雪の妖精
これは、どこかとおくのいいつたえ。
くものうえにはてんしがいる。
てんしははらり、ゆきふらす。
はらりひらりと、ゆきふらす。
てんしのはねはましろいゆき。
てんしはおどり、はねふらす。
これをしるもの、いつかてんしをしるだろう。
雪の空を見上げていて、人──否、厳密には違うもの──が落ちてくるなど誰が想像しただろうか。
久々の雪の日。太平洋側に住む私にとっては、登下校には憂鬱だが、滅多に見られない白い景色に心が踊る。日本海側はこんな景色が冬の間はほとんど毎日続くというのだから、雪にはきっとうんざりなんだろうなと思う。
そんなこんなで憂鬱な学校を一日乗り越え、疲れたと思いながらぼんやりと帰路につく。未だに雪は降り続けており、いつもの帰り道も不思議な白に包まれている。吐いた息も白くて、視界に靄がかかった。
傘をちょっとだけ上げて、今も白い贈り物を降り注ぎ続けているグレーの天を見上げる。すると、白い雪たちの合間に別のものが見えた。鳥かなと思ったが、段々と近づいてきている気がするのできっと違う。垂直落下しながら飛ぶ鳥なぞ聞いたことがない──この世界のどこかにはいるのかもしれないが。そうこう考えているうちに、その鳥がどうにもこの世にあるには大きすぎる翼を持っていることに気がついた。真っ白なそれは、混乱する私を他所にどんどんと近づいてきて、私はますます混乱する。落ちてくる、落ちてきてしまう。周りの誰も気づいていないのだろうか? この現代、見たことの無い有象無象に対しての無駄な興味のありすぎる人間ばかりだというのに。
ともかくも身動きが結局取れなかった私は、落ちてきた鳥に押しつぶされた。とっさに腕を伸ばしたが受け止めきれず、後ろに倒れた。幸い、道路の端の方を歩いていたため背中にはまだ雪かきがなされずにいる柔らかい雪があった。背中を強打、ということはなかったのだが、頭を打ってしまったのかもしれない。目の前にあるものが、有り得ないものに見えている。
この鳥、人間の体を持っている。
「……あ、あの」
しばらく呆けていて目の前のものの心配をするのを忘れていた。とりあえず声をかける。だが全くは反応を示さない。というより、こんな異様な状況なのに、周りは私たちが見えていないかのように通り過ぎていく。変だ。──いや、全く見えていない訳ではないらしく、私の慌てた顔を見て、どうしたんだこいつはとでも言いたげな表情を浮かべている人もいた。ならば周りに見えていないのは、このおかしな鳥のみ。なぜ私には見えているのだろうか。
「ねえ、起きてよ……」
お腹の上に乗った頭をぺしぺしと叩く。この見た目、もしや神様? と思考の片隅にそんなことがよぎったが、もうバチでもなんでも受けてやる。とりあえず私の制服の背中がそろそろ危ないから、身を起こさせてほしい。あと、素足が道路にくっついているのだ。
「起きてってば」
声を荒らげることも人の目があるためあまり出来ずに、申し訳程度に険のある声を出す。
私が力持ちであればまだ希望はあったかもしれないが、こんなでかい図体の人型をした鳥を持ち上げられるほど、いわゆる『JK』には力がない。私も然り。
「うう……どうしたものか」
ぽそりと呟く。ぐっとつねってみようか。いや、神様をつねるなんてしたら祟られてしまうかもしれない。うーんと唸っていると、やっと起きたのか鳥がもぞもぞと動いた。
「ん……?」
「あ、あの、起きたならどいてください」
「聞かぬ声だな……新人か?」
目を瞑ったまま、鳥は言う。
「は、新人?」
「お前も『雪の降り子』なのだろう」
「いや、私は人間ですけど……」
あと『雪のふりこ』ってなんだ、ふりこって紐に重りをつけたあれ……ではないだろう。
「人間?」
ぎょっとしたようにはっと目を開いて、ふりこさんは身を起こした。キョロキョロと周りを見回し、最後に私の方を振り向く。
「……ここはどこだ」
「地球です」
「なんという『くに』だ」
「え……日本です」
「そうか、落ちたか」
そう言うと、ふむと考え込み始めてしまう。待て、落ちたってどこから。
「あの、とりあえず面倒なことになりかねないので移動しましょう」
