用済みになった最後の巫女ですが、消えゆく神様と一緒に神殿を辞めさせていただきます ~無給で神を宿して二十年、そろそろ限界ですの?~
「役立たずの古き神を宿す巫女は不要だ。新たな聖女召喚に成功した。お前は追放、神は返上せよ」
大司教バルドメロの声が、神殿の大広間に朗々と響き渡りました。
私――ミレイユ・アーデンフェルトは、大理石の床に膝をつき、深々と頭を垂れたまま、その言葉を静かに受け止めました。
二十年。
無給。無休。
私は淡々と、心の中でその数字を反芻します。
(二十年、と申しましても。正確には十九年と八ヶ月と十二日。祈祷の実働時間は延べ六万九千三百時間ほど……ふふ、時給換算は、いたしませんが)
穏やかな微笑を絶やさず、私は顔を上げました。
広間の中央では、召喚されたばかりの『新聖女』セラフィーナが、光り輝く加護のエフェクトを纏って観衆を圧倒しています。金の光が花びらのように舞い、居並ぶ神官たちが感嘆のため息を漏らしました。
〈神格ステータス〉に浮かぶ彼女の加護数値は――なるほど、確かに華々しい。
王太子レオンハルト殿下が、うっとりとその光に見入っています。私のことなど、視界にすら入っていないご様子で。
「聞こえたか、ミレイユ。お前の宿す古き神は、もう何の加護も生めぬ枯れ木も同然。神殿に不要な出費だ」
出費、と大司教は仰いました。
私は微笑みを深くします。
(出費。ええ、出費でしたわね。この二十年、神殿が国から徴収してきた『加護維持費』は金貨四十二万枚。そのうち私に支払われた額は……ゼロ。実に美しい収支ですこと)
「巫女ミレイユよ。神を返上し、速やかに神殿を去れ。これは決定事項だ」
観衆がざわめきます。哀れむ視線。嘲る視線。無関心な視線。
そのすべてを、私は静かに見渡しました。
胸の奥で、何かがことりと音を立てて――終わりました。
(ああ。ようやく、ですのね)
二十年間、耐えてきたわけではありません。
私はただ、待っていたのです。
この日を。
この言葉を。
私が仕込んだ、たった一文が――発動する瞬間を。
◇◆◇
私は、ゆっくりと立ち上がりました。
神殿の作法通り、銀灰色の髪はきっちりと結い上げたまま。色素の薄い青灰の瞳を伏せ、両手を胸の前で組みます。
そして、これ以上ないほど丁寧に、深々と一礼いたしました。
「かしこまりました」
大司教が満足げに頷きます。
「うむ。物分かりがよいな」
「では――神様ごと、辞めさせていただきます」
一瞬の沈黙。
「……なに?」
大司教の眉が寄りました。私は顔を上げ、穏やかに微笑みます。
「神を返上せよ、との仰せですが。ひとつ、確認をさせてくださいませ。この神殿と古き神シェストの〈神格契約〉――その契約書、猊下はきちんとお読みになったことがございますか?」
「なんだと……?」
「二十年前。私が巫女として着任した際、契約の更新手続きを担当いたしましたのは、この私でございます」
私は懐から、一枚の羊皮紙を取り出しました。
年季の入った、しかし丁寧に保管された契約書の写し。
「第七条、第三項。『神格加護の供給は、祈りの実務者たる巫女の在籍を前提とする。実務者が離脱した場合、加護供給は即時停止するものとする』――」
広間が、しんと静まり返りました。
「つまり」
私は一語ずつ、算盤を弾くように告げます。
「私が去れば。シェスト様の加護は、この国から――即座に、消えます」
「はったりを申すな! 古き神の加護など、とうに枯れておるわ!」
大司教が吐き捨てました。
ですが、私は動じません。
「そうお思いでしたら、どうぞご確認を。国境の魔物封じの結界――あれを維持していたのは、派手な単発加護ではございません。地味で、目に見えず、けれど二十年一日のごとく途切れなかった、シェスト様の継続加護でございます」
私は、二十年分の帳簿を思い浮かべました。
加護の供給量。魔力コスト。結界の維持記録。すべて、この頭の中に――そして写しは、安全な場所に。
「加護の帳簿、二十年分。減価償却まで、きっちり計算してございますのよ?」
王太子が、初めて怪訝な顔で私を見ました。
「……待て。ミレイユ、それはどういう意味だ」
「もう遅うございます」
ですが、私はもう振り返りません。
「それでは、皆さま。長らくお世話になりました」
私はもう一度、優雅に一礼し、踵を返しました。
背中に浴びせられる困惑のざわめきを、心地よい旋律のように聞きながら。
◇◆◇
神殿の奥、私だけが立ち入りを許されていた祈祷室。
