25:殺害という名の忌み事。
傷の治療が終わり、痛む両腕を井澄は見やる。縫合の縫い痕がなまなましく残る腕は、少なくとも血は止まっている。耳の中もまだ痛みはあるが鼓膜は修復された。
厄を取り除くという山井の能力はこれ以上の傷の悪化を防ぎ、また破傷風などの感染症を予防してくれる極めて優れた術ではあるのだが、傷自体を完治させるわけではない。そこからの治療は彼女の腕によるものとなる。特殊な繊維の糸と細い鉤針を用いて縫い合わせる技は、まさに術と呼んでしかるべき速度で井澄の傷を縫い合わせた。
硬貨幣を親指で弾き、上空にあるうちにまた弾く。木箱に突き刺さった硬貨幣は、井澄の腕が戦闘に耐えうる段階まで回復したことを示していた。
「さすがですね。あの短時間でここまで動けるように仕上げるとは」
「っていうけど、羅漢銭と糸は使わないほうがいいわよ。腕をぶん回すようなことすると、また傷が裂けるからね。で、治療代なんだけど」
「いまはそんなことを話している場合ではないでしょう」
半分は真面目に、もう半分はお金が惜しいと思う気持ちで口にすると、山井はしぶしぶながらも賛同の意を表してくれた。彼女は足下に転がっていた警官――八千草と対峙した彼であり、息があったので山井が治療を為した――を見ると、彼の脇腹を下駄の爪先でつついた。八千草が少し、びくつく。
「まあそうねぇ。この警官も、生きてるしね」
けれど山井から放たれた言葉が、止めを刺していなかったことへの批判でなかったので、ほっとした様子であった。井澄に見咎められているように感じたのか、彼女は慌てて顔をしゃきりとさせたが、もう遅い。見なかったことにして、井澄は警官の息を確かめた。
「こいつらの後ろにだれがいるのかで、アタシらの対応も変わるわ」
「そもそも背後にだれかいるのか……そうでないのか」
つぶやいている八千草の横で、井澄はまだ動かしにくい左手で、ジャケツの胸元を探った。取り出された黒革の手帖をぱらぱらとめくると、量は少ないが居留地についての情報も記載されている。静かになった二人へ向けて、咳払いひとつすると井澄は語った。
「一応ここも貿易を生業とする以上、赤火に属してはいるようですね。ただ輸出品目には緑風の工芸品も含まれますし、労働者にも他の葉と関わり深い者が多くいます。完全に赤火の配下というわけではなく、多方面から人材が集まっている形でしょうか」
「だが仮に赤火の一枚岩だったとしても、急にぼくらを襲うなど考えられないよ。こういう言い方は虎の威を借るようで好まないが、アンテイクは緑風の主たる仕立屋・湊波さんの店だ。葉閥同士の抗争原因になりかねないような行動を、簡単に起こすわけはない。べつだんぼくらは赤火に危害を加えてはいないのだし」
八千草の推測に井澄もうなずく。
もっとも二九九亭の一件では赤火の長樂と剣客を撃退してはいるのだが、こうした業務上でのぶつかり合いは仕方のないものとして黙認されている。
だが今回は、仕事という嘘の名目で呼び出した上での奇襲だった。明らかに、狙われているのだ。
「でもそれ言うなら、赤火に所縁ある商人が立て続けに殺されてるのも不審な点よね」
「青水や黄土による緑風赤火両方への攻撃か、はたまた……なんにせよこの警官と狙撃手がどこに属しているかで、わかるのだろうさ。もしくは――ライトにきくとしよう」
「どっちの仕業にも思えないっていうか、どうもこれ犯行に葉閥の〝色〟が見えない感じがするけどね。代理店主の、仰せのままに」
からかい半分に締めて、ふと考え込んだように湊波なにやってるのかしら、などと山井は港のほうを見た。ここ二カ月ほど見てないな、と井澄も遠くを見据える。
