28:金策という名の命綱。
金に困るとろくでもない。
朝起きて日付を確かめ、くず紙回収の日だと思い出した井澄は、部屋の隅に積んであった新聞紙の山に目をやり、ひとつ嘆息してから重い腰を上げた。
基本的に井澄の部屋にはあまり物が無い。情報料やなんやかやの経費を差し引くと薄給になるというのもあるが、欲しいものがないのである。もしもお金に余裕があるのなら、八千草に贈り物をする。……強いて言えば、それこそが彼の欲しいものである。
よって部屋は常にがらんとしている。クロウゼットとベッド、書き物用の机と、腰まである書棚――大量の手帖を収めている――しかない。だが整頓された空間を好む彼にとって、たとえ実際的に邪魔でなくとも新聞紙の山は目ざわりだった。
ごそごそと抱え込み、階下へ降りる。じりじりとなにか焼ける香ばしい香りがしていた。今日は八千草の朝食当番日である。
「おはよう」
「おはようございます」
階段を降りて右手にある台所で朝食を作っていた八千草は、素っ気ない挨拶をしながら手元で焼ける鮭の切り身をひっくり返していた。朝の暗がりに作業する八千草は、白い肌と全体に黒い服装が相まって、背景に浮かび上がるようでもあり溶け込むようでもある。
黄昏のように哀愁を帯びた瞳を、しとどに濡れる長いまつげが縁取る。そこから新雪を思わせる肌を下れば艶やかで瑞々しい唇にいきつき、小さくまとまったおとがいを行けば、手折ることかなわぬ百合のごとき細い喉。クラバトと呼ばれる短いスカアフが巻かれており、締まった襟元との間を隠している。
腰まで伸びる長いぬばたまの髪と、烏の羽根のごとく青を帯びた漆黒のドレスは色彩交えることなく調和を見せていた。そして常の通り、髪の一部だけは、緋色の髪留めで細く結われている。
ドレスは胸元にカメリアをあしらい、控えめな胸元から細くくびれた腰を抜けると、三段のティアードが膝までを覆う。スカート部はクリノリンかパニエで膨らましているのだろう、丸味を帯びて輪郭が転がり落ちる。すらりとした、鶴を思わせる脚には編み上げの長靴が似合っている。
だがしげしげと眺めその美しさに感じ入っているとき、八千草が鮭から目を離してこちらにじとっとした目を向けていることに気づいた。
「なにぼうっとしているんだい。早く新聞を置いてきなさい」
とっとと、と追い払うような仕草をして、また鮭に戻る。食事が冷めては面白くないと、井澄は足を見るためにずり落ちた眼鏡を戻し、店の外へ向かった。乾いた風が頬を撫で、井澄は外套を着てくればよかったか、と舌打ちしながら石畳の道を行く。
そのとき、一番上に置いていた新聞が目に入る。記者の踊場から購入させられた四つ葉新聞で、内容は『訃報 先代危神逝去 白昼堂々ノ惨劇』と見出しになっている。
もう一月半ほど経った、と指折り数え、火傷も爪もすっかり癒えたことに気づく。
時節は如月となり、冷たい風は変わらないが、確かに時間は過ぎていた。
「で、お金がないのだよ」
朝食後の一服を楽しもうかと敷嶋の紙巻煙草を取りだしたとき、八千草が目を三角にして言った。口にくわえかけた一本をゆるゆると離してテエブルに置き、井澄は対面に腰かける八千草を見る。
「……そんなにですか?」
「もうそんなにない。だいたい、先月の居留地での一件が原因であるよ。あれはライトからお金をもらうこともできず、むしろ下手人ではないかと疑われ、おまけに怪我したお前と山井さんがしばらく休養を余儀なくされた」
「火傷多かったですし、指の爪を使っちゃいましたからね……」
「なんでうれしそうなんだ。やはりお前、被虐快楽症なのかい」
