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明治蒸気幻想パンク・ノスタルヂア  作者: 留龍隆
三幕 探偵対峙
20/97

20:居留地という名の魔窟。


 三が日の間は四つ葉の物流もゆるゆるとしか回らなくなり、しばし経済は停滞した。アンテイクもさほど急がず、集めた情報をまとめながら、次の仕事に備えて準備をした。


 かたわらで、靖周や小雪路、山井まで集まって宴会じみたことも行われていたが、さんざんに飲まされてつぶれてしまった井澄は、細かい部分を覚えていない。ただひどい乱痴気騒ぎであったことは、のちのち八千草によって語られた。


 そうしてこうして年が明けて、睦月の四日。冬眠から覚めた熊のように緩慢な動きで、四つ葉は再び貿易拠点としての姿を取り戻す。居留地の人々も表だって動き始めるこの辺りから、再び斬殺事件が起こるのではないかとの危惧は、四つ葉新聞にもつづられていた。


「あの記事が多少なりとも抑止力になればいいんですがね」


 眼鏡のつるをつまみ、空いた手で襟巻を正しながら、井澄は言った。


「まあそうでなければ、刀を振るうまでさ」


 頭一つ低い位置で横に並んだ八千草は、かつりとアンブレイラの先端をホームに打ち下ろす。


 しばたく瞳は夜空の映し身のごとく深く、果てなく澄んでいる。端正な丘陵に臨むような心持ちにさせられる横顔は、パイプから煙をあげて、静かに力を湛えていた。


 長く、身体の線を縁取るような髪は、一部のみを髪留めで結いとめている。残りは薄く向こうが透けそうな生地のケイプの上を流れ、手折れそうなほど細い腰から膝下まで膨らんだドレスの輪郭を覆った。


 腕には長い手套、足には編み上げの長靴ブウツ、手にしたアンブレイラもまた彼女独自の雰囲気を作り出す小道具。これらすべてが黒に染められており、彼女のシルエツトの中で他の色が混ざるのは、緋色の髪留めと白い肌だけである。そのどちらもがごくわずかな面積でのみ自己主張しており、過不足なく色合いを調和の内たらしめている。


 彼女の横に、さらに影が並ぶ。


「今回は殺しではないし、気楽ねえ」


 物騒なことを言いながら、あくびをかます。けばけばしい赤の留袖に萌黄色の帯を締め、この上から白衣を羽織った山井が、布を巻いた太い杖にすがって寝ぼけたつらを晒していた。今日も額を広く出した髪型で、頭の後ろでは編んだ髪を巻き、団子状に結いあげていた。


「撃退もそれはそれで難儀しますがね」


「もう来ない可能性だってあるでしょ。アタシ能動的に動くのは苦手なのよ。やりすぎることが多いし、あんまり連携とれる能力じゃないし」


「後衛で動いてくれればよいよ。そも、居留地を診療に回ることが主な目的だろう?」


「まあ診療っていうか取り立てよ、取り立て。お代を溜めこんでる奴が数人いるのよね。だからこっちの仕事はついでなの、あんまり援護の期待はしないでね」


 ひらひら片手を振り、こんなことをのたまう次第であった。八千草は顔をしかめる。


 依頼は護衛を三名ほしい、との要請だったのだが、靖周は居留地がらみの仕事を受けたがらず。小雪路は青水と緑風の小競り合いが起こっている三層四区へ派遣されることになったので、必然的に山井を含めるほかなかったのだ。やる気のない彼女に舌打ちしながら、仕事に向かうこととなる。


 約二週間ぶりに訪れる六層二区、閣応山かくおうざんステイションは年明けの静かな余韻に満ちていて、通りの商いも活発なものだった。五層以上と比べて天蓋までの距離も短く、感覚としては狭いと感じられる通りは、人の密集度も高い。初物買いに訪れる客の値の交渉、言い争いがそこかしこにこだましている。背後では一区を貫く線路に乗り居留地へ向けて動き出す列車があったが、あれは港方面とはまたちがう場を目指すため、井澄たちは降りた次第だ。


 六層は全体的に、五層以上に比べると和の趣を残した建物が多い。ステイションを降りてすぐには木製の器所きそ大橋が緩やかな弧を描いて架かり、一町(約一〇九メートル)ほどの長さで川――上層から流れた雨と、複合階層都市の建つ山をくだる清流の合わさった水路――をまたいでいる。


