第47話 握り飯
小明は握り飯を
私の目の前に
突き出したまま動かない。
私は覚悟を決めるしか
なかった。
食べたくないなと
思いながら
渋々握り飯を受け取って
恐る恐る自分の口に運んだ。
塩辛が握り飯の真ん中から
ぶらさがって食べづらい。
お茶が出て来ない。
しかし
お茶を要求していいのだろうか。
「なんだとお。
お茶出せってか。
生意気だ。」
なんてまた
難癖つけられて
凄まれるのではと
思うと言い出せなかった。
一口食べたはいいが、
酢が馴染んでいない
すっぱいご飯が何とも言えず、
喉に詰まって
涙目になった。
こんなまずくて、
でかい握り飯を
全部食べなければ
ならないのかと思うと
溜め息とともに
目の前が真っ暗になった。
小明はそんな私を見て
ニヤリと笑った。
そのニヤリの意味は
何なのだろう。
何か企んで
いるような気がして、
気味が悪かった。
この握り飯を
残しでもしやがったら、
ただじゃ済まねえぞ
といった脅しの
意味合いでもあるのだろうか。
私はどうやって
この握り飯を
食べ切ろうかと、
頭の中は
それでいっぱいになって、
小明が業者と
話し合っている会話は
上の空だった。
残すことは出来ないし、
食べ切らなければならない。
まずいとか汚いとか
言っている余裕はなかった。
何でこんな目に
遭わなければ
ならないのだろう。
私は運命を
呪いたい気分だった。
不意に
「小明さん、私は違うと思います。」
業者の部下のほうが
毅然と
反論したのが聞こえた。
ああっ、
バッカだな。
迂闊なこと
言っちゃったよ。
それは禁句だろう。
知らねえぞ。
私はふと
我に返って
聞き耳を立てた。
「よしなさいよ。
余計なことはいわないように。」
上司が慌ててたしなめたが、
小明の顔色が変わっていた。
「なにーっ、
お前はまだ
そんなこと言ってるのか。
俺がいままで
言ってたことが
まるっきり
わかってないじゃないか。
これじゃあダメだ。
もう一度
最初からやり直しだ。
わかるまで帰さないからな。
わかったか。」
小明が意地悪く言った。
「えーっ。
ダメですよ。
あした仕事早いんだから。
帰らせてくださいよ。
もう嫌だよー。
帰りたい。」
部下が
泣きそうな声で言った。
「そんなこと知るか。
お前がわからないのが
悪いんだ。
わかるまでやってやるからな。」
小明は業者が反論したことで
自尊心を
傷つけられた
腹いせに
徹底していじめ抜こうと
思ったのだろう。
「タクシーの
キャンセル料はいくらだ。」
私に向かって言った。
「あ―っ、
待ってください。
このタクシーで帰りますから。
運転手さん
待っててください。
お願いします。」
部下の業者が
狼狽えた悲痛な声で
すがるように言った。
「ダメだ。帰さねえ。
これから朝までだ。
いいからいくらだ。」
小明が非情に言い放ってから
私に向かって聞いた。
私はここまで
二キロ以上の距離があるので
ワンメーターから
一コマ上がった料金を言った。
迎車料金は
二キロ以内なら
基本料金のワンメーターだが、
二キロ以上になると
賃送を押した時点で
一コマ上がるようになっている。
「おい、キャンセル料
払ってやってくれ。」
小明は玄関の脇で
ひと言も喋らず
静かに立っている子分に
言い付けた。
助かったーっ。
私は渡りに舟とばかりに
食べかけの握り飯を持ったまま
玄関でお金を受け取って
外へ出た。
部下は必死に
「私はタクシーで帰ります。
待ってて下さい。
お願いします。
すぐ行きますから。」
「ダメだ。
わかるまで帰さねえ。」
「わかりました。
小明さんの言ってることは
わかりました。
だから帰らせてください。
あした仕事なんですから。
お願いしますよ。」
部下は必死で頭を下げた。
「いいや、わかってない。
はじめからやり直しだ。」
部下が哀願するのを
小明が冷酷にも
突っぱねたのが
外からも聞こえていた。
私は持っている握り飯を
野鳥や猫のために
駐車場の草むらの中へ
そっと置いた。
長居は無用だ。
ひどく時間を無駄にした
想いがした。
こんなところで
モタモタしていると、
また出て来て
家の中に
引きずりこまれそうな気がして、
すぐに車を発進させた。