未だに考え込んでいて全く動こうとしないので、無理やり引っ張って人目のつかない場所へと連れていった。なにをする、と騒いでいるがお構い無しだ。このままでは私がおかしなやつと見られて、警察のお世話になるか、心の病院へ飛ばされるか。
ひとまず人の来ない寂れた公園に到着する。家が近所なので、小さい頃からよく来ていた思い出の場所だ。
「お前、なにをするんだ!」
「だから、あそこにいたら面倒なことになりかねないからって言ったじゃないですか!」
相手の語気につられて私まで声を荒らげてしまう。ここまでそれが出来なかったのだから仕方ないとも言えるが。ふりこさんは怒鳴り返されるとは思っていなかったのか、目をぱちくりとさせて戸惑っていた。
「あ……すみません、怒鳴ったりして」
「いや、いい。お前の話を聞いていなかった私が悪い、こちらこそすまない」
意外と素直なやつだ。拍子抜けしてしまう。
「あの、あなたはその……なんなんですか?」
上手い言い方が見つからずに、変な言い回しになってしまったがまあ大丈夫だろう。
「私か? 私は『雪の降り子』だ」
「それってなんですか」
「その名の通り、雪を降らせる天使のことだ」
「天使……」
確かに俯瞰して見てみると、真っ白い大きな羽に、ダウンコートにブーツ……?
「羽以外に天使要素が見当たらない」
「寒がりなんだよ」
「冬に雪を降らせる天使なのに?」
「そうだ」
そんなえへん、みたいな顔をされても困る。というより、天使が住んでいるところにもこういう防寒具があることに驚きだ。
「何があったんですか」
「雲の隙間から落ちた、たぶん」
「落ちたってそういうことだったんだ」
つまりこの大きな不思議な鳥は、雲の上で雪を降らせる天使で、寒がり。
「あの、『雪のふりこ』ってなんですか」
「その名の通り、雪を降らせる天使のことだ。雪が降るの降るに、子供の子で『降り子』」
「なるほど」
とりあえずこの天使がどんなやつなのかは分かってきた。
「戻り方とか分かるんですか」
「分かる訳がなかろう、落ちたのは初めてだ」
そんなことも分からんのか、と言いたげな表情をされた。こんな感じだから常習犯なのかと思っていたが、さすがにそんなことはないらしい。
さて、どうしたものか。
とりあえず家へ連れて帰った。天使は初めて見るものたちにうきうきした顔を浮かべてキョロキョロとしていた。
「ただいまあ」
私が天使に家へ入るように手で促すと、天使は首を横に振った。
「は? なんで」
おっと、だいぶ口が悪くなってしまった。天使相手に失敬失敬。
「羽が融ける」
「とける? それが?」
私が心底分からないという表情で羽を指さすと、天使はああ、と返事する。
「これが雪なんだ。私は羽を地上に降らせているんだ」
「羽が雪に変わるってこと?」
「違う。これは今は羽の形をしているが、一本引き抜いてみよう」
そう言って天使は背中の羽に手を伸ばす。私はその指先に視線を注ぎ続けた。真っ白な肌はそのまま羽に融けて一緒になってしまいそうなほど美しくすべやかに見えた。指先が羽に触れ、天使は指を二本使ってそっと羽を引き抜いた。
羽が崩れた。明らかに、抜けた瞬間に羽の形を保つことを放棄したようにはらりと、それは真っ白い雪となって地面へ落ちた。
「わ……」
「だから、私は寒がりなのに暖かいところにも行けずにこうして着込むことしかできない」
「羽は抜ける前から雪ではあるってこと?」
「まあそうなるな」
「そっか」
私はちょっと待ってて、と断って自室に戻って、荷物を置いて、制服から暖かい(がダサくて普段着には到底できない)服に着替える。
「戻った」
「人間はいくつも『ふく』を持っているのだな」
「さっきの服だと外にずっといると寒くて死んじゃうからね」
「……なんだ、一緒にいてくれるのか」
「そりゃ、心配だから」
「……ありがとう」
「そんな改まったみたいにやめてよ、この世は助け合いじゃん」
「……『たすけあい』?」
明らかに分からないと言いたげな声色だ。
「うーん……困った時はお互い様というか、相手が大変な時は手伝ってあげるのが普通というか」
「それが人間では普通なのだな」
天使は眩しそうに目を細めた。
「羨ましい」
「……羨ましいって、なんで?」
そう素直に聞くと、天使は少し困ったように笑った。
「そう、だな。おかしな言い回しをした私が悪い。お前には教えてやろう」
