17:風呂という名の選択機。
燗葡萄酒を気に入ったのか、続けて五杯ほど飲みながら、八千草はおいしそうにビフテキを頬張った。井澄もせっかく出されたのだからと肉を口にし、柔らかで舌の上で弾ける肉と、溢れる旨味を堪能した。悔しいが、たしかにうまいのだった。
「お肉もよいね。洋食はたまに食べると実にうまい」
「うちは基本和食ですしね」
「まあ、ぼくは作れるものが少ないのでね。ふん」
「不満があるわけじゃないですよ。たとえ焦げてても見栄え悪くても私は食べますし」
「不満なくとも不安があるような物言いをするな」
食後の一服を挟みながら、八千草とこんなことを話した。それからは、乾酪をあてにして井澄は常温の葡萄酒を口に運び、静かに時間が過ぎる。
やがて、良い気分になってきたのか、八千草はカウンタテエブルへ頬杖をつくと、すやすやと居眠りを始めた。わずかに紅潮させた頬と、ちいさな寝息を立てる口元が艶やかで、閉じた目を縁取る長いまつげが、しとどに濡れそぼった、淫靡な輝きを照り返している。
思わず眺めていたいと思わせる様であったが、井澄は素早く周囲を確認した。すいと目をそらしたと、明らかにわかる人間が数名いた。
「……み、見られている」
落胆を隠しもせず、井澄は取り急ぎ八千草を起こそうと、強めに肩を揺さぶった。ふうぅ、と常にない奇妙だが愛らしいうなり声が聞こえたが、これ以上周囲の耳目に八千草の無防備な姿をさらすことは耐えられなかった。
このような様子は、自分以外に見せたくはない。
「八千草起きてくださっぶない!」
のけ反って、すぐさま井澄は前言撤回せざるを得なくなった。無防備などとはとんでもない、ほとんど反射で八千草はアンブレイラから刀身を抜き放とうとしていた。すんでのところで井澄と気づいたこと、彼も回避の体勢に入ったことが功を奏して無傷と相成ったが、そうでなければ命が危うかった。
「……ああ。井澄か」
「……ええ。私です」
「んん。少し飲み過ぎた、かな。葡萄酒は慣れているつもり、だったのだけれど」
「燗をしてあったのが問題だったんですかね」
言いながら長樂のほうを見ると、彼はつつつとカウンターに肘を滑らせるように近寄って、井澄にぼそぼそ耳打ちした。
「きみがお持ち帰りしやすいよう、混ぜる糖酒の量を少しずつ増やしてあげたよ」
「なんと余計なことを」
「おや。一夜の御供に狙っているのだと思い、親切でしてあげたのだが」
「この人は私の上司です」
「ならばなおさら。夜くらいは上手になれるよう頑張りたまえ」
「いや私は四十八手も下のほうが好みでして」
「あー、店主。悪いのだけれど茶、薄めでもらえるかい」
「なに茶臼、きみも四十八手の話か……いや冗談だ爪弾き、硬貨幣をこちらに向けるのをやめてくれるかね」
会話に割り込んできた八千草に向けてひどく下衆な根多を振った長樂は、井澄が無言で指弾の構えを見せたことで臆したか、もろ手をあげて硬直した。
「勘弁してくれ。まだ先日の傷も完治していないんだ」
「冗談は時と場合と相手の機嫌を図って口にするべきですよ」
「やれやれ」
長樂は足を引きずりながら台所を向いて、茶を淹れ始めた。硬貨幣をしまった井澄は、うろんな目つきをした八千草に「なにを怒っているのか」と問われたが、説明することは当然できず、ただゆっくりと赤面した。
二人して茶をすすり、わずかに酔いがさめたところで、店を出ることにした。八千草が眠っている間に井澄が勘定を済ませていたので、あとは外へ出るだけだった。八千草がボンネットとケイプを身につけるまで待ち、並んで外へ出る。寒風に吹かれる井澄の背に、長樂は軽い声をかけた。
「またの御越しを」
「ええ、また会うでしょう」
「向こうの仕事で、かね」
「それもあるでしょうね。次は私も、殺しの依頼かもしれません」
「では、それ以外ではほどほどの付き合いとしよう」
「お互いに」
目を合わせずに声をかけあい、扉を閉めようとしたところに、長樂が思い出したのか付けくわえた。
