二
「どうしてそんなことまで知っているの?」
詳しく知識を並べるトリコールに、ビオラは興味津々といったふうに問いを示した。
それはヒトの歴史についてであった。ヒトがどういうふうに生活をし、ここまで上り詰めて自然界に存在しているのかを、トリコールは冗長かと思えるほど渾渾と話してくれた。しかしその話には随所に驚きが施されていたのである。結果、トリコールはなぜヒトをそこまで知り得ているのだろうと疑問を抱き、また少しばかりの気味悪さを覚えた。あまりに知りすぎているのは、かえって怖く感じてしまう。それを知る由もないトリコールはあっけらかんと、ビオラの質問に答えた。
「僕は昔、ヒトだったからさ」
その言葉にビオラと私は唖然とした。いよいよ気味が悪くなる。ヒトとハナの種子は違う。いつから同じ品種になったというのだろう。
「よしてよ。今までで最高にセンスのない答えだわ」
私の言葉にトリコールはクスリと笑った。
「センスか、君は面白いな」
「ねぇ話を戻して、続きが聞きたいわ」
そう言ったビオラは風にそよぐ自身を気に留める事なく、揺ら揺らとカラダをくねらせていた。
「僕はね、ヒトとしての人生に悲観したんだ。だから神様にお願いして、次に生まれた時は自然界に近い命にして欲しい……と、ずっと願っていた。そして今、ご覧の通りということ」
カミサマという概念はついこのあいだ知った。トリコールが言うには、カミサマというのはシュウキョウというヒトが信じる考え方の頂点にいる存在で、色んなシュウキョウに合わせて色んなカミサマがいるらしい。そして中には、望みを叶えるという不可思議なカミサマもいるのだという。ヒトの間でも信じる側と信じない側がいるらしいが、トリコールはどうやら前者であったのかもしれない。
「それでこうしてパンジーになったって言うの?」
覚えたてのパンジーという言葉を使って尋ねるビオラに、「そうだよ」とトリコールはいとも簡単に肯定した。その呆気なさにビオラは腑に落ちない声音で漏らした。
「そうしたら、あなた損しているじゃない」
「どこが」
「ヒトのほうが優位なのに」
私もそれには同調した。ビオラの言いたいことは分かる。なぜ、わざわざ花になったのか。
しかしトリコールは答えをくれなかった。
「圧倒的に他の命を掌握する権利は、確かに僕らより持っているね」
シニカルな口調でそう言うトリコールに私は真下の地面を見た。
僕らより、ですって?
私は思わず言い返す。
「比にならないわよ」
この分では水がもたない。土が乾く前に誰か帰ってきて欲しい。私たちは自身の足元ですら、思うようにいかないのだ。欲求の解決すらままならない。すべての決定権はヒトにあり、私たちはそれを握られている側なのだ。
私の言葉にビオラとトリコールは黙ってしまった。しかし俯き加減の私に、しばらくして期待に満ちた声が届く。この類いの勘はビオラがずば抜けていた。
「雨が降りそう」
呟いたビオラに、安堵した。これで数日は助かる。
深く馨しい薫りが雨期の前兆を告げている。じきに湿った空気が周囲を包みこんで、そのまま雨の季節が来るだろう。そしてそれが明ければ照りつける太陽の登場だ。それは経験していなくとも、何となく分かっていた。きっとトリコールの言うホンノウというものだ。
今年は暑くなるのもあっという間らしい。私たちにそれを教えてくれたのは天敵である、どこへでも好きに移動できる生き物だった。それはヒトの間ではチョウと呼ばれるものだった。そのチョウが近付いて、私たちの前にふわりと降り立つ。内心焦ったがチョウはそんなこともすぐに見破ったらしく、フフと奇妙な笑いをして優雅な口調で言った。
「安心なさいよ、あなた達なんかいらないの」
そう言ってチョウは私たちの頭上を旋回し始めた。何だかとても癇に障ったが、ムッとすればそれは、チョウの思う壺のような気がしたので黙っている。
「お腹がいっぱいなのよね、今は……」
今は、を殊更に強調するチョウに一抹の不安を覚えたが、それよりもビオラの様子が気になった。とても怯えて恐ろしげにしている。そんなビオラの様子も上から見下ろすチョウは分かっているのか、フンと笑って楽しげに言った。
「もうすぐ暑い日が来るわよ、今年は早い。雨露も少ないでしょ?」
何が愉快なのか、ヒラヒラとしきりに鮮やかな模様の翅を見せびらかすように私たちの上を飛び跳ねている。
「ああ、楽しみねぇ、とても楽しみ。フフッ……またね?」
言うだけ言ってチョウはひらりと上空に舞い上がって行った。
「楽しいことなどあるものか」
チョウの目の前では挑発に乗らなかったトリコールは、チョウが消えてから不機嫌な口調で呟いていた。私も、チョウが何をもって楽しいと言ったのか理解に苦しむ。しかしそれよりも、またね、と言ったことのほうが苦しみは数倍だった。それに悔しかった。
きっと次に会った時には、チョウは別の顔でやって来るだろう。そして私たちの前でこう言うのだ。あの優雅な口調に似合った捕食者の顔で。
――ああ、お腹がすいたわ、と。