 この広い橋の上からすでに商いの様子が見えており、これが一区の居住街の辺りまで、大通りの中を途切れながらも続いていく。その一区、二区ともに木と土にて建てられる屋敷が多く、六層はほとんどが木造建築に埋められているのだ。赤レンガと白壁が多い洋風の街並みに慣れてから降りてくると、しばしば景観の落差に落ち着かなくなる。


 柳が植わった道を三人で歩いていくと、遠く、光と影に区切られた位置が見えていた。これこそが一区の端であり、番外地への入口。


 最後に仕事で訪れたのが一カ月以上前のことだったので、井澄の目は光にくらむかと思われた。けれど近付くにつれ井澄は風に甘い湿り気を感じ、淡い光の中に立って、外が雨天であることを知った。


「せっかく出てきたのに、雨ですか」


「雨だと古傷が痛むね。けれど、よし。ひさびさに傘として用立てしよう」


 頭を掻きつつアンブレイラを開いた八千草は、井澄の横を通り過ぎていった。山井はというとちゃっかりしたもので、通りを行く途中で雨に気づくと番傘を購入していたらしい。二人が横を過ぎていったので、仕方なく井澄はポケットに手を入れ濡れることを覚悟した。


 広い道の半ばほどで振り向き、仰げば、六層都市の外観を眺めることができる。山のようにそびえる都市は、西洋菓子のミルフイユを思わせる。最初ここへ来た際に、この外観にひどく威圧されたのを思い出しつつ、井澄は彼女らの足跡を追う。足下を太い鼠がちち、と鳴いて抜けていき、濡れ鼠、などと自嘲気味につぶやいた。


 大通りに沿って存在していた居留地へ踏み込むと、またぞろ景色は一変する。白い壁に赤い屋根、ギヤマンのはめ込まれた窓が目立つようになり、路面も石畳と覆われ歩道と車道とに分かたれた。


 五層などの街並みに近いものがあるが、全体に色が明るく小奇麗であることと整備が整えられていることなどが大きな違いとして感じられる。また随所によくわからないものが置いてあることも住まう人々の差異として現れており、歩道に並ぶ流し台のような噴水、装飾過多な街灯、御影石の台座に据えられた銅像……などが配置されている。


 しかしこれらは西洋の文化なのだろう、ということでまだ納得ができる。真に納得しかね首をかしげざるを得ないのは、上述のあれらと同様に並べられた狛犬、道祖神、張り巡らされたしめ縄などである。


 散見されるこれらはどういう意図で飾っているのか、と居留地住まいの知人に尋ねたところ、「オブジェにちょうどいいと思ってさ」という返答に困る言葉が返ってきたのをよく覚えている。いやはや、どこから持ってきたのだか。


「場所は商会所でしたか?」

「ああ。港まで続く道とは逆であるね……まだ先があるから、ほら」


 追いついた井澄が問うと、八千草はちらと一瞥くれたあとで、アンブレイラを差しかけてくれた。仕方なしに、という感情を隠しもしない動作であったが、自分が近づくことを許可してくれたという事実に井澄はいたく感動した。


「ああ、ありがとうございます!」


「礼はいいよ。仕事に際して、びしょ濡れの部下を連れていくわけにはいかないだけなのだから」


 そっけない返事もなんだか嬉しくて、井澄は猫が擦りよるように距離を詰めた。寄るな暑苦しい、と逃げられるまでにさほどの時間を要することもなく、結局二人の間には、人ひとり入れそうな隙間のあるまま、歩道を歩く。前を歩いていた山井は振り返ると「愉しそうねえ」と含み笑いを漏らし、先を行ってしまった。楽しいのは否定しないが、井澄の右肩は結局、びしょぬれだった。


 通りを下ってゆくと、やがて風には潮が混じる。海からの風はぬるく、冷えた身体に吹きつける。遠く走る汽車の警笛に並行した歩みの先には、大きな建物が見えていた。白壁に覆われ、上部が大きく弧を描いた窓がいくつも開けられた屋敷で、二階にはテラス席があり街を一望できるつくりとなっている。


 入り口わきには黒い縦長の板に金字で〝ライト商会 Wright & Company〟と彫り込まれていた。井澄は屋根の影に入ると頭につく水滴を払って襟巻をとり、外套を脱ぐ。八千草もパイプをしまって身なりを整えたが、山井は平然と白衣のままでドアに手をかけた。


