26:最厄という名の災厄。
目を覚ました八千草に、御目覚めですねと井澄は声をかけた。はっとして、次いで頭痛にさいなまれたのか、八千草はゆるゆると動きを縮こまらせた。
「あまり無理しないでください、一日寝ていたんですから」
井澄が小鍋を携え、近づく。するとここはどこだろうと八千草は周りを見回していて、数秒経って自室だと気がつくと、ああ、と力が抜けたようにうつむいた。ベッドの脇にある膝の高さのロウテエブルに、井澄はソーサとカップを置いた。
「ライト商会で、ぼくが倒れて」
「あれからちょうど一日といったところです。いま夜の六時ですよ」
ロウテエブルの置時計に目をやって、八千草は井澄の言葉に納得した様子だった。それから井澄を見上げて、なんだかしょげたような顔をした。仕事の終わりに、たまに見る顔だ。
「肝心なときに、迷惑をかけてしまった」
「仕方がないですよ。あのときはその……たぶん、部屋が燃えた拍子に阿片を吸いこんでしまったんでしょう。私は阿片窟に入れられたことがあったので若干慣れてましたが、初めての人には辛い」
「部屋が燃えた? ライト商会が、かい?」
「……八千草、どこまで覚えていてどこから覚えてないんですか?」
鍋からカップへスープを注ぐ手を止めて、井澄が問う。しどろもどろになりながら自分の身体を見て、着ているのが夜着のネグリジエであることに気づいて赤面して、また顔をあげると井澄の状態に気づき、今度は申し訳なさそうな顔をした。
「着替えは診察を兼ねて山井がさせてました。医者のときは手出ししないのが信条だそうですからご安心を。私の怪我も大したことありません、お気になさらず。少しばかり火傷しましたがね」
首筋と両手の包帯を見て変わった反応に、補足説明を付け加える。瓶の爆発では破片による怪我こそしなかったが、やはり高熱によって部分部分に火傷は免れなかったのだ。……とくに右親指は爪が剥がれているのに指弾に用いた上、火傷まで負ったので少々痛みは大きかったが、話すまでもないと井澄は判じた。
弱り顔の八千草はこれを聞いてもまだなんとも言えない様子だったので、井澄はもう一度説明をうながした。まずは状況整理が必要だろうと思ったのだ。
「して、どこから覚えていないのでしょう」
「ああ……うん。ぼくが覚えているのは、ライト商会で警官と立ち合って、ライト氏が人質にとられていて、警官が電信を見て……そのあたりなのだよ」
「意識を失う前後の記憶が少々、とんでいるのかもしれませんね。火が放たれたことは、気づいてなかったと」
「まったく覚えていないよ。あのあと、一体なにが起きたのかな」
「それはともかく、食事を召し上がってはどうでしょう」
さらりと流して、カップを差し出した。丸一日なにも食べていなかったためだろう、八千草がお腹をさすっていたからだ。ああうん、としまりの無い顔でカップを手に取ると、彼女は息を吹いて冷ましてから銀の匙で中身をすくう。底が見える程度に薄い琥珀色の液体に、飴色の玉ねぎが浮かんだ。鼻を通るだけで胃があたたまる匂いがしていた。
「……ふむ。生き返るよ」
「ありがとうございます」
笑ってみせて、キヤビネットに載せていた盆から丸いパンの皿もとってくる。八千草は気が利くね、と笑い返して、ひとつを手に取った。まだ疲れがとれていないためか陰があるものの、井澄にとってはなによりうれしい笑顔だ。
「ありがとう、井澄」
「いえ、買ってきたものですし」
「スープはちがうだろう」
「……まあ、さほどの腕はありませんので、お恥ずかしいかぎりですが」
「謙遜せずともよいのに」
丁寧にパンをちぎって、三分の一だけスープへひたすと、八千草はもくもくと口に運んで表情をほころばせた。井澄も知らず表情が緩む。だが、気も緩んでしまったのか、腹の音がぐうと響いた。
とたんに八千草は顔色を変えて、自分の影に置くようにパンの皿を少し移動させた。あんなに穏やかな弧を描いていた眉根が、天険極めし急斜面、と言わんばかりにぎゅぎゅっと端を跳ね上げた。
「……一度くれたものだからね、あげないよ」