ひとまずここはライトにも事情を尋ねるべきである。警官も起きたら話をうかがうとして、井澄たちは表へ出た。山井は警官の監視、そして束縛を成すべくふたたび厄廻払いを発動し、厄の黒煙の下に相手を動けなくした。
「じゃ、いってらっしゃい」
「……しんどいですね、頭がぐわんぐわんと揺れます」
「傷は縫合したけど、失血はどうにもならないからねぇ。アタシだって辛いのよ?」
「ていうかわかってるなら寄らないでください、あんたの厄の下にいると余計にだるくなるんですから。あと顔近づけないでください、厄廻払い使ってるときのあんた人相最悪なんですから」
「こいつ疲れるとすぐ口悪くなるわね……女のわがままとか絶対聞けないクチだわ」
「相手によりけりですよ」
こう返して、井澄は八千草と二人、雨の中を駆けていく。
雨脚は強くなっており、視界がけぶる。石畳の坂をのぼる途中、小さな川のように流れる雨水に滑ったか、八千草が足をもつれさせた。腕で支えるのも痛いので、胸板で受け止めるように背をもたれさせる。
「大丈夫ですか」
「あっ、すまないね。少し、ふらついた」
「貧血ですか」
「頭痛だよ。まったく、こんな雨ではおちおち煙草に火をつけることもできやしない」
その後は歩速を緩めることもなく、八千草は歩みをしっかりと踏みしめた。だが表情には険しいものがあり、頭痛は依然として残っていることがありありとうかがえる。
「煙草が無いせいで頭痛ですか」
「古傷のせいだよ。喫煙は一年以上続けているけれど、切らして頭痛ということは一度もないね」
「そういえば最初は紙巻煙草を嗜んでいたんでしたっけ」
「まあね。それからすぐ、パイプに憧れて変えたのだけれど……おや、話したことあったかな」
「バアラウンジでそのようなことを言っていたかと」
不思議そうな顔をしていたが、八千草はあまり気にとめないで、話題を流した。井澄も深く話すことはせず、また二人で雨の中を行く。
「お前はいつから煙草をやっているんだい」
「本土にいたころからですよ。やはり一年ほど前ですかね。師匠からはやめろと言われましたが、あれはあの人の職業柄、においも残したくないという方針だっただけのようです」
「師匠、というと、糸の、」
「〝黒糸矛爪〟の呉郡黒羽、です」
人に問われた際は必ず、そう答えるようにしていた。右袖の糸に目を落とす。
〝異刀鋸〟という世間のつけた蔑称を、井澄は呼ぶ気にはなれなかった。眼鏡を外し、水滴を拭って胸ポケットに納めると、続けて言った。
「得物も技も等しく道具に過ぎません。運用するのは個人です。いかに剣術で人を殺していようと、剣客が責められこそしても剣術が責められる道理はないでしょう。しかしあの人は、遺した得物も技も、すべて黒く塗りつぶされてしまった」
短い付き合いではあったが、井澄にはそれが我慢ならない。師は、彼女はたしかに暗殺者ではあったが、だからといって身に覚えのない罪状までかぶせられて死ぬのは、あまりにも不憫な話である。
「でも……、別に受け継いだ技を絶やさぬことや師の汚名を雪ぐ目的でここに来たわけでは、ないですけどね」
「他にやれることがない、だったかい?」
「はてそんなことも言いましたっけ」
とぼけたふりをしたが、八千草の態度から察するに真実ではあるのだろう。だがいまとなっては、と自分の視線の先に居る八千草を見て、井澄はうつむいた。
商会所の前に来て八千草が言葉を切ると、二人の間で呼吸を揃える。それぞれの動きの拍子を各自で確認し終えた、と判断できたとき、八千草が扉を軋ませ、一気に開いて跳び込んだ。続けて井澄が指弾の右手を向けるが、室内には音が無い。人の気配もなく、ただ廊下の長い空間の中に足音だけが落としこまれた。
「人の気配は……ないようだね」
「全員が遁走したあとかもしれません。が、油断はせずに調べましょう」
