2:お食事という名のお仕事。
「八千草、お昼はどうしますか」
「そうだねえ」
今日の八千草は裾丈の短い黒のビスチエドレスを身につけている。デコルテ部分はあまり広くとっておらず、立体的な蔦模様の刺繍を施されたボレロによって肩の露出を少なくしている。腰回りはコルセットによって締めているのか、常よりもくびれが目立っていた。腰から臀部にかけての曲線が、丸みを帯びているのに井澄の目に刺さる。目に毒だ。
二階より降りてきた八千草は、これらの衣服には少々そぐわぬ、無骨な長靴を合わせて井澄の前に姿を現した。
「今日は肉鍋を食べにいくよ」
彼女は長い黒髪を流麗にまとめあげ、ひとつに束ねるとつばの広いハットをかぶりながら言った。うなじが露出して耳の後ろまで、白く海岸線のように生え際がのぞく。食事のお誘いに井澄は驚いたが、それは小躍りしたいようなものというか、まあ要するに嬉しい驚きであった。
「お出かけですね」
「いや昨日の夜郵便で入った仕事であるからして。お前も早く外套を着るのだよ」
タンパーという道具でパイプに煙草葉を詰めながら、八千草は流し目で井澄を一瞥すると出入り口近くの隅にあるストオブへ近づいていった。
「わかりましたすぐ用意します」
八千草を追って井澄も外套掛けから上着をとる。赤い襟巻を首に巻いて、ドアにはめこまれた窓に映る己の姿をしかと観察した。眼鏡は曇りなくシャツも釦はしかと留まっている。
顔つきはどうだろうか、と確かめる。とくに変わり映えのない、至って没個性的ないつも通りの顔だった。ただ、よく目つきに険があると言われるので眉間のしわを伸ばすように指で押してみた。が、前髪を整えるだけの結果に終わる。
まあ少なくとも現状でできる一番良い格好に仕上がったと思い、横の八千草を見た。
「お待たせを。では行きましょう」
「おや、なにを言っているんだい? ストオブを消すから外套を着ろと言っただけなのだよ」
残り火から煙草に火を灯したらしい八千草は不思議そうな顔をして井澄に言った。井澄は得心いって、ぽんとひとつ手を打った。
「あー、なるほど。お気づかいいただけるとは、ありがたい」
「……うん、西洋伝来の冗句という奴だったのだけれどね。通じなかったのなら、まあいいや……一緒に行こうか」
「はい? ああはい」
今度は井澄が不思議そうな顔をする番だったが、ため息混じりの八千草は煙にまいて追及を避けた。
「して、留守番はだれがするんです」
「靖周がもうすぐ帰ってくる手筈であるよ。楠師処の連中、奴らからの依頼は一旦今日で打ち切りだったはずであるからね」
「よく依頼してきたものですね……。彼らの駒である〝危神〟は私たちにやられたというのに、私たちに護衛を頼むとは」
同僚の戦闘者・小雪路によって壊滅的な打撃をこうむった楠師処という散薬の店には、手を合わせたい気分になる。依頼だから仕方がないとはいえ、先月彼らは半殺しの目に遭ったのだ。いやいっそ死んだほうがマシな目だったかもわからない。
「なあに、これ以上痛めつけられる理由はないと思ったのだろうさ。この島の強者であった彼らを倒して、ぼくらの名はうなぎのぼりだ。いまさら怪我人をいたぶり名を貶める必要性は、ないだろう?」
「たしかに然りといったところではありますが」
事実、弱った強者をさらに失墜させんと現れる有象無象を処理する、などという仕事が与えられた次第である。あえて飯のたねを潰す手はない、当然の話である。
思い至るところが同じだったのか、八千草はいたずらっぽい顔で井澄を見上げた。
「……おや、井澄。ちょっと思ったんだけれどね。これからも小雪路に強者への突撃を続けさせれば、強者の座を狙う有象無象を排する仕事が常に舞いこむことになるのではないかな」
「しまいにゃ街中を敵に回すことになりますよ、それ」
