最高に嬉しい!と喜ぶ妻
結婚式の翌日から俺と父親はイングリッドに早くも振り回されていた。
「すまないね。食事もホーライゾン伯爵家に比べて質素だろう?口に合わないんじゃないのかい?」
父親が初日の晩餐の席で申し訳なさそうにする。
ガッシュ男爵家の食事は質素だ。俺が帰ってきてから平民のそれと変わらないものを父も俺も食べている。なぜなら俺が屋敷の人員整理を行ったからだ。
人件費は一番の大きな経費だ。
昔のように広い領地を持っていないガッシュ男爵家に料理人は大勢雇えない。父親は男爵位を俺に譲ってからはその点も俺に任せてくれた。
正直食事は贅沢できないのは覚悟していたが、伯爵家の当主として生きてきた父の方が、食事のランクが下がるのは悔しかっただろう。
現在も一人の若いコックに通いで週に三回きてもらうのがやっとである。
だから、厨房の窯は封印。パンは平民の買うパン屋で買っているし、家事メイドが作ってくれたスープは栄養が摂れる野菜を多めに入れたあっさりしたもの。正確に言えばコクの出る生クリームやチーズなどの乳製品をたくさん買う金がない。
俺が体力的に困らない程度に肉を食べるため、鶏もも肉のグリルは量はあるが、ソースを使ったものではなく塩と野草で香りをつけた単純な料理。
要するに平民の家事メイドが家で作っている料理を出してくれているのだ。
「わー!最高に嬉しいです。私すっごく太りやすい体質なのでこう言う料理が一番助かります!」
イングリッドはそう言って父に笑顔を向けた。
「でも……実家ではシェフが色々と作ってくれていただろう?デザートなんかも我が家はなくてね」
父親は眉尻を下げ、新妻のイングリッドに頭を下げようとした。
「何を言ってるんですか!貴族の女性は太ったらおしまいです!ドレス着るんですよ」そう言うとスッと立ち上がってお腹に手を当てキューッとウエストを押さえてみせた。
「見てくださいな。コルセットを着けるために女はギューッと絞られるんです。でも実家で食べる食事はどれも太りやすいものばかり。口当たりの良い美味しいものって残念ですけどお豚ちゃんの元ですわ。私は夜会の三日前から絶食ダイエットを毎回していましたの。健康には毎日バランスの良いお食事で調整するのが一番です」
フンスと小鼻を広げてイングリッドは自信満々に話した。そこまで言われると父親も苦笑いを溢す。
「そう言ってくれると気が楽だが」
「私も家族です。本音で話しておりますよ。食事のことなんて大した問題ではないですわ。どうか気になさらないでお義父様」
イングリッドはコロコロと笑っていた。
ある朝はイングリッドが台所に立っていると報告が上がった。
執事とあわてて厨房に向かうと、物凄い焦げた匂いが立ち込めている。
「ごめんなさい。お義母様に柔らかいパンを食べて頂こうと思ったら、竈の使い方が全くうまくいかなくて」
イングリッドが半べそをかいている。
寝室から出てこない義母に食事をもっととって欲しかったのだとイングリッドは伏目がちに話した。
実家で食べるパンを再現したかったというがレシピの配分は分かっていても作り方までは再現できなかったようだ。
食品を無駄にしてしまうからそう言うことは使用人に任せたらいいよ、と言うつもりが、執事が『大奥様へお見舞いのキッカケにと思っていたそうですよ』と聞くと叱れない。
シュンとしおれているイングリッドに俺は(本当に年上なのか?)と疑いたくなったが、顔についている小麦粉を見ると笑いが込み上げる。
「作ろうとしてくれた気持ちだけでも嬉しいよ。母だって料理なんて作れないんだ。伯爵家でもしたことがなかっただろうに。イングリッドは優しいな」自然とそんな言葉が出てきた。
「旦那様ぁ〜優しすぎます!でもそう言ってくださって嬉しいです。食材を無駄にしちゃってすみません」
イングリッドは貴族であるのに頭を下げた。
ちょうどコックのゴートンがやってきて厨房の散らかりに驚いた表情をしている。
「ゴートン、ごめんなさいね。使っていない窯を使ってみたらパンが全然うまく焼けなかったの。散らかしただけになったわ」イングリッドは素直に謝った。