埃をかぶった祭壇の前に、それは――ちいさく、儚く、座っておりました。
シェスト様。
私が二十年、宿し続けてきた消えゆく古き神。
本来は国土全体を包む結界を張れるほどの神格を持ちながら、長年の軽視と搾取によって衰弱し、今は幼い少年のような半透明の姿でしか顕現できません。銀の睫毛が、淡く発光していました。
「……行ってしまうのか、ミレイユ」
消え入りそうな声で、シェスト様が仰いました。
「そなたは、追放されたのであろう。ならば私を返上し……身軽になって去るがよい。私のような枯れた神を抱えていては、そなたの荷になるだけだ」
気位だけは高く、けれどその声は震えていました。
私は、そっと膝をつき、半透明の小さな手を取ります。
ひやりと冷たく、けれど確かにそこにある、神様の手を。
「シェスト様。ひとつ、訂正がございます」
「……訂正?」
「私、神を返上する気など、毛頭ございませんの」
シェスト様の目が、まん丸に見開かれました。
「神殿への返上義務は、契約解除をもって果たします。ですがその後――私はシェスト様を、私個人と〈神格契約〉で結び直します。もう神殿のものではございません。私だけの、私の神様に」
「な……」
「よろしければ、これからは私の専属で、いてくださいませんか」
沈黙。
半透明の頬に、透きとおった雫が、ひとつ、ふたつ。
「わ、私を……捨てぬのか?」
震える声で、シェスト様が問いました。
「誰も、必要とせなんだ。神殿の者も、王も、民も……皆、私を役立たずと。それなのに、そなたは」
「役立たず、ですって?」
私は、静かに微笑みました。
「とんでもございません。この国を二十年支えてきた、唯一無二の継続インフラでいらっしゃいますのに。……ただ、それを正しく評価できる帳簿係が、いなかっただけですわ」
シェスト様が、ぐしゃりと顔を歪めて、泣きました。
小さな、小さな神様が。
私は前世で――三崎詩織として、過労で倒れるまで、誰にも評価されずに働き続けました。
だからでしょうか。
この神様の涙が、他人事とは思えなかったのです。
「参りましょう、シェスト様。神殿の外は、案外あたたかいそうですよ」
私は小さな手を握り直し、立ち上がりました。
二十年ぶりの、外の光へ向かって。
◇◆◇
――視点は、神殿へ。
ミレイユが去って、三日後。
国境警備隊からの早馬が、王都に飛び込みました。
「魔物の氾濫ですッ! 国境結界が――結界が、消えました!」
大司教バルドメロは、豪奢な祭服の襟を掴まれんばかりの勢いで報告を受け、顔を蒼白にしました。
「馬鹿な……新聖女の加護があるだろう! セラフィーナ、結界を張り直せ!」
召喚されたばかりの新聖女セラフィーナは、困惑した表情で立ち尽くしていました。
「そ、そんなこと言われても……わたしの力、一度使ったら、しばらく出ないんです。さっき王都の噴水に加護を灯したばかりで……」
「なんだと?」
「派手に見せろって言われたから、見せただけで……国境まで届く結界なんて、そんな長く続く力、わたし、持ってません……!」
大司教の額に、脂汗が浮かびました。
派手だが、単発。瞬間出力に特化した、消耗型で、期限付きの力。
それが――新聖女の、加護の正体。
「帳簿を持ってこい! 加護維持費の帳簿だ! 数字を、数字を合わせろ!」
慌てて運ばれてきた神殿の会計簿。
だが、めくってもめくっても――合わないのです。
収入と支出。加護の供給量と結界の維持コスト。
すべての根拠となっていた『継続加護の供給者』の欄には、ただひとつの名が記されていました。
『祈りの実務者:ミレイユ・アーデンフェルト』
「合わん……なぜ合わん! どの欄も、あの女の名で埋まっておるではないか……ミレイユ……ッ! どこへ行った、連れ戻せ!」
ですが、その頃。
当のミレイユは、遠く辺境の地で――冒険者ギルドの扉を、静かに叩いておりました。
◇◆◇
「――で? あんた、巫女様が、なんだって冒険者登録なんかしに来たんだい」
辺境の冒険者ギルド。受付に座るそばかすの女性――ノーラ・フェンウィックが、胡散臭そうに私を見上げました。
三十路の元冒険者。実務に長けた、鋭い目。
私は微笑んで、懐から小さな石を取り出しました。
「こちらを、買い取っていただけますかしら。〈結界石〉と申します。魔物避けに使えますの」
ノーラさんが石を手に取り、〈鑑定〉にかけ――目を見張りました。
「……なんだいこれ。持続効果、三ヶ月? しかも範囲が村ひとつ分だって? こんなの見たことないよ!」
