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明治蒸気幻想パンク・ノスタルヂア  作者: 留龍隆
三幕 探偵対峙

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19/97

19:知りたがりという名のブンヤ。

四つ葉設立の由来。

例によって史実とは(あんまり)関係ありません。


 四つ葉では居留地といっても、横浜であるとか神戸であるとか、そういった他の居留地とは少々事情がちがう。


 人が殺されたといって、それほど騒がれることはない。なぜなら、実はここには領事裁判権すら存在していないのだ。


 まずこれについて語るには、四つ葉の設立についてかいつまんで話さねばならない。そもそもは十数年前に出来た〝賭博犯処分規則〟というものに、四つ葉の設立は端を発している。


 幕末、幕府と諸藩の力が弱まったことにより横行した賭博や諸犯罪、また自由民権運動などの反体制についた人間を取り締まるべく打ちだされたこの法により、私的な賭博は禁止された。そしてひっ立てられた博徒ばくとたちは労役の名のもと、貿易拠点として設立予定であった島へ労働力として送られた。言わずもがな、四つ葉のことである。


 そこで六層の複合階層都市を建立することとなったわけだが……幾多の動乱に疲弊していた政府は税収を得るため、また荒くれ者の博徒たちを島に閉じ込めるため、島の奥深く四層以降に〝公営の〟賭博場を建てた。……策は見事にはまり、博徒たちは島から動くことはなくなった。むしろ本土からも博徒が渡るようになり、政府は自らに楯突く邪魔なものを一掃することができたのだ。


 ところが、あまりに彼らに住みよい場としすぎたために、四つ葉が四つ葉の名を冠する原因――つまり『四つの葉閥』を作り内部で敵対を始めたころには、貿易拠点としての力はみるみるうちに失われていった。当然だ、危険な場に赴いて、だれが商売をしようというのか。


 そこで政府は兵糧攻めに出る。四つ葉の存在を事実上無視し、貿易拠点としての在り様、存在価値を奪い去ることとした。神戸港などをより開かれた場所となし、諸外国が四つ葉を必要としなくなるように仕向けた。こうすれば次第に外部からの供給が枯渇し、いずれ死に耐えるだろう、と。それからもう一度立て直せばよい、と。


 だが四つ葉はしぶとかった。最初に島へ労働力として送られた博徒たち――現在の〝青水〟瀬川せがわ一家。彼らは入島後すぐに結託し、とうの昔に政府からの人間を懐柔し、あまつさえある切り札を抱えていたのだ。


 四つ葉には、銀山があった。複合階層都市を建てる中途で偶然に発見されたそれを彼らは固く秘して、露見した政府の手のものには袖の下を渡す、あるいは口封じに殺すことで存在を守り続けてきた。まだまだ銀本位制が強かった日本であるが、まさかこんなところから銀が漏れているなどとは、気づくまでに政府はしばし時間を要した。


 気づいた時にはすでに遅く。


 銀を用いて青水が島の貿易・流通を活性化させたのち、ここに食らいついた赤火が紡績工場や製鉄所を小規模ながら経営の軌道に乗せる。さらにそれを材料に緑風の技術者が工芸品などの生産を手掛け、人々の癒し・娯楽、はたまたこれらを元にした情報網により黄土が常に周囲を牽制。現在の四つ葉の形態が生まれ、今日に至る。


 政府はもはや賭博場からの税収の他は、居留地の永代借地による土地への税と、法に沿うかも怪しい家屋への二重課税まがいのものでしか干渉できなくなった。それでも自分たちこそが島の命を握っているのだ、と対外的に印象付けるべく、噴上ホウルの蒸気機関部には政府職員が常駐しているが、肩身の狭そうな思いをしている彼らは印象付けのための生贄に過ぎない。実権はなにひとつ、得られていない。


 そんなこんなで政府の管理下にあるとも思えないこの島は、なんでもあり(バアリトウド)の場となった。もちろん規模としては神戸横浜長崎などより小さいので、だからこそ黙認されている部分もあるのだろうが……中堅から下の商人にとっては、己を守る法がない代わり、やり方次第では大きな儲けを生み出せると評判になった。


