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明治蒸気幻想パンク・ノスタルヂア  作者: 留龍隆
幕間 現状把握
29/97

29:お出かけという名の買い物。


買い物デヱト回。


「お前って、あまり服に気を使わないのだね」


 あくる日のこと、八千草はこう言ってパイプから煙をあげた。え、と戸惑い焦る井澄は店内の掃除をしていたのだが、しゅばっと顔を上げて応接室にいる彼女と目を合わせようとした。


 だがすでに手元の本に視線を移していて、彼女の眼球に井澄は映っていない。あせあせとして、彼女の言葉にどう対応するか悩んだが、結局直接に問いただした。


「え、あの、気を使わないとは、どういう」


「んー? だってお前、似たような黒の三つ揃えばかりじゃないか。たまのことでネクタイとシャツを新調する程度で、新鮮さがないのだよ」


 似たような黒の服装であるのは八千草も同じなのだが、彼女の場合は服の質が良い上に見目麗しいためなにを着てもしっくりくる。文句のつけどころがないのだ。ひるがえって己の服を見ると、同じ黒は黒でも井澄のはずいぶんとみすぼらしく、貧相に思われた。


 先月も式守との戦いで袖を刻まれたジャケツを新調したばかりなのだが、着られればいい寒くなければいいとばかりに叩き売りの品を買ったので、当然の評価とも言える。


「……すいません八千草、私が貧しく見えるばかりに不快に思わせるところがあったかもしれません」


「や、そこまで卑下しなくともいいけれど。服を買ったりはしないのかな、とちょっと思っただけさ」


「うう……昔からあまり、服を買うことがなかったもので。無頓着ですみません」


「そこまでかしこまらなくともよいけれど。しかし、そうかい。服はあまり買わなかったと」


「師の下にいたころも大抵金欠でしたし、それ以前は……いえ」


 話しそうになって自分で打ち切ると、八千草はなにも尋ねはしない。それはずっと前から決まっている、二人の間の――というよりも、四つ葉という島の暗黙の了解に則ったものだ。


「まあなんにせよ服を選ぶ才覚もありませんで。八千草のように素敵な服を選べればいいのですが」


 日々ころころと着るドレスを替える八千草とは、当然比べるべくもないのだが。もし自分に選ぶ才覚があるのなら、井澄は己の服などそっちのけで八千草に服を贈るだろう。そのような意図をこめてじいと見やれば、ちょっと彼女はドレスの裾を引っ張って、足を組んだ。


「素敵、かい?」


 ちらと流し目でこちらをうかがう。うっかりすると流れに乗って井澄の理性もさらっていきかねない目線である。


「無敵とも言いましょうか」


「……なんだか気がそがれたよ。お前はそれも褒めたつもりなのかもしれないが」


「豪奢に飾り立てた服を着ても嫌みにならない人物というのは、敵う者無しということです」


「己で説明をしてしまうなよ。なんだか可哀想になってきた」


「では慰めてください」


「やなこった」


 すがる井澄をすげなく突き放す。小さくうめいて肩を落とし、井澄ははたきを手に掃除に戻る。そこに八千草が、小説に目を落としたまま提案をした。


「ところで井澄」


「はい」


「今日の午後はあいていたかな」


 八千草のためならば依頼主を放り出して時間をあけるが、いちおう手帖を確認し、己の筆跡がなにも予定を示していないのをあらためる。


「あいています」


「うん。では少々付き合ってくれ」


「何時いつまでもどこまでもついて参りましょう」


「大した距離ではないよ。時間もそうとらせはしない」


 いっそ私の一生涯を捧げさせてくれという言葉を飲みこみ、井澄は努めて冷静にうなずく。


 八千草は白魚のような指先ではらりと頁をめくり、パイプを置くとつぶやいた。


「服を買いにゆこう」



        #



 それから三時間、掃除が手につかなくなった井澄は二階の自室と店の間を行ったり来たりうろうろし続けた。八千草はとくに時間を指定しなかったので、いつ出かけるともわからず。服を整え、髪型を設え、眼鏡の曇りを拭うともうやることがなくなり、階段昇降をひたすら繰り返した。


