目覚めの城と記憶のない姫
目を開けた瞬間、世界は静寂に包まれていた。
冷たい石畳。崩れた天井から差し込む光。舞う塵の粒が、時の止まった空間にただよっている。
「……ここは、どこだ?」
青年――ユウは、頭を押さえて起き上がった。背中に痛み、喉はからから。記憶がぐらぐらと揺れる。
確か、自宅のアパートで――寝ていたはずだ。なのに、気がつけば見知らぬ古城の廃墟に横たわっていた。
(これは夢か……?)
目を凝らすと、奥の玉座の間に誰かが立っていた。銀の髪が、光にきらめいている。
その少女は、薄汚れた白いドレスをまとい、こちらに背を向けていた。まるで、時間の止まった人形のように。
「……誰だ?」
そう声をかけると、少女がゆっくりと振り返った。
透き通るような蒼い瞳が、まっすぐにユウを見つめてくる。
「あなた……」
少女の唇が、わずかに動いた。
「目を、覚ましたのね」
その声は、どこか夢の中で聞いたような、不思議な響きを持っていた。
名を訊ねると、少女はゆっくりと首を振った。
「わたし、自分の名前が思い出せないの……でも、この城が――わたしの居場所だった気がする」
それだけを頼りに、彼女はこの朽ちた城で目覚め、誰かを待ち続けていたのだという。
ユウは、腰のポーチに入っていたスマホを取り出してみたが、もちろん圏外。日付も、時間も読み取れない。画面に映るのは、妹との写真だけだった。
「まさか、本当に異世界ってやつなのか……」
呟いたユウに、少女が不思議そうな顔をする。
「いせかい……? あなた、ここに来る前のことを覚えているの?」
「まあ、なんとなくは……でも、こっちの記憶はさっぱりでな」
苦笑するユウに、少女は静かに微笑んだ。その微笑みに、なぜか胸がざわついた。
(妙だな……初対面のはずなのに、なぜか懐かしい)
まるで、かつてこの少女と出会ったことがあるかのような、不思議な感覚。
そのとき、彼の頭に痛みが走った。
視界が揺れ、白いノイズが混じる――そして。
《……お願い、わたしの記憶を――封じて……この手で、全部……!》
断片的な映像。泣き叫ぶ少女。何かを封印する呪文。黒い霧。そして、誰かが手を差し伸べていた。
(いまのは……? 彼女の記憶……か?)
「大丈夫?」
少女が覗き込む。ユウはその距離の近さに少しだけ目をそらした。
「ああ、ちょっと……変な夢を見た気がするだけだ」
だが確信があった。これは夢ではない。彼女の記憶に、何かが封じられている。
そして――自分は、それに触れる力を持っている。
(妹の……最後の瞬間にも、同じ感覚があった)
ユウは、ポツリと呟いた。
「なあ……お前、本当に名前が思い出せないのか?」
「うん。何度思い出そうとしても、頭が痛くなるの」
「じゃあ……仮の名前をつけようか。そうしたら少しは安心するだろ」
少女は小さく瞬き、頷いた。
「……うん。あなたが、呼んでくれるなら」
「……リリスってのはどうだ?」
ふと浮かんだ響き。どこか懐かしく、温かい名前だった。
少女はしばらく考えたあと、ゆっくりと微笑んだ。
「リリス……気に入ったわ。ありがとう」
ユウはその笑顔に、微かな罪悪感と安堵を抱いた。
たぶんこの名前は――彼女の本当の名前なのだ。
けれど、まだそれを口にするわけにはいかない。
(まずは、俺がこの世界を理解しないとな)
この異世界で、何が起きているのか。彼女が何者なのか。そして、なぜ自分がここにいるのか。
――すべては、これから始まるのだから。
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朝霧が差し込む城の回廊を、ユウとリリスは歩いていた。
天井の崩れた廊下、苔むした絨毯、割れた窓から差し込む冷たい風。まるで時の止まった箱庭のようだった。
「外に……出ようと思う」
ユウの言葉に、リリスが目を丸くする。
「ここから? でも、この城以外に何があるのか、私……」
「分からなくても、何もしなければ進まない」
ユウは立ち止まり、リリスを振り返った。
「このままじゃ、君もずっと閉じ込められたままだ。少しでも前に進めば、何か見えてくるかもしれない」
言いながら、自分に言い聞かせているようでもあった。
過去を変えることはできない。だが、止まったままの時間を、動かすことはできるかもしれない。
「……分かった。わたし、あなたと行く」
リリスは不安そうに微笑み、小さく頷いた。
城門を開くと、そこには霧深い森が広がっていた。枯れ葉の絨毯を踏みしめながら、ふたりはゆっくりと進む。
その時だった。
――ギャアアアッ!
悲鳴のような咆哮が、森の奥から響いた。
「っ……何か来る!」
枝をなぎ倒して現れたのは、異形の魔物。黒い霧をまとい、獣と虫が混ざり合ったような姿をしている。
リリスが恐怖で後ずさる。
「逃げろ、リリス!」
ユウが手近な枝を拾い、魔物の前に立つ。だが、素人の彼に武器としての使い方など分からない。魔物の鉤爪が振り下ろされた――!
「ユウッ!」
次の瞬間、リリスが叫び、彼をかばうように飛び出した。
刹那、何かが光を放ち――
《……お願い。誰か、わたしを止めて……!》
――また、記憶が流れ込む。あのときと同じように。
倒れ込んだリリスの意識の奥から、ユウにだけ伝わってくる想い。
祈り。恐れ。自責。
――そして、封印の魔法陣と、城が沈む光景。
(これは……彼女の記憶だ)
気づけば、ユウの掌がリリスの額に触れていた。
目を閉じた少女の脳裏に、過去の断片が次々に浮かび上がる。
「……あなたは、わたしの記憶を見ているの……?」
リリスの声が、頭の中に響いた。
「たぶん……俺には、人の記憶に触れる力があるんだ」
それが、どういう意味なのかはまだ分からない。
けれど、彼女の痛みが、後悔が、心に焼きついた。
「こんなところで終わらせない。お前は、まだ生きてるんだ!」
叫んだ瞬間、ユウの手が光を放ち――
魔物の身体をまとう霧が、一瞬、弾け飛んだ。
怯んだ魔物が、唸り声をあげて後退していく。
ユウは、その隙にリリスを抱え、森の奥へと駆け出した。
朽ちた小屋に逃げ込み、ひとまずふたりは息を整えていた。
「……無茶するなよ。あんなのにかばわれたら、こっちが困る」
ユウが言うと、リリスは少し拗ねたように口をとがらせる。
「だって……あなたが、消えてしまう気がした」
その言葉が、胸に深く刺さる。
誰かにそう言われたのは、いつぶりだっただろう。
「ありがとう。助かったよ」
そっと、リリスの頭に手を置く。
彼女は驚いたように目を瞬き、それから――ゆっくりと瞳を閉じた。
「あなたとなら……この先も、歩いていける気がする」
小さな囁き。ユウはその言葉に、微かに頷いた。
たとえ全てを思い出さなくても。
過去を乗り越えられなくても。
この異世界での今が、ふたりを少しずつ変えていく。
そして彼は決めた。
(……この世界に、残ろう)
目の前の少女と、彼女の記憶に寄り添うために。
――これは、ひとつの終わりと、新しい始まりの物語。