに話したかったと見える様子で語りだす。
おそらく、話し易そうな客にはおおかたこの話題を振っているのだろう。他人の噂話というものは、ブンヤだけではなくいろいろなところで好まれる。
「これは乗せたらまずいことになる、と気づいてすぐ逃げたんですが、正解でしたねえ。五区のあたりだったんですが、少しして戻ってみたら仏さんが運ばれるとこでした。ええ、ついさっきあっしが乗せなかった男だったんですよ」
「殺されていたと?」
「赤火の男が下手人として捕えられてましたね。そいつも必死で逃げようとしてたのか、こっちに短剣向けて『馬車出せ!』なんて脅しかけてきましたよ。でも馬を渡しても馬を傷つけても、どっちにしてもあっしの首はとんじゃいますから。こちらも必死こいて逃げました」
「逃げきれましたか」
「加速するまではめちゃくちゃに鞭をぶん回して、近づけないようにしながらでしたがね。不格好でも生きてるほうの勝ちですよ」
「そいつ、死んだんですか」
「どうでしょうねぇ。死んだ方がマシな目に遭ってるかもわかりません。でも聞いたところ、殺された男のほうにも非があったようなんです。なんでも一層の山から、銀を持ち逃げしようとしていたとか」
「銀ですか。銀山への入口は関所のごとく厳しく見張っていると聞きますがね」
四つ葉の複合階層都市は、笹島の中央へ向かって緩く傾く山の斜面に形成されている。ところによっては岩棚をそのまま階層の基部として用いている部分もあるようだ。
そして各層の六区から奥は山の中へ通じており、複雑な居住区と隣接して銀山が坑道を張り巡らしている。これら下層で掘り出し、運ばれた鉱石の中から銀などを取り出すための精錬所が一層六区にあるのだ。
「どうすり抜けたかわかりませんが、銀塊を持っていたのは確かなようですな。物証がなければ殺され損で終わりですし」
「怪しさ満点ですけどね」
そうこう話しているうちに、からりとドアベルが鳴って、扉から暖かな風が吹いてきた。八千草が着替え終わったのだろう。井澄が振り返る。
「待たせた、ね」
しゃなりしゃなり――と、彼女は衣に映える美しい艶姿を歩ませる。井澄は息を呑み、生唾を飲み、言葉を失ってたちくらみさえ覚えた。口から、紙巻煙草が落ちそうになった。
肢上げ靴を履いてわずかに高くなった背丈を、柔らかに張り付く膜のごとく包むは闇色のドレス。肩を大きく出す構造で、際どく胸元を隠していた。鎖骨の線に載せるように、細く銀の鎖を伸ばし、きらめく黒真珠をはめこまれたネックレスをさげている。
両手には肘まで覆う黒の長手套をまとい、いつものアンブレイラを腕に引っかけている。そっぽをむいた横顔は小さく愛らしく、澄ました様子で紙巻煙草をくわえていた。長く腰まで覆う黒髪は高く結ってまとめられ、ドレスの切れ込みにそってうなじから背筋が白く浮いていた。たまらなくなって、井澄は馬車に背をもたせかける。くわえていた煙草の火を消して、店の前に置いている吸い殻入れへ投げ込んだ。
「あの、八千草、あの、それ、この前の」
「うん……結局気に入ってしまってね。あのあと大婆さんに頼んで取り置きしてもらったのだよ」
「……あの、その」
「うん。なにか言いたいことがあるのなら、早めに言ってくれるかな」
火の点いていない紙巻煙草を上下させながら、腰に手を当て八千草は言う。少し前屈みになったので、危うく胸元が、隙間からのぞいてしまいそうになった。反射的に右手が動き、鋭く空を切り裂く音のあとに御者の悲鳴が響く。
「い、いってえ! 旦那、なにすんですか!」
「あ、すみません。つい、反射的なものでして」
自分以外が八千草に見とれては腹が立つ。思った瞬間右手は動き、威力は加減したが指弾によって御者の額を攻撃してしまっていた。真っ赤になった額に、吹きつける寒風がしみたか、御者はうずくまって顔を背けた。これでよし、と安心する。
「……で、なんだい。言うことは、あるのかい」
「はい、それはもう。綺麗です。この上なく。素敵です。だれよりも」
「……そう」
なにか腑に落ちない様子でそっけない返事を残すと、八千草はまた横を向いてしまう。言葉がまずかっただろうか、とおろおろしだす井澄を見てさも愉快そうに白衣の山井が現れ、横を向いた八千草の肩に後ろから手を置いた。
「ひゃ」
「なぁに固まってるの八千草。澄まし顔してるだけじゃ夜会でうまく振る舞えないわよ」
「べつに、ぼくは」
反論に口ごもり、うつむいてアンブレイラの先を路面に打ち付ける。そんな八千草に、山井はふわりと一枚の夜着を広げて渡した。それは厚手のケイプで、首周りに毛皮を巻く形になる暖かそうな品だった。
するりと八千草の肌は覆い隠され、井澄はああ、と落胆の声を抑えきれない。だが同時に、他の人に見られないようになったという安心感もある。
山井はぽんぽんとはたいて上着の位置を整えながら、静かに八千草に問うた。
「ほら忘れ物。ケイプも羽織らずに出ていくんだから。寒くなかったの?」