「ではお邪魔しようか」


「失礼を」


 アンブレイラを閉じて中へ入ると、静かなものだった。入ってすぐ、建物は廊下に突き当たり、見上げると交叉穹窿こうさきゅうりゅうと呼ばれる凝った天井様式が目につく。足下もけっして安くはなさそうな絨毯が続いていて、この上を土足でよしとしている彼らの文化は理解できないな、などと取り留めもないことを井澄は考えた。


「とりあえず依頼主と会わなくてはね」


「承知いたしました」


 言われて見回すと、左手の受付は閉まっていたが、呼び出し用の手鐘ベルが置いてあった。これを手に取りしゃなりと鳴らしてみる。


 ――しかしなにも起こらない。待ち合わせた時間を間違えたか、と不安になったらしい八千草が慌てて懐中時計を取り出すが、風防の下に見える文字盤は十二時を示している。待ち合わせに遅れてはいない。すると横からのぞきこんでいた山井が、辺りに耳を澄ましてなにやら難しい顔をした。


「……なんか聞こえない?」


「なにがだい」


「にぶいくぐもった感じの……上の階でどたばたしてる感じの」


「どたばた……」


 言うが早いか、八千草は手にしたアンブレイラの柄に手を添えた。嫌な想像が頭をよぎり、井澄も身体の前で両手を下に向け交叉させる。袖の内から三枚ずつ硬貨幣が落ち、羅漢銭の構えを取った。山井も杖を両手で、槍のように掻い込んで構えた。廊下の最奥に位置する階段へ向かって三人は走り、足音を響かせぬよう注意しながら上がっていく。


 二階に上がると、物音は顕著になった。どた、ばた、と重たさを感じさせる音が床を伝って足に届き、井澄たちは顔を見合わせることもなく列を成す。先頭を八千草、次を井澄、殿しんがりを山井が務めた。


「音の出所はどこだ」


「手前から数えて四つ目あたりじゃないかしら」


「やれやれ、御守りを果たす前に依頼人が死んでたらどうしましょう」


「……下手人だけでもとらえて、後づけでどうにか金を引き出そう」


 考えたくはないがね、と言いながら八千草は刀身を現し、右片手正眼に刃を向ける。途端に駆けだし、ドアをにらんだ。蝶番の位置は内側に開くドアであることを示している。


 ノブを回し、蹴り開ける。小さな身体をさらに低く構えることで相手の攻撃をかわしやすくし、八千草が飛び込む。続けて井澄が滑り込み、両手を外へ開く動きと共に、羅漢銭を放とうとして――


 部屋の奥、樫製の大机の上で、異邦人を吊るしあげている男を目にする。一段下がって女が一人。二人で室内を荒らしまわっていたのか、護衛と思しき男が三人、ひっくり返ったテエブルの横でのびていた。


「だれー、あんたら――あ」


 女があんぐりと口を開け、ここでようやく男が殺気を向けてきた。


 あろうことか左腕のみで異邦人の襟元をつかんで持ち上げていた男は、漆塗りの鞘に納めた打刀を腰に差していた。竹林の虎を画として背負う、灰色の着流しに身を包み、素足に草履で立ち尽くしている。上背はそれほどのものではなく井澄より少し高い程度だろうが、袖口からのぞく腕の太さは、この光景がまぎれもない現実であることを容赦なく叩きつけてきた。


 男はあくまで異邦人から目を離さず、井澄たちに気迫を打ちつける。


「誰だ手前ら。俺様は取り込み中だってのがわかんねぇのか、あ?」


「いや、その、待って桧原ひのはら、この人たちは」


「取り込み中だってぇのがお前もわからねぇのか?」


「そうじゃないわ――!」


 女と軽い言い合いをしながら、桧原と呼ばれた男はゆっくりとこちらを向く。


 襟足から耳周りまで剃り、青く肌をちらつかせ。けれど頭頂部から長く伸びた髪がある程度まで頭を覆い隠している、奇天烈な髪型。長い前髪の奥にある目はつり上がった三白眼で、紙を破ったような広い擦過傷の痕を持つ頬から鼻の上、濁ったまなざしを絶えず発している。


