捧げ物のお姫様【連載版:魔王様といっしょ!】
ここは夜の国。
一年中真っ暗闇の、魔物たちが住まう国である。そんな薄暗い国にある魔王城の調理場にて、るんた、るんたと太く長いしましま模様の尻尾が揺れていた。そしてもふもふの手からは立派な爪が生えており、腕には大きな木箱を抱えている。
「うーん、今回の箱は随分でかいなあ。中もずっしりしてるぞ」
「カシロぉ! もしそれがフルーツだったら、おれに一番にくれな? な、なー?」
大きな木箱を軽々と持ち上げ、二本足で歩くしましま虎の魔物の腰元には、犬の魔物の少年が自身の尻尾をこすりつけるようにくるくるとまとわりついていた。「なあなあ!」と、元気な声を上げる少年のおしりでは、茶色いふわふわな尻尾がわっさわっさと動いている。
「さてねえ。いくら俺が魔王城の料理長とはいえ、俺だけの一存ではなんとも言えんなあ。この国じゃ、よその国から来た荷は一人のものではなくてみんなのものとなるからな」
「我らが魔王様はケチじゃないぞ! かっこいいぞ! フルーツはきっといっぱいおれにくれるぞーっ!」
「テジュ、それはお前の願望だろうが。フォメトリアルに怒られるぞ?」
片手を勢いよく空に突き上げ叫んだ少年に対して、虎の魔物が呆れたようにため息をつく。
「ん、ここらへんでいいか」
よっこらせ、と掛け声を出すと同時に、虎の魔物は木箱をどすんと地面に下ろした。本当に重いな、と誰に聞かせるわけでもなく小さく話して首を傾げた後で、「まあいいか」と、ぱちん、ぱちんと両手をこするように叩き合わせつつ、木箱をにまっと見下ろした。「よし、あけるぞ」そして、ぱっかりと箱をあけてみると。
箱の中にあったのは――フルーツではなく。銀色の髪をした、痩せこけた小さな女の子だった。
「「は?」」
魔物たちが同時に声を上げたのは無理もない。
小さな身体を折りたたむようにして座り込んでいた少女は、すぐにぱっと顔を上げた。ぼさぼさの銀髪が、薄暗い夜の国の中でもきらりと光る。
長い前髪の隙間から、青い瞳が魔物たちをじっと見つめた。
「……」
「……」
そんな奇妙な沈黙ののち、少女はべろっと舌を出した。あっかんべー。
「はあっ!?」
即座に少女は木箱から飛び出した。ぴょーん、と、まるで猿のように。
「……? いやいやいや、なんだあれ!? 人間? 人間だよな!? なんでまたこんなとこに! テジュ! 捕まえろ!」
「ええ!? おれぇ!?」
「すばしっこさじゃ誰にも負けないだろうが! ほれ、行けぇ!」
「ほわああああ!」
ひえん、と茶色いふわふわ尻尾の少年が、少女を追って飛び出す。
――これは、まだ誰も知らぬことだ。
猿のように飛び出した少女が、この暗い国を変えていくことになるだなんて。
***
「……で? あなたたちは許可のない人間を、わざわざこの夜の国に侵入させた、というわけですか?」
「面目ない……」
「めんめんなーい!」
しょぼん、と頭を下げる虎の魔物、カシロの隣では十歳ほどの少年がぴょんっと片手を上げてにこやかに存在を主張している。少年は彼らでいう人間めいた姿に茶色い耳を生やしていて、おしりから生えた尻尾がはたはたと元気に動いていた。そんな彼らを段上から見下ろすのは眼鏡をした緑髪の魔物だ。ぴしりと背筋を伸ばしたタキシード姿は従僕然としているが、こめかみがぴくぴくとひくついており、凶暴な表情をしている。
「何がめんめんですかァ! 適当に返事をするんじゃありませんッ!」
「ぎゃわうッ!」
緑髪の男の頭からにゅうっと悪魔の角が生えた。文字通りに。悪魔であり魔族であるフォメトリアルがかざした手からまたたく間に落ちた雷を、テジュは跳ね上がって避ける。そして尾を縮こまらせながら自身のすぐ隣の床を恐るおそる見下ろした。思いっきり、焦げていた。「ワヒャウ……」テジュは喉から風のような小さな息を吹き出し、さらに耳と尻尾を丸めた。
「まったく……人間どもからの供物の管理すらできないとは……。誰ですか、これは食料に違いないと勝手に持っていったおバカさんは!」
「ぬう、俺だ……すまない……」
「カシロ! あなたにもお仕置きが必要なようですね!?」
「あわわ、いい匂いがしたような気がしたんだ! テジュもそう言っていたし!」
「御託は結構! さあ覚悟なさい……!」
「やめてくれよおフォメトリアルぅ……! おれにならいくらでも雷を落としてくれていいからさあ! いっぱい頑張って避けるからさあー!」
「避ける前提でお話しするのはおやめなさい!」
「やめろ」
わいわい、ぎゃあぎゃあと騒いでいた魔物たちが、広間に響いたその声に、ぴたりと一斉に口をつぐんだ。フォメトリアルが、ぴんと伸ばした背筋のまま静かに一歩下がり、ゆっくりと腰を折り曲げる。カシロとテジュは自身の口を両手で押さえ、段上を見上げる。
――そこには一つの玉座があった。
座する者はただ一人。夜の国の王である。
魔王、と彼は呼ばれる。夜のような腰まであるつややかな黒髪。そしてすっと通った鼻筋の下には品の良い口元。端麗な美貌はいっそ冷ややかなほどである。魔王は魔物たちを静かに一瞥する。
「これは、どういうことだ」
魔王の言葉は夜の国に住まう者たちにとって絶対である。どういうことかと尋ねられたのだから、現状を正しく説明せねばならない。だというのに、彼らは一様にして黙り込み、困惑したように互いに視線を交わしていた。わっさわっさ。魔王が腰掛けた玉座の背には、広間を包み込むほどの大樹がそびえ立っている。城の至る所に根を張り、枝を伸ばし、緑の葉を散らしているのだ。ゆっさゆっさ。その大樹が、揺れている。太い大きな枝が思いっきり、上下にわしわし揺れていた。だいたい魔王の頭の上辺り。
口をつぐんだ魔物たちは、そうっ……と視線を上に移動させた。全員が、なんとも言えない顔をしていた。いや、魔王の右腕とも呼ばれるフォメトリアルだけが、びきびきとこめかみに血管を浮き上がらせている。
なんせ、魔王の頭の上にある太い枝の上に、一人の幼女が抱きつくようにしてぶらさがっていたから。
「フシャアアアア!」
しかもなんか威嚇している。五歳くらいの小さな少女が、長いぼさぼさの銀髪の髪を振り乱して、獣のようにこっちを見ている。その下には無表情の魔王がいる。
誰かどうにかしてくれ、とその他広間の端で事態を見守る大小の魔物たちの声が聞こえた気がした。