「や、それが、全然……」
自分でもわからない、という様子で八千草は首をかしげ、合わせるように山井は鏡映しの方向へ首をひねった。それから八千草は紙巻煙草に火を点け、あさっての方を向いて煙を吐く。
「ふうん。この寒空でそんなに肩出して寒くない、か。へんなこともあるものね」
「もともと八千草は寒さには強いほうですから、それほどへんでもないかと」
「でもさっきからちょっと様子へんだったわよ。落ち着かない感じでもそもそしちゃって」
「へんに緊張してしまっているのでしょう。相手は赤火の主ですし」
「この子はそのへんの緊張とは無縁だと思ってたけど」
「普遍的な感覚も持っているということでしょう」
「へぇん」
「ええい、二人してへんへんと言いすぎだ。不愉快であるよ」
「も、申し訳ありません」
後半は少々ふざけていた部分もあったので、八千草の指摘に井澄は平謝りした。いらいらした様子の八千草はもういつもの調子で、先ほどまであった落ちつかなさは、ほとんど消え失せていた。それはそれで新鮮さがなくなってしまい、ちょっと寂しくはあった。
銀の懐中時計を開いた八千草は、まずいまずいと井澄を急かす。
「ほら行くよ、そろそろ刻限まで時間がなくなってきているのだからね。奈古ステイションからの列車は待ってはくれないよ」
「はい。では、行きましょうか」
つかつかと歩き出した八千草の前に立って、井澄は馬車のドアを開けた。そして車内に乗り込んだのだが、背後から山井の叱責が飛ぶ。
「井澄ー、エスコウトとかいうの、忘れてない?」
山井に言われて、あ、と失策を認める息を漏らしてしまう。ドアを押さえているのが礼儀であったか。作法よりも、普段から身に染みついていた習慣のほうに身体は従順だった。急ぎ車から降りようとして、井澄はドアの上部で頭を打った。失策に次ぐ失態である。
「す、すみません八千草、いますぐ、やり直しますので」
「……もういいよ」
落胆したような声をあげて、すっと八千草は一歩前へ出た。情けない姿をさらしすぎた、と後悔と恥の暗い色に心を塗りつぶされる井澄は、しょげた面持ちで引っ込もうとした。
「なぜ引くんだい」
「いえ、場所を空けないと八千草がのぼれないと思いまして」
「エスコウト」
右手を差し出して、八千草はしゃくるように言う。なんのことやらわからずに井澄がきょとんとしていると、おいでおいでをするように右手を動かした。
「……支えなさい」
「へ、あ、はい!」
すぐに元の位置へ戻って、八千草の右手をとる。手套に包まれた掌は、すべやかでほんのりと暖かく、井澄の手の中におさまった。脈が速くなり、掌越しにそれが伝わるのではないか、と思うと井澄は目が泳いだ。
「どこを見ているんだい」
「すみません」
上がろうと、掌に力を込めた八千草へ視線を戻す。すると、馬車の中にいる井澄のほうからは、下にいる八千草の胸元がよく見えた。ばっと身じろぎして、井澄の手にも力がこもった。これを不穏に思ったか八千草が視線をあげてきて、おそらくは、井澄の眺める方向に気づいた。
「……どこを見ているんだい」
「い、痛い、いたいたいったたたた」
とった右手をごりごりと。骨を擦り合わせるように握られて、井澄は悲鳴をあげた。
「まったく……」
ふっと力をこめてのぼってくると、八千草は座席に腰掛けて、据え付けの灰皿に煙草を置いた。井澄は骨が砕けたのではないかと思いながら右手を押さえて対面に座り、御者に向かって出してください、と告げる。
「じゃあ山井さん、店のほうは任せたよ」
「はいはい。二人とも、朝には帰ってらっしゃいよ」
軽い口調で言うものの、おそらく山井は真剣だ。わかっているからこそ井澄は答えず、八千草はどう考えているか知らないが、とにかくああ、と返事をしていた。
やがて馬車は進路を駅へとり、進み始める。痛みがひいて落ち着いてきた井澄は深く息を吸うと、懐を探って紙巻煙草の箱を取り出す。一本出してくわえると、箱をしまって燐寸を探った。
と、八千草が身を乗り出して己の紙巻煙草を差し出し、点っている火を向けてくれた。ありがたくこれを頂戴し、井澄は深く喫煙した。この様を見て、膝に頬杖つきながら八千草は言う。
「ぼくがお前の面倒を見る方が、合っているのかもしれないね」
「お恥ずかしい限りです。エスコウトというのは、どうにも親しまない文化ですので」
「……まあ場所をこの島に限っては、お前のやり方もまちがいではないから、いいけれど」
「どういう意味です?」
「先に入って、潜む敵がいないか調べてくれるということさ」
「ああ、そういう」
「……まて。なんだその反応、お前まさかなにも意図せずあの行動をとっていたのかい」
「え、いやきちんと考えてはいましたよ? むしろ四六時中いつ何時でも」
八千草のことを、考えている。だがそのように言うわけにもいかず、井澄はしばし、八千草からの訝しげな視線に耐えることとなった。
夜会まで、あとわずか。
人死にが、はじまる。