王子様、この花は枯らしましょうか
「リーゼ、君との婚約を破棄する」
「やっとですか」
私の口から呆れたような溜息が漏れた。
肺の奥底から全てを押し出すように吐き出した息には、長年蓄積した疲労の念が込められている。
対する元婚約者は、緊張を隠せない面持ちでこちらをじっと見つめていた。
額に浮かぶ汗と微かに震える唇が、この場に立つ彼の不安を如実に物語っている。
クライド・アクレシオス――この国の第一王子であり、たった今元婚約者になった男だ。
金色に輝く柔らかな髪は陽光をまとったようで、澄んだ青い瞳は湖面のように美しい。
その整った顔立ちは彫刻のように完璧で、どこか知性すら感じさせる。
しかし、その印象に騙されてはいけない。クライド殿下は……「お馬鹿」なのだ。
そう。
顔面から知性を漂わせながらも、彼の実態は、はっきり言って学問や常識に乏しい……少し残念な王子様である。
私と彼が婚約したのは、私たちがまだ五歳だった頃のこと。
私は公爵家の令嬢として、国の未来を背負う第一王子と結ばれた。
幼い頃のクライド殿下は素直で愛嬌のある子どもだったが、同時にその「お馬鹿」っぷりには幼少期から振り回され続けてきた。
たとえば、勉強はほとんど理解できないし、剣術でも成績は振るわない。
周囲の期待に応えられず、よく泣いていた彼を励ますのが私の役割だった。
もちろん、それは私が望んだ役割ではなく、勝手に押し付けられたものだったのだが。
しかし、そんな彼もずいぶんと成長し、近年では他の令嬢たちとの交流を増やしていた。
特に、ある令嬢と夜会で親しくしていると聞いたのは二年前のことだ。
彼の変化に気づいた私は、心のどこかで「彼女と結婚するのだろう」と思いながら過ごしていた。
実際に、私は既に婚約が解消されたものだと勝手に解釈していた訳だし。
だから、今さら彼が婚約破棄を告げてきたことに、驚きすら覚える。
「新しい婚約者ができたんだ。名をアイリーンという」
「……はじめまして。リーゼ様。アイリーン・オルフェーヴルと申します」
柔らかな声が耳に届く。
王子の隣に立つ令嬢が、深々と頭を下げた。その控えめで丁寧な仕草から、彼女が育ちの良い人物であることが伺える。
彼女の家名を聞いた私は、一瞬だけ目を細めた。オルフェーヴル……隣国の侯爵家――疑いようもない名家だ。
なるほど、クライド殿下が彼女を選んだ理由がよく分かる。
「はじめまして。可愛らしいお方ですね」
笑顔を作りながら、私は王立学院の制服のプリーツスカートを小さく摘み、礼儀正しく頭を下げた。
彼女は、私とは正反対の雰囲気を持つ女の子だった。
私の闇色の髪は冷たく地味な印象を与えるのに対し、彼女の淡いピンク色の髪は柔らかな光を纏い、見る者に温かさを感じさせる。
黒いシンプルなドレスを身に纏っているが、彼女にはもっと華やかな装いが似合うだろう――明るい色のドレスや繊細なヘアアレンジが、きっと彼女の魅力をさらに引き立てるはずだ。
そんな考えが浮かび、私は内心で「勿体ない」と思う。
ふと、クライド殿下がアイリーン様の隣で困ったような表情を浮かべているのが目に入る。
「アイリーンとの挙式は、三か月後だ」
「そうですか」
殿下の言葉を聞き流すように返事をしながら、私は冷静に考えを巡らせる。
最近、殿下の姿を見かけないと思ったら、既に結婚式の日取りまで決まっていたのか。
「その、君はどう思っているかわからないが……結婚式を見に来てくれると、嬉しいんだが」
「……あのね、行けるわけないでしょう」
呆れたように返す。
どんなに彼が純粋に言葉を紡いでも、この状況で結婚式に出席できるわけがない。
クライド殿下は昔からそうだった。
何も考えずに突拍子もないことを言う。そのお馬鹿さに振り回されてきた私は、もはや呆れるのも疲れたほどだ。
座学も剣術も楽器も……彼は、何をしても王立学院では万年最下位だった。
一国の王子だというのに情けない!と先生に匙を投げられそうになっていたため、放課後の補習に一緒に付き合ったことも多々あったっけ。
全く迷惑な話である。
「まさか、殿下。ここまで来られたのは、アイリーン様との結婚のご報告ですか? わざわざ律義なことですね」
私の言葉にクライド殿下は答えることは無かった。
彼は私の言葉が聞こえていないのか、手に抱えたものを私に差し出した。
「リーゼ、この花好きだったよな」
「……えっ」
ばさりと音を立てて差し出されたのは、黒のチューリップの花束だった。