「きさ……きさ、貴様ぁああああ!!!! 人間ぶぜいが! 魔王様の頭の上で木登りするなどォオオオオ!!! さらに、威嚇を行うなど!!! 指導を施してやるッ!!!!!」
「……ヘンッ」
「鼻、鼻!? こ、この魔王様の右腕である高貴なる私を鼻でわら…ッ!?」
「幼子といえど手加減せんぞォ!」とブチギレながら突撃しようとするフォメトリアルを、さらに幼女は鼻で笑った。もさもさぼろぼろの頭を振り乱し、しゃかしゃかと木の枝をつたって逃亡する。その背中をフォメトリアルが全力で追いかける。
彼らの騒がしい姿を、魔王は肘掛けに手をのせたまま見てため息をついた。魔族たちが、困ったような顔をしている。
――いつでも冷静な、我らが王が、ため息をつくだなんて。
そんな声が聞こえてくるようだ。
魔王とて、心が揺れないわけではない。ただ変化のない日々に慣れているだけだというのに。
「待てい、この小娘がァ!」
「…………ヘヘンッ」
追いかけっこは、どうやらまだまだ終わらないようだ。
***
夜の国が、一体いつできたのか。そんなことは、もう誰も知らない。
きっと、夜の国は世界の中心にあるのだ、と誰かが言った。
でもその誰かというのも、わからないほど遠い昔のこと。
身体のどこかが、はたまた身体すべてが獣と人を足したような姿の者たち。見た目は人と変わらずとも、魔法という恐るべき力を持った種族。そんな者たちのことを、人々は魔族と呼ぶ。
陽の光も届かないほどの、人の世界の壁を通り抜けた恐るべき夜の国には、恐るべき魔族がいる。魔族に怯えた人間たちは、いつしか各地から貢ぎ物を送り届けるようになった。定期的に送り届けられるたくさんの木箱には、舌がとろけるほどの甘美な実や、喉が焼けそうなほどに美味い酒。七色に輝く美しい絹など、様々な品が入っている。
しかし今回、入っていたものは人間、それも痩せこけた幼子であったことに、城中の魔物たちはたいそう困惑していた。
「……魔物が人を襲って食うなんてものは、あちらが勝手に作り上げたおとぎ話なんですがねぇ。まったく何を勘違いしたのだか……しかも、こんな手足が棒のように細い子どもを送ってこられたところで、私たちにどうしろと……まさか生贄のつもりでしょうか……?」
フォメトリアルが若干肩で息をしつつ、生贄として送られてきたらしい子どもの首根っこを掴んで、ぷらんぷらんと宙で泳がせている。子どもはしかめっつらのまま不本意そうな表情をしている。
その足元では、テジュが「ふわあー」と声を出しながら子どもの顔を覗き込んでいた。
「テジュ、近いぞ。そんなにまじまじと見てやるな。人間が怯えるだろ。人間というのは俺たちよりもずっと柔い生き物なんだぞ?」
「だってさあ、カシロ。こいつ、すっげえ汚れてるけど、ほら、髪の毛は銀髪だし、目が真っ青だ。青っていっても、いろんな青が混じったみたいな……うわあ、角度によって色が違うぞ。宝石みたいだ。こんな瞳の色なんて見たことねぇよ」
「この子どもはイリオルル国に住む王族なのでしょう」
フォメトリアルが掴んでいた子どもを自身の目の高さにまで軽々と持ち上げる。子どもはじたばたと両手両足を動かして抵抗していたが、もちろんびくともしない。
「イリオルル国の王族は人間にしては珍しく、ちんけな魔法を使用すると聞きます。魔力を多少なり持つがゆえに、髪や瞳の色が変異しているのかもしれません」
じいっと子どもと見合った後で、「……王族にしては、ぼろっちい服を着ていますが」と最後に顔をしかめて説明する。そんなフォメトリアルを「……ヘンッ」と子どもはまた鼻で笑う。フォメトリアルのこめかみにバシッと血管が浮き出た。あんまりよくない組み合わせかもしれない。
場の空気を読んだらしき虎の魔物、カシロが、「と、いうことはあれか? 今回はいつもの貢ぎ物がない代わりに、自分のところの子どもを送ってきたってことか?」と、声を上げて尋ねる。
「ええ~!?」とテジュが驚きとともに耳をピン、と立てた。
「ひっどくねぇ? それ。親が子どもを手放したってことだろ? っていうか、貢ぎ物はあっちが勝手にしてることなんだから、無理なら送ってこなくていいのに、ばっかだなー」
「その通りですが、あちらは私たち魔族を恐れていますから、こちらはよくても向こうはそうは思わなかったのでしょう。せめて我が子なら貢ぎ物の代わりに……とでも考えたのでは?」
「もとの場所に返してやることはできないのか? さすがの料理長の俺でも、人間は調理できないぞ。どうせ食ってもまずいからな」
まずくなければ食うのか、という人間めいた問いかけは誰もしない。魔族は人とは思考回路が少しずれている。よくも悪くも単純なので、まずいものなら食わない、というただそれだけの話である。
カシロの疑問に対して、フォメトリアルはふん、と鼻から息を吹き出した。
持っていた子どもはぽい、と投げ捨てる。
「当たり前です。我らの土地には人間を住まわせる場所などありません。しかし残念ながら、知っての通り人間の国との道が繋がるのは、月に一度。宵の風が止まったときのみです」
投げ捨てられた子どもは、したんっと両手両足を使って床に着地した。なかなかの運動神経である。
おお、とテジュが目を輝かせるが、子どもはつまらなさそうな顔をしている。その様子を横目で見た後、フォメトリアルはぷいと顔を背けた。
「業腹ですが、次に宵の風が止まるときまで、この子どもを突き返すことができません……仕方がありませんね。魔王様、かの人間にしばらくこの国に滞在する許可をって、オッ、エーーーーーーッ!?」
「おお……子どもがめちゃくちゃ魔王様の膝の中にいる……?」
「ま、魔王様がぴくりとも動いていらっしゃらないぞ……? なんという冷静さ! さ、さすが我らが魔王様だあー! すっげー!」
フォメトリアルが魔王を向いた先には、生贄としてやってきた子どもがちょこんと魔王の膝の中にいた。常に平静な顔つきをしている魔王は玉座に座ったままぴくりとも動いていない。おおお……と周囲にいる下級の魔族たちまでざわつきながら恐れ慄く。
「ま、魔王様ッ! いや貴様、なぜそこに、いやほんとになぜそこにっ! 魔王様、こんなときくらいは声を荒らげてくださってもっ、いえ魔王様に不満をお伝えしたいわけでは……コラァ! 子どもォ! そこをどけェ! 貴様ばっちいぞォオオオオ!!!!」
「…………」
「むふーっ」