 しかし、高利・高代償というこの島の特色こそが、政府の追い出そうとした賭博の性質によく似ているとは、なんたる皮肉なのだろうか。



        #



 山井と六層で飲み明かしてからしばらく。アンテイクに戻ってからも八千草に無視され続ける日々に参っていた井澄は、舞い込む小さな依頼をこなすことでなるべく細かいことを考えないようにしていた。


 そんなある日の午後、〝蹄鉄の購入〟を口にする者が現れた――つまるところ、アンテイクへの依頼の人間である。業務内容は護衛、仕事は四日後、睦月の四日からとなった。わりとあっさりした手続きで、依頼は終わった。そこからは、依頼に臨むための下調べを成すこととする。


 すっかり返事をくれなくなった八千草に「いってきます」と声をかけてから、井澄は仕事に臨むべく準備をする。どんな精神状態であれ仕事に臨もうとすればそれなりに動けるあたり、まるで命令された畜生のようだと自嘲気味に笑う。社に命ぜられし畜生。悲しい生き様だ。略して社畜。


 背に影を負った気分のまま井澄は夕刻の暗がりへ歩みゆき、五層四区にある場末の茶屋にて、ある人物と向き合った。先に来ていた彼は手をあげ、店の奥の指定席へ井澄を招く。


「お久しぶりです、はああ」


「うわあ、会って早々に溜め息つかないでくださいよ、旦那。大みそかに気分悪くなるなあ」


「厄は今年限りで置いていきたいものです。で、いいネタは仕入れてますか」


「っはは。まあそれなりには、ね」


 言いながら、男は懐から出した手帖をぱらぱらとめくる。


 うねるような黒髪を短く後ろに束ねており、眼は細く、けれど顔全体がひどく小さいために、幼い印象を受ける。だがこんななりでも歳は二十と七八、仕立ての良いスリイピイスにハンチングを合わせた服装が板についていて、名を踊場宗嗣おどりばそうじという。


 四つ葉新聞という、島内のみで出回る新聞雑誌の記者であり、井澄が頼りとする情報筋が一人である。


「ええと居留地居留地、六層一区番外地での斬殺、と。お亡くなりになったのはブルーノ・バートリーという商人ですね。二年ほど前から四つ葉での行商を生業としてまして、先月終わりから滞在していたとか」


「そちらについては知ってます。薬品や植物の取扱をしていたのでしょう」


「あちゃ、ご存知ですか。なら別の情報……そうだなあ、もう一件の斬殺体についてお教えしましょっか。関係ありと見られてるんですよ、居留地の件と」


「もう一件? そういえば山井も二件あったと」


 疑問符をつければ、途端に踊場はこちらを値踏みする視線で手帖から目をあげる。接ぎ穂を用意できず黙っていると、うずうずした様子を隠しきれないまま、踊場はお茶を口に運んだ。


「山井といえば〝黒闇天〟の山井さんでしょう? 腑分けも担当するあの人でさえあずかり知らぬことです、知っておいて損はないと思うんだけどなあ?」


「……では聞きましょうか。しかし毎度思いますが、そんな情報をどこから」


「壁に耳あり障子に目あり、人の口に戸は立てられぬってね。まあそういうところのコツは今度一緒に飲みに行ったときにでもお教えしますよ。では情報料を」


 掌を差し出して、踊場はにやにやと笑みを浮かべた。料金は前払い、いつもちゃっかりとしたものだ。


 仕方なしに井澄は懐に手を差し入れ、すいっと――手帖を取り出すと、栞を挟んでおいた頁を開き、適当な情報を対価として引き出すことにした。情報を選ぶ間、間繋ぎに雑談に興じつつ。


「先日の、小雪路復帰戦の記事はどうでした?」


「ええそりゃもう大盛況で、飛ぶように売れて嬉しい悲鳴ですよ。膠着していた四天神の間に突如滑り込んだ若手ですからね、この一カ月の間、彼女の次の戦いにみんな注目していたようでして」


「西洋拳術を相手取ったあたりが、物珍しくて受けたんですかね」


 小雪路のあまり要領を得ない話から井澄が推測したところ、倒れ伏した渡会という男はボクシングを戦型とした体術の名手であったらしい。このような島でも、人々はまだまだ西洋の文化に親しんではいない。物珍しさは集客率に繋がるものだ。


 ところが踊場は御懐中筆で頭を掻きながら、なんとも下卑た笑い声をあげた。


「それもありますけど、あの子は見た目がよろしいですから。話の構図としてやっぱりねえ、映えるんですよ。ほら旦那、先代〝危神きじん〟との戦いでも話題になりましたが、あの子、興が乗ってくると脱ぐじゃないですか」


