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深海の君へ

作者: 輪樂

深夜、キョウは私のアパートの扉の前に体を縮こめてしゃがんでいた。


うちの会社は最近急成長を遂げた。数年前まで誰も知らなかったような会社だったのに、今ではうちを知らない人を探すほうが難しい。

ただ、そんな急激な成長には、裏があるもので。

劣悪になった労働環境、賄賂の横行、パワハラの日常化、残業、商品詐欺、枕営業の強制…

本当にうちの会社は散々な、どうしようもなく救いがたい地獄と化した。

大きくなる前は、小さい会社ではあったけど、みんな生き生きと働いていた。現在のような形になったのは社長が代替わりしてからだ。

私の同期や先輩はもうほぼいない。転職を果たした人はごく僅かで、自殺や消息不明、精神を病んで病院暮らしの人が殆どだ。私自身、辞めようと思ったことは何度もある。というか、常に思っている。

同僚や部下が壊れていくのをもう見たくなかった。

でも、私はどうしてもこの場所から離れる事が出来ない。


「キョウのせいだからね」


深海よりもさらにもっと深くて濃くて重たい瞳をしたキョウの髪を撫でる。キョウは何も言わずに頭上にあった私の手首を強く握る。キョウは死人のような、ゾンビのような、そんな手をしている。

「痛いよ」

キョウは沈黙を守る。夜風が吹いて、体の芯が凍るような嫌な心地がした。

私はキョウに掴まれたままの手を引いて、キョウを立ち上がらせる。キョウは少しよろけて私の肩に顔を埋める。

「……ジュン、ちゃ…」

「取り敢えず入りなよ。ここじゃ冷える」

私はキョウを無理やり引き剥がして、家の鍵を開け、キョウを家に引き込んだ。


一一一一


手を洗い、部屋の電気と暖房をつけて、缶ビールをグラスに注ぐ。溢れかえったゴミ箱に思わず眉を潜めてしまうが、ゴミを出しに行く気にはなれなかった。

キョウは私に子鴨の如く付き纏う。『鬱陶しい』と言ってしまえれば楽だが、生憎今のキョウにそんな事を言えばキョウはすぐに舌を噛み切ってしまうんじゃないかと、馬鹿みたいだけど確かにそう思った。

一通りの事を終わらせて、酒を持って暖房がいちばん当たる位置に座る。私が座ると、キョウは私の真横にピッタリと張り付くように座った。

「………」

キョウはまだ何も言わない。だから私も何も言わずに、ビールをぐいっとあおる。冷えた酒と私を背中から温める暖房に少しだけ気分が良くなる。キョウの顔を横目で覗く。


深海の内のたった一滴がキョウの整った顔の側面をつうっと伝っていた。


(綺麗だ。それこそ、残酷なまでに)


私は、酷いことだとわかっているけれど、暫くその海の欠片を眺めていた。


深海から溢れたその一滴は透き通ってきらきら光る。

光って。

影に入って。

また光って。

光って。

どうしても墜ちて。

行き着いた先に、新たな深海を生んだ。


私はグラスを置いて、利き手でない方の手でキョウの背中を摩る。キョウは緩慢な動きで私の肩に頭を乗せる。キョウの体重を感じた。キョウの中の深海は私の肩にも小さな深海を作った。その小さな深海は私の酒と暖房で誤魔化した体を侵略した。肩から冷えて溶けていくようなこの感情は、錯覚なのか、実感なのか。

「…ジュンちゃん……」

キョウは小さく、震える声と縋るような顔で私を見つめた。その目の中の私と目があった。

キョウの左手が私の右頬から首筋に触れる。キョウの左の親指が右頬から唇の端を通って私の乾いた下唇を撫でた。


「ごめんね、おねがい、ごめんね…ごめんね、おねがい、ごめん」

「何に、謝ってるのさ」

「もう、わかんない、おれは、ジュンちゃんみたいに、あたまよくない」

「……そう、じゃあ、もう、私にもわからないよ」


キョウは私のシャツの第二ボタンを開けた。


(ねえ、ジュン(姉さん)、あたしどうすればいいのかなぁ)


一一一一

キョウの深海には、やっぱり何も住んでいない。

ただただ醜く腐った死骸が腹を向けて浮いている。


広かった青空は、暖かかった青空は、太陽を失い、月に見放されて、深海になった。

鳥は魚になって、死んだ海でかすかな光を求めてもがいている。






深海が青空に戻る日を信じて。





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