リリアの反抗
「ねえ、ラビ。やっぱり私達っていらないんじゃない?」
目の前で繰り広げられる一方的な殺戮を見ながらリリアは言った。
両の手に黒色のメリケンサックをつけたシキ。対するはゴブリン五匹。各々が剣や斧、弓を持ちながらも、その武器達がシキを傷つけることはない。攻撃の全てを軽々とシキは躱し、的確にゴブリン共を屠っていく。その戦闘能力は一級品であり、もはやシスターとして生きていくよりも、モンスターを狩った方が豊かな人生を送れるのではないだろうか。
数十秒ほどの内にゴブリンを全て倒し切ったシキは言う。
「ふう、これで三十匹討伐完了ですね。さあ、ラビさんお願いします」
あれほど激しく動いた後だというのに、息は全く上がっておらず、まるで何事もなかったかのようにさらりと呟かれる。彼女はゴブリンを見つけるコツを掴んだのか、討伐再開後、ハイペースで借り続け、ものの二時間ほどで目標討伐数を達成していた。糞に指を突っ込んで、水分量を確かめている姿を見た時は若干引いてしまったが、彼女のおかげで大分時間の短縮ができたはずだ。いや、そもそも俺とリリアだけではゴブリンの討伐なんて無理だろう。
「はいよ」
俺は彼女の言葉に従い、ナイフを取り出して刃をゴブリンの耳へと当てる。こういった討伐では、何匹倒したのか、その数の証明のため体の一部を削ぎ落としておく必要がある。流石にこんなことまでシキにお願いするのは偲びなかったため、こうして俺が買って出た。ちなみにリリアは戦闘にも参加していないし、今だって地を這う蟻を笑顔で見ている。
「? どうしたのラビ? そんなにじっと見つめて…………蟻は食べられないよ?」
こいつぶっ殺してやろうか。
「誰が蟻なんて食うかよ。……なあお前、そんなんで今後大丈夫か?」
「大丈夫って?」
「いや、ゴブリン討伐怖いんだろ? これからもっとやばい奴らとやり合うってのに、そんなんでやってけるのかとふと心配になってな」
俺だって普通の女の子がゴブリンを怖がっていたとしてもなんとも思わない。むしろそれが普通の反応だろう。だが、リリアは勇者だ。今後、ゴブリンなんかよりも強い奴らと戦っていく必要がある。そんな奴らと対峙した時、果たして彼女が無事でいられるだろうか。
だが、そんな俺の心配も彼女にとっては心外だったようで、ぷくーっと頬を少しだけ膨らませながら言う。
「大丈夫だよー。ラビは知らないかもしれないけど、私はこれでも騎士学校にいたことがあるんだから。ゴブリンどころか、グリフォンだってチョチョイのチョイだよ」
胸を張って言うリリア。彼女の細っこい体では、グリフォンどころかゴブリンにだってチョチョイのチョイでやられそうだ。
「騎士学校にいた、ってお前のその言い方だとまともに卒業してないみたいに聞こえるぞ」
「? まともどころか普通に卒業してないけど?」
……公爵のくせに最終学歴が騎士学校中退とは恐れ入ったぜ。
「あ、そっか、ラビがうちで働き始めたのって、私が学校を辞めた後だったっけ? あの時はすごかったんだよ。まだパパとママが生きてて、退学させられたって言ったらすっごく怒られちゃったんだー」
あはははは、と笑うリリア。一体何をやらかしたら公爵家の息女というとんでもなく高貴な身分でありながら、強制的に辞めさせられるのだろうか。聞いてみたい気もするが、傍で聞いていたシキは別のことが気になったみたいで、俺よりも先に切り出す。
「あの……リリアさん。まだパパとママが生きていたって……もしかしてすでに……あ! いえ、すみません。こんなこと気軽に聞いて良いわけないですよねごめんなさい」
言葉を続けながら、途中ではっとしたように謝罪するシキ。その申し訳なさそうな表情は彼女の人柄をよく表していた。
