影の姫と記憶の扉
夜。山間の集落にある古びた宿の一室。
ユウは、蝋燭の灯りのもとで、巻物をじっと見つめていた。
ゼノが持ち帰った――リリスの過去を記した記録。
文字は古語で書かれていたが、ユウにはそれがなぜか、心に染み入るように理解できた。
「影の姫、リゼリア……」
彼の口から、その名前が自然にこぼれる。
それは――リリスの前の名だった。
リリスが記憶と引き換えに、封じたはずの名。
「この記録が真実なら……リリスは、自らの意思で国と家族を封じた禁呪の担い手だったんだ」
過去の重さに、ユウは無意識に拳を握る。
彼女の微笑み、寂しげな横顔。あれらはすべて、自らを空白の存在にした上でのものだった。
「……それでも、俺は……」
そのとき。
扉がノックされた。
「ユウ、入ってもいい?」
その声に、ユウははっと顔を上げた。
部屋に入ってきたのは、リリス。
銀の髪に月光が差し込み、静かな気配を纏っている。
だがその目は、どこか揺れていた。
「……なんだか、胸がざわついて……あなたと話したくなったの」
ユウは、巻物を隠すこともせず、テーブルに置いたままリリスを見つめた。
「リリス。いや……リゼリアって、聞き覚えある?」
リリスの瞳が揺れる。
「……その名前、どこかで……」
ユウはゆっくりと巻物を指差す。
「君の過去の名前だ。禁呪を使い、国を封じ、記憶を失った影の姫――それが、君なんだ」
沈黙が流れる。
リリスは膝に手を置き、じっと自分の指を見つめる。
「……怖いわ。自分が何をしたのか、それを知るのが……すごく怖い」
「俺も、怖いよ。君が全部思い出して、ユウと出会う前の世界に戻ろうとしたらって……ずっと考えてた」
リリスが顔を上げる。
ユウの瞳が、真っ直ぐに彼女を捉えていた。
「でも、知ってほしい。君が何者だったとしても、俺にとって今の君が、すべてだから」
リリスは目を伏せ、震える声で囁く。
「……でも、私、誰かを封じたの。国を、家族を、すべてを……それが本当なら、私は……愛される価値なんて……」
「そんなこと、誰が決めた?」
ユウが立ち上がり、彼女の手を取った。
「過去がどうであれ、今をどう生きるかは、自分で選べる」
「……ユウ……」
「君が思い出しても、変わらない。俺は君を選び続ける。リリスとして、リゼリアとして……そして、君自身として」
その言葉が、リリスの胸の奥に届いた。
記憶の扉が、かすかに軋む。
瞼の裏に、炎の城。泣き叫ぶ声。光に包まれた自分。そして、名前を捨てたあの日――
リリスは、ユウの胸にそっと額を預けた。
「……ありがとう、ユウ。私……向き合ってみる。過去の私に」
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その夜。
リリスは一人で丘に登った。
星の下で、巻物を広げ、声に出して古語を読み上げる。
そして、最後の一節を読み終えた瞬間――
記憶の奔流が、彼女を飲み込んだ。
白銀の髪が、風に舞う。
リリスの瞳が――金色に輝いた。
丘の上で、リリスの身体を光が包んでいた。
風が巻き起こり、空がざわめく。
彼女の中で、忘れられていた記憶が解き放たれる――
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かつて、王国は禁呪の暴走によって滅びかけていた。
その中心にいたのは、王家の次女、リゼリア。
長姉が国王の座を継ぐと決まっていたなか、リゼリアは己の魔力の特異性を買われ、禁呪研究に投入された。
――その日、敵国の襲撃により、城が落ちる寸前。
炎の中で、家族が目の前で傷つき、叫び、泣き叫んでいた。
リゼリアは選んだ。
「私の記憶を代償に、この国の時間を封じる……!」
命の引き換えでなく、自分自身を代償に。
そして、禁呪が発動され――国土は静止したまま、封印された。
リゼリアの記憶は白紙となり、彼女だけが外の時を生き始めた。
それが、現在のリリス。
記憶の奔流が収まり、彼女は膝をついた。
肩で息をし、涙がぽろぽろと地面に落ちていく。
「私……家族を……国を……私が……!」
その瞬間。
後ろから、そっと肩に羽織がかけられた。
ユウだった。
彼は、何も言わず、ただ彼女の隣に座った。
泣きじゃくる彼女の手を、強く、けれど優しく握る。
「もう、自分を責めなくていい」
「でも……私のせいで……!」
「違う。君が選んだのは、誰も失わないための決断だった」
「……結果的に、私は皆を閉じ込めただけよ……!」
「それでも、君は逃げなかった」
ユウの瞳は、彼女の瞳をまっすぐ捉えていた。
「君は今、ちゃんと向き合ってる。過去と、記憶と、そして……自分自身と」
沈黙が、しばし二人を包む。
風が止まり、月が雲間から顔を出す。
リリスが、震える声で呟く。
「ねえ、ユウ……あなたは、私のことを今でもリリスって呼べる……?」
「当たり前だ。君がリゼリアだったとしても、今の君はリリスだ」
その言葉に、リリスは目を閉じ、ふっと笑った。
泣き笑いのような、でも確かに前を向いた笑顔だった。
「……ありがとう。あなたに出会えてよかった」
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その翌朝。
ユウたちは、封印の魔力が揺らぎ始めていることに気づいた。
国の封印が、ゆっくりと解け始めている。
リリスの記憶が戻ったことで、鍵が解かれたのだ。
だが同時に、それを狙う者たちも動き始めていた。
フィアの水晶が、赤く警告を放つ。
「……外から、強い魔力反応。複数……これは、襲撃の兆しよ」
カインが剣を抜き、ゼノがマントを翻す。
「来たな。俺たちの過去を嗅ぎつけた、あの連中だ」
ユウが前を向く。
「俺たちが、皆の過去を受け入れたってことは――」
リリスが隣に立ち、微笑む。
「未来へ進む準備ができたってことよね?」
五人の訳ありたちが、揃った。
それぞれの過去を背負いながら、今ここに未来を選ぶ力を手にして。
戦いは近い。
だが、彼らの足取りは迷いなく、まっすぐだった。