30:散策という名の戯れ。
デヱトその弐。
大路に案内されて通された井澄は、細長く仄明るい廊下に三つの扉が並んでいるのを見た。樫製の頑丈な扉で、奥には衣服が山と収納されているのだという。そのうち真ん中の扉の前に立ち、大路は指さした。
「あんたのぶんは、ここだよ」
「八千草がいるという落ちではないでしょうね」
「その通りだが、なぜ自らみすみす機会を逃すのかね」
「私は彼女のことを、自分自身からすら守りたいのです」
てきとうなことをしれっと言ってのけると、べつに言葉を聞いていなかった風に、大路は扉を叩いた。ぅわぅわぅ、と犬の鳴き声に似た慌てようで八千草の声が響き、「小僧の服をとるから開けるよ」という大路の言葉にさらに吠え声が続いた。
「まだ、開けるな。上を、おさめてない」
「下が隠れてりゃ十分さ」
ぎーと音を立て扉が開く。どたばた音がしたので、井澄は顔をそむけながらも、指の間から部屋をのぞきこんだ。それはもう、食い入るように穴が開くように。
部屋の中は大量に吊るされた服のせいで広さがわかりづらく、姿見がやわらかな光を投げかけている。鏡の前に立っていた八千草はなんとか上半身もドレスにおさめたところだったらしく、肩で息をしながらこちらに背を向けていた。
「……もう少し、猶予をおくれよ」
「だいぶん長い間この子と話しこんでたもんでね。もうてっきりとっくに終わっているものだと」
静かな色調、清楚な緋色のロングドレスに身を包んだ八千草がそこに立っていた。
装飾は少なく、胸元の中ほどでしぼった構造はそこからふうわりと広がりを見せて、いくつもの大きなひだを作り裾まで流れる。襟周りは鎖骨がのぞく程度に開いて、緩いドレエプの上にレエス地で縁取りを飾る。肩元は膨らみを持たせて、手には白い長手套。艶やかな表面は光沢に溢れ、ビロウドの手触りを遠目にも思い起こさせた。
うろんな目つきで井澄を見た八千草は、ううんとうなって腕組みした。控えめな胸が押さえつけられ、弧を描いて垂れるドレエプが歪んだ。
「似合ってるじゃないかね」
「そうかい?」
足を持ち上げるようにして動きやすさを確かめつつ、八千草はどこか大路の褒め言葉に疑問をぬぐえない様子でつぶやいた。すると大路は振り返って杖の先で井澄のすねを叩いた。
「あんたもなんか言ってやったらどうだね、おい」
せっつかれて、慌てて井澄は表情を取り繕った。しかしすでに正視できないほどだらしない顔になっていたということは、八千草の目の色からうかがえてしまった。
「いやあの、綺麗ですよ」
「……きれい、かい」
「はい」
何度か細かにうなずきつつ言うと、なぜだか八千草は首をひねった。
「気に召さないんなら、ほかにもいくらかあるよ。そっちは試したかね」
「試したけれど、大婆さんの選んでおいた服はどれも似たような品ばかりであるね。嫌いではないけれど、ふむ」
何度か鏡面を見直して、八千草はちらりと部屋の奥に鎮座している他のドレスを見やった。
だがその緋色のドレスに結論は落ち着いたらしく、裾を払うと、これにするとささやいた。毎度、と言いながら大路は服の森を掻きわけて、奥の方から三つ揃えと一式を取り出してきた。
「そんじゃあとはこの子のぶんだね、しっかり合わせてあげるからちいと服脱ぎな」
「え、ここでですか」
「生娘じゃあるまいし、なに恥ずかしがってるんだ。いいから裾丈と肩周りを合わせるんだよ」
「じゃあぼくは先に外へ出ているよ」
逃げ帰るように八千草は出ていってしまい、もう少しあのドレスを眺めていたいような気もした井澄が残される。
三つ揃えは丈も裾も井澄の体躯にぴったりはまり、とくに手直しの必要はなかった。大路も満足そうに井澄の姿を見て、「見違えたね」と褒めてくれた。逆説的に、さっきまでの服装がいかにひどかったかを表してしまっているのだが、なにも言えず井澄はなされるがままだった。
