拍手の長さ :約5000文字 :コメディー
カンヌ国際映画祭。それは一年に一度、世界中から集まった映画が、単なる娯楽や商品という枠を超え、真に“作品”として呼吸を始める場所である。
五月の南仏の陽光が地中海に反射し、街全体が映画を中心に脈打ち始めると、世界中から監督や俳優、批評家、報道関係者が、この小さな港町に集まってくる。彼らは完成させた作品を披露するために、あるいはまだ誰も観たことのない映画の“最初の観客”になるためにこの地を踏む。
ここでは名だたる巨匠であろうと無名の新人であろうと、上映が始まれば等しく一人の観客に戻り、スクリーンと向き合う。肩書も実績も、過去に得た栄誉さえも暗闇に溶ける。裸になるのは作品か、それとも人か――。
観客たちは正装に身を包み、赤い絨毯が敷かれた階段を上がって劇場へ入っていく。そして司会者の紹介もないまま、それぞれ席に収まり、ただ静かに照明が落ちるのを待つ。
派手な演出など必要ない。誰が笑いを交えてこの場を回す? 誰が歌で歓迎する? そんなものはここに集まった誰も求めていない。この場で求められている光はただ一つ、スクリーンだけ。そこにすべてがあるではないか。
映画が始まると劇場は息を潜め、スクリーンの中で繰り広げられる物語だけが空間を支配する。隣の席に座る者の気配さえ遠のき、観客たちは目の前に広がる世界へ没入していく。
それはさながら旅である。人とは不思議なものだ。ここへ来るまでに何度も飛行機を乗り継いできたというのに、まだ旅をしたがる。しかし、それも無理はない。そこは現実のどこにも存在しない場所なのだから。空想? 虚構? いいや、確かにそこには本物がある。旅のための旅。人はその道中で何を見つけ、何を思うのだろうか。そして、その果てにはどんな自分が立っているのだろうか。
やがて物語が終わり、エンドロール最後の一行が黒に溶けると、スクリーンから光が消えた。色彩に満ちた夢から目覚め、暗闇が現実を引き連れて劇場に戻ってくる。だが、誰もがまだスクリーンを見つめ、劇場には静けさが居座っていた。皆、その余韻を壊すまいとしていた。
ふいに、客席の一角に一筋のスポットライトが差し込んだ。
その瞬間、どこからともなく拍手が生まれた。その小さな踊り子は隣の席へ、さらにその隣へと波紋のように広がっていく。まばらだった音は次第に重なり合い、劇場全体を満たしていった。
そして今、深い水底から浮かび上がってくるように、監督兼主演の男と出演者たちが席から立ち上がった。男は眩しさに目を細めながら観客席を見渡すと、照れくさそうな笑みを浮かべて小さく頭を下げた。
やがて周囲の観客までも立ち上がり、拍手は大きなうねりとなった。
出演者の一人が目元を押さえると、拍手はいっそう熱を帯びた。その音は単なる称賛ではない。作品が誰かの心を揺さぶり、簡単には言葉にできない何かを残した証として響いているのだ。
「いやあ、ほんますごいわあ……。これが万雷の拍手っちゅうやつですよ。ねえ、兄さん……ん、兄さん?」
「……うっさいわ」
「え? ああ、確かにやかましいすっね。ばちばち、ばちばち。耳が痛うなってきましたわ」
「アホ。そういう意味ちゃうわ。お前や、お前。今、この感動を全身で味わっとんねん。邪魔すんなや」
「ああ、そういうことでしたか。でも兄さん、拍手やったら普段の番組でも浴びとるじゃないですか。あ、それともあれってやっぱり演出ですか?」
「アホ。バラエティ番組の観覧客と映画祭の客が同じや思うとんのか。こっちはほんまに感動して手ぇ叩いとんねん。うんこと泥ほどちゃうわ」
「それ、『雲泥の差』ちゃいます? うんこと泥やったら、どっちも汚いもん同士で差ぁないですやん」
「わけわからんこと言うな、アホ。それとな、お前。監督や」
「はい?」
「兄さんやのうて監督と呼ばんか。アホ。誰のおかげでカンヌのスクリーンに映れた思うとんねん」
「ああ、すんません。かーんとくっ」
「可愛ないわ。気持ち悪っ」
「へへへ……しっかし、長いっすねえ。これ、僕らが座らんと終わらんやつちゃいます? ほら、そろそろ座りましょ」
「お前、ほんまもんのアホか! カンヌのこと何も知らんのかボケ!」
「え、どういうことです?」