「……はい。でも、弁明だけさせてください、昨日から私なにも食べてませんで」
「? なぜだい」
眉根の斜面が片方だけになる。
「それは、食事が喉を通りませんでしたので。……あまりにも、心配で」
言うと、斜面が消えて平坦になる。
ちょっと、間を置いてから、八千草はくすりと鼻先で笑った。井澄は素に戻ってから、自分が口にした言葉が、またも思いを伝えかねない言であったことに気づいて、かあっと首筋を血がのぼるのを感じた。
どぎまぎしていると八千草はまたスープに口をつけ、味わいを噛みしめて飲んでから、パンをちぎりつつ井澄に答えた。
「お金の心配かい」
あれ、と肩すかしをくらった気がして、井澄の血は下りに入った。
「そういえば山井さんに治療費を請求されて青ざめていたっけね。でも、だからといって食事を減らすのは感心しないよ。あらゆる意味で食事は大事であるからね」
「いえ、その、私べつに生活のことを心配したわけでは、」
「ほら」
「むぐ」
ちぎりひたしたパンのかけらを、指で弾いて井澄の口に放りこんできたのだった。さすがに吐き出すわけにもいかないので、井澄はもぐもぐとよく噛んで飲みこむ。そして続きを話そうと思い口を開くと、またパンが飛び込んできたので文字通り閉口した。八千草は、ちょっと愉しそうにしながら、餌付けでもするように井澄にパンを手渡した。
「やっぱりお前も食べるといいよ。一人で食事するのも、難がある」
ついと静かにそっぽを向いて、彼女はしばらくスープとパンを交互に食べることへ意識を集中させた。井澄はぽかんとしていたが、やがて我に返ったのか、手渡されたパンを少しずつちぎって口にした。八千草が触れたものかあ、などと思うとまた手が止まり、持って帰ろうかなどと考えたが、不審に思われたらいやなのでもくもくと食べ進めた。
しばらくして食べ終わり、食後の紅茶を淹れて井澄は部屋に戻った。八千草はカップを右手に載せたまま、ぐりぐりと左手で頭を撫でている。
「まだ痛みますか」
「だいぶひいてきたよ。外は、もう雨ではないのかな」
「今日はよく晴れているようですよ。寒くはありますが。おかげで野辺送りも……」
「野辺送り? だれか、死んだのかい?」
問いかけに、答えに窮した井澄は口ごもる。さてどこから説明しようかと迷った末に、結論からいこうと決めた。紅茶のテイカップとスープのカップを取り替えて、窓辺に腰かけて井澄は説明をはじめた。
「死んだのは、先代危神。桧原真備です。……もしかすると狙われているのは、緑風全体なのかもしれません」
死者の名を聞いて、八千草は目を見開いた。当然の反応だろう。そう簡単に、あの男が死ぬわけはないとだれもが思っていた。
だからこそ、その油断を突かれたのかもしれない。
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八千草を山井に任せて、井澄は靖周と待ち合わせた店を目指した。本音を言うならば今の八千草が心配ですぐ駆けつけたかったのだが、できることはないと押し切られてしまっては気まずくて戻るわけにもいかない。
警察による事情聴取から解放された夜半過ぎ、居留地の端にあるうどん屋〝しすせそ〟へ向かった。のれんの代わりにかかる簾をめくって店内に入ると、出汁の香りの湯気に包まれ、温かな空気に身体をゆだねた。
隅の一角に腰かけていた靖周は片手をあげて井澄を呼び、お茶をすすりながら月見でいいかと尋ねてきた。うなずくと、店の奥へ注文を飛ばす。
「……して、靖周。現状はどうなっているんですか」
「どうもこうもねーよ。あの危神が殺されたってんで、どこもかしこもおおわらわだ。俺らが止めを刺した、って意見が大勢かもしれねぇがな」
「しかしいくら怪我が治ったばかりだといっても、奴が死ぬなど到底信じられません。今日私たちも会いましたが、相変わらずの剣筋でしたよ」
「だが完治はしてなかった。顔見たろ? 皮ぁ削ぎ飛ばされたせいでなまなましく傷跡残ってやがった。動きに粗が残ってた。だから俺が、護衛していたんだ」
「そうですね」