「あれはその方が摩纏廊を使いやすいだけなんですけどね」


「そういう純粋な闘争心のためだけに脱ぐってあたりも受けてるんですよ。真の客寄せってのは客に合わせるんじゃなく客が合わせる、客が応援したくなるものなんですねえ……そいでいてあの子、胸が大きいし。その辺も受けてる要因ですよ」


「はあ、そうなんですか」


 そういえば嘉田屋の警護の間も、小雪路は客をとる娼枝なのかと問われたことがあったが。一般的には見目麗しい部類に入るのだったなあと、いまさらのように井澄は再認識した。踊場は下卑た笑みをすすすと引っ込めると、あまり芳しくない反応を示した井澄の顔色をうかがうように、下からのぞくような格好になった。


「……冷めた反応だなあ」


「あいつの乳が新聞の発行部数に関わるのかあ、と思っていただけですが」


「またなんか含みのある言い方ですね。でもそんなもんだと思いますよ、人間興味が湧くものはあらかた決まってますって。そして下世話な話は、だいたい受ける」


「まあそうなのかもしれませんが、私は特段あいつに心惹かれる部分がないので」


「本当に? あんな大きくても? たわわにたぷんとしてますけど?」


「突き詰めればただの脂肪の塊ですし。欲情の対象として見ることはできませんね」


 井澄の心中はいつも何時でも八千草に占められている。他の女人が入る隙間などどこにもないのだ。……自分の一途さを誇るようにこう考えてみたものの、連鎖的に八千草と喧嘩の最中であることを思い出してしまい、言葉尻から落ち込み始めた。


 若干暗くなった井澄に、踊場はまた嫌な笑みを取り戻してつぶやく。


「ああー……嘉田屋での話、俄然真実味を帯びてきましたね」


「? なんの話ですか」


「いやね、嘉田屋であの通り魔事件の聞き込みしてたら、ちょいと小耳に挟みまして。事件のときに何人かの娼枝に誘われたのに、ぜんぶ袖にしたそうじゃないですか」


「はあ……、」


「おかげでちょっと嘉田屋界隈から女性陣の間で盛り上がってんですよ。沢渡井澄・男色家説」


「はあ……はあ?!」


 大げさな反応をしてしまったせいで、踊場のなにがしかのツボを突いてしまったらしい。途端に目を輝かせて詰め寄り、開いた手帖に御懐中筆を向ける。


「本命は靖周さんですか? そうだと妹さんの記事と合わせて書きやすいんですけど」


「ちょ、待て、私は男色じゃない、そんなこと言ってると小雪路の記事書かせませんよ」


「四つ葉新聞も女性読者を確保したいところがあるので、二代目危神の記事はこの際後回しでもいいんです!」


「そんないい加減な」


「さあさ、正直に答えてください。いや面白ければ話盛ってくれたほうが助かるかな。どうなんですか本命は! 先日は三層のバアラウンジにもいたそうですが! 枯れ専なんですか!」


「わっ、私は女が好きだ!」


「……ああそう」


 叫んだところで後ろから声がかかる。まばたきするよりも早く、井澄は声の主を認識する。認識しきるよりも早く、振り向いた。


 長い黒髪をなびかせ、いつ何時でも凛とした居ずまいを崩すことはない。崩れたとしてもそれはそれでまた常との落差として、井澄を魅了する。我が麗しの八千草の姿が、そこにあった。


「八千、草」


「うん……さっきの依頼、ちょっと追加の情報があったので伝えにきた、のだけど。なんの話をしていたんだい」


 パイプをくゆらせつつ、前髪を空いた手でもてあそんでいる。こちらを見ないようにしての問いかけに、まだ少々の距離を感じて井澄はいたく傷ついた。しどろもどろになりながら、それでも、場を取り繕おうと言葉を選んだ。しかし頭の引き出しはなぜだかすっかりがらんどうになっており、気のきいた言葉ひとつ見当たらない。


