第50話 桜田門
事務所は外側の引き戸と
内側のドアに
鍵が掛かるようになって、
小明対策は万全になった。
それでも夜になると
敷地の外から
夜中の無線番に声をかけることが
しばらく続いた後、
諦めたのか
タクシーも呼ばなくなった。
それからもうすでに
数ヶ月は過ぎていた。
あの借家にいないのだろうか。
小明のことが
記憶から薄れかけていた。
その日は少し早く帰ろうと
仕事を切り上げて
本社へ向かっていた。
夜九時頃だっただろうか。
県営団地方面の無線が鳴った。
誰も出なかった。
駅先頭も出ない。
客の動きは
よくなかったはずだが
駅はタクシーが
出払ってしまったのか。
私が駅につけていたときは
動かなかったのに
帰ろうとすると
動き出すんだから。
運命の皮肉さを思いながら
聞いていた。
「どなたか
小明さんに回れる車
ありませんか。」
オペレーターが困った様子で
空車車両を呼んでいる。
「えっ、小明さん?
いたんだ。」
驚いた。
うるさい小明のことだから
オペレーターも
簡単には断れないのだろう。
でも小明と聞いたら
ますます出る者は
いなくなってしまう。
帰ろうと思っていたが
仕方がない。
マイクを手に取った。
「いま帰るとこだったんですが。
16が行きましょうか。」
本当は
私も行きたくはなかったが、
無線番が困っている。
誰かが行かなくてはならないのだ。
「あっ、16行ってくれますか。
よかった。
お願いします。」
オペレーターの
安堵した声が聞こえてきた。
私はそのまま
迎車ボタンを押して
小明宅へ向かった。
踏切を渡って
県営団地の方向へ曲がった。
そこから
中学校のグランドに沿って
回るとすぐだった。
車を元ラーメン屋の玄関に
横付けして、
中へ声をかけた。
「おう。ちょっと待っててくれ。」
中から聞き慣れたガラガラ声がした。
「しかし、
これがなかなか
出て来ないんだよな。」
これまで散々待たされた
苦い記憶が思い出されて
私はうんざりした気持ちで思った。
車に戻って待っていたが
思った通りいつまで経っても
出て来ない。
待ち時間はサービスで
入れていないため
時間がただ
無駄に過ぎて行くような
気がしてやるせなかった。
いつまで待っていれば
いいのだろう。
いったい何をしているのか。
まさかわざと
待たせているんじゃないだろうな。
いささか疑心暗鬼に心が揺れた。
三十分近く待たされて
イライラが高じて来たたころ、
ようやく玄関が開いて
小明が出て来た。
「待たせて悪かったな。
いま桜田門と電話してもんだから
時間かかったんだ。」
えっ、桜田門?
本当かよ。
ふかしじゃないのか。
何の用事で
そんなとこに電話してたんだ。
半信半疑だった。
「羅山町へ行ってくれ。
メーター切ってな。
一万円渡すからよ。」
小明は私の疑念など
おかまいなしに言った。
あー。またかよ。
これだから嫌だよ。
私はうんざりした。
どっちみち
往復なのだろうから
一万円で足りるわけがない。
ここで断れば
トラブルになることは
目に見えている。
仕方なく
メーターを切ることにして
車を発進させた。