むふん、とどこか誇らしげな顔をして鼻から息を吹き出す汚れだらけの子どもと、子どもを膝に乗せたまま無の表情で玉座に座る魔王。そしてわたわたと両手を動かす側近という謎の状況。
彼らのみではなく、下級の魔族たちも子どもが落とした泥を総出で掃除をすることになり、いつもは静かな城も、どうにも騒がしくなるばかりであった。
***
かっしゃん、かっしゃん、ごそごそごそ、もそもそもそという音は、骨でできた下級の魔族たちや、闇でできたモヤモヤが周囲を掃除する音である。夜の国の城はこうした下級魔族たちの手入れにより、いつも清潔が保たれている。
「おおー。綺麗になった。お前、ほんとーに銀髪なんだなー。人間って不思議だなー。すぐ汚れるんだもんなー?」
「…………」
「毛づくろいもできないのな?」
下級魔族たちに綺麗に磨き上げられたのは、城だけではなかった。捧げ物としてやってきた子どもも、とてもぴかぴかになっていた。一度も切ったこともないような長い髪は相変わらず顔まで覆っているが、それでもどこかすっきりしている。汚れた服から真っ白いシンプルなワンピースに着替えた子どもを見て、
「よかったなー。おれの尻尾みたいにふわふわした感じになってさ」とテジュは寝っ転がりながらカーペットの上で、はたはたと尻尾を揺らした。
さらに子どもの頭には、拳程度の大きさをした真っ白いふわふわの何かが乗っている。
そのふわふわした何かは、もしゃもしゃ、と子どもの髪の毛を一心に食べていた。そのことに気がついた子どもが不愉快そうに頭を左右に揺らすが、どうにも離れそうにない。
「それねー、フワフワ。モヤモヤの子どもみたいなやつ。汚いゴミとか食べるのが得意」
もしゃーっと食べていた髪をフワフワが吐き出すと、子どもの髪がさらにツヤツヤに光り輝いている。フワフワは嬉しそうにぴょこぴょこ跳ねた。丸い身体から生やした細い手足も嬉しそうに動かしている。そしてすぐに次の髪をもしゃもしゃ食べ始めた。子どもは不機嫌そうな顔をしていたが、フワフワを引き離すことは諦めたらしい。
「おれ、テジュ。魔王様の側近……えっとー、ずっとうるさかったフォメトリアルってやついるじゃん? そいつの部下だよ。つまり魔王様の下っ端の下っ端って感じ。おっけー?」
「…………」
「お前、ちっちゃいねー。おれもこんなかじゃちっちゃいけど、もっとちっちゃい。おれの方がお前よりおにーさんだね」
子どもはしばらくテジュを見ていたが、ぷい、と顔を背ける。すくっと立ち上がって、てこてこと扉を目指す。その後ろをテジュは腕を頭の後ろに回しながら、てくてくと追いかける。
子どもは音を立てて無造作に扉を開き、堂々と魔王城の回廊を歩く。
「フォメトリアルからお前の様子を見とけって言われててさあ。でも様子ってどうやって見りゃいいのかなあ?」
「…………」
「っていうかお前、しゃべんないの? 別にいいけど」
「…………」
テジュの最後の問いかけに、子どもはちらりと振り向いた。それからぷるぷる、と小さく首を横に振った。どういう意味だろう、とテジュは首を傾げたが、すぐにまたそっぽを向かれたので、まあいいかと子どものあとを追いかける。そしてたどり着いたのが、魔王がいる玉座の間である。
子どもは流れるように魔王の膝の上にずざあッ! と座り込んだ。
怜悧な美貌の持ち主である魔王は、そのまま気にせず受け止めた。
何やってんのかな、とテジュは腕を頭の後ろに回したまま、ぼんやりと玉座を見上げた。「フワワ~」と子どもの頭の上で、フワフワが美味しそうに子どもの髪の毛を食べている。もしゃもしゃ。
「魔王様、お疲れのところ大変申し訳ございません、お手を煩わせる程ではございませんが、部族同士のもめあいがありましたので、念の為ご報告を……って貴様らぁあああ!!!!!」
そして即座にフォメトリアルに見つかった。勢いよく広間に落ち続ける雷をテジュが「ヒギャンッ! ギャワンッ!」と悲鳴を上げて逃げ惑う。「この駄犬! あれほど見ておけと、言ったでしょうがぁあああ!!!」「ちゃんと見てたよお、なんでそんなに怒るんだよおー!」「駄犬にもほどがありますっ! 魔王様、こやつらにどうか処分を!」「……私は特に気にしていないが」「気にしてください、魔王様ァーッ!」
――魔王から離された子どもがフォメトリアルの目をすり抜け、また魔王の膝に飛び込む。
いつしかこの光景が日常となるまで、そう長い時間は必要なかった。
***
夜の国は、いつもゆったりと時間が過ぎていく。
日が昇らず、時間の感覚さえも曖昧になる。そして変化もなく、どこか停滞している。魔王は魔王と呼ばれはするが、ただ昔からそうだというだけだ。
いつの頃からか、魔王は口数も少なく、ただ自身が行うべきことを行うのみとなった。
魔王は夜の国の王だ。だから夜を作る。黒い夜空に向かって指を差し、くるくるとかき混ぜるのだ。
「……」
「……」
しかし今日のところも魔王の頭にがっしりと子どもがくっつき、さらにフワフワも乗っている。魔王は変化のない表情で彼女らを乗せたまま無言で城の中を歩く。フォメトリアルが見れば卒倒しそうな光景だが、この程度の重さは魔王にとっては些末なことなので気にならない。
いや、どうでもいい、ともいえる。
どうせこの子どもも、ひと月後には自身の国に帰るのだから。
来たときよりも少しばかり身綺麗になった子どもを肩車のようにして乗せ、魔王は城の外へと向かった。夜空を作るには外でなくても問題ないのだが、外の方がやりやすい。魔王がさくさくと草原に向かって歩いている間、子どもは「ほうほう、ふうふう」と興味深そうにきょろきょろ周囲を見回していた。長い銀色の髪がわっさわっさとその度に動いて魔王の視界を邪魔している。
そろそろいいだろう、と立ち止まり、手のひらを伸ばす。くるう、くるう。一つの星に向かって指を差してゆったりと回す。すると、指された星を起点にして星々が回る。「ひゃっ……」頭の上で、小さな、息を呑む音が聞こえた。
落ちてくる。魔王がゆるりと夜をかき混ぜる度に星が尻尾のような軌道を残し、螺旋を描く。草原の中を宵の風が駆け巡り、火花のように星が散り、弾け、地に落ち、それは七色の火花となり輝き溶けて、夜を鮮やかに彩り、消えて、また生まれる。
こうすることで、世界は巡る。夜の国の外の世界に、朝が来て、また夜がやってくるのだ。
彼はこれを、毎日繰り返している。一日たりとて欠かすことなく。
「――――ッ!」