「あのなあ……カンヌ国際映画祭っちゅうのはな、『拍手の長さ』が映画の評価になるんや」
「ほえー、そんな仕組みがあるんすねえ。偉い審査員の人らが点数つけるもんやと思うてましたわ」
「仕組みっちゅうか、そういう文化があるっちゅう話や。審査員が選ぶ賞とはまた別の話やねん。とにかく、長ければ長いほどええんや」
「なるほどなあ。んで、どんくらい叩いとったらええんですか?」
「せやなあ。たしか、最長で二十分くらい拍手が続いた作品もあったはずや」
「二十分!? そんだけ叩き続けたら、手ぇパンパンになってまうやないですか。手の甲でも使うんかなあ」
「アホ! それやと裏拍手やないか。縁起でもない。途切れんよう、休み休み叩くんや」
「へえー、なんや番組の耐久企画みたいっすねえ」
「アホ。バラエティと一緒にすな。んで、目安としては十分前後ってとこやな。それ越えたら、ええ映画っちゅうことや」
「それでも長いっすわ。劇場でそんなんやられたら、漫才が始まる前に持ち時間終わってまいますよ」
「そらそうや。それだけ格が違うっちゅうことや。映画祭はな」
「ははあ、なるほどなあ。あれ? でも兄さん」
「せやから監督や。お前もう黙っとき。こんな夢みたいな時間、人生でそう何度もあるもんやないんやぞ。世界中の上流階級からの称賛……おほお、たまらんわ……」
「いや、拍手弱まってきてますよ」
「え? ……ほんまや。まだ三分も経ってへんぞ。あかんて!」
「もう周りの関係者しか拍手してないんちゃいます? そもそも最初からそんなに響いてませんでしたよ」
「んなわけあるかい! とにかく、なんとかせな……。おい、お前。なんかやれ」
「なんかってなんすかあ。フリが雑過ぎますよ」
「アホ。監督の頭ん中にある漠然としたイメージを形にするんが役者の仕事やろがい」
「いや、僕ら芸人やないっすか」
「せやから今は監督と役者やろが! 切り替えんかい、このアホ!」
「いたっ! 叩かんといてくださいよ……。映画監督は役者を叩かんでしょ」
「叩くやつもおるやろ。おら!」
「痛いっすって! 八つ当たりせんといてやあ……あれ? なんか、拍手強まりましたよ」
「お、ほんまや。殴ったからか?」
「んなわけないでしょ……いや、構えんでくださいよ! ここカンヌやし、みんな見とるんですよ! 兄さんの楽屋とちゃいますから、ほんまにえらいことになりますって!」
「お高くとまっとる連中ほど、ほんまは暴力が好きなんや。ええから頭出さんかい! おらっ!」
「痛いっすって! 力加減おかしいっすよ! マジのやつやないっすか!」
「うっさいわボケ! お前は黙って殴られとったらええんや! 役者が監督の要求に文句つけんな! おらあ!」
「痛い、痛いっすわ! もう勘弁してくださいよ。ほら、また弱まってきましたし。小雨みたいや。実家のボロ屋根を思い出しますわあ」
「なんでや! 何が気に食わんねん! 差別か! どうせ極東の猿が撮った映画やと思うて、まともに評価する気もないんやろ、このクソ外人どもがああ」
「いや、同じネタをしつこく擦るからでしょ。お笑いの基本ですよ、兄さん」
「お前がおれにお笑いの講釈垂れんな! なんやそのしたり顔。ほんま腹立つわあああ!」
「ははは、兄さん、その地団駄踏むん、劇中でもやってましたね――あれ? また拍手が強まりましたよ」
「お、おお! ほんまや! でもなんでや?」
「あー、あれちゃいます? 劇中でやったことを生で見せたから湧いてんのとちゃいますか?」
「そういや、映画ん中でもお前を殴っとったしな」
「ええ、兄さんが得意げになんべんもカットかけて、何回も撮り直しましたねえ。なんべんもなんべんも叩かれて、ほんま、組合に訴えようかと思いましたわ」
「いっぱしの役者気取んなアホが……って、あかん。また弱まってきたやないか! ふん、ふんふんふんふん、があああ!」
「はは、そないに地団駄踏んでも無理でしょ。ほんまの猿みたいやわ」
「うっさいわボケ! なーに高みの見物決め込んでんねん! お前もやれや!」
「僕は劇中で地団駄なんか踏んどりませんし、同じこと擦ってもウケんでしょ。ほら、他にも劇中でやったことあるやないですか。それやったらええんとちゃいます?」
「せ、せやなあ。ほんなら……お前、腕折れ」
