俺の可愛い妻
馬車の中大泣きした妻はスッキリした表情を浮かべた。
「私旦那様が褒め上手だから、本当に気持ちが軽くなりました。きっと私は誰かによく頑張ったって言ってもらいたかったのかもしれないです。今日は素敵な旦那様と久しぶりに夜会に参加できてとても嬉しいです」
イングリッドは嫁いできてから一度も袖を通していなかった豪華なドレスをそっと摘む。侍女長は『お綺麗です』と微笑んでいる。
イングリッドは実際とても整った顔だと思う。
太ってはいないが胸が大きくメリハリのあるスタイルだ。小柄ではあるが目立つ容姿で華があるのでその日のビーズ刺繍が惜しみなく施された青空のようなドレスは彼女をとても輝かせている。母親が彼女のために一緒にあつらえたと言っていたが、イングリッドをよく理解していると思えた。
目の腫れをタオルで抑え、化粧を整えるとイングリッドは再び笑顔になった。
「旦那様との初めてのダンス。とても楽しみです」
俺もニッと笑うと
「今日は存分に楽しもう。ご馳走も期待できるしな」と笑顔を向けた。
ホーライゾン伯爵家に着くとイングリッドをエスコートし俺は会場へとゆっくり進んでいく。
周囲からは多くの視線が集まっている。やはりイングリッドの美しさは目を引くんだなと思いながら彼女を見ると、スッと背を正し優雅な笑みを浮かべていた。どうやら我が妻は貴族の仮面を被ったようだ。その表情は結婚式の日を彷彿とさせ記憶が蘇る。
挙式の日、イングリッドは一人で貴族の仮面を被って嫁いできたのだ。一人で心細かっただろうに……
俺は半年前と違って今は彼女を守りたいと強く思っていた。
イングリッドの表情を見て俺も貴族の仮面を被ることにした。
イングリッドの実家であるとはいえ、社交界の俺らの噂は碌でもない。
降爵されたガッシュ男爵家に、婚約者に捨てられた行き遅れの令嬢という夫婦だ。
周囲の目は決して全て優しいものではない。
入り口を通り過ぎて少し進むとホーライゾン伯爵が出迎えに現れた。
「やあ、こんばんは。いい夜だねオーランド、イングリッド」
横に立つイングリッドが腰をかがめ頭を下げる。
「今夜は妻と招待いただきありがとうございます。伯爵」俺は頭を下げるとイングリッドの背中に手を添えた。
「素晴らしい夜会ですわ。今日はお父様たちにお会いできるのを楽しみにしてきました」イングリッドが微笑むとホーライゾン伯爵はほんの少し目を見開き嬉しそうに微笑んだ。
「ゆっくりしていってくれ、今日を皮切りにきっとガッシュ男爵家には多くの招待状が舞い込むことになるだろう。仕事も社交も少しずつ前に進めていくといいよ。あとで建築の技師を多く抱えるラナイ子爵を紹介するから待っていてくれ」そう言うと伯爵は飲み物を俺たちに勧めて他の客へと足を向けて行った。
イングリッドは父親の表情を見て大きく溜息を吐く。
「緊張していましたが大丈夫でした。父は私に幸せになってと言っていましたが今の私の気持ちが伝わったようですね」そう言って俺の腕を軽く揺する。嬉しさが彼女なりに込み上げているのだろう。
俺も『ああ、良かったよな。最初のひどい態度で伯爵は俺を嫌がっていると思っていたが根気強く支えてくれた、ガッシュ家の良い理解者だ』とイングリッドを引き寄せ耳元で話すとイングリッドは可笑しそうに笑った。
『父が「彼は悪い青年ではないと思う。一か八か賭けてみないか」と言ったのも結婚のきっかけですのよ』イングリッドが今度は耳元で囁いた。
それを聞いて俺は仰天した。
顔合わせに現れず街道の契約を結ぶ時だけふらりと現れた俺をよくぞまあ見捨てなかったものだと感心した。
ホーライゾン伯爵家はずっとガッシュ男爵家に持参金含め、仕事の援助を続けてくれている。大変ありがたい存在であることは半年で骨身に染みていた。
俺たちは軽食をつまみ、ワインを一杯ずつ飲んでダンスホールに人が増えたら紛れて踊ろうと話した。