頭の上にいる子どもが、悲鳴を上げているのかと思った。
声にもならない声を上げ、子どもが何かを叫んでいた。じたばたと魔王の身体を子どもの足が蹴り上げる。痛くはない。が、なんだろうと見上げると、子どもは必死に幼い指をもがくように動かしていた。きらきらと、星々にも負けないほどに目を輝かせ、夜空の星を掴もうと、手を伸ばしていた。
「…………あれが、ほしいのか?」
問われて、はっ、と子どもは息を呑んだようだった。
魔王は少しだけ考えて、子どもを地面に下ろしてやった。魔王はいくら子どもによじ登られようと、抵抗したことはない。だからだろうか。子どもは少し不安そうな顔をした、ような気がした。
魔王の心は緩慢な時間の中ですっかり固く閉ざされていたから、人の心の動きを敏感に察することは少し難しかった。
魔王は雨のように落ちる星の一つに手を伸ばし、その大きな手のひらをゆっくりと握りしめた。指の隙間から細く白い輝きが漏れ、最後に強く握りしめると、その輝きも消えた。
「これを、やろう」
拳を開き、子どもの前に見せると、星はただの石となっていた。かき混ぜ終わった夜はもう動かない。ただの真っ暗闇の下で、魔王は子どもに石を見せる。
子どもはきょとん、と魔王の手を見つめるばかりだ。
そのとき、はた、と思い至る。
子どもは、輝く星を見て喜んでいたのではないかと。ならばこれは、ただの石だ。輝きもせず、親指ほどの大きさをした面白みもない石。
いらぬことをしたのではないか――と、鈍い自身の心に向かい合うように考えたときである。
「あ……と」
子どもが、何か意味のある言葉を言おうとした。それはしっかりとした言葉に変わることなく、魔王が与えた石を大事そうに両手に握りしめ、にこりと笑う。そう、笑った。
「そうか」と魔王はただ呟いた。
子どもは、魔王に感謝の言葉を告げていた。
なぜ自身は子どもの気持ちを理解したのか。そのことを、不思議に思った。
***
「おおーい! あっそぼうぜぇ! お前の監視、フォメトリアルからクビって言われちゃったからさぁ! そんなら遊んでいいよな、なーッ?」
「テジュ、あなたはアホですか! あなたが監視として意味を持たないからクビにしたまでです! 遊んでいいなんて誰が言いましたか!?」
「エエッ!? そういうこと!? マジびっくり! でもいいじゃん遊ぼーぜ! かけっこしようぜぇー!」
魔王の書斎にて、隣のソファでもふもふと座り込んでいた子どもの首には魔王が与えた星の石が下げられている。子どもが魔王の近くにいることは、もはや当たり前になっていた。
子どもはテジュの言葉を聞いてとても迷惑そうに表情を歪めたが、テジュはまったく気にしていない様子である。「遊ぼう遊ぼうあそぼーう!」ぐりぐりぐり、と子どもに頭をくっつけるので、さらに子どもは不愉快そうに口元をへの字にする。
瞬間、自身に乗っていたフワフワをぶちっと頭から引き放ち、開け放たれている扉へと力いっぱい投げ捨てた。「ふ、フワワワ~?」「!?」テジュがぴくんっと耳を尖らせ、フワフワが投げられた方向へと顔を向ける。「ボールだぁ!」喜色満面、にっこり笑顔を浮かべ、ぼふんと白い煙とともに姿を子犬に変化させた。
茶色いくるくる尻尾の子犬姿になったテジュは、「ボールだーーーーー!!!!」と叫びながら扉の外へ消えていく。
「…………」
「なんですかその顔は。私は変化しませんよ、テジュだけですよ。魔族には変化する者と、しない者がいます。私はしませんよ!」
「クッ……」
「魔王様!? 今もしや笑われましたか!?」
「いや……」
恐ろしいものを見た、とでもいうように口元を引きつらせてフォメトリアルを見る子どもの顔があまりにも珍妙であったために、思わず吹き出してしまった魔王なのだが、すぐにすん、と表情を引き締めた。まさか魔王様が!? と、動揺するあまりに目を白黒させるフォメトリアルを無視していると、「もっかい、ボールぅ!」とフワフワを口に咥えたテジュが全力で戻ってきた。助けてくれとばかりにフワフワが身体をくねらせてこちらに懇願している。なんだかちょっと面白い。
「もっかい投げて! な、な、な!?」
「ぬ」
「何!? いいってこと? いいってことだよな!?」
「ぬ、ぬ」
子どもは嫌だと全力で首を横に振っていた。
***
「飯を持ってきたぞー!」
「んわーい、カシロの飯、美味いから好きー! ね、魔王様!」
「テジュは素直で可愛いなあ。よしよし、大盛りにしてやるぞ」
「食事など必要最低限でいいのです。魔族はほとんど食べる必要もないというのに……まったく非効率な……」
「フォメトリアル、お前はテジュの爪の垢でも煎じて飲んでもいいかもしれないな! はっはっは!」
大皿を持って笑うカシロに対して、フォメトリアルはいらいらと眼鏡のフロント部分を意味もなくいじっている。
「人間の飯なんぞ、最初はどうしたらいいかと思っていたが、考えたら俺達も貢ぎ物を食っているしな。まあ刺激物でなければ問題ないだろう」
と、どんとテーブルに置いたのは子どもよりも大きな魚の丸焼きである。ふおわあ、と子どもは嘆息めいた声を吐く。
「いいか、子どもはたくさん食べろよ! さて、各自皿に盛ってやるかな……んん、厨房から離れてるもんだから、運ぶまでに少し冷えているな……俺の魔法じゃ、黒焦げになっちまうし……」
と、残念がるカシロをどかすように、子どもはぐい、ぐいと小さな身体で押しのけ魚の前に出た。「お? どうした? お?」カシロを無視して、そうっと両手を出し、何やら真面目な顔つきで唇を尖らせている。「おおん? あっ!」テジュがぱっと目を輝かせた。「もしかして、太陽……?」
子どもの手から生み出されたのは、手のひらよりもずっと小さな明るい光だ。
「ふうん? イリオルル国の王族が人間にしては珍しく魔法を使うとは聞いていましたが、これはまあ、なかなか……」
「すっげぇなあ。おれたち、いつも月と星ばっかり見てるから、こんなの中々ないよ。ちっちぇえけど、綺麗で、あったかいなぁ」
「これで魚を温めるのか。チビちゃん、やるじゃねぇか」
ぽんぽん、とカシロに頭をなでられて、子どもはなぜだか拗ねたような顔をしていた。小さな太陽はすぐに消えてしまい、子どもはしゃかしゃかと魔王のもとにまでやってきて、魔王の腹に顔を埋める。よく見ると、耳は真っ赤になっていた。
(……拗ねているのではなく、照れているのか?)
