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予想を超えた再生物質

作者: 坂口正之

彼がその決断を行ったのは、たった今だった。

新しく発見したその物質が、本当に人間に対しても効果があるのかどうか、不安がまったくないとは言えなかった。

高等動物といえば、マウスで数回試しただけだった。

その実験がうまく行ったところで、即座に人間に適用するのは無謀すぎることは百も承知していたが、このタイミングを逃すと、この患者にとってはもちろん、自分にとっても生涯悔いを残すことになりそうな気がしていた。

このままでは、まだ二十五才という溌剌とした前途洋々たる彼女の人生が、深く暗い深海の底に、次第に沈んでいくのをただ手をこまねいて眺めているだけのようであった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


そもそも、彼女がこの大学病院に救急車で運び込まれたのは、三日前だった。

駅のホームで貧血を起こし、線路の上に倒れたところに電車が入ってきたのである。運良く命は助かったものの、右足を膝上から切断するという悲劇が彼女を襲った。

直ちに、彼女と彼女の足は、切断された手や指などの再生手術に長けたこの病院に運ばれてきたのである。

切断された手や指などは、直ちに再生手術を行えば再び元にもどることが可能である。つまり、切れた腱や血管、神経などを手術によってつないでやると、手や指などは再びくっつき、元通り動かすことや熱や痛みを感じることができるようになるのである。

この手術は、細い血管や神経などを根気よくつなぐ必要があるのでマイクロサージェリーと呼ばれる顕微鏡下での極めて緻密な手術となっている。

ここで再生(再びくっつくこと)が可能となるかどうかの鍵は、もちろん手術を行う外科医の技量もさることながら、まず重要なことは、切断されてから短時間であることである。

当たり前のことではあるが、手術に取り掛かるのが早ければ早いほど成功する確率が高いのは言うまでもない。ついでに、指などを切断した時は、応急措置としてそれまで切れた指を氷水につけるなどして冷やしてあるとさらに良い。

次に、切断面がきれいであること。言い換えればカミソリですぱっと切られたような切断面であれば、非常に手術がやりやすい。逆に、引きちぎられたり、押し潰されたような切断の場合には手術が大変であるし、再生率が悪い。

だから、大型の鋭い刃を持った裁断機などに間違って挟まれたような場合の方が、再生にとって都合が良い。

今回の場合は、電車にひかれたのであって、救急隊の活躍によって迅速に病院まで運ばれたから時間的ファクターは良かったものの、切断面の状況は決して良いものでなかった。

彼の緻密な手術によって、何とか最後まで手術は行われたが、今後右足に血液が滞ることなく流れ、神経がつながり完全に再生できるかどうかまったく分からなかった。

これまでの経験から手術を行った彼の直感では、成功する確率は一割以下のように思われた。

もし、失敗に終われば、再手術で再切断しなければならない。そうしないと、付けた右足は壊死してしまい、いずれ取れ落ちてしまうのであった。


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そもそも、生物には再生力がある。例えば、ころんで手や足の皮を擦りむいた程度の傷ならば、何日か経つと自然に新しい皮が再生して治ってしまう。盲腸の手術などで開腹した時なども、その開腹場所がくっついて塞がってしまうのは人間の再生能力のお陰である。

また、トカゲの尻尾が切れた後にまた生えてくるのも、その再生能力のためである。

植物は再生能力が活発であり、枝や葉を土に挿しておくだけで、そこから根や茎が生えて、一つのりっぱな植物体となるものはたくさんある。

どの生物も大なり小なりの再生能力を有しているのであるが、トカゲは尻尾を再生できるが、人間は手や指を再生できるかというと、そうはいかない。

決して、失った手や指が再び生えてくるといったことはないのである。そういう意味では、人間は生物の中では再生能力は小さいと言える。

なぜ人間の再生能力が小さいのかについては、たぶん生物が高等化するに従い、その組織が高度に分化されることにより再生能力が衰えるからだろうと言われているが、良く分かっていないのである。