「別に良いよ? ていうか、公爵家だから私のパパとママが死んでるのはみんな知ってるし。むしろ知らなかったことにびっくりだよ。そもそも私くらいの歳で家督を継ぐなんてそれ以外ありえないと思うんだけど、シキって意外とお馬鹿さん?」
「そ、そうかもしれませんね」
ピキリ、そんな音が聞こえたと錯覚するほどにシキのこめかみに浮き出る血管。いくら天使のような存在だろうと、リリアに馬鹿呼ばわりされてしまえば怒りを完全に隠すことは難しいらしい。
「それに、私のパパ達がいたら流石にラビなんて雇えないよー。だって人より優れてるところは前科の数くらいだよ? すっごい馬鹿だし! こんな馬鹿な人、私くらいしか側にいてあげられないよーっていやあああああ! 痛いよラビ! 無言でこめかみぐりぐりしないで!」
ちなみに俺は怒りを隠すつもりなんてない。
「ラビさんラビさん」
こめかみを力いっぱい締め上げる右手が引っ張られる感触。声のした方を見れば、シキが俺の袖を小動物のようにくいくいと引いていた。どうしたのだろうか。もしかして、私も側にいてあげられますよ、などと嬉しいことでも言ってくれるのだろうか。
「前科何犯なんですか?」
瞳をキラキラとさせながら聞いてきた。……一体どこに興味を持ってるんだお前は。
「七だよ」
「五だよ! ちょっと盛んな」
「へえ、五ですか……」
なんでちょっと悔しそうなんだよ。
と、その時だった。
「……! 二人共静かに!」
シキの纏う空気が一変する。ただならぬ雰囲気を感じて黙り込む俺とリリア。耳を澄ませば何者かがこちらへ駆けてくるのを感じた。鎧を着ているのだろうか、金属同士が擦れ合う音と大人の腰ほども背丈のある草が掻き分けられる音。速い! どんどんと大きくなっていくそれらの音が、相手がとんでもない速度で迫ってきていることを教えてくれる。
「ら、ラビ……」
側でリリアが小さく呟く。その顔は今にも泣き出しそうだ。背に隠してやりたいが、相手がこちらに位置を悟られないよう動いているのか、どちらから来ているのか判断がつかない。
背中につうっと冷や汗が流れる。こいつは何だ? 魔物か? 俺達を狙っているのか? もしそうなら、こんなとんでもないスピードで動く奴、俺達が敵うわけがない!
そんな思考をしている間にも、音の主は恐ろしいほどの勢いで俺達との距離を詰める。あと数秒で、俺達の元へと辿り着くだろう。手に持つナイフを構える。俺がそんな物を構えたところで無駄だということは分かってはいるが、悠然と構えていられるほど、度胸がある人間でもない。
来るなら来やがれ! ……そんなことを思えるほどの度胸もない。来ないでください! マジで! そして、もはや耳を澄まさなくとも聞こえるようになったその音の主は──。
「…………? 止まった?」
「ラビさん! 後ろです!」
「ほう? 誰かと思えば随分と面白い奴らがいたものだな」
え? うし──ッ!?!?
「ラビ!?!?!?!?」
突如として襲いかかる衝撃に吹き飛ばされて、勢いのままゴロゴロと地面を転がり、何回転目か数えきれなくなった頃にようやく止まった。回転のせいで視界が回る。高い木々と、少しだけ顔を見せる晴天。ぐるぐると回る視界の中でかろうじてそれらを認識するが、一体俺の身に何が起きたのかは分からない。
一体何が起きた。どうして俺は寝ているんだ。朦朧とする意識の中、かろうじてそんな疑問を浮かべていると。
「──ぐあああああ!!!!」
遅れて走る激痛。背中が焼けるように熱い。熱い。熱い。痛い。
脂汗が噴き出てくる。脊髄を伝い、激痛が脳に伝わってくる。あまりの痛みに、もんどりを打とうとしても、神経がやられたのか体が思うように動かない。湧き上がってくる吐き気に耐えきれず、口を開くと大量の血液が漏れ出ていった。
「……ぁ、ぐぅ」
ついには声を上げる力すら無くなった。痛みを紛らわせるため、どれだけ叫ぼうとしても、それが叶うことはない。
「ラビ! ラビ!」