その姿は貴族令嬢とは言い難かったが、使用人たちには好印象に映ったようだった。
ゴートンはその焦げた固いパンを手に取ると
「コゲをとってパン粉にします。大丈夫ですよ若奥様!」と励ました。
イングリッドは再び嬉しそうに笑った。
「皆さんがとってもいい方達ばかりで泣きそうなくらい嬉しいです。本当にここに嫁げてよかった!!」
ガッシュ男爵家は俺が戻ってきた一年間ずっと陰気で殺伐とした雰囲気だったがイングリッドの嬉しそうな声を聞くたびに何となく皆の心にほっこりとした温かいものが満ちるのである。
そして母がその話を聞いて『イングリッドさんに気を遣わせてばかりでは悪いわ。私も晩餐くらいは一緒に食べれるようにならないと』と言い出したそうだ。
部屋から出なかった母の気持ちに何かの変化が起きたのかもしれない。
侍女からその話を聞いて俺は嬉しく思った。
昼下がり、ガッシュ男爵家の廊下で侍女長が頭を下げている。
「すみません。奥様にまでこのように縫い物をさせてしまって」
イングリッドの手を見ると応接間のクッションが握られていた。
「どうした?」俺が近付くと侍女長がハッと振り返った。
「実は奥様がクッションカバーの綻びを綺麗な刺繍で仕上げてくださって、このように修繕してくださいました。私たちが本来ならしなければならないお仕事を奥様が引き受けてくださったのです」そう言って深々と頭を下げる。
「頭を上げてください!私の唯一の特技〈刺繍〉を披露させてくださいな!家では作品をいくら作っても家の目につくところに置くことは叶いませんでしたが、このように応接間に置かさせていただけるなんて最高です!嬉しいわ」キラキラとした瞳でクッションを持ち上げたイングリッドは『ね!旦那様!見てくださいな』と刺繍の箇所を指差した。
擦り切れそうになっていたクッションの一部に同色で刺繍を這わせ、見事に擦り切れかけた場所が修復されている。
「旦那様!私刺繍だけは本当に得意中の得意なんです!」
ね!褒めて!と言わんばかりのイングリッドに思わず苦笑する。
「ああ、すごく上手だ」と口下手な俺でも言わされた。
「やーん!嬉しい〜」イングリッドは満面の笑みを浮かべた。
「この家に嫁げてすごく嬉しいです。毎日小さなことで褒められるから本当に嬉しいわ」
イングリッドは貴族令嬢らしからぬ口の大きさで笑って見せた。
父たちも昔のプライドの高い伯爵様風であれば『貴族らしくない』と顔を顰めたであろうが、この陰気な家にその笑顔は眩しく俺も思わず笑ってしまう。
「すまないな。こんなことまでさせて」
「私は嬉しくてさせてもらっていますから気にしないでください、旦那様。それに……本当に刺繍以外はダメなんですよ」
そう言うと斜め後ろを指差した。
そこには綺麗に生けてあるとは言い難い花瓶と不揃いの長さの花が見えた。
「実は私は刺繍以外はからっきしでして、あのようにお花を生けようとしたんですが全然ダメでした」
「奥様が一生懸命に生けられたのです。独創的で素敵ですよ」
侍女長が珍しく気を遣いながら微笑んでいる。だが、それは貴族の玄関に飾るにはかなり野生的な仕上がりである。
おそらくイングリッドがやってみたが上手くいかず、侍女長が手直ししていた真っ最中なのであろう。
「お花はうまくできなかったですが、ちょうど私の手習いが役立つところがあったので本当に良かったです」
褒められたイングリッドは二十六歳とは思えぬ雰囲気で子供のように『ね?』とみんなに笑いかけている。
イングリッドは奥様らしい雰囲気の女性ではないかもしれないが、ガッシュ男爵家の役に立とうとしてくれているのが伝わってくる。
俺はいつの間にか『瑕疵ある女性を嫁として押し付けられた』という傲慢な考えから、『こんな家に嫁いでくれた明るい太陽のような女性だ』とイングリッドに対する考え方が変わっていった。
持参金を多く持たされていた意味も気になっていたが、イングリッドの直向きさに裏があるとは思えず、何より毎日少しずつ、陰気な屋敷の中が明るくなる。
金にはまだまだ苦労していたが、ホーライゾン伯爵家の助けもあっていずれは回復の見込みも立つだろうと予想もできた。