「むむ、そうか。燐寸ポンプはなかなか上手くいかないね」
表に出ると、遠くより緩く傾斜をのぼるようにして陽が差し込んでおり、薄暗いながらもまだまだ昼であることを感じさせる。冬の寒さに頬の肉が軋んだ。
石畳に覆われた歩道へ踏み出せば、向かいの建物の並びまで三間(約五、四メートル)ほどの狭い車道を疲れた顔の御者が馬車を駆っていく。歩く人はまばらだ。
「駅までは馬車で行こう」
「肉鍋もそうですが、そんなにお金あるんですか」
「忘れたのかい? 昨日の女の子を届けたおかげで、いくらか金子をいただいたじゃないか」
「ああそういえば」
御礼金というよりは手切れ金とかそんな言葉が当てはまりそうな表情で、少女の両親らは八千草に紙幣を叩きつけて帰っていったのだった。
……こんな街なので正しい反応といえばそうなのだが、まだまだここの外の感覚が残っている井澄には『親切に嫌悪と侮蔑で返すのはいかがか』という釈然としない気持ちが残っていた。八千草は、気にしていないらしいが。
「乗せてくださいなー」
八千草が馬車を呼び、ほこり臭い車内へ井澄ともども乗り込む。御者は横目でじろりと井澄たちを値踏みして、最初のうちこそどうぼったくるか思案していると見えた。が、だれを乗せたかに気づくとすぐに態度を改めた。へりくだった笑顔が男に張り付いた。
「お嬢さん、どちらまで」
「奈古ステイションまで」
はい、と小気味よい返事をして、御者の男は馬を駆った。
洋館とあばら家が並び立つ、奇妙とも映る街景色の中を駆け抜けていき、鉄道の通る駅まで向かう。八千草が煙を吐くために開けた窓から眺める景色は、昼とは思えないほど薄暗く天が近い。
それもそのはず天とは天井であり、井澄たちの立つ地面より六間ほどの位置にある。
馬車が曲がると、緩い下り坂となっており、駆けあがってくる陽光と真っ向から対面するような形になる。
「昼であるねえ。たまに陽の光を浴びずに一日を過ごすと、存在を忘れてしまいそうになるけれど」
「ガス灯もロハではないんですから、読書をしたいだけならば外区へ出かけたほうがいいのでは」
「勘弁しておくれよ。手間なのだよ」
答えて、八千草は煙草に苦虫が混じっていたような顔をした。
やがて馬車は三区から二区へ出る。傾斜がなくなり平地になると、陽の光が強くなってきた――この島は山の斜面と地形を利して作られた、全六層・各層で六区画ずつに分かれる複合階層都市であるためだ。
数が少ないほど上層へ、数が少ないほど陽のあたるほうへと区画が取られており、一・二層の一区などは富裕層によって独占されている。反対に六層の六区ともなれば、完全なる地下であるため人工の光以外は射しこむ余地がない。人が住まう場所ではない、などと呼ばれている。
井澄たちの住まうは五層の三区。一般に、層の数は私財を示し、区の数は治安を示している。両者をかけて数が十六を下回れば比較的安全と言われているため、中庸な暮らしぶりだと言えた。
業務内容の苛烈さをさておくとすればだが。
「して、どちらまで鍋を食べに行くんですか」
「四層五区の二九九亭。あと食事だけでなく、本題は仕事であることを忘れないように」
「そうは言っても期待は高まりますとも……肉などしばらく食べてはいなかったわけですし」
「粗食で済ますほうが上等さ」
窓べりに肘をついて頬杖とした八千草のほうから、きゅーと奇妙な音がした。
「……けれど空腹を否定するのは人間存在の否定であるね」
「八千草……あなた昨日夕食ほとんど食べてませんでしたけど、もしかして」
「昨日は胃の腑の調子が悪くてだね」
「でしたら今日も肉のように胃に重たい食べ物はまずいかと」
「嘘、いまの大ウソであるよ。後生だから食べさせてほしい、お願い」
パイプを口から離し片目を閉じて井澄をうかがい、もろ手で拝むようにして言った。愛らしい、丸い瞳が井澄を捕えて離さない。