げんなりした顔で八千草は言うが、あのあと頭痛などから復調した彼女に「手が痛い手が痛い」と主張することで、少しの間井澄は食事の世話をしてもらえたのだ。気恥ずかしそうにしている彼女に、調子づいて「背中ふいてくれませんか」などと言ったせいで一食抜かれたこともあったが、まあそれはそれとして。
「その節はご迷惑をおかけしました」
「まったくだよ。家事は一人で回すことになり、並行して仕事の依頼を承り。ひどく疲れる羽目になった。で、お金が底を尽きてきたというわけさ」
弱り顔でパイプを取り出し、煙草葉を詰めてじりじりと火を点ける。井澄もつられて煙草に手が伸びるが、きっと睨まれて「まだ話は終わってない」との威圧感を覚えた。手をひっこめた。
「でしたら、私の貯金をお使いください。お世話になったわけですし、あまり使うあてもありませんし」
「当座しのぎにはそれでもいいだろうけどね、お前そうやってのんべんだらりと暮らすうちに仕事が入らなくなったらどうするんだい。そこで、金策を講じようというのだよ」
「なにやるんです? ……まさかまた四区の賭場で麻雀というのではないでしょうね」
「たしかにあれは面白かったけれど」
以前〝賭場嵐〟と呼ばれた女(実は手の目という妖だった)を倒してくれという風変わりな依頼を受けた際に、千点二十銭で勝負したときのことである。
危険時の相手の鳴きおよびロンを殺言権によって無効化し、相手が牌を捨てる際に卓へ摩纏廊の摩擦低下を施すことで山を崩させチョンボに追いこみ、空傘を弱めに駆使して靖周が手牌を山と入れ替えるなど、各自が能力でイカサマを連発したのだった。
「賭場側についていたからなにも言われなかったけれど、お前の術を除いては手の内が多少は露見しているだろうし難しいよ」
「私の場合、術の正体に気づかれることはまずありませんから」
「暗器のほうが通り名になってしまっているものねぇ。あえて暗器を表に出すことで、うまい具合に秘された術というわけだ」
納得してうなずく八千草を見てから、ちらりと袖のカフス釦に目を落とす。
井澄の戦闘術は不意打ちを常道とし、硬貨幣、鋼糸、殺言権の順に秘されている。暗器の特質上、硬貨幣による指弾と羅漢銭はそれ自体が奥の手のように思わせやすい。これによって近接は不得手と見て間合いを詰めた者を斬り捨てるのが鋼糸。距離をとられたり、詠唱をされたりした場合に撹乱するのが殺言権。うまい戦闘術に組み立ててくれたものだと、井澄は素直に感心する。
とくに鋼糸と殺言権は師、呉郡黒羽によって「切り札として隠しておきなさい」と命じられたので、現在も井澄はその言葉を守っている。状況によってはこの能力も「知られていることで効果を発揮する」部分もあるのだろうが、現状は隠すほうが都合良い。
舌の刺飾金を口腔に転がし、井澄は話を戻した。
「して、麻雀というわけではないなら、なんです」
「うん、巡回であるよ」
「巡回? どこかまわるんですか」
「アンテイクの昔の仕事のやり方だそうだ。湊波さんは四権候でありまちがいなくこの四つ葉で五指に入る実力者だけれど、いかんせん店を不在にしていることが多かったのでね。当然、依頼に訪ねてくる人間が少なかったので、こういうとき靖周と小雪路はそのへんをぶらぶらして回ったらしい」
「なるほど、仕事探しですか」
「そ。なにか問題が起きていないか、事件がないか、足で探して回ったそうだよ。そこで少しずつ、仕立屋抜きでもアンテイクは役に立つと噂が広がっていったのだとか」
「あいつらもいろいろやってたんですね」
「だてにこの島でずっと暮らしていないということさ。なにしろここがまだ四つ葉でなく、笹島と呼ばれていた時代から住んでいるのであるからね」