紫にも見えるその花の色は、私の髪色によく似ている。数を数えてみれば、ちょうど二十五本。
……私が五年前、彼に贈った花束と全く同じものだった。
「そういうことは覚えているのですね。殿下はお馬鹿なのに」
「僕は、君から貰ったものは忘れないよ」
まるで私の言葉に答えるような彼の声は、少し震えていた。
クライド殿下は、婚約者だった頃から月に一回は必ず花束を贈ってくれた。
薔薇に、カスミソウに、マーガレット。その月ごとに季節の花を選び、どんなに忙しくても花束を届けるのを忘れたことは無かった。
後から聞いた話だが、「女子は花束を贈ると喜ぶぞ」というクラスメイトの友人に聞いた言葉を真に受けていたらしい。
私は、花束なんて微塵も興味が無かったのだが。
クライド殿下は花束を贈るとき、口癖のようにこう言った。
『リーゼ、大丈夫だ。何があっても僕が守るからな!』
一国の王子の婚約者である。
当然、嫉妬も反感も買った。
王妃教育も厳しく、両親も決して甘やかしてなんてくれなかった。
そんな中、クライド殿下だけは違った。お馬鹿だけど、彼は誰よりも優しかったのだ。
第一王子という自分の立場が多少悪くなっても、いつだって私の味方でいてくれた。
家臣や貴族たちからの体裁を気にするべきなのに、常に私のことを一番に思ってくれていた。
――そんな彼のことが、いつの間にか好きになっていた。
花束なんて別に好きじゃなかったけれど、彼に貰える花束は特別なものに思えたのだ。
どんな花でも、いいや、きっと道端に生えている野花を摘んで作った即席の花束だって、彼から贈られたものならば、ありったけの光を集めて作った魔法の花束だと思えたはずだ。
「リーゼ」
優しい声が響いて、私は思い出から現実に引き戻された。
じっと目の前の彼を見つめる。
私の前に、花束がそっと置かれた。
「黒のチューリップの花言葉は『私を忘れて』だ。君はこの花言葉を知っていて、僕にこの花を贈ったのか?」
「…………五年越しに気がついたのですか」
真剣な彼の顔は、王立学院の制服を纏った私よりずっと大人びていて。
その顔を見る度に、もう彼と同じ時を刻んでいないことを実感してしまう。
クライド殿下が纏う衣服は、もう王立学院の制服なんかではない。
王家の紋章が入った、真っ黒な礼服だ。
彼がその姿で訪れるようになったのは、一体いつからだったか。
「……なあ、リーゼ。『私を忘れて』なんて、そんなことを言われたって、忘れられるわけないじゃないか」
上擦った声が響いたかと思うと、堰を切ったように、ぼろ、と殿下の瞳から涙が零れ出した。
ぐずぐずと泣き始めた彼は、袖で涙を拭う。
「……クライド殿下は、大人になってもやっぱりお馬鹿ですね」
私は、大きな溜息をついた。
本当に馬鹿だと思う。こんな私にわざわざ結婚の報告にくるなんて。
墓標の上から、ひょいと降りると彼の前に立って目を細めた。
「……私が死んで、もう五年も経つんですよ」
私の姿も、声も、もう誰にも届いていない。
――私が死んだのは、五年前の春の日だった。
体が病に侵されたのは、王立学院に入学して二年生になった時のことだった。
じわじわと痛みと苦しみに襲われるその病気は、若者の方が進行が早いらしい。
比較的医学の発達した我が国だったが、どんな医者も首を横に振った。
私は、たった数ヶ月でベッドの上から動けなくなった。
婚約者だったクライド殿下は、ほぼ付きっきりで看病をしてくれた。
大丈夫かと尋ねれば、テストで高得点をとることを条件に出席を免除してもらっていたらしい。
『……殿下、それ留年しませんか?』
『失礼な! 僕はこのまま行くと首席で卒業だぞ!』
『えっ、あの万年補習組だった殿下が……?』
『失礼だぞ! 不敬だぞ!』
ムッとした顔をしたクライド殿下が、びしっと指をさした。
信じられない話だが、クライド殿下は本当に高得点を取り、国王も先生方も黙らせていたのだ。
その努力を初めからして欲しかったと苦言を呈せば、『確かに』と笑われた。
『ねぇ、クライド殿下。私から貴方へプレゼントがあります』
『なんだ?』
私は、彼に花束を差し出した。
使用人に頼んで作って貰ったものだ。全部で二十五本ある。
『見てください。黒いチューリップです。私に似ているでしょう?』
『ああ、君みたいに美しいな』
花束を受け取った彼は、愛おしげにそれを見つめる。
『きっと、私はこの花が枯れてしまう頃にはこの世にはいません』
