第62話 末路
結局サウナは恐ろしいということで、そこから線路を越えた反対側の銭湯に行くことになったが
向かいながら
「銭湯じゃ墨が入っていたら駄目なんじゃないですか」
他人事ながら心配になって聞いてみた。
心配というよりまた駄目で他へ移動するのがいやだったこともある。
「銭湯は大丈夫だ」
山道はあっさりと言った。
『じゃあ最初から銭湯にすればよかったんじゃないか』
言いたかったが迂闊なことは言わないほうが身のためだと口をつぐんだ。
銭湯は古いため外観はみすぼらしい。
山道がサウナに行きたかったのはわかる気がした。
銭湯の入り口がわからないほど家が建っているところにタクシーを停めた。
ドアを開けると
「俺が風呂上がったら迎えに来れるかい」
山道が言った。
『来た、これだ』
多少遠慮がちに言っているのはわかるのだが、
『うっかり受けて他の仕事で来られないなんてことになったら、えらいことになる。
じょうだんじゃない』
これは絶対受けられない。
「いや、他の仕事が入ってしまいますと来れなくなってしまいますので、事務所のほうへ連絡していただけますか」
私はやんわり断った。
うっかり迎えの予約なんかを受けてしまって、来られませんでしたは通用しないのだ。
「そうか。ならいいや」
山道が意外とすんなり引き下がって降りて行った。
『危ない危ない。うかつには受けられないよ』
内心ホッとしながらドアを閉めた。
予約の仕事はお客の都合に合わせなければならないので、その間、他の仕事が犠牲になってしまう場合が多いため、私は余程料金が出る仕事で調整の待機時間を入れても見合う仕事の場合は予約を受けなくもないが、むやみに受けていると時間をただ無駄にして利益が出ないことになってしまう。
そうはいっても、やたら指名が好きな運転手というのもいることはいる。
そういうひとは根っからまめなのだろう。
しばらく山道とも出会うこともなかったが、北口のタクシープールで仲間と無駄話をしているところに
「だれか月曜日の朝七時に迎えに来てくれないか」
男の大きな声がした。
「何事だ」
皆がいっせいに声の主を見た。
山道だ。
何しに来たのか。
訝る想いで耳を傾けた。
「透析に行かなくちゃならないんだ。誰か迎えに来てくれるのはいないか。どうしても行かなくちゃならないんだ。誰かいないか」
山道は必死の形相だった。
しかし、誰もそれに応じるものはいない。
ヤクザだからね。
『月曜日といえば、今日が金曜日だから三日後だ。冗談だろ。三日後じゃ忘れちゃうよ。明日だってごめんだ』
「頼むよ。どうしても行かなくちゃならないんだ。誰かいないか。」
恥も外聞もない。
本当は泣きたい気持なのではないだろうか。
しかし、そんなことで、ほだされるわけにはいかない。
相手はヤクザだから。
なめてかかれるものではない。
うっかりへまこいたりすれば、堅気の客でも大変なことになるのだから、その筋となればただごとでは済まない。
事務所に居座られて無言の脅迫で高い代償を要求されるのは目にみえている。
ごめんだ。
運転手はいっせいに断りを決め込んだ。
すると山道は先頭の車両から一台一台受けてくれるかどうか聞いて回り出した。
「冗談じゃねえ。こんなもの受けるやつぁいねえよ。こっちに来てもキッパリ断る」
私は本人には聞こえないようにつぶやいた。
案の定、運転手は片っぱしから首を横にふった。
『それはそうだ。一度でも気を許せば次から指名が来て以後パシリとして使われることは目に見えている』
そう思いながら、ふと以前組の事務所の玄関から垣間見た山道の顔が異常にむくんでいたことを思い出し、その原因が理解できた想いがした。
ほんの少しそんな物思いにふけっていたのだが、ハッと気づいて、山道はと見ると姿が消えていた。
『どうしたんだ。帰ったのか』
誰にも相手にされないことをさとって諦めざるをえなかったのだろう。
後ろ姿を見ることはなかったが、打ちひしがれて惨めな想いだったことだろう。
しかし、このとき山道が精神的に異常をきたしていたことに我々は気がついていなかった。
中小会傘下の組織がその筋の常識になっているはずの掟を破ったところから米麦会と中小会の抗争事件が勃発して、事件に関わりのあった組長がスナックで襲われ、そばにいた客が拳銃で撃たれた事件が報道されていた時期だった。
山道はシャブのフラッシュバックなのか、常にヤクザに襲われて殺される妄想で恐怖に怯える日々を送っていたのだ。
食事が喉を通らず、唯一牛乳だけが喉を通るだけになってしまった。
来る日も来る日も牛乳だけで生きている状態になっていたという。
身体はボロボロで透析になり、殺される恐怖で心もボロボロ。
組事務所で寝泊まりしていて、いつ寝込みを襲われるかと安心して寝てもいられないのだ。
身体は徐々に衰弱して行って、自分から動くことが出来なくなり、車椅子無しでは歩けなくなって病院に入院ということになってしまった。
見かねた姉が面倒を見ているらしいが、すっかり廃人になってしまって辛うじて生きているということを同じ組事務所の須師が私の営業車に乗ったときに話してくれた。
なぜサウナで同業のヤクザ者をあれほど恐れていたのか。
そのわけがこのとき初めて理解出来たのだ。
あれから十年も経っている今となってはすでにこの世にいないだろう。
あの世でも相変わらず殺される恐怖におののく責め苦にさいなまれることから抜けられずにいるのかも知れない。
まだ若いのに、こんな人生でよかったのだろうかと思わずにはいられない。