「ああそうだ。最近この界隈で、斬殺体がいくつか見つかっている。用心して帰ることだ」
「またはらわたの持ち去りですか」
「はらわた? いや、今度は明らかな刀傷だそうだ。一太刀でずばり。お前たちならばよほど大丈夫だろうが、酔って気を抜いた帰りに死なれては寝ざめが悪い」
「ご忠告感謝します。よほど大丈夫ですけどね」
「では今度こそ、またな」
扉が閉まり、外気に覆われた井澄と八千草は、身震いした。酔いも一気にさめるのではないかと思われて、しばしそこから動く気にならなかった。やがて、のろい歩みでステイションを目指す。
架線貨車の発着所もそうだが、この通りからはさほど距離がない。時間もまだ早いためか、井澄たちとは逆に、いまから店に向かおうという気配のある人間が、多数見受けられた。
「さて、架線貨車は夜半ですと割増料金がかかりますし、列車で帰宅としましょう」
「料金、あっ。そういえば支払いは」
「私がしておきましたよ」
井澄が隙なく返せば、八千草は目を伏せ、ちょっと申し訳なさそうにボンネットの縁を下げた。
「すまないね。お前、貯金しているというのに」
「いえ、だからさっきも言おうとしましたけど、貯蓄はいざというときのためで、別に特に定めた使い道はないんですよ」
持参金の用を成す日を待ちわびているが、これも使い道というより今後のためであるので言葉に嘘はない。呆気にとられて目を丸くした八千草は、取り出そうとしていた銭入れをゆるゆると閉じた。それから半目で井澄に歯を剥いた。
「なんだ……」
「ちょっと、どうして私が嘘ついたみたいな目をしてるんです」
「だまされた気分であるよ、二枚舌。地獄で引っこ抜かれてしまえ」
「空想上でもこれ以上痛めつけないでください、私の舌を」
ただでさえ大き目の穴があいているのだ。大きく口をあけて喋ると、刺飾金が冷えて舌が痛い。
しばらくは釈然としない顔つきで前を歩く八千草だったが、頃合いを見計らった井澄は「だから今度こそ煙管買いに行きましょう」と出かける予定を確約しようとした。
まだ少しすねているのかつれない様子の彼女に、なおも「煙管いいですよ煙管」と言いながらステイションに入ったので、駅員から怪訝な顔をされた。切符を買う際には口を結び、さすがに井澄も煙管煙管とは話題にのぼらせなくなったが、根負けしたのか八千草は「今度ね」と最後にはつぶやいた。喜び勇んで、井澄はまた手帳に書きつけた。
コンパアトメントに乗り込んだ二人は、上着や外套を少し脱ぎ、夜の街を窓の外に眺めつつ腰を下ろす。温かな車内と稼動の揺れは酔いを引き戻し、八千草はすぐ、うつらうつらし始めていた。
「寝過ごさないか、心配であるね」
「大丈夫ですよ。私が見ています」
「そうかい。なら、懐中時計を貸しておくよ。よろし、く」
時刻を確かめる方法だけ残して、あっという間にまぶたを下ろす。すやすや眠り始めた彼女の前で井澄は時計と彼女を見比べ、すぐに風防を閉じると予定通り八千草を眺めることに時間を費やした。
だれかが人為的に整えたのではと疑える、そういう意味で人形のような八千草をさまざまな角度から矯めつ眇めつして、接近も試みたが、時折通りかかる人影が気にかかって、行動の踏ん切りはつかなかった。緊張の時間はまたたく間に過ぎ去った。
けっきょく列車が奈古ステイションを通り過ぎ、六層四区に入り込むまで井澄が顔を眺めていたせいで、目覚めた八千草はなぜ起こさなかった、と怒った。
「時間を忘れていました」
「なにか楽しいことでもあったのかい」
「それはもう」
良い笑顔で返したために余計に彼女の逆鱗に触れ、しばらくの沈黙と共にはぐはぐと口を開けようとして止める、を繰り返し、とうとう低い声で井澄に言った。
「呆れてものも言えない」
言ってるじゃないかなどと揚げ足をとれば口を利いてくれなくなると思ったので、ここはさすがに空気を読む。黙って耐えた。
「列車は最終だったのだよ」
「道理で混んでいたわけです」
「架線貨車のとこまでは遠いし、着くころには止まっているだろうし」