まったくもって、奇妙な生き物だと魔王は思った。
***
いつしか、子どもはチビと呼ばれるようになった。
ゆっくりと時間が流れている夜の国でも、子どもが去るべき日は刻々と近づいていく。魔王の自室のベッドに潜り込んだ子どもは、魔王の足にこてんと頭をのせて、ときおり、ことん、ことんと船をこいでいる。
(そうか、この子どもは、この場所を去るのか)
貢ぎ物として送られた他国の姫。けっして王族とは思えないくらいに痩せこけ、切ったこともないような長い髪は野性味溢れる姿だが、その違和感に人ではない魔王はまだ気づかない。
ただ、子どもの首から下げられた星のかけらが、とくん、とくんと温かな鼓動を伝えている。星のかけらのネックレスから、細く、薄い、魔力の道が繋がっているのだ。
チビ、と呼ばれるときに、ぴくりと子どもの心が揺れるのを、魔王はときおり感じていた。子どもの心を感じる度に、魔王の心も少し揺れる。それは長い時間をかけて固く、強張っていた魔王の心が、ほんの少しずつほどけていくような、不思議な感覚だった。
チビと呼ばれると、子どもはおそらく喜んでいた。自身を認識してくれたことが、まるで幸せだといわんばかりに。はて、とそのとき魔王は首を傾げた。
(この子どもの、名前はなんだ?)
子どもが来た、と魔族たちが理解したのは、ただそれだけのこと。あちらが話さぬことだからと疑問にも思わないのだ。名前など、あれば便利に違いないが、なくても別に困りはしない。けれども人は、自身の名をただ一つのものとして大切にしているということくらいは、魔王でも知っている。
人と魔族の少しのズレに、やっと魔王は気がついた。
「お前……子ども」
自身の膝の間に丸まる子どもに問いかける。眠りかけた猫のように、子どもは閉じた瞼を億劫そうにわずかに開く。
「お前の、名はなんだ?」
ぱっ、と子どもは目を見開いた。けれどもそれ以外は、ぴくりとも動かない。ぴくりとも。いや、少しの悲しみの声が聞こえる。魔王が子どもにやった星のかけらが、子どもの心の声を静かに伝える。
「……ペ、ア」
答えた子どもの声が、幼い子どもが話すには、しゃがれた声であることに、また魔王は気がついた。
「そうか、ペアというのか」
やっと名を知った。ただそれだけのことだが、子どもはじっと自身の手を見るように丸まったままだ。しばらくそうしていると思ったら、今度は勢いよく立ち上がった。ベッドの上に立ったところで、小さなその身体はベッドに座った魔王よりも、わずかに高いだけだ。
「ん」
ぴ、と子どもは魔王を指さした。「ん、ん!」何かを伝えたいらしいが、何を言っているのやら、と魔王は端整な顔の、眉間の皺を深くする。「ん~!!!」必死に何度も指を差されて、やっと理解した。
「私の名を尋ねているのか?」
「ん~!」
今度のん、は先程と様子が違う。にこにこと嬉しそうに笑っている。
「私の名は……アザトフィプスだ。己の名など、とうに忘れていたな……」
魔王、魔王、と呼ばれるものだから、とっくの昔に消え去ったような名である。だというのに、子どもは嬉しそうに魔王の胸をぱしり、ぱしりと小さな手で叩いた。そのままいつしか魔王にもたれるようにして眠ってしまった。
「ペアか。……人間の子とは、なんと小さなことか」
忘れていた何かを、少しずつ思い出すような不思議な感覚。
「そうか、これが、興味か」
何かを知りたいと思うこと。そして、願うこと。
長い命の中で、魔族たちが少しずつ失ってしまった感情である。
魔王は、壊れ物を扱うかのようにそうっと子どもの頭に手をのせた。そして恐るおそる子どもの頭をゆっくりとなでる。くすぐったそうに子どもが身じろいだので、びくりと手を離してしまったが、もにょもにょと何か寝言を口にしていただけだったので、また静かに子どもの頭をなでた。
彼も知らぬうちに、口元にはわずかな笑みをのせていた。
***
「……ペアは、どうして、話さぬのだろう、な」
「ペア? 魔王様、一体なんのことで……ああ、あの子どものことですか」
いつも魔王と一緒にいる子どもだが、今日ばかりはテジュに引きずられるようにして外に連れていかれてしまった。フォメトリアルは邪魔者がいないからとご機嫌に鼻歌を歌わんばかりに、魔王の執務室にてらんらんと書類を並べている。
「魔王様がお気になさる必要はないかとは想いますが、どうせ王族の姫であるからと親に甘やかされていたのでしょう。まったく、あの野生児ぶり。悪魔犬であるテジュと同等ではありませんか」
信じられないとばかりにフォメトリアルは大仰にため息をつく。が、「……そうだろうか」とわずかに呟いた魔王の言葉を逃すことなく、「何がですか?」と書類から顔を上げる。
「親に甘やかされた姫が……貢ぎ物として魔族のもとに届けられるものであろうか」
「それは……そうに決まっているでしょう。一番大切にしている娘を、大切にしているからこそ、我ら魔族を恐れるからこそ差し出す。愚かな人間としては至極真っ当な行動なのでは?」
