彗星のアレキサンドライト(8)
「どうしました? 今日も何か、悲しいことでもあったのですか?」
朝から降り通しだった雨が、ようやく上がったと思ったら。太陽は既に今日の仕事を早々に切り上げて、沈みかけている。そんな夕暮れと夜の間の不思議な空気の時間帯。今日も今日とてバルコニーでルヴィアが沈んだ面持ちで風に当たっていると、隣から自分に声をかける者があるではないか。
流石に3度目ともなれば、ルヴィアも慣れたものと、ある程度は自然に返答できるようになっているものの。……やはり、急に声をかけられては多少は驚く。
「……泥棒さんはいつも、忽然と現れるのね。少しは私を驚かせないように、お気遣いをいただけないでしょうか」
「フフ、それは失礼。でも泥棒っていうのは、人に気取られ易いのは、致命的なものですから」
「あら、そうなのですか? ……私は泥棒さんは目立ちたがり屋だから、予告状をわざわざ出されるのだと思っていましたけど」
相変わらず無邪気な様子で欄干に腰を掛け、足をバタつかせながら口元だけで微笑む大泥棒。しかし、口元は微笑んでいても、マスクに隠された彼の表情を全て窺い知る事はできない。
「予告状は別に、目立ちたいから出しているわけじゃありませんよ。俺は純粋に、楽しく遊びたいだけです。ただ盗むだけだったら、確かにとっても簡単です。……誰にも見つからずに、物を盗むのは俺にしたら造作もないことですから。でもね、それではあまりにアンフェアでしょ? だから思い切り互いに楽しみましょうよと、予告状を出すんです。盗る側と盗られる側、捕まえられる側と捕まえる側。……俺はそんな風に、遊んでくれる相手が欲しいだけなんです」
そんな事をクスクスと笑いながら、嘯くグリード。しかし……口先で笑って見せても、紫色の瞳は少し寂しげだ。
「そうそう……お嬢様はどうして、そんなに悲しそうな顔をしているんです。今日は何があったんですか?」
「今日、特別に何かあったという訳ではないのですが……。私はグスタフ様のところに……16歳になったら、お嫁さんに行かなければならないんです……。そして明後日、とうとう私は16回目の誕生日を迎えることになります。そうしたら、今度はここよりも更に大きなお屋敷に閉じ込められてしまうのです。だから……こんな風に泥棒さんとお喋りできるのも、今日が最後かもしれませんね?」
「どうでしょうね? 俺はどんな屋敷にも潜り込めますから、お話くらいはしてあげられると思いますけど。それに……相手は貴族様なんだし、そんなに悲嘆することでもないと思いますよ? だけど……もしかして、お嬢様はそれが嫌なんですか?」
「えぇ……もちろん、グスタフ様は立派な方なのでしょう。とても紳士的で優しくて……私には勿体ないくらいのお相手です。別に、そこに不満を持っているわけではないのです。ただ……私は貴族の生活というものに、あまり馴染めなくて。フフ、おかしいでしょ? ……こんな風に毎日、豪華なお洋服を着せられて。毎日、自分の髪の毛さえも他の人に整えてもらって。そこまでしてもらっているのに。私には何故か、その全て怖いんです。どこか……自分自身を少しずつ捨てさせられている気がして、いつか……懐かしい風景を全て忘れてしまいそうな気がして。とても、怖いのです……」
「……そう、でしたか。でしたら……お嬢様には自由をご用意してあげないといけませんね」
「えっ?」
ポツリと呟くように意味深な事を言われたが、それ以上の事をグリードの方は喋るつもりもないらしい。スクッと細い欄干の上に器用に立ち上がり、最後にルヴィアに1つの予告を出す。
「実はね、今日は再チャレンジの予告状を出す事にしたんです。フフ、きっとこれから面白い事になりますから、期待していてください」
「面白い事……?」
「えぇ。とっても面白い事に……なると思いますよ」
そんな事を一方的に告げたところで、「では失礼」とルヴィアを置き去りにして屋根の上に去っていくグリード。その後ろ姿を見送って、彼の言う「面白い事」に思いを巡らせる。この屋敷にやって来てから、何もかもが味気ないルヴィアにとって……その面白い事がどんな風に面白いのかは、想像もつかなかった。