じりじりと壁にそって動き、両腕を開いて廊下の伸びる南北双方向へ向けながら井澄は進む。廊下の窓側を井澄、扉側を八千草が歩み、どこから来ても狙い打てるように姿勢をとった。
だが長い廊下を行く途中、気配どころか物音ひとつも感じられない。やはりこれはもぬけの殻なのではないか、と困惑と焦燥に心中を揺らされはじめる井澄だが、どことなくこの静寂に覚えがある気もしていた。
それは目標に逃げられたあとの空虚さではなく。
頭に血の池の像が結ばれたのは、臭いに気づく前だったのか、あとだったのか。
廊下端の階段から漂ってくる臭いにいち早く気づき、井澄は指弾を構えたまま駆けあがる。寸毫の判断で八千草も異変を察し、井澄の後ろをついてくる。
二階の廊下は薄くけぶっていて、血なまぐささが香る。近い、と鼻腔を刺す腐爛に繋がる悪臭を辿り、井澄は扉の開いている部屋に近づくと瞬時に蹴り破った。指弾を向けながら暗い部屋を見渡すと、今度は色彩が目に刺さる。
まだ黒く変色していない鮮血に、室内が満たされている。首と胴が離れたものが多いため判断に迷うが、おそらくは三人。侍女に、夫人と思しき人物、子供と思しき体躯。ライトだけが、見当たらない。
「まさか」
すぐに出て、後ろから部屋をのぞきこんで眉根を寄せた八千草と共に、手前から一部屋ずつ調べていく。長い廊下は大量の部屋を抱え込んでおり、片っぱしから調べていくのは実に骨の折れる作業だった。
やがて井澄はもうひとつの臭いに気づく。あふれ出る血なまぐささにかき消されていたが、どこからか刺激臭がしている。辛味が増し過ぎれば痛みになるように、濃く煮詰まりすぎて突き刺すような臭気に変じている香り。
臭いの強くなるほうへと動き、そして井澄の足は止まった。応接室の横にあった、硬く閉ざされた扉。この向こうから臭いがしている。
ああ、そうか。すとんと腑に落ちた気がして、井澄は扉に手をかけた。音に気づいたのだろうが、実に小気味よい拍子で室内から声がかかる。
「遅かったのでありますな」
扉を開け、跳びこみながら指弾を放つ。声のした方向へ狙いを定め、弾きだした硬貨幣は軍刀に防がれた。
「ふむ。二人揃っているということは……血を分けた我が同胞は、死んだということですかな。職務に殉じた死、結構結構」
左頬を指弾で削られ、逃げた、最初の警官がそこに立っていた。彼の足にもたれかかるように、ライトがへたりこんでいた。首筋には軍刀が突きつけられており、人質として捕えられている。部屋中にこもっていた臭気が廊下へ流れだす。
「ライト氏は脅されていたんですね」
「左様で」
「ですがあなたは、なぜ私たちを狙うんです。わざわざ、このように回りくどい真似までして……偽装依頼でおびき出してまで」
「ふぅむ。殺人者が殺人者たる所以がよくわかる言葉ですな」
軍刀をライトに向けたまま、警官は語る。応接室同様に置かれたソファを迂回して、回り込むように歩を刻んだ。引きずられるライトが、ぐむ、とうめいて尻を擦る。
部屋の中心に立ち、まっすぐに右半身で向きあう警官。瞳には、焼け残った憎悪のような、儚く小さい狂った輝きが宿っていた。表情にも、なんの感慨もない。
「貴様ら殺人者など、いつ殺されてもおかしくはない身の上でしょう。どれほどの恨みをどこから買っているか。把握などできず、またするつもりもないのでは?」
「……なにを」
「自分は警官、法の番人であります。ゆえに殺す。人としての在り様ではなく、機構として殺す。機巧が茶を運ぶ動作を負わされたがごとく、ただひとつの機構として存在する。貴様らを殺す理由など、法に触れているからという一言で十二分」
構えもとらず人質をとっているだけなのに、いまにも刀を振り下ろされそうな圧力が井澄たちの頭上から注ぐ。威圧の変化を感じとったか、ライトが逃げ出そうともがいた。