「あ、ちょっと待って。ずっと立ってると疲れるしこっち来て」
私たちは庭の方へ回り縁側に座った。
「話遮ってごめんね」
「いや、いい。では話すな」
「うん」
ここからは天使の語りだ。
* * *
まず、雲の上には私以外にも『雪の降り子』が複数人いる。そして私たちを管轄する『おうえさま』がいらっしゃる。『おうえさま』は私たちの前に姿を現すことはなく、声や手紙で私たちに対して指示を出したり、次の雪を降らせる場所を知らせたりするんだ。
で、私は自分の『雪の降り子』としての役目を毎回全うしようと舞い踊るんだが──ん、なぜ踊るのか? ああ……私たちは羽を降らす時に『天使のステップ』を踏むんだ。羽を震わすよりも羽が落ちやすくなる。ちょっと見せてやろう、ほら、こんな風に踊るんだ──。
おっと、ここだけ雪が増えてしまったな。そんなに気にしない? そうか、それならよかった。
話を戻そうか。この『雪の降り子』の仕事は、いつも羽を犠牲にしなければならない。だが私が羽をほとんど雪に変えてしまっても、他の天使が動いてくれないのだ。こう言うと恨みつらみを吐くようで申し訳ないのだが、私がきちんと仕事をしていても、彼らは全く動いてくれない。だから彼らの分まで本当は私が雪を降らせなければいけないのだが、私ひとりの羽では雪を降らすことができる量も限られてくるんだ。『おうえさま』は私を「頑張っている」と褒めてくださるのだが、彼らはそれが気に入らないのか、雪を降らせた後に羽の回復を待っている私に、ちょうど今の私のように、恨みつらみを言ってきたり、時折殴られたり蹴られたりもした。私が彼らの分まで動くことができないから仕方ない──。
* * *
「それは違うよ」
私は話を遮る形で、そうきっぱりと告げた。
「なに、それ。他の天使たちのこと殴ってやりたい気分だよ」
「いや、だが私が」
「あんたは何も悪くないよ。だって人一倍頑張ってるんじゃん」
「じゃあなぜ彼らは私を」
「そんなのあんたが褒められてて羨ましいだけじゃん。働きもしないのによくそんなことが言えたもんだよ……あんたは本当はもっと褒められるべきだよ、『おうえさま』も直接褒めてあげるくらいしてあげたらいいのに」
私が不機嫌だだ漏れな声でそうぶつぶつと言うと、天使は混乱したような表情で、口をぱくぱくとさせながらこちらを見た。
「とにかく、あんたは十二分に頑張ってるよ、私が話を聞く限りね。寧ろ頑張りすぎでしょって思うけどなあ……他の動かない奴らの分まで頑張ろうとしてるし。典型的な自己犠牲の精神の塊って感じの発言」
やれやれ、と私が肩をすくめて天使の方を見ると、天使は目をまん丸く見開いており、その目からは透明な雫が真っ白い肌につう、と流れていた。
「えっ、ちょっとなんで泣いてんの」
「わ、私がか?」
目元に手を伸ばして涙に触れて、やっと天使は自分が泣いていることに気づいたらしい。意識して、尚のこと涙が出てきたようで、顔を手で覆ってしまった。空気が、天使の呼吸で揺れる。私はいてもたってもいられず、天使の頭を腕の中にぐっと引き込んだ。天使の体は、ダウンコートを着ているにも関わらず、全く温度を感じられなかった。
「ちょっ……」
「泣いていいよ。私が受け止めてあげるから」
こんなことを天使相手に言うなど誰が想像したであろう。自分でも、こんな語彙が自分から出てきたことに驚きが止まらない。
「その……あんたの辛さが私に全部分かる、なんてこと絶対にないけど、今までよく耐えてきたね。私だったら絶対に無理だ」
天使は私の腕の中で首を横に振る。
「ううん、よく頑張ったよ。上に戻る前に、今までの辛さ全部流しちゃえ」
私は白い──だがほんのり青い、そんな彼の髪をさらさらと撫でる。今くらいは、思い切り泣かせてあげたいと思った。
「……戻りたくない」
ぽつりと、涙に濡れた声がそう呟いた。
夜、冬の寒空の下寝るのはさすがに辛いので、私は一旦自室へと引き上げた。天使は寂しそうだったが、寒がりであるからか「人間は寒くては死んでしまうからな」と家へ戻してくれた。
どうすれば彼を、地獄のような雲の上の生活から引き出すことができるのだろう。それか彼のあの性格を直すことが。彼の生真面目で仕事熱心な気持ちが、彼の周りの怠惰を加速させ、彼自身をどんどんと追い込む。負の連鎖を、雲の上に関係のない私が断ち切ってやらなければいけないと、どこからか義務感が湧いてくる。明日はそれを考える一日にしよう、と思いながら、私は眠りに落ちた。
