蒼鉛の仮面に伝うは、七色の涙(5)
もぬけの殻になった研究エリアに残されたのは、ニュアジュの配下だけらしい。他の一般職員は根こそぎいなくなっているのを見るに、ブランネル側は的確に彼女の手の内を知り尽くしている様子。地上部分の人間用の病院は通常稼働しているが、向こう側は院長が別に存在している事もあり、ニュアジュがズカズカと入り込んで行ける場所でもなければ……入り込む必要もない場所だった。
(もうちょっとで、アダムズに追いつけそうだったのに……!)
エリアHを封鎖されたことは、ニュアジュにとって相当の痛手である。いや……痛手どころか、ライフラインも奪われたと言った方がいいのかも知れない。彼女にとって秘密裏に作り上げた自慢の区画は、研究設備と資材とを全て詰め込んだ宝箱でもあった。そして、スペクトロライトのカケラ……しかも女性という、ライバルに対するハンディキャップを埋めるためには、適合する核石の量産は必須だった。
ニュアジュの性質量は現在、78%。自身は完成品だと思い込んでいるが、元々は70%程の性質量しか持たなかった、一般的な「宝石」でしかなかった。だからこそ彼女は「完成すること」に固執し、原初のカケラにあって、自分だけ完成品として作られなかったという劣等感もたんまりと溜め込んでいた。そして……その劣等感の一部には、遥か昔にアダムズに袖にされた因縁も含まれている。
アダムズには貴石以外のカケラを徹底的に見下す習性がある。それは偏に凝り固まった選民思想と、自身への驕りでしかなく、どんな相手にも分け隔てなく与えられる彼の悪癖である。しかし、生み出された時から七色の貴婦人と持て囃されていたニュアジュにしてみれば、アダムズの手酷い拒絶は存在そのものを否定されたような、絶望と忿懣とを深く刻みつけられたに等しい。
「……因みに、知っていたら教えてほしいのだけど」
「は、はい……」
「もしかして、移動されたのはフランシスみたいなのだけじゃなくて、この中の資材も、かしら?」
「そのようです……。ニュアジュ様の子供達も連れられていたかと……」
「……!」
何という事だろう。自分が現場を離れている隙に、申し合わせたように手際良く全てを奪われれば。淑女を気取るニュアジュの怒りはとうとう、限界を突破しつつあった。そうして、牙も剥き出しの化け物じみた怒りの形相をも顕にして。磨き上げられて滑らかな扉に、八つ当たりの拳をお見舞いする。
「……!」
「どうして……あなた達は、命懸けで止めなかったのかしら……?」
「い、いえ……」
「それは、だって……なぁ? 相手はアンドレイでしたし」
「ご命令自体もブランネル様ともなれば、私達にはなす術もありません」
「そんな事はどうでもいいのです! この設備の最高責任者は私なの! 名義だけのハリボテの言うことを優先するなんて! あなた達、本当に悪い子ですね。……そんなに死にたいのかしら……?」
「ヒッ……!」
しかし、自身の手で作り上げたドアの歪な凹みに映る自分の姿を認めては。とりあえずの怒りは引っ込めるニュアジュ。どこまでも憎たらしい扉はまるで仕返しとばかりに、ニュアジュの醜い姿を映して見せていた。その意趣返し「あら、いけない」と、いそいそと外面を取り繕い。体裁も局面も立て直さなければと、七色の貴婦人は既のところで理性を取り戻す。
「……まぁ、いいわ。とにかく、ここでモタモタしている場合でもないわ。……しばらく、セヴルへ潜るとしましょう」
「しょ、承知しました……」
何よりも恐ろしい貴婦人の怒りが鎮まったのに安心したのにも、束の間。研究員達の口から漏れるのは、重々しいため息ばかりである。何せ、ニュアジュの言うセヴルの拠点は治水工事に見せかけて作られた、抱き合わせの地下研究所。同じ地下でも、こちらの整った研究所に比較すれば、設備も暗鬱加減も雲泥の差だ。
(本当に、忌々しい……! あんなドブ臭い下水に逆戻りだなんて……!)
もちろん、ニュアジュだって、最新鋭の綺麗な場所で活動していたい。だが、今はわがままを言っている場合ではないことも、痛感していて。セヴルは有り体に言えば緊急避難先であり、最低限の研究設備しか揃っていない。しかも、最低限の設備で増産していたのは……本来は主役のはずの、ダイヤモンドの餌だった。
アレンの厚意とは言え、自分こそが完成することも望んでいたニュアジュは、要するに調子に乗りすぎたのだ。メインに据えなければならないはずの究極の彗星を薄暗い地下に押し込め、彼のために用意された設備を横取りしては……綺麗な場所に自分用の畑を作り上げていた。
(こんな事なら、向こうで子供達を育てておくのでした。……やはり、子供は暗い場所で絶望させるに限るわね)
It's too late for regrets……後悔先に立たず。どこまでも真っ白で、どこもかしこも輝いて見えるこの空間に、ニュアジュが輝くための台座は今も昔も用意されていない。そうして、名前の通りに白がお似合いの持ち主に、お前には薄暗い地下がお似合いだと言われたような気さえして。ニュアジュは牙は引っ込めても、悔しさは引っ込めることができないまま……心の裏で尚も、歯噛みしていた。