そこで、ちりんとドアにつけた鈴の鳴る音がして、店に入ってくる者の気配を示した。応接室から首だけ出した井澄はやってきたのが三船兄妹であると気づき、噂をすれば、とささやいた。
「おーす。今日は仕事あるのか?」
「ちょうどその話をしていたところですよ。なんでも仕事がないとのことで、八千草が巡回をしようと言ってます」
「へえ巡回? 懐かしいことしようとしとるんね」
兄よりいくらか高い背を屈めてストオブにあたる小雪路は、シヤンタンのキヤミソウル・ドレスに緋色の着物を羽織り、この上からウエストコウトをまとうという、いつも通り奇妙奇抜な格好であった。ステッチの複雑な模様に縁取られるドレスは襟元が深くのぞくもので、鎖骨と胸の谷間を強調するようにしている。
すらりと長い脚は太腿まで隠す黒の長足袋を穿いて、紅の鼻緒が目立つ、漆塗りの下駄がからりと鳴った。
靖周も群青の作務衣に極彩色の継ぎ接ぎをあてた羽織を着るいつもの服装で、垂れたまなじりで壁にかかる蹄鉄を見やるとふむとうなずく。色の薄い髪は二人とも後ろでひとつに結ばれており、長さの違いこそ目立つが、面差しはやはりよく似たものだった。
「しっかしこの四つ葉の街で事件ってのは、放っておいてもそこかしこで起こりやがるもんだからな。来るの待つより自分から出向いたほうがいいってのには同感だぜ」
「ここんとこ暇しとったもんね」
「お前はいよいよ正式に危神を襲名したことになるんですよ。なのに暇だったんですか」
「みんな逃げてばっか。戦いに来るのも退屈な相手ばっかりだったのん」
ストオブから顔を上げた小雪路は、八重歯をのぞかせてにこっと笑った。どこにも怪我はないのだが、表情に垣間見える昂りから、襲撃のにおいを感じとった。いや実際になにかにおいがしている。よくよく見ると、顔の端に返り血と見受けられる赤の斑点があった。
「ここ来るまでにもう襲われてるんですか……」
「多少はな。名と実情が知れ渡るまでは、そんなもんだろ。俺らの家は五層六区、ここより遥かに危ない場所だぜ? 命知らずが名をあげようと狙ってきてんだよ。逆に言やぁここ乗り越えりゃあとは平和なもんさ。半端モンは襲ってこなくなる」
「実際、前の危神さんも恐れられとったせいであんま戦わんくなったのか、なまってたもんね。うちが勝てたのはそこもあると思うんよ。まだ四つ葉が混乱と動乱のころだったら、もっと反応とか技のキレとか凄かったはずなのん」
「抜刀の一振りで、遠間の相手も数人まとめて斬り伏せるような奴であったそうだからね」
「そっそ。あーあ、でもそんなに強いんだったら……死ぬ前に、もっかい勝負したかったん」
「向こうはごめんだと思いますよ」
アンテイクの面子を見ただけでも恐怖で動けなくなるのだ、当人と遭ったらそれこそ失神するか、下手すれば刺激が強すぎて死んでしまうのではないだろうか。口をとがらせて不服そうな小雪路はえー、とぼやくが、過ぎたことはもう考えないのか、ころり表情を変えて八千草に迫る。
「そんで八千草ん、どうするん? 巡回するなら前にうちらが使っとった道教えるけど」
「荒事が多い道というわけかい」
「そういうこと。どっちかに加勢するか、近所の人に『静かにさせましょうか』って言ってお金もらうんよ」
「それ、暴れる役と組んで八百長やったら結構儲かりそうですね」
「我が妹がそんな細っけぇこと考えられるわけねーだろ?」
「そうですよね、阿呆ですもんね基本的に」
「ぬけてて可愛いとこあるとか愛嬌あるとか、言い方ってもんがあるだろ……」
その言い方もどうなのだ、と渋面をつくっていじける靖周を見ながら井澄は乾いた笑いをあげた。ひとまず出かけることは確定したので、上着掛けから外套をとって井澄は羽織る。テエブルに置いていた煙草をくわえ、屈みこむとストオブの火を少し弱めた。火の照り返しで、狭い店内に影が揺れる。