* * *
次の日。私は朝、いつもより早く起きて、カイロと温かいお湯を持って庭へ向かった。
「おはよう天使。寝られた?」
「ああ、人間。いや……『ねられた』というのが何か分からないのだが、地球は夜の空が綺麗なのだな」
「……明るくなるまでずっと見てたの?」
「ああ。段々と空が白くなっていって、桃色になって、青くなって……綺麗だった」
「はあ……」
天使は眠らなくても大丈夫なのだろうと算段をつけ、話を変えようと咳払いをする。
「そう、あんたに渡そうと思って。寒かったでしょう」
「雲の上に比べれば、全然だ」
「そうだろうけど! はい、ほら」
無理やり私がカイロを渡すと、天使はぽかんとして私を見た。
「なんだ? これは」
「カイロ」
「……『かいろ』?」
「あーそっか使い方も分かんないよなあ……ちょっと貸して」
「あ、ああ」
私がカイロを開封してちょっと振ったり揉んだりすると、カイロは少し温かくなる。
「はい。段々熱くなってくるから気をつけて」
「……これが、熱く?」
「うん」
「こんな小さな袋が……」
天使はわくわくした目でカイロを見つめる。こんなにでかい図体をしているというのに、地球のことは全く知らない。まるで子供の好奇心のそれだ。
「ああ、本当だ。温かくなってきた」
「どう?」
「温かい……」
天使はほっとしたように顔を綻ばせる。羽に温かいものが触れなければ大丈夫なようだ。
「あと、これ」
「この筒はなんだ?」
「水筒。飲み物を入れるの」
「ふむ……」
私が水筒の蓋を開けて渡すと、天使はまたぽかんとした。
「あー……口にその銀のところをつけて、ゆっくりこうやって傾けて」
天使は物を食べなくても生きられるのか、と関心しながら、この調子では全部を手取り足取り教えなければならなそうだとも思った。面倒だが、まあ彼は落ちてきてすぐの、言わば赤子も同然。そのくらいしてあげなければ。拾ってきた私の責任だ。
そうやって義務感を覚えている自分に驚く。今まで、自分で考えるのが面倒で人に流されて生きてきた。わざわざ面倒事に頭を突っ込むことだってそもそもなかったのだ。ちょっとだけ、成長しているのかもしれない。
「人間! すごいなこれは、体が温かくなる」
「そっか、よかったよ」
顔が綻ぶ。しばらくは、こいつに振り回されるのも楽しいかもしれない。
それからあれこれと考えながら、一週間が既に過ぎてしまっていた。帰す方法も、性格を直す方法も全く思いつかないまま、天使が寂しくないように学校から帰って共に話をする生活を続けていた。
そしてあれから、天候が劇的に変わった。ニュースが告げたのは、雪が全く降らなくなったということだった。あの豪雪地帯の日本海側でも、だ。やはり天使が地上に落ちてなお、雲の上の彼らは仕事をすることなく怠惰な生活を送っているようだ。許せない。
雪が無くなれば、雪からの恩恵もなくなる。雪解け水はなくなり農作物が育たなくなる。そうした場合、地球は雨が降っていても乾いた星になってしまうだろう。まずいと思うが、このまま雲の上に天使を戻すのも中途半端に放棄するようで嫌だし、そもそも戻す方法が分からないのだからどうしようもない。
今日は休日。外へ出て、天使のもとへ向かう。
──天使の大声が聞こえた。何を言っているかを詳しく聞き取れはしないが、必死になって何かを訴えているようだ。
「天使……?」
庭へ駆けて行くと、天使と、彼の目の前には白く長い髪をして天使に慈悲の目を向ける女性がいた。彼女にも大きな翼がついている。驚きのまま固まっていると、女性が私の方を見て、笑った。
「ああ、人間。あなたがこの子を拾ってくれたのですね」
「もしかして、『おうえさま』……?」
「ええ、この子らからは、そう呼ばれていますよ」
「ねえ、天使を迎えに来たの?」
「ええ。ですが……」
困ったように『おうえさま』は笑って、天使の方へ視線を戻す。
「あなたはいかが思っているのでしたか」
「わ、私は」
その話を言い争っていたようだ。改めて話すよう促され、天使はおどおどとする。
「私は……戻りたくありません」
「なんで!」