「上昇はさらに料金高いんですよね」
「お前のせいだ」
「申し訳ない」
はあと嘆息して、辺りを見回す。高低差の激しい、急な坂が遥か向こうのほうまで続いているのが見えた。天井は低く、平屋の多い住居群はいよいよ密集して、互いに支え合うように重なりあうように、坂にむかってへばりついている。辺りを睥睨して、八千草は腕組みしてみせた。
「まあ眠ってしまったぼくも悪いのであろうよ。あきらめて、対処に当たろう」
「今後は気をつけます。にしても、六層、ですか」
すりばち状になったこの一帯が四区であり、五区から先はかつての鉱山跡に入り込む。そんなことを思い返しながら、井澄は下り坂の通りをのぞきこんだ。活気はない、けれど人の気配はある。悪意以上殺気未満、といった気配だ。
「風呂にも入りたいものであるけれど、仕方がない。今日は飲み明かすか、運よく見つかるなら安宿をとってそこで眠るとしよう」
「宿か呑み屋、ですか……いや宿ですね。わかりました宿を探します全て私にお任せあれ」
意気込み、あらぬ妄想に脳髄を埋め尽くされそうになる井澄だが、その前に八千草が片手を突き出した。
「その場合は二部屋頼むよ。湊波さんいわく、ぼくは、寝言がひどいらしいのでね……同室で寝たく、ないのだよ」
気恥ずかしそうに胸元の飾り紐をいじりながら、八千草は目を背ける。落胆を隠しきれない井澄は、相手が目を背けているのをいいことにやるせない顔をした。
「私は寝言でもいびきでも歯ぎしりでも気にしませんよ。仕立屋のように神経質ではないので」
「変なものを付け足してくれるな。だいたいお前がどうこうではなく、ぼくが恥ずかしいから嫌なのだよ」
「私も寝言を聞かれたら恥ずかしいと思います」
だからおあいこ、と続けようとしたのだが、八千草が「ならなおさらじゃないか」と返してきたせいで、食い下がることはできなくなった。
実際のところ井澄は八千草になにを聞かれようと恥ずかしくもなんともないので、やはり変な役作りはするもんじゃない、と失策をこそ恥じた。アンブレイラの先端で地面をつつきながら、八千草はもう少しだけ、寝言について話した。
「列車での移動だとか、先ほどのバアラウンジだとか、そうした外での居眠りはさすがに声も出ないのだけれど。きちんと横になると、どうにもなにか喋ってしまうらしい」
「でも私、隣の部屋で眠っていて、そんなもの耳にした覚えがないんですが」
「か細い声でぼそぼそ喋るそうだよ」
「じゃあなんで仕立屋はそんな声を聞いたことがあるんですか……あ、いや、ちょっと待ってください。やっぱり聞きたくない」
両耳押さえてかぶりを振る井澄は、首筋から顔を赤くしていった。これを見た八千草も井澄の推測を察したか、みるみるうちに赤くなった。
「ばっ、ばかか。なに考えているんだい。同じ部屋で眠っていたわけではないよ、お前が来るまでぼくは客間で生活していたから、台所に立つあの人には聞こえやすかっただけだ」
「え、あ、そうですか。あ、そう……」
珍しく動揺する八千草を見て、こちらの動揺がおさまるのを井澄は感じていた。
なんだそうかと胸をなでおろして、懸念がなくなったところで、今度はさてどうやって寝言を耳におさめようかと策を練る。八千草は妙なことを口走ってしまったのを後悔している顔で、まだ目を合わせようとはしなかった。
「……こほん。それで。近辺に、手頃なところはないのかい」
問われるが、本日携帯していた手帳は二、三層の二区を中心とした情報を記載しているものだ。六層の情報など手繰ることはできず、仕方なしに頭の中を探り回った。
だが六層四区ともなれば、そもそも全体としてすべての質が低い。井澄たちの住まう五層、ひいては四つ葉そのものが治安の悪い場所ではあるが、その中でも六層の行政圏外区域、四区以降の場はさらにタチが悪い。
四つ葉では層の数が私財を、区の数が治安を示し、二つをかけて十六を下回る場所は比較的安全、と言われている。しかし、恒産なき者は恒心を得ず。四層六区と六層四区では、かければ同じ二十四であっても、住まう人間の質はまったく異なる。