 結局、先ほどの言葉をもう一度遣うことと相成った。


「あの……いまも叫びましたけど、その……私は、女が好きでして……」


「……うんわかった」


「あの……なんか、ごめんなさい」


 ゆるゆると頭を下げて、井澄は畳に手をついた。他の客もみな、居たたまれない空気になっているのを感じた。踊場でさえ黙りこくって、ことの推移を見守っている。事態が落ち着いたら記事にされるかもしれないが、ともかくも現状を乗り越えることこそが井澄の最重要最優先達成事項である。


 やがて、上から声がかけられる。


「うん、もういいから」


 それはそれはやわらかな声音で、井澄は言外に、彼女から許しを得られたことがわかった。同時に、もしや思いを悟られたのではないかと、気がかりが生まれる。まだ機ではない、けれどここでどうにかなれるのならそれもそれで、と頭の中でぐるぐると悩みが渦巻く。


「お前もなんだかんだで、靖周と同じ性質なのだね」


 だが一言で、悩みはふっつりと行き場をなくして途絶えた。


「え」


「女ならなんでもいいということだろう……小雪路にもなにか言い含めておくべきかな」


「え、ちょっと、八千草、どこから聞いていたんですか」


「本命は靖周さんですか――の、辺りから」


 惜しい。小雪路に興味が無いとの宣言はとうに過ぎた辺りだ。


「まあ普通の男だというのはわかったよ。まだしばらく、距離は置かせてもらうけれどね」


「待ってください八千草っ、いくらなんでもそれは殺生な……」


「旦那ぁ、アンテイクの複雑な人間模様、って見出しでいいですかね?」


「踊場、その筆指ごとへし折られたいんですか」


 ややこしくなる話の流れにうめいて、井澄はばりばりと頭を掻きむしった。



        #



 あのあと、しつこい踊場にいくつか情報を流して黙らせ、なんとか井澄は斬殺体の一件について情報を得ることができた。


「……もう一人の被害者は、あのときの」


 ヨハン・リヒターという名に覚えはなかったが、状況と外見の情報は彼としか思えなかった。


 いわく、嘉田屋本店の地下座敷牢より、ひとつの遺体が運び出されるのを見た者がいるのだという。仰向けの遺体は一刺し、心の臓を貫かれて絶命した異邦人と見えたらしい。その後は山井もあずかり知らぬということは、腑分けに出すこともなく処理を成したのだろう。


 アンテイクに戻って客間のソファに腰掛けた井澄は、手帖をめくりながら顎に手を当てた。扉を開けて入ってきた八千草は、ソーサーに載せたテイカップをテエブルへ置くと、片手に持っていたポットより紅茶を注ぎ、井澄の対面に腰を落ち着けた。


「死にました、か。嘉田屋に引き渡したあとは、どうなるのかと思っていましたが」


「しかし、地下に閉じ込められていた時点で……どのような目に遭っていたのかは、想像に難くないと思うのだけれども」


「といって、報復の拷問に止めがあるとは思えませんよ。せいぜい衰弱死を待つのが一般的かと。そして苦しむ奴への慈悲として止めを刺すほど、月見里さんは甘くはない」


 神妙にこくりとうなずき、八千草はカップから熱い液体で喉を潤した。ストオブの焚かれる暖かで激しい音が、部屋の外から響いている。


「となると、やはり殺しかい」


「恐らくは。警護をすり抜けての殺しですから、相当な手練だと思いますが……実はそこも、居留地のほうの事件と似ているんですよね」


 一枚めくって、居留地についての項目に目を移す。


「ブルーノ・バートリー。英吉利エゲレスからの商人で、こちらも滞在のために使っていた宿の中で殺されています。だれも凶行に気づくことはなく、真正面から横一文字に首を斬られていたと」


「人の目がありそうな場で、商人が殺された、という点は同じか」


「ええ。そしてどちらも、大振りな刃で殺された形跡がある」


「それはなんの情報にもならないだろうね。廃刀令がきちんとまかり通っている本土ならばともかくも、この島では通りを二、三歩もあるけば帯刀している奴にぶつかるよ。隠しているかどうかはともかくとしてね」


 ぽんと、八千草は横に置いたアンブレイラに手を添える。


「前から言おうと思ってましたけど、正直八千草のアンブレイラってぜんぜん隠せてませんよね。だって四つ葉で雨に降られる場所なんて限られてますし。携帯するのは不自然というか」