丹田に力を込め、低く構えて気を引き締めると、いまにも襲いかかってきそうな警官の一挙手一投足に目を配る。八千草は、果たして朱鳥を使える間合いなのか測りかね、様子見のままに切っ先を警官に突きつけていた。
「だがおかしいじゃないか。商人たちは、だれかを殺していたわけではないだろう?」
「道理は通ります。阿片の扱いと殺人は、どちらも同じく人間の尊厳を破壊せしめるもの。許してはならない非道の行いです」
「阿片?」
「ああ、八千草は嗅いだ経験がないんですね」
問い返した八千草に、説明するように井澄は言う。
「この部屋に漂っている刺激臭、その正体こそが」
鼻を突き刺す、腹痛薬を腐らせたような臭い。その元となっている、薬の缶と思しきものを井澄は蹴り転がす。粉末が辺りに舞った。部屋に入る寸前で思い至った、この数日の事件の真相。その中心にあったのが、おそらくこれだ。
「阿片です」
「よく、ご存知でありますな」
「だいぶ昔に阿片窟へ放りこまれたことがありましてね」
あまり思い出したくない記憶に、苦笑いを浮かべる。興味も無さそうなうなずきを返して、制帽の縁越しに警官は井澄の口元を見ていた。
「つまり、あなたが薬を港で検めていたんですか」
次のうなずきには、先のそれよりもいくらかの感情が垣間見えた。
楠師処と、山井の薬品。どちらもが姿を消していたのは、警官として倉庫へ踏みいったこの男によって中身を検めるべく運び出されていたからなのだ。
「しかし治療に用いるものはともかく、このように明らかに〝吸う〟ことを目的とした形態では、医者の見本のような山井が取り寄せるはずもありません。楠師処は、どうだか知りませんが」
「ええ、まっことたしかにその通り。これら阿片の出所は、ああ、嘆かわしいことに」
ひげでも剃ろうかというように、警官は軍刀の切っ先三寸でライトの頬を撫でる。じわじわと血が滲んで垂れ落ち、なおも斬り進める作業は続く。警官は、ライトにも理解できるようにするためだろう、ここから英吉利語で話した。
『阿片の出所は捜査に協力してくれていたこの、ライト殿の倉庫であります』
『ち、っちが、だから私はなにも、』
『虚言虚飾、言い逃れようとは不愉快千万。閉じることかなわぬ口ならば、いっそ切り裂いてしまいましょうか?』
腕を引き、突き立てる。上歯と下歯の間を通り抜け、右から左へ切っ先は頬を貫いた。刃が抜けると血がほとばしり、風穴からひゅうひゅうと息をこぼしながら、ライトは両手で顔を覆いうめいた。
『口は災いの元。よく学んでおくことですな』
「……いくら警官といっても、やりすぎているように思えますが」
「人殺しに人間の扱いなど要らないでしょう」
歪んだ意志を振りかざし、警官は軍刀を首に添え直す。痛みにうめき暴れていたライトは、瞬時に動きを止めた。左手で首をつかみライトを立ち上がらせた警官は、盾のように彼を掲げる。
「さて、前戯はここまで。あなたがたにもそろそろ裁きを下すときですな」
「人質の意味などあると御思いですか。あなたもご存じの通り、私は殺人者……盾ごと殺すなど造作もない」
「さて、あなたはそうでも、そちらの少女はどうでしょうな?」
せせら笑い、警官は八千草を見る。自分に向けられた視線に、彼女は戸惑い悩む素振りを見せた。
「殺しに手を染めていない、そのような目です。さりとて人を傷つけることは躊躇わない、危うく怪しい、ある意味で殺人者などよりも厄介な人間でありましょう」
びくついて、言葉が染み込んだかのように、八千草の切っ先がぶれる。的確に彼女の根幹にある、殺人忌避を言い当てて見せた。
殺したらもうそいつとは戦えない。仕事であっても恨みを買いたくない。小雪路と彼女の殺害への意識のちがいはこういうものである――表向きは、そうである。けれど八千草の実情は、この通りだ。先ほどの警官を殺せなかったこともそうだが、殺害に対して明確な嫌悪の感情を示している。