ところが彼は、生物の再生能力について研究を進め、生体内に微量に存在するある種の化学物質が、再生を促す促進物質だということを発見したのだった。

さらに、彼の実験では、その化学物質(再生物質)は動物、植物を問わず、どんな生物の再生をも促進することが明らかになりつつあった。

特に、哺乳類などの高等生物の再生能力を促進することは素晴らしいことで、この再生物質を投与(注射)することにより、前足が切断されたマウスにたった三週間で元通りりっぱな前足を生やすことに成功したのであった。

この素晴らしい再生物質について、さらに研究を進めようとしていた矢先に彼女が運び込まれてきたのであった。

この再生物質が人間にも優れた効果を発揮することは、十分に予想される。

もし、彼女の右足がこのままくっつかなくても、この物質を投与すれば再び切断面から足が生えて元通りになるかもしれない。

しかし、一方ではあまりにもリスクが大きかった。まだ、動物実験の数が少なすぎるのである。

さらに、仮に、動物実験でうまくいったからといっても、実用化までには人による臨床研究を重ねなくてはならない。

この物質に効果があるとしても、どの程度の投与量が適量かまったく分かっていないし、この再生物質の投与によって発生する副作用などは、彼には予想もつかなかった。

運良く足が再生したとしても、彼女の生命活動に支障を与えるような副作用が現れたのでは失敗である。

彼は悩んだ。そして最後に決断したのは、即座にこの再生物質を彼女に投与するということだった。

まだ手術が完全に失敗と決まった訳ではないが、もし再生物質を使うのならば、一日も早く使うべきだと思った。

なぜなら、再生物質は、そもそも彼女自らの再生力を促進するものであるから、切断事故から早い方が彼女自らの傷を治そうとする再生能力も高くて、成功する可能性も高いと思ったからである。

手術で付けた右足については、再切断することなくそのままにして投与することにした。

その理由は、一割以下とはいえ手術が成功する可能性も残っていたことと、再生物質の効果が現れるとしても、元の足が付いていた方が、再生部分が少なくすみ、良いような気がしたからである。

彼にとって、投与量(注射量)の決定は難しかったが、とにかく、マウスの実験の際に投与して問題なかった量を彼女に注射した。

そして、次の日から徐々にその量を増やしていった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ところが、その注射を始めて三日目に、再生手術をした右足は一向に血行状態が回復しないまま突然、取れてしまった。

取れた後の切断面は、皮膚が再生してきれいに塞がれていた。

自然に取れてしまったということは、これから新しい足が生えてくるのか、それとも完全に失敗に終わったのか彼にはまったく分からなかった。

それから五日後だった。

彼女の足の切断面から小さな赤ちゃんの指のようなものが生え始めた。そして、次第にそれは成長して二週間後には足の形が整った。

一か月後には小さいながらも完全な足となり、さらに三か月後には元の足と同じ大きさにまで成長した。

大成功であった。世界で始めての快挙である。

彼女及び彼女の家族は涙ながらに喜び、彼に対して心から感謝した。

もちろん、新しく再生した足で直ちには歩くことなどは困難であったが、歩行訓練などを行うことにより、元通り歩いたり、走ったりすることも何の苦もなく可能となったのである。

彼は、単に大喜びするのではなく、今回の結果について詳細に分析、検討を進めた。

その結果、驚くべきことが明らかになった。

まず、彼女の髪の毛や爪の成長速度が異常に早くなったことで、髪の毛は一日に一センチメートル近くも伸びてしまい、爪も毎日切る必要が生じたこと。次に、以前彼女が盲腸の手術をした時の手術痕がきれいに消え去ってしまったこと、などであった。

彼は、あの化学物質には極めて強い再生能力があることを再認識し、さらに動物実験を進めた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