買った服は紙袋に納められ、井澄が両手に携えて店を出る。暖炉の横に腰を下ろし、大路はまたいらっしゃいと声をかける。ドアが閉まる前にちち、と鳴き声が聞こえたが、八千草が先を歩いていったので井澄は振り返らずあとを追った。
#
目的は果たしたもののべつだん今日はやることがなく、道にかかる鉄橋を通って少しステイションまで遠回りをしてみた。にぎわう人波は買い物に興じて笑みを浮かべる人が多く、ここは警察も働いているからスリも少ないのだろう、とあらためて下層との治安の差を思い知る。
「さて、まっすぐ帰るのも面白くないと思って歩きだしたはいいけれど。どこか向かうあてはないものかな」
「では、煙管でも買いに行きませんか」
「ああ……そういえば前にそんな約束もしたっけね。いいよ、まだお金は余っているのだし。少しばかり趣味のものに費やしても罰はあたるまいよ」
手帖を見ながらのつぶやきに、横の八千草はうなずいて言った。
「ではどこかしら案内してもらえるかい」
「え、案内ですか。そう言われますと少々困りますが」
「お前その手に持っているのはなんなのさ。街の情報が、いろいろ記してあるのだろう?」
「まあ書いてはあるんですが……」
井澄の手帖は仕事に際して役立ちそうな人間関係・葉閥関係・直近の事件や近隣同業者の異能の情報などが多く、趣味のものや生活に関わる情報は少ないのだ。書ける余白は多くはないし、日記帳にもなっているため、必然的に内容は限られてくる。
「申し訳ありませんが、道を歩いて探すしかないですね」
「ふうん。べつに散策していくのも嫌いではないから、いいけども」
少しだけ頬に丸みが出た気がして、井澄は不服なことがあったのかと案じた。それから、頭上に吊り下がっている無骨な鉄の大時計を見て、時刻をあらためる。帰りの列車は何時であったか、とついでに時刻表を確かめた。そこで考えが行き着いた。
「あ、小腹がすきましたね」
「そうかい? ぼくはさほどであるけど」
八千草は返答素早く、微妙に語調が上がり気味になった。彼女の不服、というか空腹について推測は間違っていなかったと知り、井澄は胸をなでおろす。
なにはともあれ午後三時である。アンテイクを出てからは移動に時間を割いていたので、昼食は抜いてしまった。朝食を食べてからかなり時間が経ってしまったので、空腹も仕方のないことだ。
「なにか腹に入れてから煙管を探しましょう。幸い、このあたりの通りは食事などの店も豊富なようですし」
「あそこで西洋菓子を売っているようだよ」
「目ざといですね」
目星つけてたでしょう、とは言いだせず、とたとたと駆けていく彼女につきしたがった。急いでいるというほどではなく、さりとて遅いとも言えない速度が、八千草の心中の冷静と情熱のせめぎ合いを示していると思われた。
橋を渡って、二階の並びにあった店のうち一軒に狙い定めて八千草が歩む。〝推移通〟という店名であるらしく、黒光りする木製看板が、通りに向かって壁から突き出していた。
井澄がドアを押しあけると、からころと鈴が鳴る。いらっさい、と声をかけられ、右手のショウケイスを見た。中をのぞきこむと、色とりどりの西洋菓子が並んでいる。どれもこまかな細工を施されたもので、和菓子のあたたかみある色合いと比べると、きらびやかで玉石を思わせる。
「どれにしましょう」
「どれでもよいよ、もちろんいい意味で」
言いつつ品定めは怠っていない様子で、わずかに上体を屈めた八千草は真剣な目をしていた。これで意外と八千草は、食べることへの執着は強いほうなのだ。彼女が欲求を強く示すものは少ないので大事にしておきたいと井澄は思う。
「では私はこのミルフイユと紅茶で」
「ぼくはこのシユウクリイムと、あとラムネをひとつ」
素早くショウケイスの中身をあらためながら、八千草は迷いを残しつつ品を決めた。
姿が映りこみそうなほど磨かれたテエブルについて待つかたわら、井澄は窓の外をながめて人通りを観察した。煙管はどこにあるだろうかと見回し、給仕をつとめていた男にも小銭を渡して尋ねる。男は通りをさらに下る方を指差し、そちらに煙草屋があると教えてくれた。井澄も丁寧に感謝の言葉を述べた。
