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明治蒸気幻想パンク・ノスタルヂア  作者: 留龍隆
三幕 探偵対峙
16/97

16:酒という名の潤滑油。

(冥)探偵はバーにいる という話ではないけれど。

 月見里からの報酬は、常の殺し屋殺しと同じ値段で五円ちょうどだった。この一件の事情を推測ながらも看破し、また真の下手人を捕えたからといって、報酬に上乗せするなどの即物的な返礼はないらしい。


「御苦労さまでした」


 謝意はひとことのみで、彼女は前回と変わらぬ威厳、変わらぬ威圧を保ちながら応じ、そして井澄たちは部屋を辞することとなった。


 奇妙な時間のあとに、開放感からか靖周と小雪路は背筋を伸ばす。ふと、後ろから見ていると歩き方がそっくりで、やはり兄妹なのだなあと井澄は思った。


 駅前までふたたび馬車で送られ雑踏の中に降り立つと、二人とはそこで別れる。五層の自宅まで戻って夕飯にするらしい。広場の奥、外界へ繋がる広小路を見やると、外では日が暮れ闇の訪れを待っている様子だった。天蓋に覆われた四つ葉の階層の中では、時の推移はわかりづらい。近くで瓦斯ガス灯に火が点るのを見て、ようやく夜を認められた。


「お前らは三層行くのか?」


「ええ。移動は一層分だけですので、架線貨車ロウプウエイを使います」


「はーん、わかった。んじゃまたな」


 うまくやれよ、とからかう口調で付け足してから、靖周は離れていく。余計な御世話だ、と口だけ動かして音もなく返せば、笑う彼は手で下品な仕草をしたあと、口に煙管をくわえて去っていった。あとを小雪路が追う。


「じゃあ井澄んも八千草んも、またねん」


「ああ、また来週」


 ひらひらと手を振って、二人は駅に消えていった。


 あとに残された井澄と八千草は、じいと水晶広場のほうを眺めた。水量がいくらか落ちてきて、師走の風にさらされた噴水は、凍てついて石英の結晶を思わせる白銀の眺めを作りだしていた。


「さて、ではいこうか。開店時間は、よいのかな」


 八千草が懐中時計で時間を確かめると、まだ開店まで一時間ほどあいている。夕刻の広場には西日が薄く差し込んできていて、みるみるうちに陰りを見せている。ひうと鋭く風が吹いた。


「もうしばし間がありますが、移動時間でちょうどよいくらいになるでしょう」


 井澄は歩きだして、ステイションの裏手を目指した。


 ステイションの裏手、三町ほど先には、高速搬送用の架線貨車ロウプウエイというものが存在する。四つ葉に存在する、都市機能活性化機構のうちのひとつである。


 都市機能活性化機構とは、一層から六層まですべての層を斜めに貫き、天蓋を排した吹き抜け部たるここ〝噴上ふきあげホウル〟を中心とする運搬・製造といった、都市機能の向上のために配されている施設のことだ。四つ葉を走る蒸気機関車、弦米つるまい号と比我清山ひがしやま号もそのひとつである。


 すべては吹き抜けの真下、六層一区に位置する巨大な蒸気機関部を以て成り立っており、流通から生活まであらゆる動力がここで生み出されている。


 よって、ここだけは無法の四つ葉の中でも本土から派遣された政府職員により統括されており、四つの葉閥はばつの間で不可侵が取り決められている。


 眼下に黒金で象られた四つ葉の心臓を視界に納めつつ、井澄は今日も今日とてうろつく職員を、見るともなく見た。四つ葉が建立された当初に比べて居場所も極端に少なくなったらしい彼らにとって、あの場が最後の砦ということなのだろう。至極、どうでもいいけれど。


「架線貨車に乗るのは久方ぶりであるね。以前、荷の扱いで六層からのぼったとき以来かな」


 無邪気に、八千草は言う。


 そう、架線貨車は基本的に、下層からの高速搬送のために用いられるものなのだ。高度を調節して鉄道ともぶつからないように配慮してあり、大量の荷物を、できるだけ早く運びあげるために用いる。


 しかし四つ葉建立から間もなくの治安混乱期――野盗により鉄道の移動もままならず搬送手段が限られていたころ――とはちがい、今や急いで運ぶものなどさほどない。速さの利点が生かしきれなくなった架線貨車は、次第に別の利用方法により、列車との差別化をはかった。