無事に退院して三か月後、彼女は何の不自由もなく再生した右足を使って軽やかに歩いて外来の診察に訪れた。

彼は、彼女に向かって言った。

「その後、何か変わったことはありませんか?」

「先生、面白いことをいくつか見付けたんです」

「なんですか?」

「久し振りにピアスをしようと思って、耳たぶの穴を探したのです。そうしたら、ないのです、どこにも穴が…」

「ああ、それは、あの薬のせいで耳たぶが再生してしまって穴を塞いでしまったのでしょう」

「ええ、私もそう思います。」

彼女は続けた。

「それから、ひどい虫歯があって歯医者さんで抜いてもらったのですが、何日か経ったら新しい歯が生えてきたのです。この歯なんですけど…」

彼女が口を開いて見せてくれたその歯は、周辺の古い歯とは明らかに違って真っ白で汚れなどなかった。

これには彼も驚いた。

永久歯を抜いた後に新しい歯が生えたことに驚いたのはもちろんであるが、この再生物質が世の中に出回るようになると、全ての歯科医師が失業してしまうのではないかと思い、その影響力の大きさにもっと驚いたのである。

しかし、良く考えてみると歯だけの問題ではないかもしれない。

目が近眼や老眼になったのなら、手術でそれをくりぬいて再生物質を投与すれば、また新しい目が生えてくるだろうから治ってしまうだろうし、悪い臓器もそっくり切り取って再生するのを待てば良い。

そうなれば、大部分の病気は再生物質によって完治してしまうだろう。

彼は、自分の発見のあまりの重大さに気付き、全身の震えを止めることができなかった。

「ところで先生、私の前の足はどうなったのですか…?」

「前の足?」

「ええ、取れてしまった私の前の足です…」

「大事な研究材料ですから地下の保管庫で大切に保管していますよ。ご覧になりたいのですか?」

「いいえ、ちょっと気になったものですから…。やはり自分の体の一部だと思うと…」

「気にすることはありませんよ、もう新しい足が生えたのだから…。それこそ、髪の毛や爪を切ったくらいに思っていれば良いですよ…」

と言った瞬間、彼はあることに気付き、はっとした。

突然のように立ち上がると、まさかとは思いつつ、あわてて地下の保管庫に走った。

保管庫の中にある大きなプラスチック桶の中には、これまで手術で切り落とした多数の手や足などがホルマリン漬けになって保管してあった。中の手や足には、名前、性別、生年月日、手術日などが記載された札が取り付けられていた。

彼は、多数のそれらを掻き分けながら彼女の右足を探した。そして、ようやく彼女の前の足を見付け出した。

彼が掴んだその足の切断面からは、小さいながらも胴体が生え、さらに彼女に良く似た目鼻立ちの顔が付いた頭がのぞき始めていた。

(おわり)

植物であれば挿し木などで増殖することが可能ですし、プラナリアの再生も有名です。一方、人間などの高等生物の再生能力はそれに比べて乏しく、稀に肝臓などは手術で三分の一に切っても元の大きさに増殖するとはいえ、肝臓そのものを取り去ってしまった場合は、肝臓が新たに再生することはありません。

今回は、その再生機能を促進する物質の話で、本文中にも書きましたが、本当にそんな物質があれば、悪くなった臓器があれば手術などで取ってしまって再生を待てば良い(もちろん、その間の補助機能は必要ですが)わけで、夢のような話になります。

オチをどうしようかと考えているうちに、ハタとこのようなオチに気付きました。今回は読者の中にも途中でオチに気付いた方も多いかもしれません。

ちょっと、気味が悪いのですが、オチの都合上許してください。

なお、書いていて困ったのは、切断した足の方に再生物質が投与されないとこのオチにならないことで、このため、最初の再生手術でなんとか元の足を接合しようと努力したこと、つまり、彼女の足が取れてしまうまでの三日間で、再生物質が足の方に回ったことにしました。

最初から切断された状態で、彼女に再生物質が投与されたのでは、このオチにならないのです。

本作品は、1993年(平成5年)11月7日に作成したものです。

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