「慣れたものだね」
「なにがです?」
「ここでの生活すべてに」
井澄が人通りを観察し、話を聞きだす過程を見て言っているのだろう。たしかに最近では層によって振る舞いを変える手を覚え、下に見られることは少なくなった。
「もう九か月になるかな。ここへ来た当初とは、ずいぶん変わったよ」
「日々精進して、進化を繰り返していますので」
「鈍化しているだけの気もするけれど。まあ、この島に来る奴はそのほうがいいのかな……」
「八千草もですか?」
「ぼくは他に行き場が無いから、ここに来たのさ。お前はちがうのかい?」
「私は自ら選んでここに来ました。後押しする要因はいくらかありましたが、それでも選択したことは自覚しています」
八千草の存在により選び、師の死去により後押しされた。本土への未練などいくらもない。このように言うと戻れる可能性を投げだしているように思われて、いろいろ言われてしまうのだが。選択から切り捨てることと可能性を投げだすことは大きくちがうと井澄は考える。
「それはいいことであろうよ。少なくとも後悔はしないし、だれかに責任を負わすこともないという点においては。……ここは先に詰まって逃げてくる者が多い島であるよ。ぼくも、前も後も考えちゃいない。今にとって食われないよう、精いっぱいだから」
「私は先々も考えてますよ」
「ほう」
机に両肘つき、重ねた両手の上におとがいを載せた八千草が興味深そうに身を乗り出してくる。井澄は真っ向から見据え、己の求める先について瞬時に思いめぐらす。
幸福な未来だ。八千草との暮らし。
静かに手と手を取り合って小さな箱庭のような家に住まい、真っ当な職につきなおして過ごすのだ。べつに、多くは望まない。赤貧でも清貧に、高潔な生き方をしてゆく。だれ恥じるところなく、家族として互いを尊重し合い、生活する。そしてできれば、その、一姫二太郎。孫に看取られて畳にて死にたい。
……頬を引き締めて夢想に笑みをかたどらせないようにしたのだが、八千草は井澄の目の奥からなにがしかの波長を受けでもしたのか、乗り出した身を少し退いていた。悲しくなるが、こうまで想いが伝わりにくい相手である以上、まだ時間は必要だ。さらに表情が渋く濁り、うつむきかけた八千草はおそるおそる井澄に問うた。
「どんな、未来だい」
「それは」「お待たせいたしました」
それを言うなら「お邪魔いたしました」だろう。二人きりの空間に割って入ってきた闖入者に殺意を込めて、井澄は睨みつけた。いまなら眼光だけで頸動脈くらいなら切り裂ける気がした。
威圧されて臆したか、わずかに指先を震えさせながら給仕は皿に乗った品を置き、ソーサーに載せたテイカップを横に配した。ごゆっくり、という言葉尻にも震え混じりであるのがわかったが、その程度で許すつもりもない。
いまにも歯を剥いてしまいそうな自分をなんとか押さえ、なんの話をしていたのやらとどっちらけになった空気の中、目を輝かせている八千草を見て心を落ち着かせた。
「さて、いただこうか」
「……そうですね」
井澄の未来より今の甘い物らしい。肩を落としつつフオクで崩しながらミルフイユを口に入れる。さくりとした歯ごたえが楽しい菓子で、間に挟みこまれた苺の風味が全体をさっぱりと仕立てあげていた。
八千草は両手でそっと支えて、シユウクリイムを口元へ運んだ。井澄は食べたことがないのだが、見たところふわふわした触感のようだ。中からこぼれるクリイムを唇につけて、小さく舌で舐めとりながら、静かに八千草は笑う。
「食べるの好きですよね、八千草」
「食べて飲んで煙草を喫むために生きているよ。お前はちがうのかい」
「仕事のために生きてますかね」
臆面もなくさらりと言った。いつでも八千草のそばへいるために、仕事に励むのだ。