可愛さ余って憎さ百倍なんて言葉があるが、余りが出るなら掛け算は出て来ない、などと取り留めもないことを井澄は考えた。
「割り切れない気持ちになりました」
「なぜだい?」
「いえ、特には。ひとまず、店についてから肉のことを考えましょう。いまから食事のことばかり考えていると、油断してしまいそうですし」
井澄は話題を切り上げて、常になく無防備そうな様を見せていた八千草から目を逸らした。八千草はああうん、と頬を叩いて引き締めた表情をのぞかせた。けれど数瞬あとに目をやると、泳いでいる目が空想に入り浸っていることを示していた。
しばらく行ったところで馬車は停まり、奈古ステイション前に着く。
井澄たちのいる三区から奥、四区以降の行政圏外地区はどこも細く入り組んだ迷路のような様相を呈しているものだが、各層のステイションを擁する二区と一区は開けた道が目立つ。
火事の際の延焼を防ぐ意味もあるらしい、道幅半町(一町、約一〇九メートル)、長さ五町もの広小路は、いわば各層の顔とも呼べる場所である。陰気陰鬱陰惨の三拍子揃った雰囲気漂う三区以降とは比べ物にならないほど天井も高く陽光が明るく、活気づいており人も多い。
五層たるここの特色としては、和の趣を取り入れつつ洋館の体裁を保った奇妙な家が多く建ち並んでいることにある。瓦屋根の下にギヤマン彫りを施した色とりどりの窓を設えたり、西洋風の白壁と漆喰の壁が同時に立ち並んでいたりするのだ。
またそこかしこで開かれた店が客引きをしており、見とれているとスリに会うこと必至の場所でもある。
「ありがとう、ではまた」
御者に金を支払った八千草は片手にアンブレイラを携え、パイプをくわえ直す。井澄についてくるようにうながし、人ごみの中を抜けていく。身のこなしが上手いためかそれとも小柄であるからか、放っておくと距離があいてしまうため、井澄は追いつくのに苦労した。
「あまり素早く移動しないでください」
「兵は巧遅より拙速を尊ぶ」
「お腹すいているだけでしょう、あなたは」
「腹が減っては戦はできぬ」
「格言を引用すればそれっぽく受け答えできてると思わないでください」
やがて広小路を抜けると、大きな機巧仕掛けの時計台が見える。
高さ四間ほど、太さは大人の男でも二抱えはあるだろう塔のような時計台で、漢数字の刻まれた文字盤が金色に輝いていることから俗に金時計と呼ばれている。
待ち人との集合場所に用いられること多いこの金時計の裾にある広場、その奥にある百は足踏みを要する大階段を抜けると、ようやく奈古ステイションに辿り着ける。人が多すぎるため馬車ではここまで来れないのだ。
「にしても、今日は特別に人が多いですね……ああ、今日は七日か」
「うん。ゆえに人が多くなるので、それにまぎれていろいろ起こりかねないという次第さ。だからぼくらに御鉢が回ってくるのだよ」
七の倍数の日は、各層に特に多くの運搬が来る日付だった。列車の本数も増え人の出入りが激しい。
人の波が寄せては返す道を行き、一段一段の幅が広いこの大階段を、走ってのぼる。八千草の後ろを駆けながら、井澄は仕事の前に腹ごしらえがしたいな、と思った。人ごみにもまれて、無駄な力を使っている気がした。
「階段の、踊り場までの間隔が、長い……」
嘆きながらちらと上をうかがうと、八千草のビスチエドレスの裾がひらひらしていた。
はっとして少し屈んでみると、パニエでふくらんだスカート部分の裾、黒いレースの装飾の向こうに、無防備な膝裏のくぼみが映えた。さらに腰を屈め、視線だけを上げようと試みると、白いドロワーズが、垣間見えそうだった。
「階段の、踊り場までの間隔が、短い……!」
「どうかしたのかい?」
もう少しというところで毎度踊り場に入ってしまい、平坦な道は井澄を絶望と諦念に押し付けてくる。残念に思いながら井澄は走り、どうにもならない現実を嘆いた。