 下顎を突き出したような顔の造形が威嚇的で、犬歯をすり合わせるようにしながら、桧原は言葉を紡ぐ。喉の奥から、獣のようなうなりが漏れ出た。歯ぎしりが、室内に轟く。


「あー、あー、もう、よぉ。うるせえんだよぉどたばたとよぉ。取り込み中なんだよ。口閉じて黙って……死にやがれぁッ!」


 吊るし上げていた奴を離し、腰の得物に右逆手で手がかかる。くる、と悟って即座に井澄が横っ跳びに逃げ、八千草も距離をあけたところで前転して避ける。山井がどうなったかを確認するより先に――桧原の抜いた刀身がぶれ、白銀の閃光が、薄暗い部屋の中に一筋の光を差しこませる。


 抜く過程は見えない。ただ結果が視認できた。


 桧原から三間は距離をおくドアが、弾ける音と共にまっぷたつ(、、、、、)に切り裂かれた。右手を斜め上に振り抜いた姿勢のまま彼は目を巡らし、かわした井澄たちに舌打ちする。


「チっ、俺様の初太刀をぉ――――を、を、おぉっ?」


 それから、刃を向けたままじっとり湿度を含んだ目で見据える八千草に気づき、次に井澄、次に廊下にうまく逃げたと見える山井を見た。


 ただでさえ三白眼の彼の目の中、ゴマ粒のように黒目が小さくなったような気がした。


「お、あ、え?」


 声が縮こまって、腕も力が抜けたか、だらりと刀が下がる。みるみるうちに、だらだらと冷や汗が彼の顎を伝う。横の女も震えはじめる。


「おっ、おっ、まえ、ら、……いや、そのっ、あなたがた(、、、、、)、は」


「ばかー! 桧原、ばかだわー!」


 歯を鳴らし目が泳ぐ男、桧原は女に罵倒されながら、唖然として刀を取り落とす。井澄が硬貨幣を袖口にしまっていると、八千草はなんと声をかけたものか迷った様子だった。が、結局は無難そうな言葉を選び、アンブレイラに刀身を納めた。


「……久方ぶりであるね、桧原真備ひのはらまきび――いや、先代〝危神きじん〟」


「あ、ああああ、アンテイ、クッ……み、みふーっ」


「ひ、ひのはらー! 桧原ぁー!?」


 八千草が声をかけただけで失神した桧原は、慌てふためく相棒の女に抱きかかえられてとうとう完全に白眼を剥いた。



        #



 桧原真備。四天神してんしんが一人、危神の称号――だった男。


「こ、こっこっこここここっ」


「なんか部屋の隅に鶏がいるんですが」


「舌が回ってないみたいねえ」


「安心しなさい。今日はぼくらだけ、小雪路はいないよ」


「ここーっ、こっこっこ……こゆき、じ、ひいいいい」


 桧原は部屋の隅で縮こまり、涙目で井澄たちを見ながら膝を抱えていた。一方でテエブルとソファを元の位置に戻し八千草が腰かけ、その後ろに井澄、山井、そしてもう一人が控える。


 テエブルを挟んで対面にいるべき異邦人の男は、気を失っていたので少々席を外していた。そこで桧原についていた女が井澄の横で、状況説明のため仲介役になってくれた。


「……す、すいませんだわ。こいつもうすっかりダメになっちゃってて」


「すまないね。驚かせてしまったのかな」


「いえいえすまないなんてそんな。勿体ない、お言葉だわ……」


 彼女も桧原ほどではないが若干の震えが混じっており、揺れる右手の指先を押さえるように、片手を添えて押さえていた。


 炒った小麦のような肌の色が健康的な女で、薄墨の振り分け髪には跳ねた部分が目立つ。髪型の割に歳いっている様子で、枝垂しだれた太めの眉の下、赤銅色の瞳には疲れが見えた。身にまとうのは紺の袴姿に前垂れを合わせたもので、右手には包帯が巻かれている。これを袖口に入れ隠すようにしながら、女は楠木千里くすぎちさとと名乗った。


 楠。そう、彼女こそが。


「そうは言うが、楠師処の一件はこちらもやりすぎた気がしていてね」


 しおらしく八千草は言ったものの、反省の思いなど心中にはかけらもないだろうことは容易に想像がついた。けれど楠師処の長たる楠木はびくりとして、そんな八千草の思惑など気づきもせず。ぱたぱたと片手をあおぐように振った。