駆け寄って来たリリアの顔が回っている。ポタポタと落ちてくる生暖かい水滴は彼女の涙だろうか。
「ラビ! 死んじゃやだ! ヤダヤダ! お願いだよ! ラビ!」
「リリアさん立って! そのままではあなたが……!」
遠くから聞こえるシキの声が途切れたかと思うと、次いで聞こえてくるのは凄まじい轟音。バキバキと木々が倒れ伏していく音と微かに聞こえた悲鳴に、シキまでもが敵の餌食となったことを悟る。
何だ一体……何が、起きた。
カチャリカチャリと足音が聞こえる。先ほどとは打って変わって、敵はゆっくりと近づいて来ているようだ。一歩をそいつが踏みしめるたびに大きくなっていく足音はやがて止まった。
「久しいなラビ。元気にしていたか?」
久しいなだと? だとすれば随分な挨拶だ。だが、生憎と俺には、久々の再会だというのに半殺しにしてくる奴など山ほどいる。一体誰が……。
「…………ぉ……まぇ……か」
「元上司に向かってお前とはなんだお前とは。……全く、昔から変わってないようで何よりだ」
痛む体に鞭を打ち、声の主へと視線を送ると、懐かしそうに微笑を浮かべる女性が立っていた。お前の知ってる俺は、こんなに満身創痍なのかよ。
白金の鎧に身を包み、銀の瞳に銀の髪を持つ美しい細身の女性。耄碌した老人が見れば、天使だと勘違いしてしまいそうな程に、一種の神々しさを放っている。その手には一体その細腕でどうやって振るっているのかと疑問すら浮かぶほどに大きなハルバード。先ほどまで常人離れした速度で移動しておきながら息一つ切らさず、涼しげに彼女は立っていた。
クロエ・ヘルト。
この国では名を知らない者はいない有名人。リリアと唯一対等な公爵家の一人娘。竜を単独で討伐したドラゴンスレイヤー。魔術と槍術を極めた万能者。人類最強。
その卓越した実力から様々な異名を持つ彼女だが、その最たるものと言えば……。
「き、騎士団長……!? どうしてここに…………?」
この国の騎士団を統べる最高権力者。齢二十三という史上最年少かつ、史上初の女性の騎士団長。長く続く騎士団の歴史の中でも、これほどの傑物は他にはいない。そう評されるほどに卓越した戦闘能力と頭脳を誇る人間が今、俺達を襲撃してきていた。
リリアの問いに、微笑みを浮かべていたクロエの顔から感情というものが消える。周囲の温度が下がったかと錯覚させるほどに、冷たい視線がリリアへと注がれた。
「……どうして、だと?」
「ひぃっ!」
「貴様、自分が何をしたのか分かっているのか? 勇者という身分でありながら魔王討伐から逃げ出すなどという大罪。この私が出向いてもおかしくない案件だと思うが?」
見知った顔だが、味方ではない。それを俺とリリアが察することができる十分な言葉だった。
さて、どうするか。この状況を打破しようにも、痛みでまともに頭が働かない上に、体も全く動かない。おそらくシキも同じような状態だと考えて間違いない。ヤバいな。このままだと……ん?
このままだとリリアが捕まる。間違いない。だが、俺はただ彼女に無理矢理連れてこられただけで、当然なんの罪もない一般人。少しの間事情聴取のため捕えられはするだろうが、すぐに釈放されるだろう。
……だったら別に良いんじゃないか?
「……そう言いたいところだが、ただの偶然だ。たまたま別件で通りかかり、人の声が聞こえてな。こんな森の中で万が一遭難者がいれば大変だと思って来てみただけだ」
本当に偶然なのだとしたら、運が悪い。たまたま出会っただけだとしても、彼女が騎士団長である以上、リリアを見逃すことはないだろう。グッバイリリア。刑務所の臭い飯は慣れると意外と美味いぞ。
と、俺が静観を決め込むことを決めた直後、クロエはハルバードを俺に向けながら言葉を続ける。
「ラビ……貴様を連れていく。抵抗する場合は殺しても良い……そう言われている」
なんで俺!?