すると途中で、他の人も下の方からのぞくのではないだろうか、という考えに行き着いた。雷にうたれたような衝撃を覚えた。
「な、なんたる非道……!」
「だから、どうかしたのかい?」
急ぎ、井澄は八千草の走るすぐ後ろについた。これで他の人にのぞかれる危険もない、とほっとしたのもつかの間。近づきすぎたために井澄の向こうずねに八千草のブウツのかかとが命中した。思わず痛さで屈みこみ、うめく。
「あっ。だ、大丈夫、井澄……」
少し駆け過ぎて、振り返る八千草。
と、屈んだ姿勢と、段数の差がちょうどいいものだったために。ふわり、舞ったドレスの裾の奥を、井澄は拝むこと叶った。
無地で純白のショートドロワーズは、表面に浮かべた無数のひだの下、裾は八千草の太腿の柔肌にやんわりと食い込む形で、わずかな時間姿を現した。
「……大丈夫そうであるね。ああ、大丈夫そうだよこの男は」
「いたい、痛い八千草、痛いです」
数回、ブウツの裏をも拝むことになる。痛いのに嬉しいというおかしな状況になり、井澄は複雑な表情を浮かべた。
そんなところ、遠くで列車の汽笛が鳴るのが聞こえた。八千草は時刻を確認すべく値の張りそうな白銀の懐中時計を取り出して、風防を開くとあっとつぶやきを漏らした。
「っと、いけないね。馬鹿なことをやっているうちに時間が危うくなってしまった」
「それは困りましたね……あ、八千草後ろ」
「うん?」
振り向く前に井澄がポケットから取り出した硬貨幣を両手の親指で弾き、八千草の懐中時計を盗もうとしていた男の指先と額に二連続で命中させた。
男は人差し指の爪を削ぎ飛ばされて悲鳴をあげ、ながら、直後に頭がのけぞり、割れた額から血を流しながら失神した。膝から崩れ、ずるずると頭を下にして階段を滑り落ちていく。
「ああ、スリかい。自分で対処できたのに」
「あなた、不意打ちくらうと反射的に抜くクセがあるでしょう。さすがに真昼間の駅前にて刃傷沙汰はまずい」
「これから気をつけることにしよう」
「まったくですよ」
「さっきお前にやったみたいに、蹴るようにすればいいのかな?」
ではそれでどうぞ、と返すつもりが、なぜか逡巡してしまった。どうしたと聞かれて、自分でもよくわからない感情の表れに、あごに手をやった。
皮膚の引きつり具合からして、井澄の顔は曇っているようだ。そして言った。
「私以外を蹴るのは、いかがかと」
「なんだいそれは。まあいい、ぼくは先に行くのであるよ。そいつは通行の邪魔にならないようどけておいておくれ」
「委細承知」
言うが早いか駆けだす八千草を見送って、井澄はハアと溜め息をついた。
男の足首をつかんで片手で引きずりながら、思う。……さっきの経験が元になって、痛みのたびに嬉しさを覚える体質になってしまったのではないかと心配になっていた。だから独占欲的な観点から、自分以外が蹴られることに難色を示したのでは、と。
「そうだとしたら人間の条件反射の形式として、〝大階段の井澄〟とでも名付けよう……」
よくわからない決意をしながら、井澄は八千草に追い付こうと階段をのぼった。
素早く切符を買ってなんとかホームに滑り込んだものの、結局二人は列車に乗ることかなわず、しばし立ち止まることと相成った。
八千草は空腹を覚えてか不機嫌になったが、スリの着物の懐から頂戴した紙巻煙草を手渡すと、とたんに上機嫌になった。パイプをシガアケイスというらしいビロウド張りの小箱に納めていずこへかしまいこむと、燐寸にて火を灯し煙を喫んだ。
井澄も自前の紙巻煙草を取り出し、それからわざと燐寸を忘れたふりをして、八千草のくわえる煙草を指す。
仕方なさそうに差し出されたそれから貰い火をして、井澄はしばし間接接吻の気分を味わいつつ列車を待った。