「そう……かもしれぬな」
たしかにそうかもしれない、と魔王は納得をする心もあれば、やはりと首をもたげるような不思議な気持ちを抱えていた。
「……しかし、人間は、人間のもとで生きることが、一番だろう」
この自身の言葉に、偽りもない。「そうでございましょう」とどうでもいいことのように聞き流すフォメトリアルは、間違ってもいないのだろう。
「そうだ、な……」
刻々と、時間は近づく。
子どもが自身の国と戻るまで、もはや数えるほどの日しか残ってはいない。
***
たったのひと月。けれども人間の子どもにとってはきっと大きな時間だった。ぼさぼさだった銀の髪はつやつやと輝き、痩せこけて枯れ枝のようであった手足はほんの少しふっくらとして、いつの間にか随分と愛らしい姿に変わっていた。だというのに、人の子に与える服など魔族は持っていないから、着ているものは貧相な白いワンピースと、首には石ころのような、もとは星のかけらであるネックレスをかけているだけだ。
なぜだか魔王はその子どもを気の毒に感じたが、人の国の方がよっぽど子どもを可愛がってやるに違いない、とそのときを待った。だんだんと、日が過ぎるごとに落ち込むように顔を曇らせる子どもには気づかずに。
とうとう、その日がやってきた。
玉座の間にはイリオルル国の使者たちと、フォメトリアルやテジュ、カシロ、そして下級魔族たちがずらりと並び、魔王はその多くを睥睨した。隣には、子どもを立たせた。
「よ、夜の国の魔王様とお会いできるとは、光栄の極みでございまして……」
常であるのならば、貢ぎ物を送り届けた人間たちとは顔を合わせずに帰らせる。人間たちは魔族に怯えていたが、絶好の機会であるとも思っているのだろう。次第に使者の口調は饒舌に変わっていき、夜の国の王を褒め称えた。同時に自身の国を売り込み、魔族の力を借りようとしているのは目に見えたため、「そこまででよい」と使者の口上を切り上げさせる。
魔王の言葉を聞き、使者の男はぴ、と即座に口をつぐんだ。
「それよりも、だ。そなたらは一体何を考えておるのか。我らが夜の国は、このような貢ぎ物を求めてはいない。二度と送ってはこぬように」
「は……え、あっ、左様でございますか。お口には合いませんでしたか」
「合うわけがないだろう」
「し、失礼いたしました。我が国で採れた、希少な作物でしたので、ぜひにと思ったのですが、今後はこのようなものを送らぬようにと申し伝えます」
何やら会話が噛み合っていない。奇妙な感覚のまま、魔王は隣に立つ子どもに「行け」と静かに伝えた。子どもは魔王を振り返ったが、魔王は首を横に振る。すると諦めたようにどこか薄暗い表情のまま、子どもはゆっくりと壇上を降りていく。
「送られてきたものは、この人間だ。見覚えがあるだろう。貴国の、王の娘ではないか?」
「え……?」
ひと月の間に、印象が変わったからだろうか。すぐ近くにいるはずの子どもの姿を使者は訝しげに見つめる。魔王以外の魔族たちも、使者の行動に懸念を持っているらしい。フォメトリアルは、特に苛立った表情をしている。「魔王様の手を煩わせるなど……」とぶつぶつと文句のようなものまで聞こえた。
「銀髪、そして、青目……!?」
しかし、自国の王族と同じ色合いであると、やっとのことで気がついたらしい。「ああ!」と、ぽんと使者は手を打った。やっと話が通じたのか、とどこかほっとするように肘掛けを握りしめていた手から力を抜く。知らぬ間に、力が入っていたようだ。
「スペアではありませんか!」
「……スペア?」
なんのことだ、と魔王は眉間に皺を寄せる。
「その者の名は、ペアではないのか?」
「ペア……? いいえ、スペアです。そもそも、そう呼ばれているだけで、名もありません。我が国王と王妃の間に生まれた娘に違いはありませんが……男女の双子で生まれたのです。我が国では王位継承権は男に優先的に与えられますから、女はそれほど重要視されません。その上、王族は魔法を使えねばならぬところを、そこのスペアは、小さな明かりを生み出す魔法のみしか使えないという役立たずで……」
じろり、と使者が視線を向けると、ただでさえ小さな子どもは、さらに小さくなるようにうつむき、じっと自身の足を見つめていた。
「明かりを生み出したところで、一体なんの意味があるというのか……太陽など、何もせずとも毎日勝手に出てくるものではありませんか。城ではやっかい者として扱われております。そういえば、ここしばらく姿が見えないと思ったら、こんなところに忍び込んでいたのですね」
呆れたように、使者は息を吐き出す。
魔王は、ただ呆気に取られていた。どくり、と心臓が音を立てる。驚き、自身の胸に手を当てた。感情が、暴れている。いいや違う、流れ込む。子どもの小さな背中が見える。からからと、子どもの胸で星のかけらが震えていた。うなだれる子どもの心が、魔王の中に流れ込む。ぽろぽろ、ころころと心のかけらが。
きっと、これは悲しさ。
そうなのだろうか?