「久しぶりに踊るんです。足がもつれるかも」笑ったイングリッドの言葉に『俺はずっと踊っていない。忘れてないかな?』と急に不安が押し寄せる。
二人で挨拶するにも周囲の知り合いは極端に少ない。五年間貴族を辞めた俺だ。戻ってからは男爵位で招待状もまともに貰えなかった家の人間などに貴族はそんなに優しくない。
だが、イングリッドはニコニコと俺のエスコートに身を寄せリラックスし始めた。
俺たちは『あんなドレスが流行りなのか?』と話したり『このピクルスは絶品だ』と喜んだり、パーティーを別の角度から楽しむ。夜会の楽しげな雰囲気も相まって、二人で呑気に会話を続ける。
給仕が来るのを待てず、俺がおかわりのワインを取りに行っていたらいつの間にか女性の集団がイングリッドを取り囲んでいた。嫌な予感がして助けに行こうとすると義兄のマットが俺の腕をつかんだ。
「ちょっとだけ待ってくれないか。イングリッドの実力を君も知って置いた方がいい」
挨拶もその夜していなかったマットの登場に動揺するのと、義兄の真剣さに俺たちは二人で柱の影で様子を見守ることにする。
「ああ、イングリッド様、お変わりありませんか?今夜はお会いできて嬉しいわ。結婚式には行けなくてごめんなさいね」
「本当に!私も貴女の花嫁姿見たかったわ。だって二十六歳でウエディングドレスを着る人なんて見たことないんですもの」
「あら、きっと似合うわよ。イングリッド様って童顔ですもの」
その夫人たちは最新の流行のドレスに身を包み、ちょっと気取った、そしてイングリッドを少し蔑んだ表情で見つめながら大袈裟に謝っている。だが、その顔はどことなく優越感が漂っており、とても嫌な雰囲気だ。
イングリッドは一瞬息を止めていたが三人の夫人を順番に見渡した。
「ジェーン様、アエラ様、キルスティン様、おひさしぶりね。まるで学生時代に戻ったみたいだわ」
「まあ〜そう言ってくれて嬉しいわ。まだ友達って思ってくれているって知らなかった」
ジェーンが意地悪に笑うと、他の二人もクスクスと笑った。
それは(私たちはお友達と思っていませんけどね)と言っている。
イングリッドはフウと息を吐くと背をピシリと伸ばす。
「誰がお友達ですって?」
その冷たい声にピシリと空気が変わった。豹変した彼女の姿にアエラがギクリと顔を強張らせる。
「あ、……貴女今は男爵夫人よね。格下の爵位の旦那様にでも嫁げて幸運よね。一時は修道院って言われていましたものね」
キルスティンが再び意地の悪い言葉を浴びせると二人は再び余裕を持ったように
「「本当!良いことだわ」」
と小馬鹿にした笑い声をあげた。
「ねえ、旦那様って怖い方?だってロマーノ王子殿下に不敬を働いて実家から追い出されていた方なんでしょう?」
アエラが俺の情報でさらにイングリッドを貶めようとしたので俺は思わずカッとなったがその肩をマットが押さえている。
「すっごく心配していたのよ。エリオット様に捨てられてただでさえも可哀想なのに暴力夫に嫁がされるなんてイングリッド様はなんて気の毒なのかしらって」
「ええ、本気で心配していたの」
「だって、あなたって令嬢らしくないから縁談も連敗していたし」
三人が次々と悪口を貴族らしく言い、その声は少しずつ大きくなる。
『もう限界だ。行かせてくれ』俺がそう呟いたところでイングリッドが急に
「まぁ!ホホホホ」と笑い出す。
その声が大きく響くと三人は目を見開き驚いた表情をした。
「三人ともご心配おかけしましたわ。本当に噂が一人歩きをするってこのことね」イングリッドはクスクスと笑いを止めない。
「ジェーン様、同じ男爵家同士。今からはそのことで助け合うこともあるかもしれないのに私ったら貴女のことお友達だと思ったことがありませんでしたわ。ごめんなさいね」
そう言うとジェーンがカッと頬を赤らめる。