こんな島に一年以上も過ごしていて、彼女はいまだに……、命を斬り捨てたことが、ない。頭痛がひどくなったのか、八千草は左手で頭を押さえた。
「かたや手負いの暗器使い、かたや殺害を忌み嫌う少女。盾を用いるに都合良い状況に思えますが、いかがですかな?」
「手負いとはいえ、甘く見てもらっては困りますね」
「正確に状況をはかっているだけです」
にやりと温度のない笑いを見せ、警官は左手を放した。そして自分で立ち尽くしているライトの肩に手を置き――そこで、たたたたっ、音が鳴り響く。
認識から把握に至るまでの数瞬を、井澄も警官も凍結したときの中で過ごした。二人は視線をやることもなく、音の発信源を理解する。部屋に置いてあった電信が、動いていたのだ。
「……失礼」
警官はライトに軍刀を突きつけたまま、井澄を軸に円を描いて壁際の電信を見た。どこからかだれかが、ここへ向けて連絡をしている。固唾をのんで隙をうかがう井澄の前で警官はそつなく打ちだされる紙片に目を通すと、わずかに口の端に皺をよせ、嘆息した。
「……ふむ。なるほど。そういうことですかな」
紙片を破り取ると丸めて床に落とし、警官はぎろりと井澄たちを睨んだ。細い蜥蜴目が、ギヤマンのごとく部屋の灯りを照り返すのみ。彼は右手の軍刀を逆手に構え直すと、さも残念そうにもう一度嘆息した。
「残念ながら本日のうちに裁き下すことはかなわぬようです。どうやらまだ、あなたがたへは手を下すなとのことでして」
「……あなた、単独行動ではなく。だれかに、指示されて……?」
「さてどうでしょう。いずれにせよあなたがたは未だ大きな渦の中にいるようです。いずれまたお会いすることも」
言いつつ素早い動きで被外套を払い、警官は太い瓶を取り出した。なにを、と思う間もなく蓋をあけて中身を撒き散らし、次の瞬間には器用に片手で燐寸を取り出していた。
あたりに漂う、先ほどとはちがう異臭……臭水、石油か!
「ないといいですな」
燐寸の火が落とされ、瞬時に床へ燃え広がる。反射的に顔を腕で覆いそうになるが、こらえて指弾を構え続ける。だが次の瞬間に行動の愚に意識が追いつく。顔を覆い、息を塞ぐべきだった。頭がふらつく。阿片が、燃えたのだ。
「ぐう、」
酒を飲み過ぎたときのように視界が横へ横へと移動しているように感じる。頭の働きが局所的に強まり、細かいことを考え出す。一方で大局が読めなくなる。周囲の物事が読みづらくなり、唯一しかと視認したのは、警官が左手を掲げたこと。
とっさに八千草を押し倒してかわすと、ライトが吹き飛んできた。あの術によって自分の間合いから弾きだしたのだろう。吐き気に襲われながらも右手の指弾を向けると、ライトの影から警官が走り去るのが見えた。眼球が動きを追い切れず、指弾は壁にめり込む。
「それでは」
去り際に軍刀を一振り、ライトの首を引き裂いてから、警官は部屋を出ていく。噴き出した血を浴び、逃してしまったことに歯噛みしながら、井澄は力が抜けて床に転がった。見ると、左手の先に電信の紙片が転がっていた。火がつき、外側から縮まりはじめている。
がむしゃらにとびつき、手の内におさめて火を消す。だがここで力が抜けて、大の字に寝そべった。まだ横では阿片が青い煙をあげている。最悪だ、と思いながら、えずきをこらえて膝立ちに起き上がる。
「やち、ぐさ。息止めて、逃げ、」
必死で訴えかけると、彼女も上体を起こしたところだった。意識があるのなら問題ない。すぐに運び出して、と考え手を伸ばす。ぐるぐると迷う思考も、八千草のことのみに集中すればまだ使い物になりそうだった。