そうだ、悲しい。とても悲しかった。【私】は、ずっと寂しかった。
――兄がいると聞いた。けれどもちゃんと話したことはない。父親は王様だそうだけれど、会ったこともない。お母さんは、死んでしまったらしい。普通の人には、そういった家族というものがあるのだと知って、興味がなかったといえば嘘ではない。
『なんだこいつ! 邪魔だな、あっちに行け!』
『王族と同じ色だってのに、ろくな魔法も使えないだなんて……蹴っても何も言わないし、気味が悪い』
ころん、と転げた格好のまま大人たちを見上げる。私のほっぺたはいつも泥だらけだ。
ご飯をもらえないのはいつものことだし、役立たずだと言われたり、見ないふりされたりするのもいつものことだ。だから別に気になりはしないけれど、少しくらい誰かの役に立ってみたいな、と思った。
名前はないし、あっても『スペア』と呼ばれるだけ。
自分なんてどこにもない。そんなのちょっと寂しいな、とある日ふと思ったのだ。じゃあ私に、何ができるかなと考えたとき、『魔王』と呼ばれる存在がいるのだと知った。『魔王』がいる国には、いつも『貢ぎ物』が届けられているらしい。魔王様に捧げるためにと準備された木箱を見て、私も魔王様のもとでなら役に立てないかな、と考えた。
そう考えたら我慢ができなくなって、ある日の夜、木箱の中にこっそりと入り込んだ。自分が初めて誰かの役に立てるかもしれないと思うとわくわくして、どきどきした。木箱の中に入っていたフルーツは、移動をする間にこっそり全部食べてしまった。とっても美味しかった。
木箱の中は真っ暗闇で、ちっとも光が差さないから少しだけ怖かったけれど、久しぶりにお腹がいっぱいになったから、ごとごと揺られているうちに眠ってしまった。次に目をあけたとき、誰かの話し声がした。魔王様に会えるかな。この人が魔王様かな。
夜の国はどきどきして、わくわくして、でも少しだけ怖くもあって。
すごくすごく、楽しくって。
「あ……」
「まったく、この恥さらしが! 汚らわしいその口を開くな!」
びくん、と子どもの肩が震える。ひ、と子どもはしわがれた自分の声を隠すように、口元を手で覆い隠す。
魔族たちがざわつき、お互いに顔を見合わせていた。甘やかされて育ったのでしょう、とうそぶいていたフォメトリアルは、大きく目を見開き、まるで時間が止まったかのように息の一つもできていない。テジュは犬歯をむき出しにするように唸り、カシロは毛を逆立て使者を威嚇した。
その異様な空気に使者や、それに追随する人間たちは怯える。
「な……一体、皆様、何を……スペア! お、お前のせいだろう! こんなところまで来て、我らに迷惑をかけて……!」
「ひっ」
使者は子どもの手を力尽くで引いた。そのときさらに膨れ上がった殺気は、一体誰のものか。
魔王は、とうとう気がついたのだ。子どもは話さないのではなく、話せないから。言葉を教えてもらっていないから。いや、こうして話すことを禁じられていたから。子どもらしくないしゃがれた声は、喉を使うことがなかったから。
けれども。
「ま」
小さな声が、唇が、震えた。
「ま、まおーーーーーーーー! アザ、ト!」
嫌だ、と力いっぱい使者の手から抵抗する。
じたばたと暴れ、騒ぐなと使者が拳を振り上げたとき、ばきり、と玉座の肘掛けが壊れ落ちた。
幼い身体で必死に助けてくれと、子どもが叫んでいる。アザトと、彼自身の名を呼んでいると意識した途端、恐るべきほどに感情が爆ぜた。魔族たちが食い殺さんとばかりに吠え、子どもの頭に乗ったフワフワが、子どもを必死に引っ張っている。
そうだ、これは自身の怒りだと知ったとき、大気が振動した。がらがらと城が揺れ、崩れる。大樹がざあざあと落葉し、逃げろと人間の使者たちが叫び、悲鳴を上げている。
「――去ね!」
ただの言葉一つ。
しかしそれは深い闇の底から吐き出されたような、神からの啓示と同等だ。
人間たちは、散り散りとなって逃げ去った。怯え、恐れ、これからは眠れぬ夜を過ごすであろう。なぜなら彼らは夜の国から弾き出されたのだから。
知らぬうちに、魔王は、アザトは、子どもを抱きしめていた。ぐずぐずと子どもは鼻をぐずって、顔を真っ赤にさせて魔王の胸に顔を埋めている。いくつもいくつも、幼い目から涙がせり上がり、ぽろぽろとこぼしてアザトの服を濡らす。
「あざ、あ、あざ、アザ、ト……」
なんだ、と問いかけてやる代わりに、何度も幼い頭を柔らかくなでた。
「い、いっしょ、い、いっしょ、に……」
このしわがれた子どもの声を聞く度に、どうにも胸が苦しくなる。
どうしてこの子どもが、このように泣かねばならぬのだろう。
どうして、自身の気持ちすらも満足に言葉を落とせぬのだろう。
子どもの首から下げた星のかけらが、不思議ときらきらと輝いている。子どもからの心のかけらが、そうっとアザトに言葉を伝える。それはただ泣きじゃくる彼女とは異なり、温かな、何か。
(まったく、人間は愚かだ)
アザトは、そう思う。
ほんの少しの明かりしか生み出せぬという子どもの魔法。空にいつでも太陽があるのだからと使者はせせら笑ったが、この国には、そんなものはありはしない。
空にあるものは、柔らかな月と、こぼれ落ちるような小さな星々だけだ。
誰にも負けることなく、消えもせず、ただ己の力のみで輝く明かりなど、この国にはありはしない。
(こんな温かなものが、ありきたりなものであるはずが、ないだろう……)
一緒にいたい、と身体で叫ぶ子どもを、アザトはただ抱きしめた。
***
ばたばたばた、と子どもが短い手足をばたつかせて歩いている。子どもなりの早歩きである。その頭の上には、おなじみのフワフワがいる。落ちないようにと必死に頭に食らいついている。
そのさらに後ろには、緑髪の悪魔がいた。アザトの片腕、一番の従僕。フォメトリアルだ。彼は長い手足で優雅にばたばたと歩く子どものあとを追う。
「お待ちなさい」
いやでござる、とばかりに今度は子どもは全力で走った。しかしやっぱりフォメトリアルはぴったりとついてくる。「待ちなさいと言っているでしょうっ!」雷の魔法を使うような大人気ない、いや悪魔げないことはさすがにしなかったが、さすがの子どももその大声にはびくん、とその場に立ち止まり、おずおずと振り返った。じろりとこちらを見下ろすような視線を把握して、子どもはげっそりとした顔をする。