 一時間半が経過したところで井澄は小説の残り頁がだいぶ少なくなっていることに気づき、あれが読み終わったら出かけるのだ、と予想した。だが出発までの残り時間が目に見えているというのもそれはそれで心臓に悪いもので、ああとかううとかうなっていると、うるさいと言って八千草が栞を投げつけてきた。


 紙製のはずだが、鋭く投げられた栞は角を壁に突き立て刺さった。そこから井澄は黙って足音も殺して歩きまわり、店の外で紙巻煙草を三本喫んだ。


 そして栞が投げつけられて一時間半。ようやっと八千草は小説を閉じた。


「……よし。では」


 と言って腰をあげたのを見て、井澄はしゃんと背筋を正す。


「着替えてくる」


 がたんと音をたてて井澄は売り物のデスクに突っ伏した。


 ややあって、二階から降りてきた八千草は裾丈の短い漆黒のビスチエドレスに、立体的な蔦模様アイビイの刺繍を施された赤褐色のボレロと艶の無い革製の長靴ブウツを合わせて井澄の前に姿を現した。首には赤、黒、白の線が規則正しく整列した、長い襟巻をまいている。


「おまたせ。ではいこうか」


 両手に黒い長手套をはめて、パイプをくわえた八千草は言う。はい、と力強くうなずいた井澄は、彼女の先を歩いて店のドアを開いた。


「今日はどちらまで?」


「二層二区の明藤めいとう本通り。服を揃えるのならあの辺りがいいだろうよ。幸いにしてお金はある」


「先日は金欠だと言っていませんでしたか」


「湊波さんから送られてきた」


 懐から取り出した書簡には、「湊波より」とお世辞にもうまいとは言えない字が躍っている。


「どうやら本土の……統合協会とかいうところに呼ばれていたらしい」


「統合協会」


「知っているのかい?」


 厳しい顔つきになってしまったことを自覚し、井澄はすっと取り繕った顔をした。幸い、八千草は通りの馬車を選別している最中だったため、こちらを見てはいなかったが。


「ええまあこれでも術師の端くれですので。それにしても、本土では力も使いづらいでしょうに」


「ああ……そういえば、本土はこことはちがって異能が秘されているのだったっけ。それも、統合協会とやらによるものだったかな」


「あまりご存知ないので?」


陰陽寮おんみょうりょうが前身となった組織というのは知っているよ。けれど細かな実態はさっぱり。ぼくはあまり、本土に長くいなかったから」


「この日の本の国における呪術、異能の管理をしている場だとだけ知っておけば、さほど支障はありませんがね」


 陰陽寮は、古くからこの国の政を裏から守護してきた組織である。名の示す通り陰陽道に長けた人間たちによって創設されたもので、吉凶判ずる占術や妖などの魔を狩る戦術によってこの国の闇を制してきた。


 異能を一般民衆の前から秘匿したのも、この組織である。四つ葉は島そのものが国の闇であるため異能者が跳梁跋扈することとなっているが、本土では異能者は忌み嫌われ、ある頃から力を隠すことが常となった。少なくとも江戸の初期までは民衆の間でも異能の存在は知られていたそうだが、どこからか術の失伝が多くなったのだという。そこで術師を囲い、陰陽寮はさらなる力をつけた。


 しかし開化以降、前時代的な存在として陰陽寮が明るみに出てしまい、一時解体を余儀なくされた。そこで名称のみをすげかえ、中身はほぼ同じものとして明治三年に再編成されたのが〝日本国術法統合協会〟略して統合協会である。


 現在は陰陽道だけでなく、西洋魔術や錬金術など他国の術式も研究されているのだが、研究の移り変わりに伴って辞することを強要された術師も多かった。その大半は、いま四つ葉に流れ着いて生活しているという。


「あそこに呼ばれるということは、おそらくは梟首機関きょうしゅきかんの〝魔狩り〟かなにかの仕事でしょうかね。仕立屋が研究のために鶴唳機関かくれいきかんの〝教論者きょうろんしゃ〟に呼ばれるわけもありませんし……」