ここで言葉を切り、靖周は茶をすすりつつ睨みあげるように井澄を観察した。なぜこんな目を向けられるのかわからなくて、井澄が返答に困っていると、彼は湯のみを机に置いてまずいことになったと告げる。
「まだわからねぇのか」
「なにがです」
「思い出してみろ、ここ最近のことを。俺らに課せられた仕事のことを」
うながされて、井澄は懐から手帖を出す。ぱらぱらとめくり、最近の日付が書かれたところを読み込んでいく。仕事についてのところを読むと、今日は小雪路が三層四区へ派遣されており、靖周が店番との旨、あとは自分たち三人の今日の日程が記されていた。しかしこれだけ見てもなにもわからず、井澄は考え込みながら眼鏡のずれを正す。
しびれを切らしたように、靖周が手帖をひったくる。
「少し前の部分も見ろよ」
「ちょっと、勝手に見ないで下さいよ」
「見られて困るもんでもあるのか?」
「日記も兼ねてるんで秘密がいっぱいなんですよ」
手をはたいて取り戻し、ひとつ息を吸ってから、前の記述に頁を戻した。年末のことや、嘉田屋での給金受け取りのことを書かれた頁にさしかかると、靖周が言う。
「そこだ」
「え」
「相手方の仕込みは、そのへんからもう始まってるのかもしれねぇ」
「嘉田屋が、なにかしているというんですか」
「奴らかは知らん。でもよく考えろ。危神はあんな性格でも、いちおうは緑風の一大戦力だったんだぜ」
言外にこめられた意味を探り当てようと、井澄は頭を働かせる。危神が、殺された。その事実に際して、靖周はここ最近の自分たちの周りについて考えろと言っているのだ。
危神の死。自分たち、アンテイクへ起こったこと。これらは繋がるような気がしなかったのだが、共通項を当てはめて考えてみる。
すぐに行き着くところがあり、井澄はあ、と声を漏らした。
「やっと、わかったか。こいつは――緑風の力を削ぎ、潰すための動きってことだよ」
断言し、靖周は机に頬杖ついて井澄に迫った。垂れたまなじりへ伏し目がちにしながら、靖周は嘆息する。自分の推測と靖周の思考が合致していたことを知り、さらに井澄は思考を巡らす。
「今日起きたことが……ひいては今日のために行われてきた動きすべてが」
「おそらくは緑風への、攻撃だったんだ」
やっと得心いった井澄の額へ指をつきつけ、苦い顔で靖周は固まった。
すべてが。この数日起こったすべてが、そうだったのだ。
アンテイクへの依頼。薬品の流通停止。商人たちの殺害事件。すべてが、繋がりをもって存在している。
順を追って考える。嘉田屋の給金受け取り、の帰り路。井澄たちが寄った三層三区の店で、主人をつとめていた長樂は言った。「ここ最近、この付近で斬殺などが目立っている」と。そして今日実際に、小雪路は三層四区でのいざこざを収めに出向いている。
長樂の店を去ったあと、六層で出逢った山井は「薬品が到着していない。けれど六層で盗まれた形跡もない」とつぶやいた。そして先ほど争った警官の言により、流通停止は彼らの仕業であることがわかった。
また流通が停止したことで、薬品を欲する楠師処の先代危神たちもライト商会を訪れた。彼らはこの流通停止について調べるために、先月は靖周への護衛任務を中途解除したとのことだった。そしてアンテイクは依頼で人が少なくなっても、一人は店番を残すことが常となっている。
――分散させられたのだ。緑風の中で大きな戦力であるアンテイクの面々、そして危神たち楠師処が。まるで、各個撃破しやすくするかのように。
「たられば言うみたいで癪だが、俺はこれでも腕が立つほうだ。直接的に殺すことや追撃は苦手でも、防衛戦ならかなり粘れる。勝利条件が依頼主を生かして逃がすだけなら、八割方は俺の勝ちに持ちこめる。……その俺が離れたから、桧原真備は死んだ。そしてアンテイクも危機に晒された」
依頼の外のこととはいえ、状況を看破できなかったことをこそ、靖周は悔やんでいる様子だった。己の過失で、緑風を四つ葉の均衡の中から外してしまったと思っているのだろう。
「おそらくは、まだはじまったばかりだ。なぜここで、だれが動いたのかもわからねぇが……荒れるかもしれんぜ、この先」