六層の人間のほうが、より切実に金を欲している。生きるため。
「あまり思いつきません……が、靖周が以前話していた地区は覚えています」
「靖周が」
「ええ。奴いわく、ある程度の腕があれば安全に歩ける町だとか」
「だいたいの町がそうだと思うよ」
そして切実により多くの金を求め、白刃の下に首を差し出して六層からやってきたのが二人の同僚、三船靖周である。四つ葉育ちの人間によく見られる博徒の気質を以て、命を賭けて金を得るべく這いあがってきたのだという。
靖周の身の上を思い出したか、井澄と同じような顔をして坂の先を見ていた八千草は、ふふんと鼻を鳴らしてパイプをくわえた。
「ふむ。まさか訪ねることになるとは思っていなかったけれど、これもなにかの廻り合わせやもしれないね」
「あまり歓迎できない廻り合わせですね。変な人に遭わないことを祈りましょう」
「お前に変といわれた人間も可哀想なものだよ」
「私は取り立てて変わったところなどありませんよ」
「どこもかしこもすべておかしいからなあ。特に立ち居振る舞い」
などと言われながらどちらともなく歩きだし、急な坂を下る。
靖周と小雪路の生まれ育ったという場所は、四区の中でも三区寄りにあった。けれどこれは治安がまだまし、ということを示唆しない。境界の間際だと、区域同士の確執などのいざこざも、存在する。
かといって奥にいけば奥にいったで、五層四区、二層四区の公営賭博場とはちがう、賭け金青天井の闇賭博場が存在している。まあ闇もなにも、四つ葉自体がこの国の闇そのものなのだが、最後の最期に人が目にする闇が、この島にはある。
「で、泊まれる場所はあるのかな」
「一応は。記憶の限りでは、なんとか旅籠という名で営業していたかと。酒も多少はあるはずです」
ともかくも、佐倉通りというこの道は、ひたすらに後ろめたさを抱えた雰囲気の中にあった。狭い道幅に、見通しの悪い曲がり方をする悪路がひた続くもので、平屋作りの家々の中からは視線や、そうでなければ意味のわからない叫びなどが聞こえていた。
ここへ到達するまでの間に五人ほど、賊のようなものにも遭遇した。大半が八千草の身ぐるみをひっぺがそうという連中で、苛立った井澄は一切の遠慮なく指弾と羅漢銭を打ちこみ、男たちの意識を奪っていた。
死屍累々の道の先、二人で見つけた屋号は、〝蛇之旅籠〟と書いてあった。薄明かりの漏れる障子の向こう、周囲よりは大きな、しかし平屋造りの屋敷であり、人の気配が感じられた。
「不穏な空気漂う名前ではあるね」
「蛇の道は蛇ということですかね」
すす、と引き戸を開けると、手狭な土間の右脇には薪置き場、左脇に帳場が設えてあった。二畳ほどの帳場の中ではいかにもやる気のなさそうな大年増の女性が、気だるげに筆をもてあそんでいた。井澄たちに気づくと、ちらと目線だけを上げる。
「お二人様でしょーか」
「はい」
「お部屋は」
「空きが無いようなら二人一部屋でも」
「いーえ。空きなんていくらでも。ただ値は倍になりますけんど」
「八千草、無駄遣いはよくないかと」
「安眠は体力回復に必須、無駄とは思わないよ」
うう、とやりこめられた井澄は肩を落とし、仕方なく二部屋を頼んだ。右手にまっすぐ続く廊下の中途、左手に並んだ二部屋であるらしい。
「風呂は突き当たりにあります。湯はまだあったかいと思いますんで、早めにどぞ。冷めてから沸かしなおすならそっちの薪で。ただしお代は別になります」
「わかりました」
「酒と飯が要りようなら左手奥に店を開けてます。そんなに遅くまではやってないんで飲みたいならこっちも御早目に。ではごゆっくりー」
早めに早めにと言いながら最後はゆっくり、と締めて、帳場の女はまた顔を下げた。言われたことだけを淡々とこなしている感じがして、少し気味が悪かった。
靴を脱いで上がり框を踏んだ二人は、ひとまず部屋に入ることとした。底冷えする廊下の先、簡素な部屋の中には隅に三つ折りにした布団が置いてあるだけで、狭く細長く、独居房などを思わせる寒々しさがあった。