「今回は人として乗りましょう」


「別段ぼくは列車でも構わないのだけれど」


「あれだと少々開店には遅れますし。この季節、この時間は、架線貨車のほうがおすすめです」


 発着場につくと、井澄は懐からもらったばかりの給与を出し、料金を払った。列車よりわずかに値は張るが、ここでなければ得られないものがある。


 船着き場を思わせるつくりのそこへ、ゆっくりとゴンドラが入ってくる。六畳ほどの、鉄錆びの浮いた四角い箱へ滑りこむと、井澄と八千草は積み荷に囲まれながら座る場所を探した。それから窓際に腰かけ、外を眺める。


「……む、禁煙、か」


「引火するとまずいものを積むこともあるでしょうから」


「ぞっとするよ」


 パイプをしまった八千草は、煙を味わえないことへの不満を口にしつつ、頬杖をついた。吐息が窓を曇らせている。


 大きく軋む金属の音と共に動き出したゴンドラは、二層から三層へゆっくりと下降していった。鋼綱の索道を下る感覚は、いかにも地に足着かないという印象で、井澄は慣れない。


 けれどこの時間ならば不安な思いをしつつも、乗るだけの価値はある。


「ご覧下さい」


「ん。んー……ああ」


 土地に不慣れな者に教えるかのように声をかけると、頬杖ついていた八千草は外を見た。


 二層を過ぎた架線貨車は、空中を緩慢な動きで降りながら、金色の光に包まれていた。


 三層のステイションを下方に臨む、箱庭じみた街並みには、彼方までわずかに蛇行しながら続く広小路の先より夕日が差し込んでいる。遠く海に溶け込んでいる陽の光は、街路を影絵に染めぬけて、噴上ホウルの空洞を照らし出していた。


 三層の二区と一区を一度に見渡せる光景は、しかし長い時間続きはしない。ゆるゆると日は沈み、やがて、ゴンドラの中も暗がりに落とされた。残り香のようにほんのり漂う日差しの温かみに感じ入りながら、井澄は横にいる八千草をうかがう。


 窓ガラスに映る彼女は、闇を湛えたまなこをしばたいて、瞳の中に星を宿していた。声をかけるのも躊躇われて、息するいとまも奪われた井澄は、しばしそうやって彼女を見ていた。


「悪くないね」


 ただ一言、微笑み漏らして彼女が言ってくれた言葉で、井澄は満足した。




 辿り着いた店は、煉瓦づくりが居並ぶ通りに差し込まれた、細長い建物の一階にあった。スクラチ模様のタイルが覆う、白っぽい印象の建物だ。窓が細く小さいつくりで、一階のドアは三段ほど通りから降りた位置にある。

 見上げれば、外付けの黒い階段の先にある二階は刺青を生業とする人間が住んでいるらしく、汚らしく黒ずんだ看板が見えていた。


 ぽつぽつと立っているアアク灯に照らされた看板が、目につく。通り沿いにはいろいろな店が軒を連ねているらしく、歩いているだけで様々な彩りに目を奪われる。


 このあたりは赤火により取り仕切られており、商品は貿易を介して得たものが多い。よって異国の雰囲気を思わせるものが多く、青水の取り仕切る一画とはちがった趣きを夜の街に投げかけている。


「空いているかい」


「開いてますよ」


 後ろからおずおずと声をかけてくる八千草に返しながら、井澄はノブへ手をかけた。同時に、エスコウトというやつを意識して、彼女が通るまで扉を開け放したままとした。少し硬くなっている八千草は、あまり気にせず通り抜けてしまったけれど。


 明かりを照り返す赤い塗料が〝BAR 手練てれん〟と太く荒い筆跡で描いた扉の向こうでは、ごとごと、足下で床が軋んだ。すのこのように狭い隙間を空けた床の下は、太いはりをめぐらせている場所の他は階下をのぞくことができる。


 二間ほど下の地下層……と呼ぶのがこの四つ葉で正しいかはわからないが、とにかく地下と見える場。そこでは玉突き(ビリヤアド)に興じる人間が見受けられた。隅で洋琴ピヤノが空気を震わせている。


「な」


「あ」


 今日も今日とて漆黒のドレスに身を包む八千草は、ばっとスカート部分の裾を押さえて、井澄をねめつけた。すのこの床では、下から見える。


「……お前、まさか知ってて」


「誤解です、私も初めて来ましたよここ。こんな構造とはつゆ知らず」


「ああ、女性のお客様は縁のタイルのところをお通りくださいね」


 店の人間と思しき、チョツキにシャツ、蝶々のような小さなネクタイを締めた若い女が声をかけてきた。言われて見れば、すのこのようになっている部分の他、カウンタへ道を繋げるように、モサイク柄の色彩豊かなタイルが敷き詰められている部分もある。そこを通って八千草は席へつき、井澄は彼女の右手へ腰かけた。