「……なんですか、その顔は。だから、逃げるのはやめなさい。ここに、こちらに向かって」
腕を組んで、フォメトリアルは眼鏡越しの鋭い目つきを子どもに落とす。「……私は」しかし、すぐに言い淀み、渋面を作り視線をそらした。が、それも一瞬で、真っ直ぐに子どもに向かい合う。
そっと頭を下げる。
「申し訳、ありませんでした。あなたにもあなたの事情があったというのに、愚かな人間と決めつけ、不快な思いをさせたことを謝罪します」
「ぬ」
「いやなんですかその適当な返事は! さぞ気にしてませんよとばかりに! どうでもいいんですけど~的な顔は!」
「ふぬう」
「こら待ちなさい! この夜の国の住人となるからには、スペアなどという愚かな名など許しません! 完璧に最高な、あなたが納得する名をつけてみせますとも!」
「まずは言葉の練習から始めますよ! お待ちなさい!」と指導書を片手に小走りするフォメトリアルから子どもは魔王城の回廊を逃亡する。頭の上のフワフワも、困った困ったとまん丸い身体から伸びた細い手足を動かしている。
と、そこで前方からやってきたのはテジュだ。「んは~い、チビー!」と本日はただの犬の姿をしているテジュが、わふわふと四本脚で駆けてきた。
「チビー、チビー! ほんとに城に住むことになったんだよなー! ふわー、うれしいぃ~!」
興奮しすぎたのか、口から舌が漏れている。
ついでに尻尾が残像ができるほどにぶんぶん揺れている。
「ぬ……ぬむ」
「じゃあいっぱいかけっこできるな! かくれんぼにするか!? おれ、めちゃくちゃ上手だぞかくれんぼ! 遊ぼう、遊ぼうな!」
「ぬむ、ぬぬ」
「いいってことか!? いいってことだな!?」
「ぬ、ぬ」
「ほらはっきり言わないとテジュには通じませんよ。そのためにはまず言葉を」
ふふん、と眼鏡のブリッジを上げるフォメトリアルを無視して、子どもは頭に乗っているフワフワを力の限り投擲した。「ふ、フワワ~!?」「わーい、まるいものだ~!!!」「困ったらフワフワを投げるのはやめなさい!」
わいわい、わちゃわちゃ。そこにまたやってきたのは、カシロだ。「お、みんなそろってるな」ふおん、ふおん、と音が鳴るほどに虎の尻尾が楽しそうに揺れていた。
「子どもってのは、甘いものが好きなんだろう? アップルパイを焼いてみたんだが、どうだ? 厨房に行かないか?」
「ぬ!」
「こらあ! なぜ私の話を聞かずにそちらにはほいほい行くのですか! 両手を上げて、全身で喜びを表現しない! わくわくとスキップするんじゃない!」
「はっはっは。そんなに喜ばれると作りがいがあるなあ」
***
「……腹でも、満たしたのか?」
魔王、アザトフィプスの執務室にて、いそいそと子どもがやってくる。るんた、るんたとどこか幸せの音が聞こえてくるような足音だ。アザトの質問に返答することなく、子どもはアザトの膝を狙う。
アザトは子どもが入ったところで手を止めずに、かりかりと書類にペンを走らせた。ペンのインクが滴り、紙をひっかく。窓から差し込む光はかすかな星あかりのみ。
まるで静かな子守唄のような、そんなペンの音を聞きながら、子どもはアザトにもたれ、こっくり、こっくりと船をこぐ。
しばらくアザトの膝の中で眠っていたと思ったら、今度はぱちっと目を覚ました。きょろきょろと周囲を見回した後でほっとしたような顔をする子どもに、「ここは、夜の国だ」とアザトは木漏れ日のような静かな声で、呟くように囁いた。
「お前の国ではない。ずっとこの、夜の国にいたらいい。いつまでも、お前の気が済むまで」
きっと、子どもは夢を見ていた。
誰からも、気づかれない、見向きもされない、透明な人間のように扱われていたあの日々のことを。
顔が隠れるほどの、長い銀の前髪の隙間から幼い顔が覗いた。
可愛らしい丸いほっぺ。つん、と上を向いた愛らしい鼻。宵の夜と、昼間の空を混ぜ合わせたような、美しい青い目が、ゆっくりと見開かれる。
ぱくりと、口を動かした。そこに声はない。
けれども、不思議とアザトは子どもの声が聞こえるような気がした。彼女の首から下げられた星のかけらが、心の声を伝えているのかもしれない。
「……そうか」
ん、とへにゃりと笑った子どもは頷く。
そうした後で、少し考え、くい、とアザトの服を引っ張った。
「……ん? どうした。……お前も、話したいのか?」
子どもの顔はふてくされている。口元を尖らせて不満を表しているようだ。
「たしかに、そうだな。フォメトリアルは少し、押しが強い。あいつも悔やんでいるのだろう。急がずに、少しずつで、いいのではないか」
こくりと頷いた子どもは、ぽてん、とアザトの胸にまたもたれた。「……眠るのか?」しばらくすると、返事の代わりに無防備なほどに気持ちがよさそうな寝息が聞こえてくる。アザトはそっと子どもの頭をなでた後に、書類に向かう。星あかりが、ぽろぽろと部屋にこぼれ、まるでおとぎ話の一ページのように、ゆっくりと時間が流れていく。
ふと、アザトは顔を上げた。
「名が、必要だな……」
どんな名にすべきなのか。まだそれはわからない。けれども必要なように思う。自身が、子どもに『アザト』と呼ばれたとき、胸を駆け上がるような喜びがあった。それこそ、我を忘れてしまうほどに。
壊れた城の修復は骨でできた下級の魔族たちや、闇でできたモヤモヤたちが頑張っているところだ。少しやりすぎたかもしれない、と後悔はしている。
さて、と考え、窓の外を見上げる。暗い闇ばかりが広がる夜の国。そんな中で、子どもが生み出した小さな光を思い出す。
きらきらと輝くような、そんな名がいいと感じた。小さくとも、この夜の国の中でひときわ輝く、太陽のような。
子どもが起きたら話してみようとアザトはまた考えて、書類にペンを走らせる。
知らぬうちに、口元にわずかな微笑みを乗せたまま。
夜の国は、ここにある。ほんの少し扉を抜けただけの、すぐそばに。きっと木箱に入っているうちに勝手にたどり着くだろう。
そこにいるのは冷たくて、怖くて、恐ろしい魔族たち。けれども、温かで、柔らかで、賑やかな魔族たち。
楽しい日々が、待っているに違いない。
タイトルを変更して長編版、始めました。
『魔王様といっしょ! ~生贄少女は夜の国で幸せ生活はじめます~ 』
よろしくお願いします!