「あんな雲の上にいるよりも、お前と一緒にいたいのだ!」
その叫びが、私にほとんど質量を伴って襲いかかってきた。衝撃に吹き飛ばされそうになった気がした。負けてはいけない。
「ですが、このままでは雪が降らぬまま春になってしまいますよ」
「そんなの、知りません」
「は……、困るよ」
「私ではない『雪の降り子』が動けばいい、ただそれだけだろう……!」
天使は、雲の上へ戻るという選択肢をとうに捨てていたようだった。なぜか、私は、天使を戻さなくてはいけないという気持ちになっている。どうすれば──。
その思考を断ち切ったのは、凛と響いた声だった。
「ならば、いいでしょう」
「『おうえさま』……」
『おうえさま』はおもむろに指を鳴らした。
「っ……!」
天使が膝から崩れ落ちる。まずいと思って駆け出し、ギリギリで天使の体を受け止める。
「天使、天使……!」
「もう天使ではありませんよ」
慈悲に満ちた声が、『おうえさま』のデフォルトらしい。その声は、この場には似つかわしくなかった。
「羽をご覧なさい。もうないでしょう」
「何をしたの!」
「彼の願う通り、あなたと一緒にいられるように人間にしてあげました」
「は……?」
「羽がなくなれば、天使としてのアイデンティティも消失する。そうでしょう? 今の彼はどこからどう見ても素敵な人間です」
ね、と微笑む『おうえさま』。
「それに……」
ふっ、と笑った声は、冷徹な響きを含んでいた。
「私は『雪の降り子』を作り出せます。この子はもう私にとって、しっかり働いてくれる優秀な子ではなくなりました。優秀な子は、周りからの妬み嫉みを受けたって立ち直り、しっかりと責務を全うできるはずですから。また新しい子を作ればいい」
「あんたがいじめを見逃していたのか……!」
「ええ。これも試練のつもりでしたが、まさか勢い余って雲から落としてしまうなんて思っていませんでした」
全く困った子たちです、と『おうえさま』は笑った。
「あんた、そんな道理が……!」
「まだ言いますか。辛い状況から、解き放たれたと言うのに」
「そう、だけど」
「人間。先程、私は試練だと言いましたね」
「……それが、何」
「彼は少々、働きすぎました。ステップも段々と正確でなくなり、今までは見せていた暴力への反抗も、もう見られなくなりました。きっともう、仕事に疲れたのでしょう。わざと落とさせたのですよ、他の『降り子』たちに。もし戻ってこられたら、まだ元気があるのだろうと最後まで使ってあげるつもりでしたが……まさかこうなるとは思いませんでしたよ」
「……どれがあんたの本心なんだ」
「さあ? あなたが感じたものが、あなたの中の真実ですよ」
彼女は優しく笑った。私は、彼女が分からなかった。
「それでは、その子は頼みましたよ、人間」
「ちょっと、待っ……」
待ってと言いかけている途中で、『おうえさま』は忽然と姿を消してしまった。何なんだ、あいつは。
私が怒りを覚えていると、私にもたれかかる天使ががたがたと震えていることに気がついた。人間がこの気温で、ダウンコートだけで外にずっといる。──このままでは死なせてしまうかもしれない。それは、まずい。なんとかして家の中へ運ばなければ。
試しにお姫様抱っこをしてみた。これならば運べるかもしれないという微かな希望だったが、天使は意外にも軽く、拍子抜けするほどに普通に抱えることができてしまった。羽が、重いと思っていた時のほとんどの質量を担っていたことに気づいた。
いつの間にか、ソファで眠っていたようだ。
あれから天使をなんとか部屋に運び込み、コートを脱がせてベッドに寝かせ、毛布とタオルと布団でぐるぐる巻きにし、マフラーを巻き、湯たんぽをお腹の上に置き、極めつけにインスタントのスープを持ってきて、飲ませてあげた。バタバタと家の中を駆けずり回っていて疲れたので、仮眠を取ろうと毛布にくるまり、体育座りをして膝に顔を埋めていた。起きた時視界は横になっていて、ソファの上で横に倒れていたことに気づいた。
誰かが私の髪と、耳のあたりをさらさらと撫でている。すべやかな感触には心当たりがあった。
「天使……?」
「ああ、起きたのか。おはよう」
「あんた大丈夫なの?」
「大丈夫、というのは?」
もしやこいつ、自分から羽が無くなったことに気づいていない……?