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「以上が、私と靖周の話し合いでの推測です」
「……そんなことが」
冷めた紅茶を手にしながら、井澄は言葉を結んだ。八千草はパイプから煙をあげつつ話に耳を澄ましており、状況が変わりつつあることに驚いているのか肩を震わしていた。
「警官の背後はわからないのかい」
「ライト商会から逃げた奴は目下捜索中、生きていた警官と、山井が戦闘不能に追い込んだ銃士の二人組は監獄に入れられましたが……どちらも語る様子はありませんね。〝白状物〟が身体に訊いたそうですが、これから数日で吐くかどうか。わかっているのは彼らが四つ葉の人間ではなく、外部の者だということだけです」
警察機構に照らし合わせても警官――式守一総と名乗ったそうだが、彼の存在は見当たらなかった。そこで本土の人間と連絡をとったところ、二年ほど前に警察を辞めさせられた男の名に行き着いたらしい。その後の消息は日本国術法統合協会という機関によって追跡されていたそうだが、よもや四つ葉に来ているなどとは思いもよらなかっただろう。
銃士の二人についても同じく、四つ葉での経歴は存在しない。ただ彼女らは本土での経歴も見つからず、捨て子かなにかだと判じられているようだった。
「では、この先は正体もわからない相手とやりあわなくてはならないと……ややこしい」
「手掛かりがまったくの皆無というわけではありませんがね」
「へ? でもお前、身体に訊いても答えなかったと」
「ライト商会で電信が来たんです。それを見た途端に警官が商会所を飛び出していきました。目くらましと時間稼ぎのために、そこらじゅうに火を放って。でも燃え尽きる寸前に、なんとか電信の切れはしを捕まえました」
一部は黒く崩れてしまっていたが、井澄が取り出した紙片には『至急帰還セヨ O』と読める。四つ葉の電信は、もちろん四つ葉の中でしか使えない。つまり共犯者、あるいは式守に指示を出していた者は、少なくともあのときは四つ葉の中に居たのだ。
「この末尾のOという字の意味はわかりませんが。外部の人間である彼らを招き入れ、我々緑風に攻め入ろうとしている者がいます」
赤火、青水、黄土、他の葉閥のどれかによるもので、外部者を用いたのは捕えられた際に足がつかないようにするためだろうか。策略がどこまで進行しているのかはわからないが、数年の安定期を経て四つ葉はいままたかつてのように、悪逆と非道を生業とする者が跳梁跋扈する魔窟へ戻ろうとしているのかもしれない。
いずれにせよこれから忙しくなりそうだ。悩みにうめいているのか頭を撫でる八千草を横目で見ながら、井澄は紙巻煙草に火を点けた。
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赤火の本拠地、白商会の本拠地がある一層二区。四つ葉の中では居留地と並びただ二つだけの、天蓋なき土地。陽光に照らされる道は昨夜までの雨を乾かし、澄んだ冷たい風に湿気を孕ませる。
この地の駅である星陸ステイションに降り立った彼女は、護衛の者三名を伴ってからりと下駄を鳴らした。目ざとくこれを見つけた御者が馬を走らせ、彼女の眼前に止まる。
「どちらまで」
「白商会までお願いいたします」
楚々とした、短くもきれのある所作で馬車に乗り込んだ女性は告げる。しかし彼女の身なりはあまりにも商人のそれとは異なっていて、なんの用事があるのかと御者は首をかしげた。五つ紋の黒留袖に白髪交じりの束髪、切れ長のまなこがじいと道の先を睨んでいる。
どこかで見たような、とまた首が傾きそうになるが、彼の思考が彼女の正体に思い至る前に、その眼光が有無を言わせぬ圧力を放つ。
瞬時に彼は理解した。恐怖から彼女を知った。目的などわからない、が、なにはともあれ従わねば己の命が危ういと。短い紆余にこれだけの物事を考え、御者は指が白くなるほど手綱を握り締めた。
「お行きなさい」
……黄土の主、月見里。
何者かを斬り捨てんとするかのような重い気配を漂わせ、馬車を白商会へ向かわせた。
四つ葉全土を巻き込み、物語が動き出す。