「アエラ様、そうなの。主人はロマーノ殿下と拳を交えた仲ですの」
「え?えぇ!?」
アエラがギクシャクと頷くとイングリッドはフフフと笑う。
「ロマーノ殿下はどうも主人を唯一のお友達だって言い続けるんですのよ。本当に爵位を超えてずっと友達だ〜なんて言うので私も困ってしまうくらい。殿方の感覚は女にはわかりかねますわ」
アエラはその言葉に思わず震え上がる。
ロマーノ殿下はオーランドを友人と見做している。そう言ってるのと同義だ。アエラは懐疑的ではあるが自信満々に微笑むイングリッドの迫力に悔しそうに俯く。
「キルスティン様、本当に私もウエディングドレスお見せしたかったわ。貴女が憧れていたデザイナー『トゥキンセンカ』の作品でしたもの。一点もので作って貰えたのでお店にも並ばないでしょう。貴女なら価値が分かってくださると思っていたのに……トゥキンセンカ様が私の年齢でも似合うものをと敢えて作ってくださるものだから、小さなお式でしたのに大袈裟になってしまったのよ」
イングリッドはキルスティンの表情が鬼の形相に変わるのを面白そうに片眉を上げて眺めている。
三人の夫人はそれぞれに腹を立てているのが柱側からでも十分に分かった。
一人がワナワナと手が震え扇子を振り上げようとしたのでマットがスッと手を伸ばす。
「リーテン男爵夫人、その手をどうされるおつもりですか?」
俺はイングリットの目の前に立ち塞がり三人に対峙した。
「妻に挨拶いただいているようだが、皆様ご紹介いただけるかな?」
あっと声を出したのは誰なのか。
「旦那様!」イングリッドが嬉しそうに俺の腕に手を添える。
「皆様紹介いたしますわ。オーランド・ガッシュ男爵。主人ですの」
三人の夫人の頬が急に桃色に染まり沈黙が降りた。
「あ、あの私たち」
「ごめんなさい。今夜はお酒を飲みすぎたみたい」
「ま、またねイングリッド様」
三人は慌てたようにドレスを持ち上げ会釈をし、挨拶もせずに顔を伏せたまま消えていった。
その姿は尻尾を巻いて逃げる犬のようだ。
「大丈夫か?イングリッド」
俺がイングリッドの顔を心配で両手で持ち上げるとイングリッドは破顔した。
「やりました!私彼女たちにしっかり貴族らしく対応できましたでしょう?」
その顔は誇らしげで小鼻がふんわりと膨らんでいる。
俺はその顔に思わずキスしたくなるくらいだった。
「ああ、君は一人でしっかりと対応していたね。すごいよ」
俺が褒めるとイングリッドの顎は更に上を向く。褒めて褒めてと言ってくる可愛い仔犬のようだ。本当に可愛らしいなと思いながら俺はイングリッドの肩を優しく抱いた。
「俺の妻は社交界でも力を出せるんだなって感心したよ」その言葉に『やーん嬉しい』とイングリッドが耳元で囁く。
ゴホン、と咳払いが聞こえて振り返ればマットが微笑みながら両手を広げた。
「お兄様お久しぶりでございます。お元気そうで嬉しいわ」
イングリッドが抱きつくとマットは頭を撫でながら「おかえり」と声をかけた。
「久しぶりにイングリッドの社交界の挨拶を見たな。流石だよ」マットは苦笑いを溢している。その表情でホーライゾン伯爵家はこれは日常茶飯事なんだと認識した。
イングリッドはただの元気な跳ねっ返りではない。ちゃんと貴族令嬢としての手腕もあったのかと俺は驚いた。
そこへ金髪の女性と栗色の髪の細身な女性が現れた。
「ルヴィーセルお義姉様、ブリジッド、結婚式以来ね。今夜はお招きありがとう」イングリッドは微笑むとドレスを摘み挨拶をする。俺も二人に頭を下げた。
「……ごめんなさいね。折角会えたのに……私、……あ、あの意地悪な人たちに対して何も出来なかった……」
ブリジッドが怯えたような表情で小さく震えた。
「私もごめんなさい。結婚したからもう大丈夫だと勝手に判断して招待してしまったわ。貴女に嫌な思いをさせてしまった」