「羽、無くなってるじゃん」
「ああ……背中が軽くなったな。身軽だ」
「体調とかは?」
「なんとも。羽が無いのが変な感じだが、特にそれで何かが起きている感じも無い」
「寒くない?」
「お陰様で、十分温まれた」
「……そっか」
ほっとして、大きなため息が出た。だが対照的に、天使は不安そうな笑顔を浮かべている。
「何か、不安?」
「いや……そうだな、今後どうすべきか分からなくて、不安だ」
「うーん……家にいれたらいいけど、なかなか難しいかもしれないなあ」
その辺は『おうえさま』がなんとかしてくれないだろうか。
「そうだ、あんた名前は?」
「私か? 天使だった時は、名前は無かった」
「ふうん……でも名前が無いと一緒にいるのに不便だよね」
「じゃあ、お前が──そうだ、お前の名前も聞いていないな」
「私? 私は冬雪。冬に雪でふゆきって読む」
「ふゆき、か。私を助けてくれた者の名にぴったりだな」
「確かに」
天使と呼びすぎて、目の前の存在にそれ以外の形容が似合わない気がしてしまう。
「……やっぱり雪関係がいい?」
「まあ、そうだな。天使だったという記憶が、名前から思い出されるといい……辛かったが、彼らが私を落としてくれたおかげで、私はお前に出会えたからな」
「ふふ、そうだね」
私はそうだなあ、と考え込む。
「……真白、とか」
「ましろ。字は?」
「真っ白のましろ」
「そのままだな」
「いいじゃん、あんたの姿、どこもかしこも真っ白なんだもん」
「……真白、か」
ふ、と綻ぶように微笑む真白。
「ありがとう」
とっ、と心臓が高鳴った。なんだ、これ。
混乱している私を他所に、真白は私の頭を腕の中にぐっと引き込んだ。
「お前は私の命の恩人だ。本当にありがとう」
「……そんな、別に特段すごいことなんてしてない」
「いや、最初に出会った時に私を見捨てることもできたはずだ。ふゆき、お前はそうしなかった。私を起こして、助けてくれた」
私の髪をさらさらと、真白の指が撫でるのを感じる。私が、彼に出会った後、したように。
「あの時もらったカイロ、本当に温かくて驚いた。他人からの優しさの温かさは、きっとこんなにも温かいのだろうと、気づくことができた」
真白はくっついていた上体を少し戻し、私に目を合わせた。
「ここまでお前に出会ってから、私は何もかもをもらってばかり。人間は、『たすけあい』が普通なのだろう? 私にも、お前の役に立つことをさせてほしい」
ぎゅっと私を抱きしめるその腕は、確かな温もりを持って私を包んでいた。
追記。
これは後日譚のような話だ。結局真白は、私の家に居候することになったのだったのだが、なぜか家族は真白を見ても不思議がらずに「真白ちゃん」なんて呼んでいるし、えっ知ってるの、と最初に聞いた時は、まさかすぎる設定を聞かされたのだった。
「真白ちゃんはあなたのはとこで、ご家族の都合でここにいるんでしょう? どうして忘れちゃったの」
都合のいい感じにしてくれ、とは願ったが、『おうえさま』もなかなか突飛なことを思いつくものだと、真白とふたりでやれやれと顔を見合わせたものだった。