 つの字を描く曲線型のカウンタが設えられた奥には、階下へ続く急な階段が、くの字に折れて垂れさがっていた。カウンタには、様々な洋酒が並んでおり、ギヤマンでできた瓶は、淡い瓦斯灯の間接照明を受けて静かに輝いていた。


「ふう、それにしても外は寒かった」


「年の瀬ですから。そういえば、店の暖房用燃料は買い足してありましたっけ」


「ぼくの部屋のぶんは確保してあるけれど」


「ああ、では大丈夫ですね」


「……ここは、自分のぶんはないのか、と尋ねてくるのが常道だと思うのだよ」


「私寒さには強いので」


 言いつつ、心に八千草の姿を思い浮かべる。夜に、「薪が切れた」と言って、震えながら部屋を訪ねてくる様を――そして自分が布団に招き入れる様を――ほおら温かくなった。冬場の彼は煩悩を駆使すれば暖房要らずである。


 得意げに横を見下ろせば、八千草が熱っぽい視線をこちらへ向けていて、どきりとする。半目で、目に潤いが滲んでいる。心音が気になり、わずかに身を引く。


「ねえ……気のせいか、暑苦しくなったのだけど」


 が、どうやら単に暑くなっただけらしい。気のせいだと念押ししておいた。


 八千草は肩にかけていた、スカラプ・レエスの裾がのぞくケイプを緩めると、頭にかぶっていたボンネットも外す。どこからともなくやってきた先ほどの女性店員が服を受け取ると、目に見える位置にある洋服掛けへと駆けていった。アンブレイラは手元へ残した。


 頭の服飾を払うと彼女の流れる黒髪、そして均整と調和を知らずただ美しさと愛らしさを突きつめたような面立ちが露わになり、カウンタ周辺にいた店員も、客も、息を飲んだ。井澄は誇るように、彼女の横の位置を堅持する。


 本日のドレスは四角く象られた襟周りから古風な繻子しゅすのフリルがふんだんに使われており、腰の曲線からドレエプのかかったスカートの裾へかけての両脇にも、花弁がこぼれ落ちるような、しなやかに波打つリボンがあしらわれている。


 鈍く光る編み上げの長靴ブウツは椅子が高いために宙へ浮いて、ゆらゆらと井澄の視界の下方で揺れていた。


「なにを頼みましょう」


「電気ブラン」


「やはりそうですか。私もそれで」


「承知」


 グラスを磨いていた初老と思しき店主は、目の下と額に寄る皺を歪め、口元にたくわえたひげをしならせながらうなずく。井澄たちの前にグラスを並べると、痩せて骨ばった手から静かに瓶を傾けた。


 とくとく、脈打つように流れる琥珀色の液体が、グラスの底部を覆い隠すと瓶は去っていった。


「では」


「今日も一日ごくろうさま」


 ねぎらいの言葉と共に、八千草はグラスを口元に添えた。井澄も鼻先へ近づける。果実の酸味と、野原の草いきれを思わせる芳香が鼻腔に流れ、口に流し入れると甘く喉までをしびれさせ、焦がした。


「初めて飲みましたが存外うまい、」


「うーむ、ぼくは葡萄酒のほうが好みかもわからないね」


「ということもないですね。店主、やはり葡萄酒をいただけますか」


 ……あるよ、と微妙な間のあとに店主は丸く、網目のように紐でがんじがらめにされた瓶を出すと、井澄たちの横へ置いた。それから井澄は上を見やり、天井近くへ並べられた、献立表に目を通した。


「食事も出しているようですよ」


「なにかおすすめはあるのかい」


「血の滴るようなビフテキ、と書いてありますね」


「ビフテキ。お肉はいいね。それでいこう」


 ビフテキひとつ、と頼めば、店主はぎこちない動きで足を引きずりつつ背を向け、調理場へ立った。なにか酒類のあてにできるものはないか、とさらに井澄は首をめぐらし、乾酪チーズがあったのでさらにこれを頼んだ。こちらは、先ほどの店員が階下より持ってきた。


 互い、電気ブランを胃へ納め。ほんのりと温まり、首から頭へ酔いが回ってきたところで、二人してグラスを変えると井澄が手ずから葡萄酒を注いだ。八千草はそっと口に含むようにして、香りを楽しんでいる。井澄もこれにならった。渋みの中に甘みと酸み、わずかな辛みを帯びた風味が、胃に溜まる果実の香りと共に鼻へと抜けていった。