「詳しいのだね」


「ま、まあ。知識はなんでも武器になる、と師にいろいろ教え込まれたので」


 少しあせりながら、井澄は早口にまくしたてた。八千草は気にせずふうんと流し、書簡をしまって馬車を手招いた。


「近日中には戻る、と書いてあったよ。お金は長く店を不在にしたお詫びだとさ」


「不在だったと言われても、どこまで信じていいのかわからない人ですけどね」


「とりあえずいまここにお金があることは真実であろうよ、もらえたものは気にせず使ってしまおう。さてお前の背丈に合う服は、どこかな……」


「え、私の服を買うんですか」


 我に返ってたまげた井澄が驚きに退きつつ言うと、あきれ果てた表情で八千草はこちらを見上げた。


「当然だよ。いったいなにを買いに行くと思っていたんだい」


「てっきり八千草がドレスを新調するのだと」


「ん、それもあるにはあるけれど。まあとにかく、支払いはぼくに任せてよいよ。入用なものを買い与えるのも代理店主の義務であるからね」


「調査の際の情報料は払ってくれませんのに」


「そこは自分で交渉し、いいツテを探すべきなのだよ。与えられて努力しなくなってしまうと、交渉もできず下に見られてやりづらくなる」


「はあ、そういうものですかね」


 かりかりと頭を掻きつつ、井澄は八千草の論に従った。パイプ片手に歩く八千草は、馬車を停めると乗り込んでいく。井澄は後ろについて、奈古ステイションへ向かう道筋を御者に伝えた。


 はてさて二人きりでの、外出である。仕事というわけでもなく。


 向かいに座る八千草に目をやり、時折そらして外を見やる。膝の上に組んだ手を置き、心を落ち着かせようと努力しながら、井澄は馬車の揺れに身を任せた。




 盛栄ステイションについた二人は噴水の凍った水晶広場を抜けると、二層二区を東西に横断する明藤本通りに出た。水晶広場を交差点として一区まで南北に縦断する寿谷ひさや大通りという商店街もあるのだが、そちらは本当に高級な品々しか置いていないため自然と選択肢から外れた。


 西側へ緩やかに下る坂は、遥か下方までまっすぐに見通すことができる。二人の住まう五層三区のガタガタな石畳とはちがい、整然と白煉瓦の敷き詰められた道は人通りに活気があり、高い位置からはアアク灯によるまぶしい光を照り返して、夜でも昼のような明るさを保つ。もっともいまは昼過ぎであるため、そこまでの明かりは必要ないのだが。


 道幅は十間ほどあるだろうか。ときたま馬車だけでなく、自動四輪車オウトモビルが走るあたりに二層の抱える富裕層の生活ぶりがうかがえる。ごとごとと煙をあげながら走る車両の運転手も、心なしか自慢げな顔でハンドルを握っている。


「一度くらい乗ってみたいですね、オウトモビル」


「靖周の運転を見たら、そんなこと二度と言えなくなるよ」


「運転したことあるんですかあの男」


「小雪路のいないときに、素早い逃走犯を追いかけていたことがあってね。たまたま見かけたオウトモビルに靖周が乗り込んで、通りを走りだしたのさ。そうしたら危うく民家にぶつかりそうになって、空傘の風圧を緩衝材にしたら車がその場で回転した。ひどく酔ってその後仕事にならなかった」


「むかしから無茶ばかりしてますね」


「しかもぼくは目が回って頭打って気絶しちゃってね。いまでもこぶが残っている」


「だ、大丈夫だったんですか?」


「大してなにもなかったよ。あー、そういえばそのときに湊波さんから言われたんだ、きみは寝言がひどいねぇ、なんて……そういえばこの前倒れたとき、ぼくはなにか喋らなかったかな」


「いえ、とくになにも」


 残念そうに井澄が言うと、逆に八千草が曇った顔をした。よほど寝言を聞かれたくないのだろうと、井澄は黙って察した。下り坂を歩きだし、八千草の案内によって店へ向かった。


 赤煉瓦で建てられた二階、ないし三階建ての屋敷と、石の白壁に橙色の丸っこい瓦を載せた館が、この通りの主な建物のつくりであるらしかった。壁は煤けた色合いに濁り、ところどころにひび割れと枯れつたが這い回る。そして建物はどれも大きめのギヤマンをはめた窓が設えられており、売っている品々を外から眺めることができる。下り坂でついついはやる足も思わず止まる、興味深いつくりであった。


 また空中に橋がかかっており、通りをまたいで建物同士を繋いでいるところが多くあった。建物に外付けされた階段から上がることができ、二階、三階の店を見て回るに便利な構造である。回廊状に建物の周囲を廻り、他の通りまで続いている橋もあるかと思えば、緩く弧を描いて建物をまたぐ橋もあった。鉄と石で造られた街。そのような印象が強い。