「う、うるさいなあ。どうせステッキにしても怪しまれるのは同じであろうよ」


「背負うように、背筋に沿って服の中に隠してはどうでしょう」


「この背丈じゃ……座ったときに、首元からのぞくか床に刺さるかしてしまう……」


 嫌そうに自分の上背を手で測り、深い溜め息の中に沈黙が落ちてきた。


 気にせず流すのが最善と思い、井澄は続けて手帖を読み上げた。


「ブルーノは主に薬品と植物を取り扱う商人だったようですね。ヨハンとは英吉利で知り合っていたようで、時折居留地のバアラウンジで酒を酌み交わしているのを見た者がいます。商談よりは単純に友人としての付き合いだったようで、大抵は買った女の話をしていたとか。そういえば、八千草。依頼の追加情報とは?」


「ああ、それだけれど……どうやら山井さんの薬品類、六層といっても居留地の時点で紛失されていたそうなのだよ。汽車に載せる前の通し番号にそれらしき荷がなかったらしい」


「積み下ろしの際の紛失、ですか? それはまためずらしい」


 六層や五層で貧民の多い場を抜ける際に盗まれる、というのは四つ葉においては日常茶飯事であるが、商人という、金と物をなによりも上において生きている者どもの目がある港では、なかなか盗みというのは起きない。


 他の居留地とちがい、必要以上に異邦人に気を使うことはない四つ葉であるが、その代わりここでは富める者こそが力を持つ。先日のヨハンしかり、商人は屈強な護衛を引き連れていることも多いので、基本的に萎縮し注意すべき手合いなのだ。


「荷として蔵に納めた形跡はあるのだけどね……山井さんがきなくさいと言っていたのが、少しわかってきた」


「はてさてどうなるやら、年のはじめから厄介なことに巻き込まれたくないですよ」


「まあね。だがその前に年の瀬であるよ、ぼくらも大してやることはないけれど、せめて静かに過ごすとしようか」


 紅茶を口にする八千草は、すっかり日も落ちて……という事実が実にわかりにくい外を見やる。井澄も目を向けて、今年もわずかになってきたことを意識する。


「除夜の鐘が聞こえてきますかね」


「年越し蕎麦でも頼もうか」


「蕎麦ならさいきん良く聞く店があるから、そこいこうぜ」


 ふっと声だけ飛び込んできて、すぐににゅっと扉の隙間から首が突き出される。音を消して忍び込んできたらしい靖周は、いつもの継ぎ接ぎ羽織の袖口に手を差し込みながらちゃらちゃらと袂に軽快な音を鳴らす。


「どこから湧いてきたんですか」


「おい井澄よ、人を御器齧り(ごきぶり)みたいに言うなよ……台所の勝手口だっての。そーれーでぇ、蕎麦だよ蕎麦! 巣餓鬼屋って名の店でな。妹もすぐここに来るからよ、四人で行かないか?」


「安いのかい」


「多少は安くなきゃ勧めねーよ。つーか俺が食えねえって」


 なおもちゃらちゃらと小銭の音を鳴らす。こいつ小銭しか持ってないな、と井澄は看破した。だが金をくれてやるつもりはなかった。すでに井澄は靖周に五円ほど貸している。返ってくるあては、ない。笑う靖周は口にくわえた煙管を上下させた。


「蕎麦は二八の十六文とよくいうが、この南京蕎麦って奴は十五銭だそうだ」


南京蕎麦なんきんそば?」


 首をかしげる八千草に、井澄が腕組みして答えた。


「聞いたことありますよ。向こうの国から伝わった麺料理で、鰹ではなく鳥や豚の骨から出汁をとり、醤油などのたれで味付けを濃くして汁を作る。そこへ黄色みを帯びた独特の風味の麺をひたして食すのだとか」


骨酒こつざけみたいなものか……?」


「おう、近いようで遠いな。んで店だがよ、どうやら夜なき蕎麦よろしく、屋台をひいて回ってるらしい。チヤラメラとかいう甲高い音の妙な楽器で客引きしてて、通ればすぐわかるそうだぜ。どうする?」


 行く気満々の靖周はしきりに扉の外を指していて、どうにも逃げられそうにない。どうする、と目配せする八千草に肩をすくめてみせて、井澄は己の銭入れを確認した。まあ十五銭くらいなら、と諦めの気持ちが生まれた。


 来る年は金に縁のある年になるといいなあ、と思いつつ、願いを蕎麦に託すこととした。



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