「ああ。おいしいね。血液を葡萄酒と容れ変えられたらどんなにか幸せであろうね」


「常に酔いどれになるということですかそれは……」


「そしたら周りも酔えばいいのさ。ぼくの血を御舐めよ、なんてところかな」


 くすりと妖しく笑んで、八千草は左手を、アンブレイラに這わせた。刃と肌のこすれる様を想起させる動きに、血のにおいを思った。だが舐めるなんて真似はきっと恐れ多くてできない。想像しただけで身が火照って、首筋がかゆくなってきた。


「うん? 井澄、もう酔ったのかな」


「よよよ酔ってませんよ」


「そう。お前時折、そうやって急に熱があるような顔をするものだから」


 お酒がなくとも、常に八千草に酔わされているのだからしょうがない。


 しかしそういう八千草のほうこそ、頬に朱が差していた。酒気のせいか、それとも……などと考えてみたが、自分の呼吸を落ち着かせることのほうが先決だった。鼻息を荒くして、これではまるで変態ではないか、と己を戒める。


 変態性癖は女性の敵だ。つまり八千草の敵でありそれすなわち井澄の敵なのだ。


「なんにせよ、八千草も。流血するような怪我はしないでくださいね」


「怪我などしないよ。ここへ来た当初ならいざ知らず、もうここ最近は手傷を負ったこともないのだから」


「よく言うでしょう。木登りは地面まで近くなったところが危ない」


「微妙にたとえが間違っていないかい」


「なんにせよ慣れこそが油断の母です」


「まあ、それは納得できるよ」


 言いながら八千草はくるりくるりとグラスをもてあそび、水面を波打たせて葡萄酒を空気になじませた。井澄は硬い風合いを好んだため、なにもせずにまた葡萄酒を嚥下えんげした。


 間を繋いで、青い焔のあがる平鍋で焼かれるビフテキを眺めつつ、彼女は口を開く。


「しかし慣れというのなら、むしろお前のほうがちょうど慣れてきたところであろうに」


「半年少々、ここでの暮らしが過ぎました」


「いまのところはさしたる怪我もないようだけれど。無茶はしないでおくれよ」


「保証はできかねますね」


 八千草が本当に危険な状態に陥れば、井澄は自分でもなにをするかわからない。……もっとも、本当に危険な状態などめったなことでは訪れまいし、訪れたとしても限界までは助けず粘るのだけれど。


「口約束でも保証くらいはしなさい。ぼくだって心配になる」


「心配ですか!」


「いまやお前がいないと仕事も回らないからね。情報通で事情通、語学が達者で腕も立つ」


 饒舌な褒め言葉は常の彼女にはないものなので、嬉しいといえば嬉しいのだが。話の流れ的にもっとちがう部分で心配してほしかったので、若干の落胆と共に井澄はお引き立てくださって感謝しています、と返した。少なくとも感謝の意は、本物だ。


「仕立屋と八千草には感謝しています。……私のあの技を見てなお、こうして使ってくれて」


 手首のカフス釦を押さえる。目端を利かせてこれをとらえた八千草は、けれどなにも態度を変えない。


「その技の元の(、、)使い手のことを、ぼくはよく知らない。世間一般に漂う噂程度の喧伝さえ、ね」


 少しだけ自嘲気味に、わずかに虚無感を漂わせながら、言った。


「使い手の噂がどうあれ、術も技も道具に過ぎない。坊主憎けりゃ袈裟まで、などと言うけれど、物に当たっても仕方がないと思うのだよ。だからぼくは気にしないね」


 目線は、変わらない。まっすぐに身体ごと向けて井澄に笑いかけ、グラスをカウンタテエブルへ置いた。それから空いた手を指し向けて、井澄の唇へ触れそうな距離まで、近づける。


「それにぼくとしては、お前の術のほうが気になる」


 人差し指が、口の中を示そうとした。かろん、と氷を頬張ったときのように、ワインで冷えた刺飾金ピアスの冷たい感触が、舌を貫いていた。不躾とは思いつつも、井澄は唇を湿らせるように舌を出した。


「これ、ですか」


「うん。……ああいや、詮索するつもりではないよ。だれしも、探られたくはない腹のうちというものがあるだろうしね」


 四つ葉には後ろ暗い事情を抱えた人間が多く集う。人生のほとんどをここで過ごしてきた靖周や、生まれてこのかた島の外に出たことのない小雪路も、そうらしい。事情について深く問うたことはないけれど、勘付くだけの要素は揃っている。