「店番はだれが残ります?」
「今日は山井さんが来るそうだよ。二区から三区、四区の料金滞納者をしばくついでだとかなんとか」
「おっかねぇなあ」
「靖周も早いとこ支払わないとあの杖でつっつかれますよ。鳩尾とか喉笛とか」
「医者のやることじゃねえよ」
「金か力が無いとこの島で権利なんて保障されませんて。それはさておき私もあなたに五円ほど貸しているんですがそろそろ返してもらえませんかね、お聞きの通り仕事がなくて巡回にまで出なくてはならない現状なので」
「お前ら仕事ないは俺も仕事ない同じ。お金ない俺お前に払えない」
「どこの密航者ですかあんた」
冷たい眼で見上げると、もろ手を合わせて深々と平伏した靖周は井澄に祈りを捧げた。井澄にとっての弁天ならすぐ後ろにいるのだが、自身が神仏になった覚えは彼には無い。払いのけるように手を蹴り飛ばすと、にかりと笑って後ろへ這いずった。卑屈な笑みである。
「わりーな、また今度! ちゃんと今度返すからよ。それにほら、小雪路が危神になったってことは、これを理由にこいつだけ雇う時の金額釣り上げても文句は言われないんじゃねぇか? そいつを元手にだな、」「妹頼りで恥ずかしくないんですか兄として」「……正直、辛い」
落ち込んだ顔であさっての方を向き、前髪を払ってから「お前もこんなに強くなっちまって」と小雪路の頭に手を伸ばし、くしゃくしゃと撫でまわした。なんなのーん、と頭を揺らされた彼女がうめく。
ぱぱん、と手を打ち鳴らして、くわえていたパイプを手に取った八千草が呼びかける。
「さあさあ。なにはともあれこの場の四人は、だれもがお金を必要としているわけであるよ。元気に働きに出ようじゃないか」
「はーい」
元気に返事したのは小雪路だけで、靖周と井澄はそれぞれ、どこともない方向を見ていた。それから諦めたように顔を見合わせ、互いに少々しかめ面してから、八千草の指示に従った。
結論からいうと、巡回は失敗であった。
五層四区からぐるりと周り、六区まで辿りついて二つほど争いに遭遇はした、のだが――いまや人気もなく、寒々しい空気の中に井澄の喫む紫煙が混ぜ込まれた。
舗装もなく土埃の舞う狭い道の上、四人はなにするでもなく、かしいだ家々が並ぶ通りを見ていた。全体的に赤茶けた色合いの街並みは、木造の建築と崩壊しかけた土壁で構成されている。生き物の気配は息を殺しているかのように虚ろで、頭上には洗濯物だったと思しきぼろ布が寂しげにはためく。
「……八千草ぁー、まただぞ。追いかけなくていいのかー」
先ほど遭遇し、去っていった人影を見送る八千草に、気のない感じで靖周が言う。
「八千草ぁー、金が逃げるぞー」
続けられた言葉を聞くと、はっと我に返ったかのように八千草は口をあけて、今度は歯ぎしりせんばかりに噛みしめ、アンブレイラで靖周の向こうずねをひっぱたいた。
「いってぇ」
「巡回してだれかに加勢してお金をもらう、と言うから悪くない案だと思ったのに。お前これっ」
「ほとんど悪質な事後承諾ですもんね。そりゃ逃げますよ誰だって」
「だから逃げる相手から取り立てようと、うちが追っかけてたんよ?」
「……追いはぎじゃないか……」
ふしゅるる、と力の抜けた八千草が頭を抱え、パイプの吸い口をがりがりと歯で擦った。
靖周と小雪路が行っていた「巡回」とは、遭遇したいさかいの中に強制介入して邪魔な人間を打ち倒し、そのあとで無理やりにたかるものだったのだ。ぼっこぼこに打ちのめした連中を足下に、小雪路は物足りない顔で虚空に拳を突き出していた。
「おいおい、俺はちゃんと『お気持ちだけで結構です』って付け加えてんだろ」