「鉄橋が多いですよね、ここ」


「完全に馬車と自動四輪車しか走らない通りもあるそうなのでね、歩行者と分けるための構造だそうだよ。まあこの道を見ての通り、かなり人でごった返しているからね」


「……はぐれぬようスリにあわぬよう、て、手を繋いでおきます、か?」


「はぐれたら道行く人に美奉堂びほうどうはどこかと尋ねてきなさい。ぼくはそこにいくから」


 つっかえながら言えばつれない態度でそっぽを向かれ、差し出しかけた手を見つめた井澄はもぞもぞとポケットに手をしまい、前を行く八千草を見失わないようにした。さすがにこのような通りであると着物の人間と洋装の人間が半々になっており、ドレス姿の八千草も景色に溶け込んでしまう。


 もちろんその気になれば井澄は八千草の気配を追うことも可能であるが、忍び寄ると警戒されて刀を向けられかねないのでなるだけやりたくない。三歩後ろを、護衛するつもりで歩いていった。


 何度か路地に入り込み、いくつかの角を曲がって、階段をのぼって回廊をめぐり。しばらく歩くと、『洋裁 美奉堂』という金文字の看板が上がっている建物へつく。アンブレイラを腕にかけ、パイプをシガアケイスにしまった八千草は、こんこんとドアを叩いた。


「あいてますよ」


「いや、出迎えとかしたらどうなんだい」


 扉越しにぶっきらぼうなしわがれ声が届き、八千草は中へ入った。


 室内は白い壁に並ぶ洋燈の他、天井からも明かりが降り注いでいる。これは十五畳ほどの室内すべてを均等に照らすための工夫なのだろうか、自分の影が板張りの床の上小さく縮こまっているのを井澄は確認した。


 トルソウのような、首のない人間の像にドレスやジャケツをかぶせたものが、そこかしこに点々としている。そして、部屋の最奥の暖炉傍で本を読んでいた人物が、舟こぎ椅子(ロッキン・チェア)から腰をあげた。ずいぶんと曲がった腰だった。


「元気にしてたかい、大婆さん」


「元気でしたよ。あんたが来るまではね……おや、珍しく一人じゃないんだね。男連れとは」


「ああまあ男といっても、いくぶん貧相ではあるけれどね」


「本当だね。体つきも良くはないし、着ているものなどぼろきれだ」


 初対面でよくもまあそんなこと言えるものだと、罵りの言葉が込み上げたが、眉根を揺らすだけで井澄は耐えた。


 曲がった腰の老婆は、短く揃えた白髪にハットをかぶり、ぎょろりとした目でハットのつば越しに視線を飛ばす。たるんだまぶたの下、小さな眼鏡を鉤鼻の上に載せ、樹皮のように堅く皺の寄った顔を左右に振りながら杖をついて歩いた。


 八千草が着るのとよく似たロングドレスを着ていたが、つくりは豪奢でなく、むしろ質素で装飾に乏しい。ゆったりとした輪郭で身体を覆い隠し、爪先もスカート部の裾の下に隠れているため、挙動が読めなかった。


「んん? おぉや、きみは」


 言いながら間を詰め、井澄の眼前に立つ。小柄な上に背が曲がっているため、井澄とは背丈にかなりの差がある。だというのに威圧感が凄まじく、吹けば飛びそうな老人とは思えなかった。


 そして、丁の字をした杖にかかる両手が、鋭く動く。寸前で井澄は左手を伸ばし、杖持つ老婆の右手を止めた。


「ほお」


「……あの、なに急に抜こうとしているんです」


 暖炉のせいで暑いくらいの部屋だというのに、たらりと冷や汗に頬を撫でられた。老婆は杖から抜き放とうとした仕込みの刀身を納めると、ふむふむうなってきびすを返し、また舟こぎ椅子に腰かけた。