「ええと。生きるためお金を得るため、つまりはご飯を食べるためにするのが仕事ではないのかな」
「ご飯だけでは満たされないものがあるのです」
むしろ八千草を見ていれば空腹も忘れられる。そういえば性欲と食欲は両立できないとの話を聞いたことがあったが、これはそういうことなのだろうかと少し悩む。なんだか自分が穢れているように思えてしまった。
自分の性質について思い悩む彼を尻目に、八千草は茫然とつぶやいた。
「でも、ぼくらの仕事は危ないよ」
「たしかに、危ないですね」
「それなのに満たされるのかい?」
「むしろここでなくては満たされません」
「……そんな。まさかお前が小雪路と同系統の人間だったなんて」
「あれ、なにか勘違いされている」
シユウクリイムを手にしたまま八千草は青ざめていた。言葉が足りなかったのかもしれないが、どこから誤解されていたのだろうと井澄は会話をさかのぼる。最初からのような気がした。
「仕事を増やしたほうがいいのかな。お前がそうまで戦いの緊張感を求めているとは知らなかったよ」
「いや仕事のときはたしかにいつも緊張してますけど」
それを言うのなら八千草と対面で話しているいま現在、ひいてはアンテイクで生活しているときも常に井澄は緊張している。一瞬たりとも気を抜かず周囲の人間(というか八千草)に気を配って生活しているからだ。彼は八千草のために常時、師によって叩き込まれた暗殺技術である周囲観察・気配察知・動向推測などを全力で稼動させている。
しかしまた妙な誤解を招いたものである。どう対処すべきか言葉に迷う井澄を見て、なにか困らせてしまったと思ったのだろうか。八千草はシユウクリイムを置くと紅茶のカップに手をつけて、片方の眉根を上げた。
「……まあ、仕事に熱心なのはいいけれど、あまり根を詰め過ぎないことであるよ。さっき大婆さんのところでも言ったが、万能にあらゆる局面で対応できるお前は稼ぎ頭なのだから。大事にしなくてはね」
「大事にしてくれますか」
「というか実際、大事にしているつもりだけれど」
「いまの御言葉もう一回いただけますか」
「いやだよめんどうくさい……」
心底いやそうな顔をしながら、八千草はシユウクリイムをほおばった。また頬が緩み、口元に笑みをこぼした。井澄の心拍が激しく跳ねあがった。
約束だった煙管を贈り、そろそろ日が暮れるということで二人は帰り路を急いだ。見上げれば、遠く一区の彼方から射しこむ光が、天蓋に薄くなり闇に浸食されていくのが見える。
使い心地を手になじませるように煙草を指先でもてあそぶ八千草は上機嫌で、煙草屋で購入した刻み煙草の箱をもう片方の手に持っていた。
「夕飯はどうしましょうか」
「食材を買いそびれていたっけ。んー、三層へ降りてこの前のバアラウンジとやらに向かってはどうかな」
「ビフテキですか」
「ぼくは開化がなくともこの国は支障なく回っただろうと思っているけれど、肉食文化が広くもたらされただけで開化があってよかったと思う」
「でも朝食は和食がいい、と」
「こういうの、和洋折衷というそうだね」
微妙にずれた使い方のような。なにはともあれ、二人は坂をのぼって帰路に着く。
だが八千草は坂の途中ではたと足を止めると、路地に続く道のほうを見て、井澄のほうをかえりみた。足はまだ坂の上に向けられていたが、身体は路地を指していた。なにか思いついたのだろうかと表情をのぞきこむと、八千草は目線だけ井澄にくれた。
「……井澄、ちょっと忘れ物を取りに行ってもいいかい?」
「かまいませんよ。どこになにを忘れたんです?」
「大婆さんのとこ。あの、リボンを置いてきてしまったらしい」
「着替えの時にですか。ではちょっと、向こうまで戻りましょう。私も探します」
「ああうん。よろしく」
承服して、闇に落ち始めた街を二人で行く。頭上のアアク灯が、煌々とした照明の役割を果たし始めていた。