「小雪路の暴れようを見せつけられたあとでその科白、含みがあるとしか思えませんよ」
「お気持ちが足りないとか言いそうなのだよ」
「言わんよそんなことー。ああでも動いたら、おなかすいてきちゃったん」
ちらりと小雪路が目をやると、近くの民家からそおーっとこちらをうかがっていた人々が、慌てて姿を隠した。とって食われるとでも思ったのだろうか。
「……そもそもしょせん五層の住人ですし。お金があるわけないんですよ」
「たまに依頼してきても、口約束だとああやって反故にして逃げる奴多いしな。失う立場の無い奴がある意味強いってのは、どこも同じか」
「もしかしてこのたかりの被害が嫌で、真っ当にアンテイクに依頼が持ち込まれるようになったんじゃないだろうね」
「一理ありそうですね」
請求が前か後かというだけで、ほとんど青水のショバ代に近い。なんだか疲れてしまったのか、八千草はきびすを返すと、六区から抜け出る道を選んで進み始めた。
「なんだ八千草、もう帰るのか。四層とかにはいかねぇのか?」
「たしかに四層より上なら、人々ももう少しお金があるから仕事になるかもしれないけれど。四層は青水の土地が多いし、それ以外でもよく知らない土地へ踏み込むのはごめんだよ」
客商売である黄土や赤火はそれほど気にしていないが、青水は縄張り意識が強い。緑風の、しかもアンテイク所属ということで多少は立場のある八千草たちが踏み込めば、彼らの導火線に火を点けることになりかねないのだ。
「葉閥間にむだな緊張を与えたくはない。ただでさえ危神の交代で緑風は荒れているのだからね」
「ふん。まあそうだわな」
頭の後ろで手を組み、口に伊達煙管をくわえながら靖周は言う。歩いてゆく代理店主につき従い、井澄の斜め後ろからなおも言葉を続けた。
「だが緑風のことを考えるなら、恐れられるのも大事なんだぜ。特にいまは仕立屋が姿を現さなくなって久しい。妹が危神の座についたこともあるしな、これを利用して少しばかり偉ぶるのも必要じゃねぇかな」
「偉ぶって、先刻のような理不尽な接収を続けろと?」
「理不尽じゃねぇさ。違反への罰則、だろ」
努めて冷静に靖周は言った。足を止めた八千草はなんとも言えない顔をした。靖周は続けた。
「危神打倒の依頼が入ったことも、俺としては緑風の危機だと思ってたんだぜ」
「……どういう意味だい」
「これまで奴は干支ひとまわりする間、たまに仕立屋がいさめる形はあったが、基本的に傍若無人に振る舞ってた。それが通常だと思いこまされた周囲の人間も、役割に則るように奴の存在を受容した。奴の君臨は、陰口はどうだったにせよ、周囲に望まれたものだった」
「虐げられているのに?」
「あいつもあいつで、無闇に殺したりする奴じゃなかったからな。暴れるし厄介者ではあるが、我慢はできる。いざってときの頼みの綱だと思ってみんな我慢してたんだよ。じゃあ我慢できなくなってやったのか、ってぇとそれはまたちがう。一因ではあるだろうが、全体には遠い」
なめられたんだよ、と靖周はつぶやいた。小雪路に目を向けて、視線に気づいた彼女は顔をあげた。
「小雪路の言った通り、しばらく奴は戦ってなくて腕がなまってた。実際に奴の鬼神のごとき強さを目にした連中も、記憶が薄れてきたのさ」
「そんなに強くないかもしれない、と疑われたのかい」
「そこまで直接的かはしらん。だが人間なんて忘れっぽいもんだ、威厳ってのは、示し続けないと薄れ消える」
気をつけて考えろや、と言い残して、靖周は八千草の肩を叩くと、前に進み出て歩いていった。おずおずとこれに続いて小雪路が歩きだし、その背を見ながら爪先をにじり寄るように動かす八千草の後ろに、井澄は己の居場所を取る。