「体つきのわりに、動きは悪くないね」


「だろうね。うちの稼ぎ頭だよ」


「戸浪がいないのではそうなるだろうね」


 ひ、と悲鳴のような高い高い笑い声を洩らし、老婆はハットを脱いだ。先ほどまでとちがい、穏やかな瞳がそこにのぞいた。


大路晴代おおじはるよという。そこのちんちくりんに剣の手解きなどをした者さ。お初にお目にかかるね、爪弾き」


 ひひひと笑い、椅子をぎこぎこ揺らした。妙に気分の乗ってる婆さんだ、と思いながらはあと気のない返事をして、井澄は名乗る。


「沢渡井澄です。アンテイク所属の従業員です」


「はいよろしく。さて、今日は服でも買いにきたかね。といっても、金が無いのならお話にならないよ」


「お金ならあるさ。ぜひぼくとこいつの服を、見つくろってほしい」


「ふうん? おっと、たしかにあるようだね。ではきちんとお客さんとして応対させてもらいますよと。ふむふむ、ひのふのみの」


 八千草が差し出した書簡のお金を数え上げ、大路はよろしい、と懐にお金をしまいこみ、舟を漕ぐのをやめた。じいとにらむように井澄を上から下まで眺めまわし、ふんふんとうなずくと目を閉じて杖で床を叩いた。


 規則的な叩き方で杖を振りながら、大路は片手で井澄を指差す。


「ボクは暗器使いだったかね。得物はたしか銭投げ、ううんもったいないことをするもんだよ。そんで体術はあまり良くない。重心の運びが甘い。でも銭投げのほかにも、なにか近間の得物を持ってる……袖の振りが少し重たげだね、その釦かしら? いや袖口にも小銭を仕込んでるのかね。ふむ。肩幅と袖の長さを少し選ばないといけないか」


 ぎょっとして、井澄は一歩ひいた。ぎし、と板張りの床が鳴り、大路は杖先を井澄に向けた。一、二秒の間が合って、「目方は十四貫」とつぶやいた。さらなる驚きに動きが止まる。


「……まさか、板張りの軋む音で……?」


「ばかな子だね、んなことできるわけないよ。あたしは情報屋もやってるのさ。でもどうも年には勝てないね、思い出すのがずいぶん遅くなってしまったわ」


 勘繰りすぎだよ、と笑い、老婆は杖先を八千草に向ける。む、と身じろぎした彼女だが、すぐに肩の力を抜いた。大路は目を見開き、じいと眼鏡越しに見つめる。


「あんたは特になんもないね。成長もしてない。怪我もとくにないようだ。このボクが、守ってくれてるのかね?」


「な、守られるなど……いや、ないわけでは、ないけど……」


「ふうん。ふうん、んん」


 喉を鳴らして納得したような音を出し、大路は杖を下ろした。それから八千草のアンブレイラを見て、ちょいちょいと手招きをしている。暖炉の中で火が弾け、大路の顔の陰影を揺らした。


「朱鳥、ちょいと貸してみな」


「え? ああ、はい」


 アンブレイラの中ほどをつかんで差し出すと、大路は刀身をすらりと抜き放ち、灼熱の光に照らして切っ先までとっくりと眺めた。刃紋を確かめるようにためつすがめつして、刀身を静かに納める。それから、八千草に向き直りアンブレイラを手渡すと、渡す間際に彼女の指先をちらとのぞいた。


「ん、よろしい。とくに悪いところはないね。選ぶ服も丈はいままで通りでよさそうだ」


「渡したお金で可能な限り、質の良いものを頼むよ。それと、丈はロングにしていただけるかい」


「ロングかい。それだと、あたしのお下がりになるかもだが」


「それは可能な限り質が良いもの、という前提に反するんじゃ」


「冗談だよ、気のつかない子だね。とりあえず奥の着替え室に行ってきな、置いてある服はどれを着ても構わないから」


「ああ、わかったよ」


 暖炉の脇にあった扉に手をかけると、片手をあげて井澄を見てから八千草は去っていった。残された井澄はあとをそおっと追いかけたいような衝動に駆られたが、こちらを睨んで逃さない大路の迫力に、固まってしまっていた。


「……して、私の服はどうなるのでしょうか」


「最近仕入れた中じゃ最も上等な三つ揃えと、シルクのシャツ、滅紫けしむらさきのネクタイ……ついでに白手套もくれてやろうかね。得物の仕込みには最大限配慮してあげるよ。ちいとこっち寄りな、人づての情報だけじゃなく、じかに確認したい」