そう突っ込もうにもこんなボロボロの体では声すら出ない。ハルバードの切先が首筋に突き付けられ、生きた心地がしない中でも俺にはじっとクロエを見ることしか出来ない。
「ちょっと! ラビは関係ないでしょ! 連れていくなら私を連れて行ってよ!」
「もちろん貴様も連れていく。だが、私の最優先事項はラビを王の元へ引っ張り出すことだ。……なんだリリア、その目は? 歯向かってくるのであれば公爵といえど容赦はせんぞ。一体誰にボコボコにされて騎士学校を退学になったのか、覚えていないわけではあるまい?」
びくり、と視界の隅でリリアの体が揺れ、次第に啜り泣く声も聞こえてくる。よほどのトラウマをクロエに刻みつけられたのだろう。
なるほど、一体どうして公爵家の人間が学校を退学になるのか、疑問があったが同じ公爵家の人間が関わっていたのであればそれも合点が行く。
「そうだ、それで良い。お前はずっとそうやって怯えながら生きていろ。全く、一体どうして女神様はこんな奴を勇者に選んだんだか……。おい、ラビ行くぞ。さっさと立て……そうか、お前は貧弱だったな。ただ蹴っ飛ばしただけなのにそれ程の重傷を負うとはしょうがない奴だ。おぶって行ってやろう。……お前、少し痩せたか? ご飯はちゃんと食べないと駄目だぞ? なんだったら今度作りに行ってやろうか?」
クロエは軽々と俺を背負い、帰路を辿り出す。彼女が歩を進めるたび、硬い鎧が当たり反射的に顔を顰めてしまう。
「おいリリア。お前も早く来い」
その声にまたビクリと体を大きく震わせながらも、リリアは立ち上がる。
「……」
が、一向に彼女は下を向いて、その足をそこから動かそうとはしない。数十秒ほど待っても、彼女はただ立っているだけ。いい加減郷を煮やしたクロエが少しだけ声を荒げて彼女の名を呼ぶと、やっと反応を見せた。
「……ねえクロエ。ラビはどうなっちゃうの?」
相変わらず、下を向いたままのリリア。その表情を伺うことはできず、声にも大きな起伏がない。一体彼女が何を考えてそう問うのか、判断がつかない。
だが、その問いかけにクロエの心臓が跳ねる音が聞こえた。
「……死刑だ。そのくらいお前にも分かるだろう?」
なんで!?!?!?!?
一瞬で痛みで朦朧としていた意識が覚醒する。
なんで死刑? 俺なんかした? お前ご飯作りに来てやるって言ってたじゃん! 嘘か? その言葉は嘘だったのか!? それとも騎士団長をクビになって監獄の食事係にでも降格させられたのか!?
だが、いくら意識が戻ろうとも傷ついた体はすぐには元に戻せない。俺はクロエの背で身動き出来ず、声すら発することが出来ないまま見守るしかなかった。
「……そっか」
それでも顔を上げずにリリアは答えを返す。
一体何を考えている? こいつの考えることであれば、大概のことは想像がつく。腹が減った、働きたくない、戦いたくない。声、表情、姿勢、そういったわずかな情報からでもリリアの思考を読み取れるほどには彼女のことを理解していると思う。だが、今の彼女はこれまでに俺が見たこともないほどに不穏な雰囲気を纏っている。正直これからこいつが何をしようとしているのか、全く想像がつかない。
そうして俺が少しだけ混乱している間に事態は動く。
「まあ、私がなんとか!?」
「…………ぅ」
キィンと金属同士がぶつかる音と、少し遅れてドサリと何かが落ちる音と俺の呻き声。その金属音はリリアが聖剣で斬りかかり、クロエが腕当てで防いだ音だとすぐに気付く。だって俺いつの間にか地面に落とされてるもんね。ドサリって音は俺が地面に落ちた時の音だもんね。見上げたら二人がその姿勢で固まってるもんね。……一度身の回りの奴らに俺の扱いというものを考え直させる必要があるな。
「おい、何をしている?」
と、クロエの声。それまではほんの少しだけリリアに対して哀れみだとか憐憫だとかの感情が含まれていたが、今は失われ、ただ無機質に冷たい声が響く。
「……っ! だ、だってラビが殺されちゃうんでしょ!?」
リリアは聖剣に力を込めて、少しだけクロエを押し込むと、後ろへ飛びすさって距離を取る。クロエを睨みつける彼女の体は依然として震えているが、その瞳は今まで見たこともないほどに彼女の決意を示していた。
「ああ、このまま連れていけば普通なら殺されるな」
対するクロエは聖剣を持つ勇者と対峙しているというのに、まるで気にしていないかのように腕を組み、何やら考え込んでいる。
「だが……貴様がそのような態度でくるとはな。おい、お前何を企んでいる?」
企む? リリアが?