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昼過ぎ、パイプをふかす八千草はいつものように応接室のソファに腰掛け、浮雲などという題名の小説を読んでいた。靖周と小雪路は先日の南京蕎麦の屋台を見つけてとんでいってしまい、残るのは二人だけである。ポットから淹れた紅茶を運ぶと、八千草はありがとうとつぶやき、パイプ置きに己の愛用品をたてかけた。
向かい合い、静かに紅茶をすする。端正な面立ちは憂いを帯びると余計に艶やかさを増すのだが、なんとなく心苦しくなるのであった。
「……やはり」
ぽつりと一言もらし、八千草はカップをソーサーに置いた。井澄は何事だろうと目を向け、どことなく暗い彼女の声音の続きを求めた。
「ぼくは外の人間だから、なのかなぁ」
背をもたれさせ、天井から下がる椿の花型をした洋燈に目をやる。ゆらゆらと暖かな光を落とすそこから目を戻すと、八千草は井澄を見つめ頬杖ついた。肖像画を撮る寸前のように、姿勢を固めて、目に熱がこもっている。
「感覚のちがいは、仕方のないことでしょう。八千草は特に」
「うん……ううん。わかってはいるのだけれどね。どうしても、自分が半端に思えてしまうよ」
「私など、八千草よりさらにここでの暮らしは短いんですよ。半端も半端」
「でもぼくよりよほど順応して暮らしていると見えるよ。半端でもない。仕事だって」
「殺せるからですか」
考えているであろうことをずばり、突きつけるように言う。少しだけ目を見開いた八千草だが、すぐに伏し目がちになってうつむいた。
「でも嘉田屋のときに私も靖周に言われましたよ。仕事らしくないと。そして当たっていると思いました、実に的を射た発言です」
「ぼくは、殺せないから。果たすべきを果たしていないからわかるけれど……お前はできているのに」
「ええ。できているからこそ、でしょうね。私の場合、復讐に近いですから」
もしくは八つ当たりというべきか。
中でも靖周と共闘した、西洋剣士たちとの一戦はひどかった。
「私情で戦うな、ということでしょう」
卑しく、なによりも忌避されるべき、呪われるべき職であるから。それこそ先月の式守の言ではないが、奴が法執行の引き金を自称するように。機構として存在するのみであれ、と靖周は言うのだ。
師も常々口にしていた。「暗殺を依頼する人間は、自分が殺したいと思っているの」と。
だから己の殺意を混ぜてはならないのだ。依頼者の思いを刃に載せ相手に届ける、それだけの役割なのだ。
だがこれは「だから悪くない」という自己正当化のための文言ではない。
人を本気で殺そうとする思いから、自己を守るための言葉だ。――殺意は、個人の精神など容易く崩壊させるに足る、強いものなのだ。復讐心は簡単に人を狂わせる。だからそれを直接に感じとるな、己で持つな、ということだ。
『暗殺稼業や復讐やってる時点で、他にやれることなんてないんだから』。心を砕いてやる必要なんてない、と。
「考え方は人それぞれでしょうけれど。小雪路みたいになりたいと思う時もありますよ」
「……そうか」
「たまに考え込むくらいでいいんじゃないですか。いざ立ち合いの場になったとき考え出さない程度に、瓦斯抜きをしておけばいいんですよ。そして緑風の今後についても、考え方は人それぞれです」
ゆっくりやりましょう、と井澄は言った。八千草は少しずつ、頬の肉から強張りがとれて、静かな微笑みを宿した。笑い返そうとして、井澄の口の中で刺飾金がひっかかる。
うまく笑えないまま、テイカップを口に運んで彼は表情をごまかした。熱い紅茶は金属にしみて、じりじりと舌の中央に熱を穿つ。
……復讐を片時も忘れさせてくれない彼の過去の証は、やがて熱を失って冷たさを取り戻していった。