「いやいや、わたしらもすっかり天狗になってたから、いい薬になったのだわ……お調子者につける薬は、薬師処くすしどころでも作れない……なんて、はは」


「ああなるほどね。しかしその割には、今日もずいぶんと調子づいていたようだけれど?」


「こっ、これはそのそういう意図ではなくて、わたしたちにも事情があって暴れてたのだわね。ね、ね?」


「いや私に訊かれましても」


「どうでもいいけれど、あまり派手に動いているとまたぼくらに依頼がくるやもしれないよ。そこのところは理解しておくべきであるね」


「は、はひゃいっ! 肝に銘じておくのだわ!」


 怯えた顔で楠木はうつむいた。明白すぎる力関係がそこにはあった。


 小雪路による、神喰らい。依頼による危神との戦闘は、いまや語り継がれる生きた伝説だ。しかし伝説の渦中にいた楠師処の人間はみな恐怖に心をすり減らし、平穏な精神を失ってしまった。根源的な暴力の恐怖の前に、人はあまりにも弱い。


 血で血を洗い骨で骨を鳴らし、どこまでも戦いを渇望する小雪路。戦いに臨み、痛みを与えては喜び。戦いに臨み、痛みを受けて悦ぶ。手段と目的を同一視して闘争本能の赴くまま動く狂気。対峙した者のみが理解するおそれが、そこにはある。


 いかに悪逆非道の蛮人と謳われた桧原でも、終わらない激痛と止まぬ狂気が生み出す恐怖には耐えられなかったらしい。結果、摩纏廊の魔手に心身を削り冒された桧原は、一時は近づく者すべてを恐れるほどの精神状態となった。


 心的外傷、と山井はこれを表現した。


「だってのに、ずいぶんと元気になったのねぇ。でもアタシたち見たら、途端にああなるなんて」


「それはあの靖周って人が、御守りにかこつけてやってきては事あるごとに桧原をいびってたせいだわ……桧原の後ろを指差しては『あ、小雪路』『おや、小雪路』『いよっ、妹のお出ましだ』って。しまいにはこんな風に神経症のいろうぜになっちゃって、アンテイク関連のものを見るだけで震えだすんだわよ」


「おい、依頼中断させられたの、やっぱりあいつのせいじゃないですか」


「あいつ妹思いが行きすぎてるところがあるからなあ……小雪路を痛めつけた桧原に、我慢ならなかったのだろうね」


「おかげでもうアンテイク周辺にちかづくことすらできないのだわ。うう、依頼料返して……」


「そちらから頼んできたことであろうよ。返金には応じない」


「鬼だわ!」


 そう、楠師処を護衛せよとの依頼は、そもそもこの楠木から持ちかけられたのである。


 いわく『桧原がこの体たらくでは他の戦闘者や殺し屋に倒されてしまい、危神の名が完全に地に落ちる。それは緑風がひとつの大きな戦力を失うことにも繋がり、四つ葉全体の力の均衡が保てなくなる』と判じたためらしい。


 ……実情はこれまで虐げてきた人々からの報復を恐れてのことなのだろうが、利が無いわけでもないので引き受けた次第である。


「で、だ。どういう経緯で、きみらがここにいるんだい。それとも用事はなく、ただ単に人様にご迷惑をおかけしに来たというのかな」


「そんなんじゃないわ。今日は、きちんと用事があるのだわ」


「ほう」


「こっちの仕事のことで、ここの物流について問いただしに来たのだわよ」


 問いただすのに護衛をぶちのめして吊るしあげる必要はないだろう、と思ったが、十二年もそのような蛮行を是として生活してきた連中である。染みついた価値観は変わるまい、と井澄は流すことにした。


「というか、そのために先月の依頼を中断させてもらったの。事情を確かめたくて、自分たちで動こうと思ったのだわよ。……もちろん、あの靖周から桧原を引き離す目論見もあったけれど」


「きみらの仕事というと」


 八千草がふれば、こくりとうなずいて楠木は指を折り曲げはじめた。


 親指、人差し指、中指、小指と折っていき。


「六層で、頼んでおいた薬が紛失されたのだわ」


 このようなことを口にしたので、井澄は振り返った八千草と目を合わせた。



本作トップクラスの不運男児。


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