 言われるがまま距離を詰めると、杖を置いた大路はぺたぺたと井澄の身体に触れた。ジャケツの袖口、ポケット、硬貨幣を仕込んでいる部分に触れると、念いりに調べた。そして袖のカフス釦に指が降りて来たのだが、さすがにこれには触れさせるわけにもいかず、井澄は腕を引いた。


「――こりゃ、黒糸矛爪ジグソウか」


 だがすでに看破していたのか、離れた指先をそのまま井澄に突きつけ、大路は言った。どきりとして、これを気取られたと表情から知った井澄は、仕方なく認めた。


 なにより、異刀鋸と呼ばずに黒糸矛爪と呼んでくれたことに、感謝を覚えた。


「ご存知で?」


「あいつがいつも身につけている手套があったろう。本土にいたころあれに頼まれて、あたしが作った品さ」


「あれを、ですか?」


 思い返す師の記憶の中には、たしかに手套をしていた姿がある。細かな装飾と丈夫さが目立つ黒い手套で、修行が終わったらこれもくれてやる、と言っていた。もっとも、修行が完了する前に彼女は死んでしまったのだが。


 大路はじっと井澄の手を見て、かつて糸の修行にて負った切り傷の痕などをしげしげと見つめると、深く息をついて手を組んだ。


「あれが弟子をとっていたとはね。なるほど、それを隠すための爪弾き。暗器によって暗器の存在を秘匿していたわけだ」


「あなた情報屋、と仰いましたね」


「ああ。……でもあたしは他人の思い出まで売るほど堕ちちゃいないよ。安心しな、その糸のことは黙っておいてあげるさ」


 殺されたくはないしね、と言って、にやりと口の端を歪めた。井澄はわずかながら抱いた敵意を察知されて、腕の動きが硬直する。


「やっぱり、あんただね。あの子を守ってくれているのは」


「守れてはいませんよ、私はあまり強くないので。庇うくらいはできていますが、もっと強ければと常に思っています。もっと強ければ、私自身の怪我も防いで、胸を張って守ると言えるのに」


「いんや、たしかにあんたは己を犠牲にしているから、そういう意味では守ってると言えないけど……あの子に、殺しをさせてないんだね?」


 言われて、口ごもる。責められるべき事由であるとの思いが、自分の中のどこかにあったためだろう。靖周の言う通り、八千草は果たすべきを果たせず、井澄は仕事と割り切れていないから。


「目と手と得物を見ればわかる。あの子はまだだれも手にかけてない。あんたが、代わりに引き受けてるね」


「……仕事ですから」


 うそぶいて、井澄は距離をとった。大路の横を抜けて、奥に続く扉に向かった。


「あの子のこと、憎からず想っているんだろう」


「どうでしょうね」


「あの子に、もう二度と大けが(、、、)させたくないんだろう」


 左手で、大路は己の頭を指差した。たじろぐ井澄がドアに向いても、続ける。


「おまけにわざわざ呉郡に弟子入りして、修行し直してからこの島に戻ってきた(、、、、、)んだ。なんの感情もないなんてのは、嘘だろうよ」


 だれにも話していない、湊波と己しか知らないはずの事実を言い当てられ、井澄は心臓に氷水が流れ込んだような心地がした。ドアノブに手をかけたまま振りかえると、老婆は椅子をこぎながら暖炉の火を杖先でいじくる。


「情報はいくらも流れてくるさ。仕立屋・湊波戸浪に無謀な戦いを挑み、半年後に二度目で認められるなんて噂は、特にね」


 ちちち、と妙に甲高い、舌打ちのような音がした。井澄が見やると、さっと大路の足下から、椅子を這い上る影が見えた。視線で追うと、影が大路の肩の輪郭に潜り込む。


「あの子を、守りに来たのかね」


「そんなんだったら、死地になるかもしれない戦の場へ、平気で出したりしていませんよ。本土へ連れ帰っています」


「連れていけない事情があるんだね」


「……それだけじゃ、ありませんよ」


 しつこい大路の態度に諦めて、井澄は正直に告白した。


 だがこれ以上は語らない。なぜなら、これだけ訊くということは、この八千草の師とやらは彼女のことを心配しているのであり。


 ……死地に向かう彼女を(、、、、、、、、、)止める気など毛頭ない(、、、、、、、、、、)井澄とは――、考え方が、まったく違うのだから。


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