「…………はっ!」
鋭い声で発せられたクロエの問いにリリアが返した答えは斬撃。取った距離を一瞬のうちに詰め、何度も何度も聖剣を振るう。銀の残像を残して振るわれる聖剣は上下左右からクロエに襲いかかる。あのバカ、本当に騎士学校に行ってたのか。今ではすんなりと信じられる程にリリアの剣技は洗練されていた。
だが──。
「……おい、もう十分か?」
その斬撃がクロエに届くことはない。退屈そうに呟く彼女は、もはやガードすら不要とまでに、軽やかな身のこなしでその全てを躱していく。洗練されている。その程度では到底クロエには届かない。それほどまでに人類の頂に君臨するクロエが規格外の存在であることは、かつて彼女の部下であった俺は身に染みて理解している。
「この! この! えい! はあ!」
何度も聖剣が振るわれ、何度も空を切っていく。もはや戦いと呼べる様相を呈していない。良く言えば子供と大人のじゃれあい、悪く言ってしまえば……。
「もういい」
「がっ!?」
……猛獣と小動物の喧嘩だ。
最初から勝敗は決していた。猛獣はついに遊ぶことに飽きて、小動物の体にその牙を突き立てる。リリアの腹部には、クロエの握った拳が叩き込まれていた。岩すらも破壊するほどの威力を持った拳だ。人の骨が潰れる音がする。たまらずリリアは地面に崩れ落ちた。
俺の知る中であの拳を受けて立ち上がった者などいない。俺を含めて、鍛え抜かれた騎士団員でさえも、勇猛な魔獣であったとしてもだ。圧倒的な実力差を理解させ、体と共に立ち上がる勇気を打ち砕いてきた。
だが──。
「……ぐ、はぁはぁ…………うぅ」
リリアはそれでも立ち上がる。常に整えられていた薄桃色の髪が崩れ、口の端から血を、大きな瞳からは涙を流しながらも彼女は立ち上がる。
「…………っ!?」
信じられない光景だった。俺も、そしておそらくクロエも、リリアのことはよく知っている。弱くて、意気地なしで、泣き虫の少女。仕事をサボっては屋敷でお菓子を貪り、夜更かしをすれば怖くてトイレに行けないと喚く女の子。そんな彼女が歯を食いしばって、両の足を震わせながらも、決して視線をクロエから離すことはない。
「……ほう」
流石のクロエも思うところがあったのか、先ほどまでリリアに向けられていた冷たい瞳の中に好奇の光が宿る。
「一体どうしたリリア。お前、そんな人間じゃないだろう?」
「……ぅるさい」
「バカで弱くて怠惰な人間のはずだ」
「……黙って」
「そんなお前がどうしてこんな男のためにそこまでする? 私が怖くて怖くてたまらないんじゃないのか? 今なら謝れば許してやるぞ? この男が悪いんです、どうなっても構いません、死刑にでもなんでもすればいいじゃないですか。私の知っているお前なら当然そうする」
「そんなことしない!」
弱々しくもリリアが叫ぶ。
「するよ、お前は。私だけではなく、お前を良く知っているものであれば、みなそう言うはずだ。だからこそ聞きたい。どうしてお前はこの男のためにそこまでする?」
そう言いながら、クロエはゆっくりとリリアへと近づいていく。その距離が近くなる度にリリアは震えを大きくするものの、視線が逸らされることはなく、キッとクロエを睨み続ける。
「知っているとは思うが、ラビはかつての私の部下だ」
睨みつけられてもなお、クロエの足が止まることはない。
「こう見えて意外とお気に入りだ」
「…………」
「話さないというのであればそれでも別に構わない」
「…………」
「だがな──」
そこで、クロエはついに足を止める。ちょうどリリアの目の前、目と鼻の先で彼女は。
「──あまり巫山戯たことをするな。殺すぞ?」
「…………っ!」
本気の脅しだった。
俺に向けられたものではないことは分かっている。だが、それでもドクリと心臓が跳ね、鳥肌が立ってしまうほどの殺気が襲ってくる。木々すらも、その気配から逃れるようにピタリとその枝の騒めきを抑え、辺りを静寂が包む。