「地味でございましょう? 派手さはございませんが、途切れませんの。うちの神様の、得意分野で」
「うちの、神様……? ちょっと待ちな。枯れ井戸の再生に、農地の豊穣化に、治療補助……全部あんた一人で?」
私の隣、ふわふわと浮かぶ半透明のシェスト様が、少しだけ得意げに胸を張りました。まだ弱々しいですが、辺境に来てから、ほんの少し発光が強くなった気がします。
「ええ。前職で、実務ならひととおり」
私は淡々と、けれど確かな手応えとともに告げました。
ノーラさんは、しばらく私の顔と結界石を見比べて――やがて、盛大にため息をつきました。
「あんた……その細い腕と、その澄ました顔で、神殿でどんだけタダ働きさせられてきたんだい」
「あら。おわかりになります?」
「わかるさ! そういう顔してる。散々こき使われて、それでも仕事はきっちりやる奴の顔だ。……昔のあたしみたいでね」
ノーラさんは立ち上がり、私の肩をばしんと叩きました。
「いいだろう。あんたの成果、あたしが正当に値付けしてやる。神殿の権威なんざ、この辺境じゃ通用しない。効く仕事にゃ、ちゃんと金が出る。それが道理ってもんさ」
ああ。
胸の奥が、じんと温かくなりました。
二十年。誰も、私の仕事を『値付け』してくれなかった。
初めて、正当に評価される場所に、私はたどり着いたのです。
「では――お仕事、始めさせていただきますわね」
シェスト様が、私の隣で、ふわりと笑いました。
◇◆◇
枯れ井戸に水が戻り、痩せた畑に麦が実り、村を囲む結界石が魔物を退ける。
辺境の小さな村は、みるみるうちに潤っていきました。
そして、その噂を聞きつけて――
ある夕暮れ。村の広場に、ひとつの巨躯が現れました。
身長二メートル近く。黒鱗の混じる浅黒い肌。黄金の竜眼。背には、折り畳んだ黒竜の翼。
辺境を守る竜人騎士団の団長、ガルフ・ドラーケン。
『冷酷な戦鬼』と噂される男が、無言で私の前に立ちました。
村人たちが、怯えて息を呑みます。
ですが私は、微笑みを絶やさずに一礼しました。
「団長様。何か、ご用件でしょうか」
ガルフ様は、しばらく私を見下ろし――それから、私の隣に浮かぶシェスト様に、視線を移しました。
そして、驚くべきことに。
その巨躯を、静かに、深く、折り曲げたのです。
礼を――シェスト様に、捧げるように。
「え……?」
シェスト様が、戸惑いの声を上げました。
「そなた……私を、知っているのか?」
ガルフ様は、ぶっきらぼうに、けれど確かな声で答えました。
「毎年、神殿跡に供物を捧げてきた。誰にも気づかれぬよう。……古き神が、この国を陰で支えてきたことを、俺は知っている」
私は、思わず目を見開きました。
「……あなたが。冷酷と噂されるあなたが、誰も見向きもしなかった神様を、ずっと」
ガルフ様は、次に私へと向き直り、少し、視線を逸らしました。
無骨な頬が、わずかに強張っています。
「……巫女、ミレイユ」
「はい」
「お前の祈りは、二十年ずっと国を支えていた。魔物が国境を越えなかったのは、お前がいたからだ。誰も評価しなかった。だが――」
言葉を、探すように。
「俺は、知っている」
夕陽が、竜人の横顔を赤く染めました。
私は――ああ、なんということでしょう。
前世でも、今世でも、決して溢れなかったはずの涙が。
ほんの少しだけ、目の縁に滲みました。
「……ありがとう、ございます。政略でも、打算でもなく。ただ、真実を見てくださった方は……あなたが、初めてでございます」
シェスト様が、私とガルフ様を交互に見て、ふふ、と小さく笑いました。
「ふふ。……ミレイユ、そなた、少し顔が赤いぞ」
「シェスト様。それは、ご指摘なさらないのが、大人の作法でございますよ」
その声は、以前よりも、ずっと力強くなっていました。
◇◆◇
国境結界が消えて、ひと月。
王都は、魔物の脅威に晒されていました。
新聖女の加護は幾度張り直しても三日ともたず、大司教バルドメロは失脚。二十年分の帳簿の写しと契約条項が公にされ、彼が積み上げてきた虚飾は、跡形もなく崩れ去りました。
そしてある日――辺境の村に、一台の豪奢な馬車が到着しました。
降りてきたのは、金髪碧眼の美貌の青年。
王太子レオンハルト・レイヴェリア殿下。
彼はやつれた顔で私の前に立ち、そして――信じられないことに、地面に膝をつきました。
「ミレイユ! 頼む、戻ってくれ! 国が、国が滅びる! お前の――いや、お前の神の加護がなければ、我が国は……!」
王族が、土下座を。
村人たちがどよめきました。