路地を抜け鉄橋を渡り、二区の奥まった位置にある美奉堂へ辿り着く。すでに明かりが落とされており、通りから建物の廊下に入った先にある店の扉には、店主不在の旨を示す文言がつづられていた。
「こんなあからさまに不在を記していて、品物を盗まれたりしないんですかね」
「大婆さんはここの二階に住んでいるのだよ。たぶん足音でぼくらの来訪も察してくれているから、あとは」
八千草は合い鍵を取り出して、ドアノブに差しこんだ。かたりと軽い音がして、扉は内側へ開いた。
昼間はなにも思わなかったが、暗い部屋の中に衣服をまとったトルソウの影が浮かんでいるのは、なかなかに不気味な光景だった。しかしこう暗いのでは探し物もままならないため、八千草は手探りで明かりをつけると、暖炉脇の扉まで歩いた。そこにも鍵があるらしく、かたりと開いて奥に進む。
「ぼくはこっちに行く。そちらにあるかもしれないから、探しておくれ。探すのは薄紫の、二尺ほどのリボンであるよ」
「承知いたしました」
扉が閉まり、井澄もきびすを返す。暖炉は火が立ち消えてもまだ熱が残っており、少しの間暖をとった。それから周囲を見回して、どのあたりを八千草が歩いていたか思い返す。だがトルソウにかかっているリボンの他にそれらしいものは見当たらず、すぐに捜索は難航してしまった。
床には、去る前に大路がやったのか、綺麗に掃き掃除をした痕跡が見受けられる。これは大路が拾っていったのではないかと思い、井澄は二階に上がった。廊下に出ると、二階に繋がる細い階段が見える。上がってゆけば、八千草の言うとおり井澄たちの足音に気づいていたのだろう、大路がやってくるところだった。
「ちょうどよかった。あの、店内に薄紫のリボンは落ちていませんでしたか?」
「リボン? 拾っちゃいないよ」
「そうですか……」
「忘れ物かね? なら、一応奥の三つの部屋も探してみな。この鍵使えば暖炉から奥の収納庫はどれでも開けられる」
「助かります」
ちいさな銀色の鍵を手に入れ、井澄は階下に戻った。そして暖炉脇の扉を開けようとしたのだが、なぜか鍵がかかっていた。不思議に思いながらもこれを外し、井澄は三つの扉の前に出る。
どこからにしようかと迷ったが、まずはやはり一番見つかる可能性の高そうな、真ん中の部屋に行くことにした。光が漏れているあたり、八千草もそこにいるのだろう。二人で探せば早く見つかる、と、時刻表をあらためながら井澄は静かにちかづく。
二寸ほど開いた隙間から室内に向けて手を差し込み、中に入ろうとして――八千草の後姿に、音も意識も、奪われる。
その背が、艶っぽく白い光を湛える。
井澄は、私の骨の骨、肉の肉、と心中につぶやく。
肩を大きく出したイブニング・ドレスは、大胆に深く背中を切りこんで腰元まで見えるようにしていた。緩やかな曲線で盛り上がる肩甲骨、すべやかな肌の質感を思わせる背骨に沿って、身をよじる八千草の肌が、弾く光の粒によってきめの細かさを主張している。横からは胸の輪郭も露わになって、丸く、ちいさく弧を描いているのが見えた。
八千草は腰まで隠す豊かな黒髪を、背を出すためにか両手でゆったり持ちあげる。口には髪を結えるためか、薄紫のリボンを一筋くわえた。たっぷりとした髪はひとまとめに流され、水気すら発しそうな跳ねる動きを見せた。
浅く、緊張した息遣いのまま、八千草はドレスを着こなしてゆく。黒の長手套に包まれし細く、たおやかな二の腕から腋までの線が、煽情的に映る。髪を持ちあげうなじをのぞかせた彼女は、ついと横目で鏡面の己を見た。星が流れたように感じた。
「……はぁ」
下へ視線を落として嘆息した。その所作ひとつとっても流麗で、見惚れて、湯だった頭が重たくなり、井澄は扉の脇に肩を寄せて支えとする。
暗闇から切り取ってきたようにやわらかで、なにもかもを飲みこみそうなロングドレスだった。影をまとうように、八千草は胸元までをこのひたりと吸いつく布地で隠していた。足はほとんど見えず、わずかにのぞいたのは、高くかかとの伸びる肢上げ靴である。くるぶしからふくらはぎへかけての線が、逃げ込むようにするりと裾へ消えている。