「いや、できるかい! 確かに映画ん中で骨折しましたけど、あれは特殊メイクでしたやん!」
「映画のためや。役者として本望やろ」
「拍手のためやないっすか。他にもなんかあるでしょ」
「他ぁ、他ぁ、うーん……」
「なんで監督が思い出せへんのですか。しかも、ついさっき観たばっかりですやん」
「いやあ、ほら、自分が出とる映像を観るんって、ちょっと恥ずいやん? そういうやつ、結構おるらしいで」
「何いっちょ前にクリエイター気取っとるんすか。ほら、また拍手弱まってきましたよ。本をパタパタ閉じとる音みたいやわ。そういえば昔、図書館で借りた本、返しそびれたまんまやったなあ……」
「本なんか今どうでもええねん! もうもたんぞ! なんか考えんかい!」
「ほなら、兄さん。宇宙人の真似でもしたらどうです? 映画ん中でやっとったでしょ。顔を緑に塗って、頭に触覚つけて……ふっ」
「何を鼻で笑っとんねん、こいつ!」
「ぐえ! ちょ、絞まって、絞まってる……!」
「これは当然のしつけや! こっちが何年お笑いの世界で飯食うてきたと思うとんねん! この若造が!」
「い、今は、監督と役者でしょ……そ、それに、僕らどっちも映画の世界ではピカピカの一年生やないですか……」
「アホが! 人生経験がちゃうんや! 人生経験が! 映画にも存分に活かされとったやろが!」
「い、いや、特に何も……自己満足感だけはビンビン伝わってきましたけど……」
「なんやと!? 誰がシコった言うてんねん! 女優脱がしたがりの監督とちゃうねんぞ!」
「カピカピのジジイ……」
「こいつ……! このまま落としたる……!」
「え、ええ加減にしてくださいよ! げほっ! ごほっ! ふー、ほんま、これやから昔の人間は……。あ、また拍手が強まりましたよ」
「おお、ほんまや! でも、なんでやろ。映画に首絞めるシーンなんかあったかな……」
「まあ、お客さんのほうはあった思うとるんちゃいます? みんな途中で飽きとりましたし、よう観とらんかったんでしょ」
「はあ!? んなわけあるかい! 世界中から集まった映画通やぞ! スタッフロールの隅から隅まで目ぇ走らしとるに決まっとるやろ!」
「いや、僕ちらちらと周り見てましたけど、お客さん結構寝てましたよ。特に兄さんが巨大化したあたりで」
「あそこが一番の見せ場やろが! 製作費の三分の一も使うとんのやぞ! ああ、また弱まってきたし、ほんまどないすんねん!」
「ほんまや。台所でオカンが揚げもんしとるみたいやわ。ぱちぱちぱち……ああ、母ちゃん、元気しとるかなあ……」
「お前のオカンのことなんか今どうでもええねん! このままやと明日のニュースで恥かかされるわ!」
「もう編集で拍手足してもろたらええんやないですか? ついでに笑い声も入れて、『大絶賛』ってテロップでも出しといたらええでしょ」
「アホ! バラエティ番組みたいにいくわけあるか! 報道は畑がちゃうんや。あの連中が捏造なんぞやるか」
「ブラヴォー! ブラヴォー!」
「うわっ、びっくたあ……。いや、顔伏せても、お前が言うとんの丸わかりや! こらっ!」
「いてっ! 人がせっかく……。ほら、もう叩いても拍手起きませんって。狙っとるんが見え見えなんすよ。痛いわー、売れとらん若手みたいで」
「やかましいわ! せやから誰にお笑いの講釈垂れとんねん! アホ! ボケ!」
「いたっ、痛いっすって! なんなんすかもう! こっちもいろいろ考えてあげとるのに――ぐえっ! また首を……なんで……」
「お前、死ねや」
「は、はあ……?」
「バーターで出してたったんやから、映画のために死ぬくらい仁義見せんかい!」
「それ言うたら……兄さんこそ……そもそも、この映画がカンヌに出せたんも……事務所の力やないですか……」
「あーっ! お前言うたな。今、言うたな! そこだけは言うたらあかんやろ! 殺したる……ここで殺したる!」
「ぐ、ぐう……だ、だから……もうええて!」
「あたっ! お前……先輩の顔殴ったらあかんやん……」
「すんません、監督。自分、不器用なもんで」
「やかましいわ、アホ」
「ほら、もうええでしょう。周り見てください。拍手も止んで、立っとるん、もう僕らだけですよ」
「あっ……ええと……どうも、あざっしたー……」