私は、静かにその姿を見下ろします。
(あら。ようやく気づかれましたのね。失ってから。……ええ、いつもそうですのよ、こういう方は)
「殿下。お顔を上げてくださいませ。地面が汚れますわ」
「戻ってくれるのか!?」
「いいえ」
私は、穏やかに、けれどきっぱりと、首を横に振りました。
「無給で二十年、もう十分働きましたので」
「なっ……」
「私、労働基準というものを、前職で骨身に染みて学んでおりますの。過労死一歩手前まで働いた者が、同じ場所へ戻ると思われますか?」
「ろうどう……? ミレイユ、頼む、報酬なら望むままに――」
「今は、うちの神様の専属ですの」
私の隣で、シェスト様が、すっと前に出ました。
もう、儚い少年の姿ではありません。
背は伸び、発光は力強く、纏う神装は本来の輝きを取り戻しつつありました。辺境で必要とされ、正当に評価され続けたことで――この神様は、少しずつ、けれど確実に、力を取り戻していたのです。
「王太子よ」
シェスト様が、凛とした声で告げました。
「私を役立たずと切り捨てたのは、そなたらだ。地道な継続の価値を、そなたらは最後まで理解できなんだ。……だが、ミレイユは違った。だから私は、彼女とともにある」
殿下は、言葉を失って立ち尽くしました。
「殿下。国のことは、どうかご自身でお考えくださいませ。真の価値を見抜く目を、これから養われることを、心よりお祈り申し上げます」
私は、二十年でいちばん美しい微笑みを浮かべ、深々と一礼しました。
最後の、お別れの礼を。
そして踵を返し、ガルフ様とノーラさんの待つ、あたたかな村の灯りへと歩き出しました。
◇◆◇
――それから。
辺境の村は、すっかり様変わりしました。
枯れ井戸は清水を湛え、農地は黄金の麦で埋まり、結界石は村々を魔物から守り続けています。
私の『加護転用ビジネス』は、ノーラさんの目利きのおかげで軌道に乗り、近隣の村からも依頼が絶えません。
「ミレイユ! 次の村から結界石の追加注文だよ! ……あんた、ほんとに休まないねえ」
「あら。今の私は、きちんと報酬をいただいておりますもの。それに――」
私は、窓の外を見やりました。
村の子供たちが、大きな竜人にまとわりついて遊んでいます。
「……こら。翼を引っ張るな。折れはせんが、くすぐったい」
ガルフ様は、相変わらず表情に乏しいまま、けれどその無骨な手で、そっと子供の頭を撫でていました。冷酷な戦鬼と恐れられた男の、不器用な優しさ。
「ふふ。子供たちに、ずいぶん好かれておいでですのね、団長様」
「……別に。追い払うのも、面倒なだけだ」
私の視線に気づくと、彼は少しだけ、ばつが悪そうに目を逸らしました。
その横顔を見るたび、胸の奥がくすぐったくなるのは――きっと、まだ名前のつかない、小さな芽のようなものなのでしょう。
「ミレイユ」
足元から、涼やかな声。
シェスト様が、私を見上げていました。
ずいぶんと背が伸びて、発光も安定し、もう『消えゆく神』とは誰も呼びません。
「今日はな、東の枯れ谷に、泉を一つ、生み出せそうな気がするのだ。……私の力で。二十年前には、とうてい叶わなかったことだが」
「まあ。それは素晴らしいですわ」
「そなたが、必要としてくれたからだ」
シェスト様は、少しだけ照れたように、けれど誇らしげに笑いました。
地味でも。派手でなくても。
地道な継続こそが――いちばん強い。
「地味でも、派手でなくても――地道な継続こそが、いちばん強い。それを、あなたが証明してくださっていますのよ、シェスト様」
それを、この神様が、その存在そのもので証明してくれています。
「さて。それでは、本日のお仕事に参りましょうか」
私は帳簿を小脇に抱え、立ち上がりました。
二十年、誰にも評価されなかった祈り。
その一つひとつが、今は確かに、この辺境の地を潤しています。
報われる場所で。必要としてくれる神様と。真実を見てくれる人と。
「前世も今世も、ずいぶん働きましたけれど――この暮らしは、悪くございませんわね」
「ときに、ミレイユ」
シェスト様が、ふと思い出したように問いました。
「王都では、まだ帳簿が合わずに右往左往しておるそうだが……よいのか?」
私は、色素の薄い瞳を細めて、微笑みました。
「ええ。それはもう――私の管轄では、ございませんの」
遠く王都では、まだ帳簿が合わずに右往左往している方々がいるとか、いないとか。
ですが、それはもう――私の、知ったことではございません。
(了、あるいは――次なる村への、はじまり)