ルヴィーセルが唇を噛み締めるとマットが呆れたように息を吐き出した。
「すまないね、この二人はすぐに悲劇のヒロインぶるんだよ。そんなことをしても何も解決しないって言うのにね」
マットの辛辣な言葉に二人の女性は顔を青くする。
すると追い討ちをかけるようにイングリッドは言い放った。
「仕方ないわ。ブリジッドは社交の回数が私より少なくて対応力がないことをもちろん知っているもの」ブリジッドの表情が更に暗くなる。
「お義姉様の想像力の欠如は結婚当初から変わっていませんわ。お気になさらないで。想像できないから彼女たちを平気で招待されたんでしょう?それとも私たちの方が参加しないって思っていました?」サバサバとした口調でイングリッドがルヴィーセルの顔を覗き込むと『……そうね』と蚊の鳴くような声が聞こえた。それを見て溜飲が下がったのか
「さ!そんな暗いお葬式みたいな顔しないで!今夜は私の素敵な旦那様を紹介させて!」
イングリッドは小さくポン!と手を叩くと二人の雰囲気を変えた。
「結婚生活は大変なこともあるけれど私ガッシュ男爵家の皆様にすごくすごく大切にしていただいてるの!これも全て人生!ね、旦那様とっても素敵でしょう?」イングリッドはギュッと俺の腕にしがみついてきた。
その様子が可愛らしくて俺は家族がいると言うのにイングリッドのウエストをギュッと抱え自分の側に寄せた。
「キャ」と可愛い声が上がったが俺はホーライゾン伯爵家の皆に見せつけたいくらい、なんとなく爽快な気分だった。
「家政もお陰様で最近は安定してきたんです。そのうち小さな会は開きますからいらしてください」そう言うと二人の夫人は慌てたように『ええ』『是非』と頷く。
マットはその姿を見て安心したのか、
「二人がうまくいっているって分かって良かったよ。仕事でこれから関わりも増えるから我が家にも気軽に寄ってくれ」と笑顔を見せた。
そしてぎこちなく笑う義姉と妹の向こう側から、これまた浮かない表情の男性が現れた。
黒髪にヒョロリとした体躯の色白な男。間違いなくそれはエリオットだった。
もう少し明るいタイを選べば良かったのによりにもよって地味なグレーを締めているから年齢よりも老けて見える。
「エリオット、お久しぶりね。結婚式ではゆっくり挨拶できなかったから」そう言ってイングリッドが俺の手をトントンと叩く。俺はエスコートの腕をグッと引き上げるとイングリッドを軽く抱き上げた。
「やあ、義弟くん久しぶりだね。中々会う機会がなかったが会えて嬉しいよ」俺が握手のために手を差し出すとエリオットは少し顔色が悪いまま慌てたように手を差し出した。
「きちんとした挨拶にいつか伺いたいと思っていたんです。すっかり遅くなって……その……」男と思えないぐらいの小さな声でポソポソと話す姿は俺の友人たちには居ないタイプだった。
「ああ、そうだね。これからは会うことも増えるだろう。どうかよろしく頼むよ」そう言うと俺はニカッと笑って見せる。握手の手にほんの少し力を込めただけでエリオットは慌てて手を引っ込めようとした。
俺はその手をしっかり掴み更に笑みを深めた。
「皆様と顔合わせや結婚式で話す時間もあまりなかったがこれからは気兼ねなく我が家にも遊びにいらしてください」
その言葉に普通に返事をしたのはマットだけだった。
俺はホーライゾン伯爵家の人々に結婚式ではどれだけ興味がなかったのだろうかと笑顔を張り付けながら自分を心の中で罵っていた。
家族皆の顔を見れば彼らの人間としての力がすぐにわかるというのに。
イングリッドのあの時の不安を少しでも和らげることが出来たはずなのに。
その日イングリッドは終始ご機嫌なようだった。俺とダンスを踊り、母親と談笑し、幾人かの友人たちに俺を紹介してくれた。
夜会の流れとしては普通のことばかりであったのだが、俺とイングリッドの距離がグッと近づいた一日だった。