髪を結いあげた八千草は、そのまま鏡の前でくるりと回り、服の具合を確かめている。よほど気に召した品だったのだろうか、薄く笑んだ頬には朱が差し、手放したくないとでもいうように身体ごとドレスを抱きしめている。やはり黒色のほうが合うのだな、と思い、井澄はなぜあれを購入しなかったのだろうと疑問に感じると同時、あのドレスを衆目にさらすことなく済んだことに安堵も覚えた。
だがそのわずかな心情の揺らぎが、たたずむのみにして殺すことかなっていた気配を露わにしてしまったらしい。扉の木枠がきりぃと軋み、次の瞬間には隙間のぞく井澄の眼前に、先ほどまでとちがう朱色に染まった八千草が人を殺せそうな目をして立っていた。生唾を飲みこんだ音も聞こえたのではないかと恐怖した。
「……井澄、お前、どうやっ……あ、合い鍵」
「いえ、その、これは、はい。弁明のしようも、ございませんね」
泣きそうな心地になりながら、井澄は深く頭を垂れて断罪の時を待った。この殴り易そうに差し出した後頭部を打たれるか、下げた顔面へ膝蹴りを食らうか、と内心で考え、しかしそんな肉体的な痛みへの恐怖などよりも「またしばらく口をきいてもらえないのではないか」との危惧のほうが大きい自分は本当に八千草のことを好きなのだと思った。
というか殴られるという形であっても、身体接触があるのはそれはそれでちょっと嬉しいのだった。ぜひ普段から気安い掛けあいとして殴る蹴るがあってほしいものだった。
「なにか言うことは?」
よこしまな考えを嗅ぎつけたか、鋭く冷めた刃のように八千草の言葉が突き刺さった。もう一度深く頭をさげ、顔をあげて、井澄は宣誓するように言った。
「すみません。申し訳ありません。もう二度といたしません! それから、あの、ええと」
「なんだい」
「ええと……そのドレス……素敵だと、思います」
本心からこれだけは言っておこうと思った。本職の方にこう言っては失礼なのだろうが、大路の選んだドレスはどれも小さくまとまってしまったような感じがして、わずかばかり八千草には合わないと思えたのだ。
その点ドレスの山から八千草が自身で選んだのだろうこの一品は、血が通っているというか、彼女の感覚が反映されている。我が意を得たり、との感情が滲み出ている。ぴたりと動きを止めた八千草は、ゆっくり腕組みをすると、裾をはためかすように腰をきった。うつむいた顔は、どんな色を示すのかうかがえない。
「素敵、かい」
「はい」
「そう」
……そう、と繰り返して、腕組みのまま二の腕をかりかりと掻いていた。
どのような罰がくだるのかと、百年より長い数秒を過ごし。硬直した井澄に、とうとう八千草の右手が向けられた。さあ来たぞと身構えて、直立不動で井澄は待つ。
だが力なく、ぽふりと胸を押し込まれただけだった。力を込めて構えていたために逆に均衡を欠いて、井澄はたたらを踏んで後ろへさがった。
「……いつまでもいるんじゃないよ。着替えるから、とっとと出てけ」
「へ、あ、はい」
リボンをほどいて、波打つ髪の中へ表情を隠しながら、八千草は扉を閉める。なぜか声音は優しげで、少なくとも怒ってなどいないように感じた。それとも大路に気を使ってこの場はおさめただけで、帰路でなにか言われるのでは、などとまた嫌な妄想が頭をよぎった。
ところが店を出てからの八千草も、つんけんしてこそいたものの、別段怒り出す様子はなかった。
なんだかわからないがとにかく命を拾った。寛大な八千草と自らの幸運に感謝しつつ、井澄はほくそ笑んだ。すると先ほどの八千草の姿が思い出され、笑みの質が少し変わった。
これには鋭く反応した八千草、底の硬い長靴で井澄の向こうずねを蹴っとばし、しかし不機嫌一辺倒というわけでもない。煙管を口にくわえながら、ふんと鼻を鳴らしたものである。
終盤の服装描写だけで原稿用紙二枚くらい