剣を捨てた騎士と封印の真実
夜明け前、森に差す青い月光の下。
リリスの寝息を背に、ユウは小屋の外で焚き火を見つめていた。
(……あれは、彼女の封印の記憶だった)
黒い霧。叫び。禁呪の光。
彼女は、かつて何かを封じた。そして、記憶まで自らの手で――
(俺がこの力で、彼女の記憶を解けば……)
だが、それは同時に彼女を再び傷つけるかもしれない。慎重に進まなくてはならない。
ユウが拳を握ったその時だった。
――ギィィ……
木々をかき分けるような音とともに、草を踏む足音が聞こえた。
「誰だ……?」
身構えたユウの前に現れたのは、一人の男だった。
長い黒のマント。使い込まれた鎧。だが、背にあるべき剣は――無い。
男は、ユウに一瞥もくれず、小屋の前で立ち止まった。
「……そこに、銀髪の娘がいるな」
低くしわがれた声。だが、その目はどこか優しさを秘めていた。
「お前、何者だ?」
「名乗るまでもない。俺はただの――剣を捨てた騎士だ」
そう言い、男は静かに続けた。
「だが、あの娘は……リリスと呼ばれた姫だ。かつてこの国を封じた、亡国の呪術姫」
ユウの目が見開かれる。
「知ってるのか……彼女のことを」
「いや、知っていたに近いな」
男――カインは、焚き火の前に腰を下ろし、遠い目をする。
「五年前、この地は魔王軍の進行を受け、滅びた。だが、最後の瞬間、王女リリスが、禁呪を発動し、城ごと国を封じた……自らの記憶ごとな」
ユウの胸が、締めつけられる。
やはり――リリスは、その中心にいた。
「そのとき、俺は……彼女の護衛騎士だった」
カインの声に、かすかな悔しさがにじむ。
「守れなかった……俺は剣を折り、戦場を背に逃げた」
沈黙。
ユウは焚き火の薪をくべながら、ゆっくりと口を開いた。
「……なら、どうして今さら現れた?」
「償いだ……そして、彼女の記憶が戻れば、再びあの封印が解ける可能性がある」
カインの目が、ユウを射抜く。
「お前は、記憶に触れる力を持っているな」
図星だった。だがそれを認めることに、ユウは少しためらった。
「……どうして分かる」
「その娘の様子を見れば分かる。お前の存在が、彼女の記憶に波紋を与えている」
焚き火の火が、ぱちりと弾ける。
カインはしばし黙り、そしてふと言った。
「……俺はこの世界の終焉を知っている」
「は?」
突然の言葉に、ユウは眉をひそめる。
「封印は永続ではない。記憶が戻れば、彼女自身が無意識にそれを解除する。そして、再びあの魔物が目を覚ます」
それは、あの森で出会った黒い霧の魔物か。それとも、もっと別の存在なのか。
「それを止められるのは――今、この場所に立つお前しかいないのかもしれない」
話を終えると、カインは静かに立ち上がった。
「……すまない。俺はこれ以上、彼女に顔向けできる立場じゃない」
そう言い、背を向けて森へ歩き出す。
「ちょっと待てよ!」
ユウが思わず叫ぶ。カインは足を止めた。
「お前が彼女を守れなかったって言うなら……今度こそ守ればいいだろ!」
その言葉に、カインはわずかに目を見開き、そしてふっと苦笑した。
「……いい目をしてるな。あの時の王女の護衛に似ている」
そのまま彼は森の闇に消えていった。
背中越しに、ユウは呟く。
「リリス……お前が背負ってきたもの、少しずつでいい。俺が全部、受け止めてやる」
手のひらを見つめる。
――これは、ただの異世界転移なんかじゃない。
彼女の過去と未来を変えるために、ユウはここに来たのだ。
焚き火の火が消え、空が薄紫に染まり始めたころ――
リリスは目を覚ました。
静かに揺れる小屋の扉の隙間から、冷たい風が入り込んでくる。
「……寒い」
毛布を引き寄せながら、彼女はふと隣を見る。
ユウは、小屋の隅でひとり、深く考え込んでいた。
その横顔には、不安と覚悟が入り混じっている。
「……ユウ?」
リリスが呼ぶと、ユウはゆっくりと彼女に視線を向けた。
「リリス。大丈夫か?」
その声に、どこか迷いがにじんでいた。
「少しだけ、話がしたい」
リリスがそう言い、ふたりは小屋の外、森の縁まで歩いた。
朝霧の残る空気が、頬を撫でる。
「ねえ……私って、いったい誰だったの?」
ぽつりとリリスが問う。
「私の中にある、知らない声……知らない景色。だけど、心が知ってる」
ユウは黙って彼女の隣に立った。
「私が見た夢の中で……人々が叫んでた。私を、姫と呼んでいた。でも、私は彼らを、光に包んで……」
彼女の肩が、小さく震えていた。
「わたし……何か、とんでもないことをしたんじゃないの……?」
ユウは、そっとリリスの肩に手を置いた。
「いいか、リリス。たとえ君が過去にどんなことをしていたとしても――」
彼はまっすぐに彼女を見つめる。
「今、こうして俺の目の前にいるのは、誰かを守ろうとした優しい君だ」
その言葉に、リリスの目に涙が滲む。
「でも、怖いの……記憶が戻れば、私はもう私じゃなくなるかもしれない」
「それでも、俺は君のそばにいる。最後まで、君が君自身でいられるように」
ユウの手が、リリスの額に触れる。
またあの温もりが、彼女の記憶を揺らしはじめる。
――瞬間、視界が白く染まった。
《封印陣、起動……王女、至急避難を――》
《無理よ。私が核に触れなければ、この国は呑まれる》
《姫様、それではあなたの命が――!》
記憶の中で、銀髪の少女が光の中心に立っていた。
その顔には、涙も恐れもなかった。
ただ、静かな覚悟。
《私のことは、すべて忘れて》
そして光が放たれ、すべてが沈黙した。
「……戻ってきたか」
ユウの声に、リリスははっと我に返った。
頬には涙が伝っていた。
「見えた……あのとき、私、やっぱり……国を……」
「違う」
ユウは強く、はっきりと否定した。
「君は守ったんだ。自分の命と記憶を代償に――それが、どれだけの覚悟だったか、俺は分かるよ」
彼女は唇を噛んで、俯いた。
「私は、まだ思い出すのが怖い……」
「無理に思い出さなくていい。ただ、少しずつ。君のペースで」
ユウはそう言って、リリスの手を握った。
「その手を、俺がずっと離さないから」
森に差す光が、ふたりの影を重ねていく。
そのぬくもりが、リリスの心の奥を、少しずつ溶かしていった。
====
その頃、遠く離れた山の砦。
仮面の情報屋・ゼノは、風に揺れる報告書を読みながら呟いた。
「……封印の波動が再び動き出したか」
その言葉に、女医のエレナが振り返る。
「あなたの過去とも、関係あるの?」
「さあな。ただ……面白くなってきた」
仮面の奥で、彼はかすかに笑った。
――物語の輪郭が、少しずつ動き始めていた。