「やはり二人一部屋のほうがよかったのでは……」
まだ未練がましくぼやいて、井澄は壁によりかかる。同室同衾は叶わなかったが、せめて向こうの言葉くらいは聞けないだろうかと、全神経を研ぎ澄まして耳を傾けた。
……じいっと待つことしばし、なにも音がしない、と思いながら首を傾げると、どん、と鈍い音が鼓膜を突き破りそうになった。よろめいて倒れると部屋の入口のふすまが開き、「聞き耳立てるな」と八千草が仁王立ちで言って、またふすまはしまった。
痛む耳を押さえてうずくまりながら、なぜ聞き耳立ててるとわかったのだろう、と考えて、井澄ははっとする。
「……八千草も聞き耳立てていたのかも!」
わざわざそんなことせずとも、訊かれればなんでも話す腹積もりなのに。こう思いながら一人、正座して照れて頭を掻いた。
けれどちょっと時間が経ってから、井澄の部屋の音が聞こえるかどうか試すことで逆説的に自室からの音漏れの有無を確かめようとしていたのだと気づき、喜んだぶん悲しくなった。ついでに浮かれたぶん恥ずかしさが噴き出して、枕の上に飛び込んだ。
静かな部屋の中、布団に転がった井澄は、じわじわと時が過ぎるのを感じる。外からの物音、人の気配、さまざまなものを感じとって、むしろ寂しくなる。
退屈なのでやはり、もう少し酒でも飲もうかと思い壁を叩いた。
「八千草ー。お酒、もう少し飲みませんか」
しかし返事はない。怒って無視し始めたのでは、と恐ろしくなり、井澄はさらに三度、壁を叩いた。返事はない。
あわてて廊下に這い出ると、隣のふすまの前で名前を呼ぶ。ところが姿はなく、布団が敷かれているだけであった。布団をどけてみると、アンブレイラが隠してあった。
「刀を置いて……あ、風呂ですか」
一人納得して、部屋を去ろうとする。それから、風呂、とつぶやいて廊下の突き当たりを見た。
男女分かれており、湯殿への扉が、口を開けていた。
生唾を飲み込み、井澄は挙動不審と知りつつも、周囲をゆっくり見回した。だれか出てくる気配はない。先ほど帳簿をのぞき見たところ、井澄たちの他に客は三名、店のほうからの声を聞くに、二人はそちらへ行っている。出くわす可能性は、まずないだろう。
時間は少ない。普段の生活で一緒に銭湯へ行く際も、八千草はさほど長風呂というわけでもないのだ。周りに人もいない。
決断すべきはいま、と井澄は判じ、すぐに結論を出した。そして、慎重に行動を開始すべく、きびすを返した。
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とぷんと沈みこんだ八千草は湯に浮かぶ長い髪を、両の手で梳き上げた。
風呂場はさほど広くはなく、五人も入ればいっぱいになってしまうだろう。身体を流してから湯に浸かる八千草は、己の白い腕を檜で角ばらせた浴槽の縁に置き、この上におとがいを載せてふうとひと息ついた。上気した頬に、髪がひと房、張り付いている。
「やはり風呂は大事であるね……」
自宅にも風呂がほしいものだと思うが、なかなかそこまで思いきったことはできない。風呂炊きも面倒だろうし、などと所帯じみたことを考え、また長くひと息つく。
ひとり、肩を叩きながら上を見上げる。先日は長剣の重い斬撃を受け流すことに力を注いだため、変に筋が強張っているらしい。肩がこる、などと口に出して、そういえば小雪路は一度も肩こりを経験していない、などと言っていたことを思い出した。
「……、」
視線を下へ戻し、湯に沈んだ鎖骨から先を見やる。まだ戦いに不慣れで未熟であったころの傷跡なども目に入ったが、視線の下には、まがりなりにも女性性を主張する曲線が二つ。けれど主張は謙虚で控えめ、ほっそりとした、猫のような体格だと、以前小雪路に形容された。