押し付けられた婚約に暗い気持ちになっていた俺はイングリッドに日々笑顔をもらえるようになった。
「旦那様はすごい人です。事情があった実家を助けるために頑張られておられると皆が褒めております。その上私みたいに行き遅れた女を引き取ってくれて優しくしてくれる、懐の深い男性です」
いつもイングリッドは良いように俺を解釈してくれるので、心が狭い俺もイングリッドの言葉通りの人間になりたいといつの間にか思うようになった。
なんで婚約破棄されたのか。
婚約者とずっと結婚できなかった理由はどうしてなのか。
疑問はまだまだ解消されなかったが、俺は毎日『旦那様!大好きです!有難うございます!』と言われるたびにイングリッドが可愛く見えるようになってきた。
毎日が忙しく、仕事に追われることも多かったが、父もイングリッドの明るさに絆され、執事や数少ない使用人も彼女の気さくさと素直さに孫を可愛がるように手をかけていた。そんな日々が続きガッシュ男爵家は少しずつだが食事にも一品添えることが徐々にできる様になった。
母は屋敷の中を歩き回ることが増え、朝はきちんと化粧を施すようになったらしい。
たまに二人で慣れない掃除をしてみたり、疲れた家事の後にハーブティーを淹れてお茶の時間を楽しんでいると聞けば俺も一つの心配事から解放されたと思えた。
父は執務に口は出さないと言っていたが、帳簿の整理や領地の見回りは手を貸してくれるようになった。
辺境地にきちんとした橋がかかり、荷馬車が通れるようになったと言われた夜は家族で久しぶりに集まり、みんなで晩餐を囲んだ。
「イングリッドのお陰だよ」そう言葉をかけると
「私の実家が少しお手伝いをさせて頂いただけで私の力ではありませんから。これは旦那様のお力です」
そう言って拍手した。
両親もその夜は非常に機嫌よくワインを開け、家族の団欒を数年ぶりに楽しんだ。
ちょうど半年が経った頃、ホーライゾン伯爵の夜会に呼ばれた。
最近の俺は彼女に対して素直に話すことが出来るくらいには打ち解けていた。
婚約期間に何度か招待をしてくれていた夜会を欠席していたのは着ていくタキシードが無かったんだと正直に打ち明ける。
兄たちより体格が良かったために彼らのタキシードを使い回すことも出来ず、平民生活で何も持っていなかった俺はあの当時、「気分が乗らない」と言い訳をしてタキシードを作らなかった。そう告白した。
俺はイングリッドに『あの時は本当に不貞腐れていて悪かった』と素直に謝った。
父たちの家の事情による呼び戻しにも腹を立てていたし、婚約の打診も素直に喜べなかった。
オーダースーツを仕立てることは無理をすれば出来たのかもしれないが、彼らの思惑に自分が前のめりだとは思われたくなくて意地を張っていたんだ。そう反省を伝えた。
するとイングリッドは再び顔を明るくした。
「良かったです。私、あの当時社交界で酷く貶されていましたから旦那様に本当に嫌われているんだろうなと、とても落ち込んでいたんです。事情を話してくれる旦那様は本当にお優しいですよ。私、一気に気持ちが晴れました。ササ!そうと分かれば是非タキシードは今回こそ作りましょう!」
そう言うと自分の懇意にしているお店に連絡をとり、高級な仕立て屋を屋敷へ呼び付け、短期間で見事な一着を作ることができた。
「まあ〜旦那様ってタキシードがとても似合われますね!胸板も厚いし、背もお高くて騎士様みたい。すっごく素敵です。どうしよう。他の女性から言い寄られてしまうかも」
イングリッドは俺のタキシード姿をそんな風に褒めてくれた。
眉を下げ、本気で困った顔をするイングリッドが可愛らしくて思わず額にキスをした。
「俺は浮気なんかしない。イングリッドの夫だからな」
イングリッドは頬を真っ赤に染め上げて初心な乙女のようにコクコクと頷いた。
初めは俺に取り入ろうとしているのかな?と話していた疑り深いガッシュ家の皆もイングリッドの姿に穏やかな微笑みを浮かべている。
今では(いつか手の平を返されるのでは?)という考えは霧散して優しい笑顔を向けるようになった。
イングリッドは嫁いでから一度も態度は変わらず、明るく元気でガッシュ男爵家の太陽のように笑い続けていた。