 ゆえにこそ、踏み込むことは、相手からの許しがあって初めて為されるべき事柄なのだ。


 ちなみに井澄は、いつでも用意はできている。もちろん隠すこともあるけれど、それすら、頼みこまれれば白日の下にさらすだろう。


「八千草になら構いませんよ。代わりに、そちらも腹のうちを教えてくれるのなら、ですが」


「え、いやそれは」


「冗談ですよ。こちらも、許しがなければ詮索する腹積もりはありません」


 困ったように、八千草は頭を掻いた。このような反応を見るのは、少し愉しいと思った。だというのに。


「……では、許しがあれば。ぼくのことを知りたいと、思うのかな」


 逆に、素直にこう出てこられると、戸惑う。知りたいことは――山ほど、ある。でも言葉にすることははばかられて、結局うまく出て来ない。


 井澄は間をもたせようと、ジャケツの内ポケットから敷嶋の紙巻煙草シガレツを取り出し、燐寸で火を点けた。八千草はちびりと葡萄酒を口に運び、横であがる紫煙にときどき目を奪われながら、グラスを空にしていた。


「ビフテキ、どうぞ」


 店主が皿に盛り付けを済ませ、八千草の前に滑らせるようにして置く。ああうむ、などと返答に詰まりながら彼女はフオクとナイフを手に取り、音を立てぬように口へ運んだ。


 香ばしい、胃を躍らせる匂いが広がった。沈黙が、二人の間の距離を広げた。


「そちらも」


 言いつつ、店主は井澄の前にも皿を置く。頼んでないと首を横に振ろうとすれば、


「おや、遠慮はしなくていいよ。私の、快気祝いということなのでね」


 と続けて、店主はにやりと笑った。目の下と、額に寄る、木の肌を思わせる皺に目がいく。あ、と声を漏らした。


 目の前にいた店主は、先月に四層で井澄と戦闘を繰り広げた、あの柄杓の男であった。ひげが伸びていたために、気付けなかったのだ。そういえば、この店の並びは赤火の仕切る場。すうっと、仕事の神経へと切り替わり、井澄は手にしていたグラスを置いた。


「やちぐ、」


「あー、安心していい。仕事ごとの分別くらいは、ちゃんとつけておるさ。騙し討ちなどしない」


 にわかには信じがたいが、周囲を見回せば、ほかにも客はいるのだ。そのすべてが赤火の人間というわけでもない。下手なことをして騙し討ちの噂がたてば、困るのは赤火であろう。取り出しかけた硬貨幣を納めて、けれど井澄はグラスを体から遠ざけた。


 店主は長樂ながらと名乗り、うやうやしくカウンタの下から出した葡萄酒を、白い陶製のカップへ注いだ。顔をあげた八千草は二人の間にある言い知れない空気を感じとった様子だが、井澄がなんでもないと返したのでまた肉を切り分けに戻った。肉鍋を台無しにした下手人だと知れたら、さすがに気分を害すだろうけれど。


「……怪我は復調しましたか」


「おかげさまでな、〝爪弾き〟の井澄。その節は相棒ともども世話になった」


 名前も調べがついているらしい。気まずさが肩に重くのしかかってきたが、長樂は努めて明るく軽く、話しかけてきた。


「そう硬くなるな。仕立屋が引退してのちの、新進気鋭のアンテイク。どれほどのものかと思っていたが、予想以上の腕で驚いたよ。褒めてしかるべきとさえ思ったね」


「それは、どうも」


「先日もまた、黄土からの依頼を十二分にこなしたそうではないか。……まああれも、赤火うちが関わる事案なのでな、じきにあちらの仕事で会うこともあるだろう。だが今日はきみらも客だ、存分に飲み食いしておくれ」


 片手をあげてみせると、扉を開けて入ってきた別の客に応対すべく、長樂は井澄の前を離れた。彼の背に、井澄は確認の言葉とともに、取っ手をつまんでカップをかかげた。


「泥を飲ませたりしないでしょうね」


「いずれ煮え湯は飲ませてやるが、看板に泥を吐かれてはたまらん」


 後ろ手を振りつつ、長樂はやってきた男の正面をとる。井澄はちょっと迷ったものの、意を決し一気にグラスをあおった。


 とたんに噴き出した。


「……あつっ!」


「ははは、かんをした葡萄酒だよ。肉桂シナモンとシロプ、糖酒ラムが混ぜてある。甘く飲みやすく温まるのでな、お隣の子にもおすすめする」


 ものの五秒で有言実行しやがった、と涙目でにらむ井澄に、溜飲の下がった様子で長樂は注文をとりにいった。八千草が興味を示したので、残る燗葡萄酒は、すべて彼女に渡した。


 彼女が割とその味を気に入ってしまったこともまた、井澄の癪に障った。



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