彼は真っ青なその目を見開いて、唇を噛んだ。苦しげに目をそらす。
『……やめてくれ、そんな話』
『だから、その花が枯れる頃には、どうか新しい婚約者を作って幸せになってください』
私は彼の制止を無視して、一種の呪いの言葉を紡いだ。酷だと思った。
でも、お馬鹿で優しい彼はきっと私を思ったまま時が止まってしまうから。
私は、恐らくその花が枯れるよりも長く生きた。
しかし、度々殿下に尋ねれば、『まだあのチューリップは枯れていないよ』と言われた。
きっと嘘だったのだろうと思う。
枯れてしまえば、すなわち婚約破棄だ。
クライド殿下は、それを認めたくなかったのだろう。
結局、私が死ぬその時まで、ついぞ婚約破棄してくれなかったのだった。
顔を上げて、今目の前にいる大人になった彼を見上げる。王立学院時代から背は高かったけれども、さらに背が伸びた。
「ねぇ、殿下。貴方は、私の葬儀が終わってもずっと私の墓の前で子どもみたいに泣いていましたね」
私が死んですぐの殿下は、壊れた機械のように「会いたい」と繰り返しては泣いていた。
「そんな貴方が心配で……私は天国にも地獄にも行けなかったんですよ」
ただ、現世に留まったところで、墓を離れることができない私には何も出来なかった。
励ましたくても、愛してると伝えたくても、もう私の姿も声も、彼には届かなかった。
毎日のように墓を訪れ、晴れの日も雨の日も泣きじゃくる彼を抱き締めたくても、私の体は彼をすり抜けていくだけだった。
「だから、今日、貴方に新しい婚約者ができたと聞いたときは本当に嬉しかったです」
二年前くらいからだろうか。
隣国の令嬢が、異常なほど自分を口説いてくると殿下は墓の前で独りごちた。
最初は迷惑そうだった彼だが、次第に彼女に心が惹かれていっているのは気がついていた。
みるみる彼の顔色は良くなり、楽しげに話すことが増えたからだ。
彼が完全に壊れてしまう前に、支えてくれたのは……きっと、紛れもなく目の前のアイリーン様なのだ。
「貴方は、チューリップを、やっと枯らしても良くなったのですね」
ほろりと瞳から熱いものが零れた。
寂しいような、でもどうしようもなく嬉しくて仕方がない、そんな気持ちが籠った涙だった。
アイリーン様が言う。
「……リーゼ様、貴方が殿下を愛した分、私も殿下を精一杯愛します」
その目には強い決意が篭っていた。
優しく微笑む彼女の瞳には、控えめでありながらも揺るぎない芯が見えた。
ふわふわしていると思った彼女だが、思いの外強い女性かもしれない。
「ええ、きっと貴方は素敵な王妃様になれるはず。……この国をよろしくお願いします」
深く頭を下げる。彼女に精一杯の誠意を込めた。
ありがとう、ありがとう。
ひとりぼっちの殿下を救ってくれて。
どうか、クライド殿下を導いてあげてください。
お馬鹿で、素直で、傷つきやすくて、誰よりも優しい人だから。
死んだ昔の婚約者に、わざわざ婚約破棄を言い渡して結婚報告までする律儀な人だから。
私が人生をかけて愛したかった人だから。
涙を堪えて、顔を上げる。
そこには涙でぐしゃぐしゃになったクライド殿下がいた。
「まだ泣いているの? 相変わらず、お馬鹿な王子様」
「……!」
そう言った瞬間、殿下が聞こえるはずがない声に反応したかのように顔を上げた。
「なんか、今、リーゼに怒られた気がしたな」
「ふふ、案外目の前にいらっしゃるのかもしれませんよ」
「泣き顔を見られるのは恥ずかしいな。リーゼには、『泣くな』とよく怒られていたから」
くすくすと笑い合う二人をみて私は目を瞑った。
きっとこの国は安泰だ。直感的にそう思った。
「リーゼ、愛していたよ。ずっと」
その言葉を残して、クライド殿下とアイリーン様は去っていく。
風が吹いた。
柔らかな春の風だ。
私が死んだのも、こんな麗らかな日だったなと思い出す。
もう彼を心配して現世に留まる必要もないだろう。
私は去っていく彼の背中を見つめながら、薄くなっていく体でそっと花束を撫でた。
「花言葉は『私を忘れて』だけではないんですよ。殿下」
確かに黒いチューリップの花言葉は、『私を忘れて』だ。
でも、チューリップには本数によっても花言葉が存在する。二十五本のチューリップの花言葉は――
「貴方の幸せを祈っています、殿下」
日間ランキング1位本当にありがとうございます(*´˘`*)♥
他にも異世界恋愛小説(切なめのお話が好きです)を書いていますので、ぜひ覗いていただける嬉しいです(評価下にもリンクあります)