手足は体格に比して少々長く、けれど細身に合うしなやかな太さを保ち。腰もコルセットなしでドレスに合わせられるほど(もっとも、多少は影響が出るためやはり身につけることが多い)細く、元より八千草の体躯が華奢で小柄なことも影響してはいるのだろうが、小雪路などと並ぶと、齢を逆に見られることも少なくはない。
そう、数多の剣士と渡り合えるような体格では、ない。
かといって、鍛え上げた肉体というわけでも、ない。
「もう成長はしないのだろうね、さすがに」
小雪路がうらやましいわけではないけど、と心中で自分に弁明してから、ざばりと身体を湯から引き上げ、浴槽の縁に腰かけると、髪をしぼって水気を抜く。揃えた両足の太腿の間に、したたる水が一時、溜まった。
「さて、あがろ――」
それから、振り返ろうとしたところで、はたと動きが止まる。――見られている、という感覚に、眉間にしわが寄せられた。
桶を片手に、八千草は浴室へ繋がる戸へ迫る。大上段に振り上げ、あとは落とすだけの体勢にしておいて、一気にがあっと戸を引いた。
#
迫る足音に井澄は跳び起きた。
「まずいっ……いかん、声が出ました」
いっそ今のつぶやきを〝殺言権〟で殺すべきか、などと考えて舌を突き出し、そのまま固まって、しばし時間が過ぎた。
……なにも起こらない。ふすまを開けて飛び込んでくるものもおらず、室内にはふたたび平穏な静寂がもたらされた。ひと安心した井澄は、また元の位置へ戻ると、寝転んで布団をかぶった。じいと天井を見据え、ときおり横の、アンブレイラに目を移す。
布団で、ただ、寝転んでいる。
ごく単純に、自分が使ったあとの布団で八千草が眠る、という状況を彼は望んでいた。アンテイクでは共にいる時間が長すぎて、なかなかこんな大胆な行動はとれないのだ。ちなみに見つかったら「部屋をまちがえたついでに温めておきました」で通すつもりだった。
そんなこんなで時間が過ぎ、だいぶ温もってきたところで、井澄は八千草の部屋を出た。他の人に見られぬよう、と願いながらの行動だったが、幸いにもだれにも会わなかった。ほくほくした表情が自分でもわかる。
「それにしても、少し遅いですね」
風呂のほうを見つめながら言って、自分もそろそろ風呂に入るべきか、けれどまだ酒を飲むかも、などと迷っていると。
風呂場から、ぱこーんという間の抜けた音と、小さく短い悲鳴が聞こえた。
悲鳴は八千草のものだと、わずかな声でも判断できた。すっと目を細めた井澄は、左手に羅漢銭右手に指弾の構えで、足音を消しながら素早く距離を詰める。丸腰のところを襲われたのではないか。嫌な予感に気がはやり、けれど極力見ないよう、うつむき加減になって踏み込んだ。
「八千草!」
「うわ、い、井澄!」
けれど答えたのは八千草の声ではなかった。
艶の無い、ぱさぱさとした髪の色。前髪だけを持ち上げて後ろへ流し、後ろ髪とまとめ束ねて丸く結った上に、簪を差している。
額を広く見せた顔は、少々歳いっているのか疲れがのぞくものだが、瞳が炯々(けいけい)と危うげに揺れていて、左のまぶたから頬まで縦一線に残る傷跡が、それらすべての印象を強烈に、後ろ暗いものに変質させている。
外套のように裾が長い白衣をまとって座りこんでいたその人物は、行為を見咎められたと知るや否や、逃げようとその辺を這いまわった。ぬるぬるした気味の悪い動きを見るうち気力が萎えて、井澄は次第しだいに腕が下がるのを知った。
それから転がっている八千草が、申し訳程度に手拭いのみで肌を隠され仰向けになっているのを確認すると、一瞬で脳裏に焼きつけ、後ろを向いた。これを見てか、闖入者も動きを止めたのか、足音が消える。次いで、声がかかった。しわの寄ったような、かすれ気味の声だ。
「井澄、あんたなにやってるのよ」
「そりゃこっちの科白です。なんであなたがここにいるんですか、山井」
正直に言えばなんという絶妙の好機を生んでくれたんだ、と褒めてやりたいところだが、自重して感情を押さえつつ、井澄はこう口にした。
井澄の横合いから顔をひょこりとのぞかせた山井は、さあーと悪びれない顔で言って、両手を天井に向けた。
従業員その5。