が、そこで動きが止まる。否、動きを止めていたのは八千草のほうだった。
「八、千草」
彼女の瞳に、床を嘗める火が映っている。痛む頭を押さえるべくあてがった左手はそのままだが、目にも、口にも、感情が無い。燃え上がる火を見つめながら、すうと視線が井澄に向いた。徐々に、喉元からせりあがってきたように、顔に熱と色が宿る。
「ぇ……いと?」
八千草はぼそりとつぶやき、表情に痛みが宿る。顔をしかめて、くしゃりと歪める。これは、と思考が定まらない井澄は差し出しかけた手を引っ込めるが、思い直して手を伸ばす。
そんな彼の横に、まだ中身の残る瓶が転がってくる。ぎょっとしてのけ反ると、火が床から迫り、瓶が弾けそうになる。今度こそ顔をかばおうとした井澄だが、弾けた爆風に反り返って倒れた。甲高い音を聞いたように、耳が麻痺して音が入らない。身の内の心拍だけが聞こえていた。
「が、ふはぁ、ひっ」
熱い空気を吸わないように、細く鋭く息をする。全身を抜けた熱さのあとに、井澄は慌てて身体を確かめた。しかし破片は刺さっておらず、どうやらなにかが障害物となって井澄は無事だったらしい。
「幸運にも、ほどがある……」
言いつつ起き上がり、回る視界に耐えきれず一度胃の腑をひっくり返して、井澄は八千草の傍に寄る。八千草はまた呆けたような顔をしていたが、井澄を見るとまた生気が戻ってくる。
「八千草」
呼びかけに、答えるように彼女は口をうごめかす。
だがそこでふつりとなにかが切れたのか、うつぶせに倒れて意識を失う。息が詰まり、井澄は這うように距離を詰めた。八千草を抱え起こし、頬をはたきながら、口元に耳を寄せる。
「やちぐさ、八千草!」
息はある。途端に安堵したが、状況は悪いままだ。急ぎ八千草の肩に手を回し、爪先を引きずるように廊下へ出る。
廊下もいたるところに火が放たれており、特に階段付近には念入りに石油を撒いたのか火勢が強くなっていた。窓の下を見れば、警官が雑踏にまぎれて遠のくのが見えた。足止めが目的だったのだろう。
いずれにせよ追える体力はない。黒煙にまかれてせき込みながら、井澄は廊下の窓を蹴り割った。下には生垣がある。ここから飛び降りても、なんとかなるだろう。少なくとも八千草は無事に下ろしてみせる。意気込んで八千草を抱えると、窓のへりに足をかけた。下の群衆は跳び下り自殺とでも勘違いしたか、どよめきが広がる。
意にしないで、井澄は目を閉じ飛び降りる。生垣に足を刺される痛みを、覚悟して――――なかなか痛みがこないので、不審に思って目をあけた。
「……急に落ちてくるんじゃねーよ、びっくりしただろうが」
井澄はまだ空中におり、番傘を差した靖周が真下にいた。飛び下りた窓の位置から井澄は三間ほど横に流されており、緩やかな落下の中にいることで、彼の空傘が生み出す気流に載せられたことを知った。
そしてふわりと着地し、あーあー、と言いながら靖周が五枚の符札を風に流すのを見た。
「靖周」
「貸し一つだぜ。お前自分だけなら恩とも思わねーだろうけど、八千草も落っことさねーようにしてやったんだ。感謝してくれよ」
「……恩に着ます」
「おう」
「でもあんたまたなんでここにいるんですか」
今日は店の番だったはず、と思いながら井澄が見ると、彼は歯切れの悪い様子でそれな、とつぶやいた。前回のように遊びにくる途中だったとか、不真面目な要件でここにいるのではないらしい。
「あいつが殺されたんだ。責任、ってんじゃねーけどよ、さすがに店番ってわけにもいかんだろ」
「殺されたって、だれが」
「今日、なぜだかこっちに来てたらしいんだけどな……あいつだよ、あいつ」
頬をかきながら、靖周はこちらに傘を差し出す。
「先代危神、桧原真備。列車の中でぶっ殺されてたのが、見つかったそうだ」
第三代無尽流当主、死亡。