それに耐えうる者はいないだろう。人類最強から発せられる圧力はそれほどまでに凄まじく、絶望感を伴ってリリアを襲う。
「えぐっ、うぐっ……うう」
しかし、それでもリリアは立っていた。ポロポロと涙を流してはいるものの、その水色の瞳がクロエから逸らされることはない。
「はあ、何なんだお前は。まさか、殺気すら感じられない程のアホなのか?」
クロエも初めてのことだっただろう。ここまで本気で相手を威圧して、それでもなお歯向かってくる奴と出会うなど、彼女の実力を鑑みれば通常起こり得ない。
「もういい。貴様を連れて行くことは諦める。誇っていいぞ。この私を前にして逃げ仰た奴なんて数える程もおらん」
呆れたようにクロエはそう言って、リリアへと背を向ける。そして、そのまま俺の元へと歩み寄ってくる。その表情は、すでにリリアから興味を失ったかのように、何の感情も浮かんでいない。
どうやら本当にリリアを見逃すつもりのようだ。俺は心底安堵する。正直、死刑と言われても俺はさほど焦ってはいなかった。クロエも俺のことをお気に入りだと言っていたように、彼女とは親交が深い。堅物だと思われがちな彼女ではあるが、その実、結構身勝手な女だ。
自分の思い通りにルールを作り、そのせいで自らに都合の悪いことが起きれば平気で破る。そんな女が、気に入っている者をむざむざ死刑にさせるわけがない。俺を連れて行くと言ってはいるが、俺を生かす策が彼女にはあるのだろう。そうでなければ彼女はわざと見逃してくれるに違いない。
だからこそ、クロエの不興を買っているリリアが連行されることだけは避けなければならなかった。一体何をされたものか分かったもんじゃない。
俺はこちらへ向かってくるクロエの背中越しにリリアを見る。彼女は依然と泣き続けてはいるが、やはりそれでも恐怖のあまり座り込むことも、体の痛みに倒れ伏すこともしていない。地面を踏み締めて立っている。
……?
「はあ、どうしてあんな奴が公爵に……。馬鹿で弱くて、少し顔が良いだけのやつが何故だ」
先ほどまでの全てを圧倒するほどの圧力はすでに鳴りを潜め、リラックスした状態でこちらへと歩を進めるクロエ。すでに勝負は決していると判断し、日頃の激務で寝不足なのか大きな欠伸をしている。
端的に言うと、油断していた。
もちろんクロエも戦場でそんな姿を普段から見せるわけではない。むしろ絶対に見せないだろう。だが、ここには敵と呼べる存在はリリアしかいない。彼女からして見れば、とるに足らない泣き虫の少女だ。何度勝負しようとも負けることは、いやまともな戦いにすらならない、小さな臆病な虫ケラ。
だからこそ予想外だったはずだ。
視界に、リリアの姿を捉える。手には聖剣を構え、その水色の瞳に映るのはクロエの背中。彼女はカタカタと震える足に活を入れ、漏れ出る吐息を飲み込みながら。
「──ッ!」
クロエへと切り掛かった。
「…………あ?」
相手の意表をついた攻撃。意識の外側からの不意打ち。弱者が強者を倒しうる唯一の方法だ。いきなり後ろから斬りかかられて避けられる奴なんて通常存在しない。当然、クロエも避けきれず、初めてリリアの斬撃が彼女を傷つけることに成功する。
「…………貴様、何をしている?」
──だが、そもそも人類最強などと呼ばれる奴は普通じゃない。
「かはっ!」
避けきれず、それでもほぼ無傷でクロエはリリアの胸ぐらを掴んで持ち上げる。唯一リリアの振るった聖剣が掠めた左頬から、血液が流れ出ていた。
「んっ! やっ!」
リリアは四肢を必死に振り回すが、万力のように締め上げるクロエの右手の拘束から逃れることは叶わない。髪を振り乱しながら繰り出す必至の抵抗も、こうも実力差のある相手には何の意味を示すこともなく──。
「はあっ!」
──ぐちゃり。
クロエの拳を顔面に受けて、生々しい音を響かせながら遂にリリアの意識が消失する。その四肢は力なく垂れ、拘束を解かれた後も彼女が立ち上がることは無かった。




